伝説のお嫁さんと言われた女
ある日、俺・蔵島翼のもとに母親からおかしな電話がかかってきた。
『翼、あんたちゃんとご飯食べてるの?』
「久しぶりに電話かけてきたと思ったら、何だよ、それ? 毎日ではないけれど、きちんと三食食べてるっての」
『掃除や洗濯は疎かにしていない? 今度で良いやって考えると、ほこりも洗濯物もあっという間にたまるからね』
「言われなくても、わかってるよ」
『彼女は出来た? あんたももう25歳。彼女くらいいてもおかしくない年齢でしょ?』
「余計なお世話だっての」
『その反応は、未だに独り身みたいね。……安心しなさい。そんなあなたに、素敵な贈り物をしておいたから』
母さんが言うと同時に、ピーンポーンと玄関チャイムが鳴る。
タイミング的に、母さんの言う「素敵な贈り物」とやらが届いたのだろうか?
俺はスマホ片手に、玄関に向かう。
ドアを開けると……そこにはエプロン姿の女性が立っていた。
この身なり、宅配業者とは思えないな。第一荷物を何も持っていないし。
タイミングがニアピンしただけで、どうやら「素敵な贈り物」とは別件だったみたいだ。俺がそう思っていると、
「お義母様から頼まれて、嫁に来ました」
俺は思わず、「は?」と漏らしてしまった。
電話口では、母さんが『届いたみたいね』と言っている。
「ちょっと待ってくれ、母さん。届いたのは贈り物じゃなくて、女の人なんだが?」
『だから言ったじゃない。「素敵な贈り者」だって』
「贈り物」じゃなくて「贈り者」なのね。初めから人だったのね。
しかもこの女性、「嫁に来た」とか言っているし。まったくもって意味がわからない。
「母さん、詳しい説明を頼む」
『説明も何も、彼女が言った通りなんだけど。……母さんは心配しているわけです。25にもなって彼女一人出来ない息子のことを。彼女が出来ない翼は、きっとコンビニ弁当やカップ麺ばかりを食べて、汚部屋で生活し、洗濯物もためているのだろう。そう確信しているわけですよ』
「……」
ごく稀にだが料理をしているし、部屋もそこまで散らかっていない。洗濯機だって、週に一度はかけているさ。
だけど大前提の「彼女が出来ない」という部分が本当なので、強く反論出来なかった。
『そこで母さんは考えました。翼に最高のお嫁さんをプレゼントしてあげようと』
「解決方法が斜め上すぎる!」
どこの世界に、息子に嫁をプレゼントする母親がいるんだよ?
ここにいるんだよ。だからウチの母さんは、ヤベェんだ。
『あなたに贈った彼女、凄いのよ。料理の腕はプロ級だし、掃除洗濯もそつなくこなすし、何より旦那さんに献身的だし。そんな彼女を人は、「伝説のお嫁さん」と呼んでいるわ』
「伝説のお嫁さんねぇ……」
一体どこの誰が、そんな異名を付けたのだろうか? それとも、そういう資格でもあるの?
『彼女なら、絶対に翼を幸せにしてくれるわ。だからあなたも、精一杯努力して彼女を幸せにしなさい』
『末永くお幸せに〜』。言いたいことだけ言って、母さんは一方的に通話を切る。
慌ててかけ直すも、残念ながら留守電サービスに繋がってしまった。あの野郎!
