044.窮地
「ほかに生徒は?」
「いない。さっきまで護衛の人は三人いたんだけど、一人はほかの生徒の誘導を任されて離脱したんだ。僕はそのあいだ隠れて雷撃石のリミッター外してたからここにいるんだけど、先生たちはさっき逃げろって怒鳴ってからはなにも言ってこない。スカーレットたちさえ確保したら、すぐに退却したいんだろうけど……」
「あれでは戦力が足りないだろう」
ルカはヒュドラを改めて見る。頭がたくさんあるな。一、二、三、……九つもある。目をひとつ射貫くだけではたいしたダメージにならなそうだ。残り八つの頭を逆上させるだけのような気もする。
「リヒト、ヒュドラはどういう魔獣かわかるか?」
ルカはリヒトが入学前にエルダーの森の動植物を調べ尽くしていたというマロルネの言葉を思い出し、ヒュドラの特徴も知っているのではないかと聞いてみた。
「……まずヒュドラは毒の息を吐く」リヒトは苦々しく言った。
「なに?」
ルカは嫌な予感がした。ヨルムンガンドといい、魔獣が持っている毒などどうせ碌なものではない。
「あの口から吐いてる紫の蒸気みたいなのが見えるでしょ? あれはヒュドラが口内の毒腺から噴霧している劇毒なんだ。吸い込むのはもちろん、触れるだけでもそこから体が腐りはじめる」
リヒトの言う通り、ヒュドラは時折毒を撒き散らしてはいるが、それは風に煽られて周囲の木々や茂みをどす黒い紫に染めていた。
「いま先生の一人が風の魔術を絶え間なく発動させてヒュドラを風下に置いてるんだけど、あれがなかったら僕らは毒の息ですぐに死んでしまう。風の魔法は大気を動かすから、すごく魔力量を使うんだ」
「では魔力切れは時間の問題か」
「うん」
「……あの檻は空気は通してしまう。空気に毒を混ぜてくるヒュドラは、檻じゃ守れないんだよ」
つまり風がなくなれば、スカーレットたちはほぼ即死だ。
リヒトの声もさすがに緊迫感が増している。風の魔術を使っている教師はそれに集中しなければならないため、攻撃の戦力になれない。またシールドを張る余裕もないため、もう一人の教師がスカーレットたちのいる檻を守るシールドをすべて担っている。その合間にヒュドラに攻撃しているのだ。
全滅――その言葉が脳裡をよぎった。そのとき。
男性教師が攻撃の隙を見つけて光の刃を放つ。それはヒュドラの首のひとつに命中し、血飛沫とともに後方へと刎ね飛ばした。
「やった!」ルカは教師の会心の一撃に声を上げた。
「いや」リヒトは渋い顔のまま言った。「あれがヒュドラの一番やっかいなところなんだ」
そう言われヒュドラを見ていると、切られたはずの首は根元から肉が盛り上がり、みるみる伸び上がって元通りの首になってしまった。
「なんだあれは……」
「再生能力。あれがヒュドラが鏖殺の神と呼ばれる所以だよ。誰も殺せない。直接戦えば、必ず相手が体力や魔力を削り落とされて、最後には殺されるんだ」
「……」
ルカは手立てのないままに矢筒から矢を一本抜いた。勝てる見込みはなくても、隙くらいはつくれないだろうか。スカーレットの命がここで絶たれるのを甘んじて見ていたくはない。
「リヒト、私がすでに避難させた班の持ち物にマーカーをつけている。リヒトをそれと〈相互移動〉……」
「いやだ!!!!」
リヒトは悲鳴のような声を上げた。「こんな場所に兄さんを置いて自分だけおめおめと安全圏に行くなんてぜったいに嫌だ!」
リヒトは勝手に〈相互移動〉させられまいとして、ルカの服を掴んだ。黒い大きな目が、必死に一緒にいたいと訴えてくる。ルカは困ってしまった。リヒトに危険が迫れば、どれだけ恨まれても強制的に避難させるつもりだが、やはり納得はしてほしいものだ。
教師がシールドを張り損ねた。すかさずヒュドラの首が伸びてくる。
(一……)
ヒュドラの目に、ルカの一撃が刺さる。ヒュドラは濁った叫び声を上げて檻に噛みつきかけていた首を引っ込めた。
「なに!?」
「矢!?」
教師たちはこちらを振り返る余裕もない。
態勢を立て直した攻撃を担っている教師が、炎弾の魔術具を持つ護衛たちに向かって叫ぶ。
「今度はタイミングを合わせていくぞ!」
「はい!」
教師が再び光の刃を繰り出す。ヒュドラの首のひとつが飛ぶ。するとそれを待っていたかのように炎弾が飛び、ヒュドラの首の断面を焼いた。
ガアアァアアアアア……!!!!
