003.ルカの能力
(死ぬ)
強烈にそう思ったことはよく覚えている。この獣は興奮していて、今まさに自分に飛びかかろうとしている、そう直感的にわかったからだ。
この時ルカにはこの獣がイノシシであるとすらわかっていなかった。イノシシの肉も食べたことがあるし、毛皮を触ってみたこともある。ヴォルフが狩ったイノシシを丸のまま見せてもらったこともある。でもそのイノシシとはまず大きさが全然違うし、仕留められて横たわったイノシシを上から見るのと、自分の身長より大きいイノシシが立って正面からこちらを見据えているのとでは状況がまったく異なり、同じ種類の獣であると思い至らなかったのである。
なんでこんなに獣臭いのにいままで気づかなかったんだろう。
なんでこの巨体で掻き分けている茂みの音に気づかなかったんだろう。
風向きかもしれない。自分の立てていた音のほうが大きかったのかもしれない。もはや答えを探す余裕も意味もなかった。
後悔してももう遅い。足は震えてまったく動かない。
小さな目は狂ったように血走って、こちらを見ているようで焦点が合っていないようでもある。丸太のように太い牙はこちらの心臓を抉り出しそうな角度でせり出し、まっすぐにルカを狙いすましている。大きな鼻から勢いよく息を巻くと、踏み出しを確認するかのように黒い蹄で二度地面を掻き叩き、矢のような勢いでこちらに突進してきた。
(死ぬ。死ぬ。死ぬ……)
地面を一直線に蹂躙し、恐怖が形を成して近づいてくる。茂みも草もまるで存在しないかのように悉くなぎ倒し、蹴り上げられた土は高く舞い上がって後方を煙らせた。
あの牙に腹を突かれて死ぬのか。それとも臼のような歯で生きながら噛み砕かれるのか。
ルカはなぜかすべてがゆっくりと進むように見える感覚を味わいながら、視界にくさびのようなものが浮かんだのを不思議に思った。
それはイノシシがもう通り過ぎた脇の木の枝の上に、小鳥がとまるかのように映っていた。そしてルカは思ったのだ。
(あの枝にいれば死なずに済むのに)
その瞬間、それは発動した。まさに瞬きののちに、その枝に自分は跨っていた。
ルカが呆然としている間に、イノシシは奥の木にぶつかって目を回している。結構な大木だったのに、幹の根元付近は大きく抉れ、白い内側がぱっくりと剥き出しになっていた。あれを自分が食らっていたらと思うとぞっとする。
ルカは改めて自分のいる枝を見た。ルカの体格でぎりぎり耐えるくらいの細い枝。
ありがとうと心の中で礼を言い、近場のもう少し太い枝をいくつか見た。
"くさび"の出る枝があったので、そこに移れ、と念じてみた。次の瞬間、ルカはその太枝の上にいた。
〈瞬間移動〉
それがルカの〈恩恵〉だった。
当時のことを思い出すにつけ、顔から火が出る思いがする。なぜあんな謎の万能感に浸れたのか、わけがわからない。
あのあとイノシシは結局どこかへ行ってしまい、ルカはイノシシが突進した木が急に倒れたらどうしようと不安になり、戻ってきたヴォルフに、〈瞬間移動〉の件を除いて事の顛末を話した。〈瞬間移動〉の部分はイノシシに激突される寸前に横に飛んだと嘘をついた。
初めてヴォルフから拳骨が落ちた。ルカの勝手を知ったヴォルフは本気で怒っていた。
今ならなぜ怒られたのかわかる。山を、自然を舐めてかかったら簡単に死ぬのだ。自分ならできる、そう思うのは勘違いだ。ヴォルフはルカが死ぬかもしれないことをなんの覚悟もしないでしたから、あんなに怒ったのだ。
(ずっとヴォルフと山で狩りをしていければいいな……)
〈瞬間移動〉のことは誰にも話したことがない。
ヴォルフは聞いてもきっと誰にも言わない。それはわかる。
(ただ、いままでそんな〈恩恵〉聞いたことがないんだよな)
ルカも五歳までは村で暮らしていたので、村の人がどんな〈恩恵〉を持っているかそこそこ耳に入ってきていた。村の男衆で威張っているやつは大抵身体能力に関する〈恩恵〉だ。〈豪腕〉とか〈俊足〉とか。東区画の食堂の女将さんは〈利き酒〉だと大人たちが話して笑っていたことがある。
ちなみにルカの父親は〈器用〉、母親は〈裁縫〉。どっちも手先の器用な仕事が得意なのに農民をやっている。ルカの苦手な兄は〈木工〉らしい。農家を継ぐのだが。
ひとつ言えることは、村で聞いたことのあるいろいろな〈恩恵〉がすべて「どの人間も普通にできることの延長線上にある」ということだ。
ちょっと人より力持ち。ちょっと人より足が速い。感覚が鋭いとか、特定の作業が得意とか、普通にあることだ。
じゃあ、〈瞬間移動〉は?
そう考えたとき、口に出せなくなってしまったのである。
ただでさえ異質な自分が、もっと異質になってしまう気がして。
世の中には魔法が使える〈恩恵〉もあると聞くが、それもこの村では異分子になるだろう。
(国に採られるようなものではないと思うんだけど、基準もよくわからないしな……)
ルカは検査の日を、楽しみではないどころか実は心底嫌だったのだ。
(〈瞬間移動〉できるやつ、ありふれてるといいな……)
うっかり不安に心を曇らせたあとは、特にやることもなく幌の中で無聊をかこっていた。
やがて耐えられなくなり、ルカは日差し対策にフードを被って御者をしているところを見せてもらった。御者台に移って手綱を持たせてもらい、なんちゃって御者気分に浸っていると自然と笑みも浮かんでくる。その後の休憩や野営も、狩りで鍛えた料理や野営の手際を褒められたりと、割と楽しい一日旅になった。