『……』
母さんという仲介役がいなくなったことで、俺と自称お嫁さんの間に気まずい沈黙が流れる。
「えーと……」
「ゆかりです。ゆかりんでもゆかちゃんでもゆーたんでも、どうぞ好きに呼んで下さい」
選択肢のパンチが強すぎる。
「それじゃあ、シンプルにゆかりで。……悪いな、母さんの身勝手に付き合わせて」
「いえ。こんな私を拾ってくれたお義母様には、感謝しています」
「そのお義母様っていうの、やめないか? 俺たちはまだ結婚していないわけだし」
出会って数秒で結婚どころの話じゃない。出会う前からお嫁さんを自称されていたわけだから、迷惑この上なかった。
「そう言われましても……翼さんに追い出されたら、行くところがありません」
「行くところがないって……はぁ」
考えてみれば、彼女も母さんに巻き込まれた身だ。謂わば被害者である。
じゃあ誰に責任があるのかって? そんなの勿論母さんだ。
しかしこの場に母さんはいないから、息子の俺が代わりに責任を取るしかないだろう。
「……数日なら泊まって良いから、その間に住むところを探せよ」
「ありがとうございます!」
こうして俺と彼女の新婚生活(仮)が始まった。
◇
伝説のお嫁さん・ゆかり。その二つ名は、伊達ではなかった。
母さんの言う通り料理は上手だし、掃除と洗濯も完璧なこなしてくれる。
それだけではない。
ゆかりの良妻具合は、日常生活にこそ現れていて。
立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花。彼女の言動一つ一つが、伝説のお嫁さんと呼ぶに相応しかった。
しかしゆかりのお嫁さんとしての真価は、家事や所作以外のところにある。
そのことを実感したのは、俺が仕事でミスをした日のことだった。
取引先に怒られて、上司に迷惑をかけ、どん底なテンションのまま、俺は帰宅する。
「おかえりなさい、翼さん!」
「……ただいま」
ゆかりに心配かけまいと、俺は必死に笑顔を作る。
しかし伝説のお嫁さん相手に、作り笑いなんて通用しなかった。
「……何かありましたか?」
「何かって?」
「翼さんが、元気ないように見えましたので」
凄い洞察力だと感心しながら、俺は仕事でミスをしたことをゆかりに話す。
罪悪感と自己嫌悪が、次々と胸の奥から溢れ出していった。
ゆかりはそんな俺の言葉を、肯定しなかった。否定もしなかった。
ただただ黙って話を聞いてくれている。
そして情けない姿を見せる俺を、そっと抱き締めた。
「自己嫌悪なら、思う存分やって下さい。翼さんの気が済むまで、いつまでだって聞いてあげますから」
「……聞くだけなのか?」
「やめろと言ったって、自分を卑下することはやめないでしょう? あなたが自分を否定するなら、大いに結構です。しかしその代わり、私はその何倍もあなたを肯定してあげます」
もし俺が今も一人暮らしだったら、きっと心が折れていたと思う。
だけど、今はゆかりがいる。お嫁さんが俺を支えてくれる。
いつの間にかゆかりがいることこそ当たり前の日常で、その日常は何よりも尊いものである。そんな風に、思い始めてしまった。
◇
ゆかりとの新婚生活(仮)も3ヶ月が経過した頃、俺は彼女に「大事な話がある」と呼び出された。
ダイニングテーブルに着き、向かい合う俺とゆかり。彼女の表情は、いつにも増して真剣だった。
「そんなに改まって、どうしたんだ? まさか、別れ話とか?」
「別れ話じゃありません。過去に別れたことがあるっていう話です」
「バツイチなんです」。ゆかりが、衝撃のカミングアウトをする。
「前の夫は、幼馴染のお兄さんでした。小中高と同じ学校に通っていて、休日は毎週のように一緒に過ごしました。あの頃の私は、心底前の夫のことが大好きで。離婚した今でも、正直当時の多幸感を忘れられません」