絶叫とともに、肉の焼ける嫌な音がする。ヒュドラの首は……生えてこない。
「やった!」
「いけるぞ!」
確かな手応えを感じ、歓声が上がる。これにはルカとリヒトも身を乗り出した。傷を焼きつけて再生を防いだ。この調子で首の本数を減らせば、ヒュドラの攻撃の手数を減らせる。一筋の光明を見い出した教師たちは、戦いのなかで取れるようになってきた連携を活かし、次々にヒュドラの首を刎ね、焼きとめていった。
ヒュドラは首を四本にまで減らしていた。このままいけば――そう思った。
残り八つの目がチラチラと光る。先ほどまで激昂していたヒュドラはいまも飛んでくる光の刃を躱しながら、静かに首をうねらせていた。
(なにか考えている……)
知性があるのだ。ルカはそう思った。
ヒュドラはひたと動きを止めた。そして前足を器用に持ち上げたかと思うと、焼きつけられた首の切断面に鋭い爪を突き刺し、鮮血を噴き出させながら深く傷つけた。そして、新たな傷となったそこからは、新たな首が誕生した。
最前線で戦っていた教師たちはもちろん、ルカたちも愕然とした。ヒュドラの首は次々と再生していく。いままでの攻撃はすべて無駄だった。感情を感じさせない九つの顔は、こちらを嘲笑っているようにも見える。
ヒュドラの攻撃に、教師のシールドがはじかれた。スカーレットたちの横たわる檻が激しい音を鳴らして転がった。ヒュドラの牙が間近に迫る。
(七……、八……)
ルカが援護してなんとか首を引っ込めさせた。
教師の後ろ姿に力強さがなくなっていた。疲労以上に、絶望が彼の集中力を途切れさせていた。勝てない。誰の目にもその思いが浮かぶ。ルカは自分を落ち着かせるように背負った矢の矢羽根に触れた。初めての森だからと、多めに二十五本を入れてきた。半日の散策で小型魔獣相手には多すぎたかと思っていたくらいだ。いまは心許ない。活路がないのだ。一撃ずつは攻撃を躱せても、このまま一本一本矢を減らしていき、ついには武器を失うことになる。
また光の刃が飛ぶ。先ほどまでより動きに精彩を欠いたそれは狙いが甘く、胴をなぶるように掠ったあと、後方へ飛んで行ってしまう。みんな肩で息をしていた。限界は、もうすぐそこまで近づいてきていた。
「逃げろ!」
ずっと風の魔術を使っていた男性教師が悲痛に叫んだ。
「私が毒だけは食い止めるから、もう逃げろ!」
その言葉には、檻について言及はなかった。スカーレットたちを見捨てて逃げろ。そう言っているのだ。
彼を責めることなど誰にできようか。彼は自身の魔力の限界を悟ったのだ。そして魔力を使い果たすまでここでヒュドラを食い止めた彼の結末は、死だ。彼は自分の命を犠牲にしても、助かる可能性のある者を逃がしたいのだ。
ルカは唇を噛んだ。風の魔術がなくなってしまうなら、もう一刻の猶予もない。リヒトと、ほかの逃げられる者たちで手をつながせて〈相互移動〉するのが最適だ。最適だとわかってはいるが――
(スカーレット……)




