096.ウルハイ族にとっての藍星鉱
「リヒトくん」
スピカがリヒトに声をかけ、品の良い笑みを作り手を差し出してきた。「私たちに藍星鉱を見る機会をくれてありがとう。心から感謝しているわ」
「俺もだ。シルジュブレッタ先生から指輪の誓言が参加条件だと言われたときは驚いたが、それで見せてもらえるものが藍星鉱だったとは。わかっていたらなにも躊躇することなんかなかった。……あいつらも臆せず参加すればよかったのになぁ。こんな機会一生ないかもしれないのに」
ヴァスコはあらかじめ不参加を決めていた四年生に言及した。その言葉を聞いて、リヒトはなぜか胸がざわめくのを感じた。
「それはそうと、私が気になるのはお前ら二人の態度だ。さっきから見ていれば、まるで藍星鉱のことを前から知っていたようじゃないか」テオドールが不満げに二人を見た。知らぬ間に自分だけ仲間外れになっており面白くないのだ。
「ああ、すまん、すまん」
「テオドールが知らないのはしかたがないのよ」
二人は藍星鉱がウルハイ族に伝わる特別なものなのだと説明した。
「私たちの曾祖父・曾祖母の世代までは、ウルハイ族はいつも藍星鉱と、そして飛羊とともにいたの。藍星鉱はウルハイの地で、精霊のいるところに咲く青い花と呼ばれていたのよ」
「精霊のいるところに咲く青い花?」
「そう」
「……信仰の対象ということか?」テオドールが突きつめて聞く。
「対象そのものではなくて、いつも近くにあるものってこと」
「藍星鉱のあるところ、精霊もいるということだ」
「私たちウルハイ族はウルハイの地のことをずっと聞かされて育つの。飛羊が舞い、藍星鉱が咲く、精霊に見守られた地上の楽園。私たちの先祖の眠る地。帰るべき場所――」
「お前らはいつかウルハイの地に帰りたいのか」
テオドールにそう問われると、ヴァスコとスピカは顔を見合わせた。
「どうだろ。私たち世代だと、そんなにって感じするけど」
「俺の親世代までは結構帰ることを諦めていなかったようだが」
「私なんか混血だから、親ですらそこまででもなかったかな。でもおばあちゃんは……もう死んじゃったけど、小さいころいまみたいなお話をよくしてくれたわ。私たちには戻るべき場所があるんだって」
「そうか」
「でも俺らは王国で生まれたし、子どものころから王国でどう生きるかということしか考えになかった。魔術使いと認められてここに来てからは、もっと将来が明確になった。それを捨てて、見たことのない土地に、それも、複合災害で一度は死の地となった場所に行くなんて……ご先祖様には悪いが、ちょっと考えられないかな」
「なるほど」
それはとても現実的な若者の感想だ。いままで自分の生まれ育った場所で努力してきたことや思い描いていた将来と、あまりにかけ離れた進路は選択しづらい。世代を重ね、ウルハイ族のアイデンティティは残酷なほど失われつつあった。
「ウルハイ族にとって藍星鉱が特別な存在だということはわかった。同時に、お前らにたいした執着がないこともわかった。であれば、私は誉れ高き実験台を譲るつもりはない」
「……ん?」
「なに言ってるの?」
「シルジュブレッタ先生、その藍星鉱、誰かの魔力で染めるおつもりなんですよね? ぜひ私の魔力をお使いください」
テオドールは自分のなかで整理をつけてしまうと一番おいしいところを持っていこうとした。
「はあ!? なによそれ、抜け駆けでしょ!」
「お前……! 先生、俺が!」
「私よ!」
「お前たち、別にウルハイの地に帰らなくてもいいんだろう!」
「それとこれとは話が別!」
この後しばらく続いた実に醜い罵り合いを、リヒトは兄との他愛ない談笑を思い出すことで遮断することに成功した。研究室の先輩である三人から最初に受けた理知的な印象を、できるだけ長く記憶に留めるためである。
「黙りなさい」
マロルネの冷徹な声が響き、騒いでいた五年生は全員口を閉じた。
「この標本の小ささです。魔力で染められるのは二人がよいところでしょう。一人は当然リヒトくんです。提供者なのですから」
(え、そうなの?)