実を言うと、「もしかしたら過去に結婚した経験があるんじゃないか」という予想はしていた。だって「伝説のお嫁さん」なんて称号、前に誰かのお嫁さんじゃなきゃ付かないものな。
「そんなに幸せな結婚生活だったなら、どうして別れたんだ? お互いの仕事が忙しくて、すれ違いが起きたとか?」
ゆかりは首を横に振る。
「当時の私も今同様、専業主婦でした。稼ぎがない分、家の中の仕事は完璧にこなしたつもりです。支えていたつもりです」
ゆかりの言っていることは、多分本当だ。自身の仕事に対して過大評価はしていない。
我が家に嫁いできてからの働きぶりが、何よりの証拠だ。
「望むことは、何でもしました。でも……ダメだった」
「ダメ?」
「窮屈だと言われました。嫁の鏡だから、息苦しいと。そして彼は、他の女と関係を持ちました」
全てを持ち合わせている人間は、他人に何でも与えることが出来る。
そして与えられるものは、必ずしも良いものとは限らなくて。
前の夫は、恐らく完璧なゆかりに対して劣等感を抱いてしまったのだろう。そしてその劣等感を紛らす為に、「窮屈だ」と言ってその責任をゆかりに押し付けた。
離婚したからと言って、ゆかりの嫁としての実績がなくなるわけじゃない。結果「伝説のお嫁さん」という異名だけが、彼女に残ったというわけか。
「お義母様とは、喫茶店で偶然出会ったんです。離婚から立ち直れずにいる私の相談に、親身になって乗ってくれました」
「そこで「息子に嫁がないか?」と言われたわけか」
「はい」
俺に嫁が必要だなんて、方便だ。
ゆかりには「必要としてくれる人」が不可欠だから、俺を紹介したに過ぎない。母さんめ、俺を売りやがったな。
しかし文句を言おうものなら、母さんは「あなたを幸せにしてくれる人だと思ったから、嫁がせたのよ」と返すことだろう。
……その通りだよ、この野郎。
「翼さんに捨てられたら、もう私に行くべき場所なんてありません。二度も捨てられるなんて、耐えられません。だから……どうか私を、これからもあなたのお嫁さんでいさせてくれませんか?」
捨てられたら耐えられないなんて、重いことを言うなぁ。
だけど、そんな重さに俺は安心した。何だ、きちんと欠点があるじゃないか。
仮にゆかりが完璧なお嫁さんだとしたら、俺も完璧な夫になれば良い。伝説なお嫁さんだと言うのなら、俺も伝説の旦那さんになれば良い。
そうすれば、息苦しさも窮屈さも感じない筈だ。
「……取り敢えず、腹が減ったから何か作ってくれ」
「えっ? ……はい」
返事を先延ばしにされたと思ったのか、ゆかりはどこか悲しそうな表情を見せる。そんな彼女に、俺は続けて言った。
「味噌汁を作ってくれ。これから、毎日」
「! ……はい!」
そのセリフの意味がわからないゆかりじゃない。
彼女の表情が一転、満面の笑みになった。
◇
ゆかりと生活を共にし始めて、一年が経過した。
新婚生活(仮)も、そろそろ終わりの時期だろう。これからは、本物の新婚生活を送るのだ。
夜景の見えるレストランで、俺はゆかりにプロポーズをしようと試みる。しかし……ここで非常事態が発生。
「あっ」
どうしよう。婚約指輪を、どこかに落としてしまったみたいだ。
一世一代の大勝負の日に、こんな失敗をするなんて。情けない限りである。
伝説の旦那さんには、程遠いな。
「どうかしましたか?」
「いや、指輪を落としたみたいで……」
「あなたって人は……はぁ」
「まったくもう」と、ゆかりは溜息を吐く。
その溜息からは落胆の色が見えて、もしかして愛想を尽かされたのではないかと不安になった。
しかし、ゆかりに限ってその心配は杞憂だった。
彼女は俺のネクタイを掴むと、自身の方へグイッと引っ張る。
重なり合う、二人の唇。
10秒間たっぷりキスをした後で、ゆかりは俺にこう言った。
「指輪なんてなくても、永遠の愛でも何でも誓ってあげますよ。大好きです、翼さん」
伝説のお嫁さん? いいや、違う。
ゆかりは最高の、俺のお嫁さんだ。