061.ナッツと会話
翌朝、リヒトは出席が免除されない実技の授業へ向かい、ルカはナッツのもとへ向かった。リヒトの分とまとめて金を受け取って終わりだと思っていたのだが、指輪に狩猟番としての情報も書き込んでくれるという。指輪を外してナッツに渡すと、ナッツはそれを若い職員に下請けに出してルカを事務棟の奥へと案内した。二人で間仕切りの向こうにあったテーブルを囲み腰を落ち着けると、ナッツが世間話を始めた。
ヒュドラの骨は防毒処理が済んですべて運び込まれており、現在研究チームが編成され骨格標本をつくっているとのことだった。なんでも、エルダーの森で最後に目撃されたのが百年以上前であり、しかもその目撃例も遠目にそれらしき影を見て頃合いを見計らって調査したところ毒の痕跡が見られたという程度のものだったため、今回骨が得られたというだけで様々な研究室から一斉に手が挙がったのだ。すでに引退して王都で暮らしている研究者もあの手この手でなんとか割り込もうとしているという。
「それは大変ですね」
「まあ研究者だけならいいんですけどね。王都の貴族たちが割り込もうとしているほうが面倒でして」
ナッツはすでに方々からしつこい打診を受けて閉口しているらしかった。魔術使いでもない貴族を魔術学校に招くのはできれば回避したいところなのだ。
「そういった意味でも、ルカさんがヒュドラ討伐を複数の手柄と主張されたのは良かったかもしれませんね」
「そうなんですか?」ルカはナッツの言葉の意味するところがわからず首をかしげた。
「討伐したのがルカさんだけだと必然的に個人の名前が出ますが、魔術学校の教員と護衛に駆り出されていた者たちと言えば、王国側は勝手に魔術師団だと判断してくれますからね」
「はあ」
「生徒たちにも、ヒュドラ討伐に際するルカさん個人の貢献度の話はしていません。当事者たちは知っていますが、口止めも済んでいます。今回巻き込まれた生徒のなかに貴族の子がいなかったのは幸いと言っていいでしょう」
「なるほど」
「もっとも、ルカさんが王国側で取り立てられたいと思っていた場合は損をさせてしまうことになりますが」
「それはないですね」
せっかくリヒトを間近で見守れる立ち位置にいるのに手放す気は毛頭ない。
「ええ、そのほうが助かります」
ナッツは笑って言ったあと、表情を改めた。「ですがリヒトくんのほうは名前が出てしまいますね」
「え?」
「本人にも今日担任から伝えられていると思いますが」
そう前置きしてナッツが言ったことはルカにとって大事件だった。リヒトの新発見が本に載ることになったというのだ。ヒュドラは原始の姿を残しているエルダーの森にしか生息しておらず、さらには本来ならば人間が足を踏み入れることのできない深層部にいる。その生態を知れること自体稀であり、神話では不死身とされていたものに弱点があったというのは、言わずもがなの大発見なのであった。
「本と言っても教科書のようにしっかりした製本ではないんですよ。季節ごとに出る論文やトピックなどを載せた数十ページのもので、簡単に糸で括ってあるんです。配布されるのは王都の指定を受けた学術書専門店と、図書館だけ。もちろんうちの図書館にも入ります」
本の体裁などどうでもよい。問題はリヒトの名前が輝かしく載るということである。エーデルリンクは昨日の時点で知っていたに違いない。教えてくれればよかったものを。いや、昨日聞いていたら浮足立ってルカはホッグの顔すら覚えていられなかっただろう。どう考えても今日このタイミングで聞いたのが正しかった。
その本は自分も買えるのか。値段はいくらか。購入制限はあるのか。ルカはナッツにしつこく聞いた。結果、ナッツはルカのためだけに三部、確保することを約束させられた。
「それで、リヒトの名前が王国に轟いてしまうというわけですね」
落ち着きを取り戻したルカが話を軌道修正すると、ナッツがそういえばそんな話だったと思い出したような顔をした。
「そうですね。でもそちらも心配ありません。リヒトくんが優秀なのは貴族の生徒たちにはもう知られていたことですし、魔術学校が優秀な生徒を手放す気がないことは王国側もわかっています。多少の打診はあれど、強引になにかされることはないでしょう」
そう言われてルカは一安心した。一安心したら、いよいよ本の発行が楽しみになった。リヒトの名前が歴史に最初に刻まれる瞬間が、もうすぐやってくるのである。
さらに次の日、ルカはホッグとの約束通り二の鐘のころにクプレッスス寮の下まで下りてきた。
「よう! 来たな! 今日から俺がビシバシ鍛えてやるからな!」
外に出た途端、聞き覚えのあるがなり声が飛んできた。
「誰だお前は」
ルカはホッグだとわかっていたが、目の前の光景が信じられなくて思わず誰何した。そこには甲冑の胴を着て兜をかぶった大男が立っていたのだ。
「馬鹿野郎! 俺に決まってんだろ! ……あ痛てっ!」
ルカの言葉に怒ったホッグが勢いよく兜を脱ぐと、その額になにかがぶつかって跳ね返った。つづけてビシバシと飛んでくる。ルカは痛い痛いと喚くホッグを尻目に、ころころと地面に落ちたひとつをつまみ上げた。それは艶のある硬そうなどんぐりであった。リズムをとるように正確にホッグにだけ飛んできている。射出もとを目で辿ると「木の手」が小窓を開けて器用に指先ではじいていた。残弾はまだ結構ある。
(こいつは「木の手」に嫌われているのか?)
ホッグがなにか失礼なことをしたに違いない。根拠はないがルカは確信した。
「行ってきます」
ルカが「木の手」に呼びかけると、いったんどんぐり攻撃が止み、「木の手」は拳を握る動作をした。ルカに「がんばれ」と言ってるのかもしれないし、「ホッグを殴れ」と言っている可能性も捨てきれない。とりあえず顔を真っ赤にして怒っているホッグを連れて寮の玄関から離れることにした。