リヒトとしては藍星鉱はもうシルジュブレッタにあげてしまったものであり、自分がどうこうできるとは思っていなかった。シルジュブレッタを見るとにこにこしているだけなので、それで良いようであった。
「もう一人は……」
「もう一人は……?」三人が揃ってごくりと喉を鳴らす。
「シルジュブレッタ先生です」
三人はまたも揃って落胆の声を上げた。しかしこの采配に文句をつけられる者などいない。掴み合っていた腕を下ろし争いをやめるしかなかった。
シルジュブレッタはまっさらの藍星鉱をハンマーで割ると、欠片のひとつをリヒトに染めさせた。ルカが染めたときと同様の光が部屋に溢れる。ただ魔力量はリヒトのほうがよほど多かったようで、ルカのようにぐらつくことはなかった。
みなが安心して触れるようになると、さっそく藍星鉱の性質の調査にかかった。金属としての基本的なデータはすぐに調べ上げてしまった。ただ、比重や融点がわかっても、知識が積みあがるのが楽しいだけであった。リヒトには、エーデルリンクがこれを褒賞に選んだ理由がそれなりにあるはずだという期待がどうしてもあったのだ。当のエーデルリンクはサニカに言われて渡しただけなのだが、そのような事情をリヒトが知るはずもない。なにか〈神界の客もの〉と呼ばれるに相応しい性質がないのだろうかとシルジュブレッタたちに相談した。
「エーデルリンク先生に直接問い合わせるべきだ。なにせいままでお持ちだったのだから」
当然の提案をしたのはテオドールで、リヒトはすぐに伝書鳥を飛ばした。
「じゃあ、今日はもう遅いから解散ね。リヒトくん、返事が来たらみんなに連絡してくれる?」
「わかりました」
マロルネが窓の外に目を遣るまで、日がとうに暮れていることに気がつかなかった。それほど、みな机上の藍星鉱に夢中だった。
「この欠片、預けておくわ。なにか変化が見られたら書きつけておいてね」
マロルネはリヒトが染めた藍星鉱の欠片を渡した。一度溶かしたために小指の爪ほどの大きさの硬貨状になっている。そういえばルカに染めさせたものはすぐにしまい、長時間持たせることはなかった。持ち続けていることで見られる変化もあるかもしれない。リヒトは頷いて慎重に腰袋に入れた。そして帰り際、リヒトは初めて研究日誌の作成をシルジュブレッタから命じられた。
体を小さくして研究室出入口付近の障害物を攻略していると、同じく小さくなっているスピカが話しかけてきた。
「私も、リヒトくんとのこの研究のことはもちろん言えないけど、藍星鉱について家の人に聞いてみるわ。まだ私に教えていない言い伝えはないか、とか」
「俺も聞いておこう。うちはウルハイ族だけで血を守ってきたし、祖父も祖母も生きているから」
「あ、ありがとうございます」
「ふん。私には期待するなよ。藍星鉱なぞ今日初めて聞いたのだからな」
「いえ、そんな……」
テオドールは憎まれ口を叩いたが、嫌な感じではなかった。いまもヴァスコやスピカと小突きあっている。言われなかったが、彼は貴族だとリヒトは直感していた。直感が正しければ、指輪の誓言は家名を名乗らずとも成立することになる。リヒトは三人の誓言を注意深く聞いていたが、おかしなところはなかった。貴族であるシルジュブレッタの研究室に、貴族の研究生が入る――それは当然のことだとも思う。しかしその貴族が、おそらく平民でウルハイ族の同級生と対等に小突きあっているのが新鮮だった。そしてまた、不思議な胸のざわめきを感じたのである。




