043.ヒュドラ
ルカは目の前の光景を信じがたい思いで見つめながら、状況を把握しようとした。
ヒュドラは明らかに教師たちに敵意を持っており、先ほどから耳をつんざくような咆哮を上げながら紫に濁るなにかを口元から噴霧している。それは風に巻き上げられてこちらへは届かず、ヒュドラが近づこうとするのを教師たちが魔術攻撃で阻んでいた。
(逃げられないのか?)
見たところ、ルカを除くとこのルートの付き添いの教師と護衛が二人ずつしかいない。護衛は二人とも、炎のつぶてを飛ばす魔術具を持っているようだが、教師たちほど熟練されているわけでもなく、安全だと言われていた森での自衛用の装備でヒュドラに対抗できるはずがない。
(なぜ退却しないのだ……あれ?)
ルカは先ほどリヒトが言ったことにやっと思い至った。
「リヒト、さっきスカーレットがどうのと言ったか」
「うん、あれ」
リヒトの指差す先をよく見ると、ヒュドラと教師たちとの間、ヒュドラがなぎ倒しただろう幹から折られた大木のそばに、スカーレットが倒れていた。巨大な手の骨を模したような檻が横倒しになっており、そのなかで、俯せになって気を失っているようだ。スカーレットの下にはもう一人誰かいる。
「いったいどうなっているんだ」
「僕もさっき着いたばかりだからわからないんだけど、あのスカーレットの下で呑気に寝てる女、あいつが僕の班のやつなんだ」
寝てるというより失神のような気もするが、言われてみれば、スカーレットの下で倒れているのはあの黒髪の女の子だった。
「だからわざわざ赤い狼煙の場所に近づいたのか」
「うん、本当なら放っておくんだけど、あの女、僕らの班からわざとはぐれたんだ。用を足すふりをして。それで向かった方向で色音石が上がったから……」
「なるほどな」
なにが起きたのかはわからないが、いまは追及している場合でもなさそうだ。
「来てみたらヒュドラがいてスカーレットたちはあの通りだし、先生たちは戦っててさ。さっき先生たちの攻撃の隙間から水石を使ってあのヒュドラに水をかけて、雷撃石のリミッターを外して撃ち込んで全身を感電させたんだ。でも、あの鱗、予想以上に頑丈みたいでさ、ほとんどダメージが入らないんだ。……最悪、兄さんの〈相互移動〉でスカーレットにマーカーをつけて、安全なところに避難させられないかと思って」
リヒトはルカが使わないように約束させるつもりだった雷撃石をさらに凶悪な武器へとアレンジして使いこなしていた。説教をかましたい気持ちをぐっとこらえ、リヒトの提案に乗る。
「そんなことならばすぐにやろう」
「でも、先生たちに兄さんの〈相互移動〉がバレちゃうよ」
「生徒の命がかかっているんだ。口を噤んでくれるよう頼めば、無下にはしないだろう」
リヒトは小さく頷いて引き下がった。リヒトとて、スカーレットを早く救出してやりたいことに違いないのだ。そうでなければここにルカを呼ぶはずがない。
ルカは先ほどまでリヒトの手首に巻いてあった紐につけっぱなしだったマーカーを外し、檻全体にマーカーをつけようとした。
(ん……?)
スカーレットたちは少し遠目だがちゃんと見えている。マーカーを……
(あれ?)
「……つかない」
ルカは何度かやってみたが、なぜだかどうしてもマーカーがつかなかった。
「あ!」リヒトは顔色を変えた。
「兄さん……マーカー……」
「うん、何度やってもつかないんだ。最初は檻全体につけようとして駄目だったから、スカーレット単体にしてみたんだが、やっぱりつかない」
ルカは試しに足元の小石にマーカーをつけてみる。問題なくつく。どういうことだろう。
「しまった……あの檻……」リヒトは片手で目を覆うようにして力なく呟いた。
「ん?」
「魔獣を閉じ込める用の檻だった……見落としてた。魔力が通らないようになってるんだ」
「ああ、なるほど」
魔獣は魔法を使うから、魔力を通さないようにしておけば安全に檻に閉じ込めておけるわけだ。
リヒトは以前ルカのマーカーは魔力だと言っていた。つまりあの中にいるスカーレットたちには、マーカーをつけることができない。
「檻自体にもつけられないのか」
「中の魔獣に魔法を使わせないだけじゃなくて、貴重な魔獣を他人に奪われないようにする保護もかかってるんだと思う」
それではしかたがない。いままさに、他人が魔力を使って檻のなかのものを奪おうとしている状況と言えるからだ。檻の仕様通りだったというわけだ。
「あの檻はどのくらい強いんだ」
「強度実験はしてないからわかんないな。本来は檻のてっぺんに刻まれてる文様に魔力を流し込んで解除するんだよ。解除されない限り空気以外は雨も雷撃も通さないんだけど、ヒュドラの物理攻撃を食らったら時間の問題だと思う」
「そうか……」
「兄さん。ヒュドラにマーカーをつけてどっかに放ることはできない?」
リヒトの提案を聞き、ルカはうなずきながらすぐに試した。
「……無理だ。おそらくマーカーがつく体積か体重の限界値を超えている。大岩にマーカーがつかなかったのと同じだ」
ルカが首を振ると、リヒトは唇をきゅっと噛んだ。
「そっか……そうすると……」
「先生たちがヒュドラを押しやれるか、だな」
「うん……」
スカーレットたちのところに辿り着けていない段階で、遠隔で檻を壊すというのは選択肢にない。ルカたちはそもそもその手段を持たないし、気を失っている以上、自衛の手段を持たない彼女らが魔術攻撃の飛び交うなか晒されるのは危険すぎる。彼女たちのいる檻はヒュドラの首の射程内にあるのだ。ヒュドラが檻を壊した一瞬を狙ってルカがどちらかにマーカーを打っても、残りの一人は間に合わない。教師たちも檻の頑丈さがあるから強い魔術を打っていけるので、破壊は考えていないはずだ。だからまず教師たちが近づいて彼女らを確保しなければ、状況は進展しない。
しかし教師たちは明らかに押されていた。ヒュドラは紫の蒸気を吐きながら、長い鎌首をもたげては直線的な動きで一気にスピードを上げ、檻に噛みつこうとする。檻の中のスカーレットたちに、異常に執着しているように見える。そしてそれを邪魔する教師たちに敵意を抱いているのだ。鋭い牙が檻の骨を捉えにかかり、教師たちも必死にシールドを展開する。だが複数の首がタイミングを変え、角度を変え狙ってくるのだ。いままで対応できているほうが不思議なくらいだ。ヒュドラを少しでも後退させ、スカーレットたちを確保して退却――というのは現実的には難しそうに見えた。