030.シルジュブレッタ先生
それからの行動は早かった。リヒトはルカに言われた一覧をすぐにつくった。ルカはリヒトを連れて「木の手」の小窓に近づき高速でノックをする。
コココココココ……!
「ちょっと聞きたいことがあるのですが。出てきてくれませんか」
「木の手」が慌てたように小窓の扉をがらりと開けて出てきた。今日はペンと紙を一緒に出してきている。
――なんですか?
「木の手」が紙に書きつけた。会話する気があるらしい。ペンを動かす滑らかな動きに感心する。
「私の弟が入学前に予習をしていて。実験道具が必要なので学校の備品を借りたいのですが、どうすればいいでしょうか?」
――でしたら事務棟の受付に聞いてみてください。
「わかりました。ありがとうございます。リヒト、わかったか?」
「うん、あ、はい。ありがとうございました」
せっかくの「木の手」をしっかり観察していたリヒトが慌てて答えた。
二人は早足で事務棟まで来て、出てきた真面目そうな男性に「木の手」にしたのと同じ話をする。一覧を見せると男性は
「ああ、じゃあシルジュブレッタ先生からならお借りできるかもしれません。ちょっと待ってください」
男性は自分の机のそばに二人を招くと、白い紙を一枚取り出して用を書きつけた。リヒトから受け取った一覧表を上に重ね、レターヘッドに描かれている不可思議な文様に指を当てる。するとその紙は四方が巻き上がるようにして変形したかと思うと、一羽の白い鳥になった。本物の鳥ではなく、精巧な紙細工の様相だ。
「伝書鳥という魔術具ですよ。一年生で習いますから、すでに配布されている教科書にも作り方が載っています」
男性がそう言うあいだにも伝書鳥は窓の隙間から外へ飛び立ってしまった。
これはリヒトならぜったいすぐに取り掛かるだろうなとルカは思った。男性は黒いローブを着ているから、リヒトの先輩のはずだ。
驚くほどすぐに返信の伝書鳥が飛んできた。伝書鳥は机に留まった途端、一枚の紙に戻る。
「ああ、大丈夫だそうです。シルジュブレッタ先生の研究室の場所をお教えしますから、取りに行ってください」
「ありがとうございます」
ルカとリヒトは揃って礼を言った。
研究棟は初日に通った林のような中庭に面していた。一番鬱蒼と木々が茂る奥にあり、日当たりが心配な建物だ。
「ここの六階と言っていたな」
「うん」
外とは違って薄暗くひんやりとした屋内に入ると、石の階段が中央にありそれを昇っていく。魔術師しか出入りしない場所のようで、たまにすれ違う人は全員黒いローブだ。六階の廊下を進み、「シルジュブレッタ」と書かれた表札の嵌まったドアを見つけた。
「リヒト、先生には自分で言いなさい」
「うん」
リヒトがノックをすると、中からテノールの声がした。
「入りなさい」
「失礼します」
中に入るとそこは、棚が乱立する空間だった。
普通こう、棚というのは壁につけたり、せめて壁と並行に置いたりするものだと思う。でもここは違う。いや、もちろん壁にはついている。壁は棚で埋め尽くされている。でもそれ以外の空間にあるものは各々好きな方向を向いている。それが背の低い棚ならまだいい。天井近くまである棚があらゆる方向を向いているのだ。横板と支柱だけのものなので、部屋の奥が隙間から見え、「行けるのでは?」と思わせてしまうところが質が悪い。
(どう進めばいいんだ……)
各棚には、使い方のわからない道具、中身のわからない色のついた大小の瓶、ルカもリヒトも見たことのない多肉植物――なんだこれ歯が生えているぞ。ガチガチと鋭い歯を噛み鳴らしているが鉢にしっかり根づいているのでいまは無視することにした。そして横積みにされた本、本、本……。どれも触ってはいけないだろうことはわかるが、ご丁寧にたいていのものが棚から重心を失わないぎりぎりのバランスを保って飛び出している。入り込んだらぜったいに雪崩を起こすし、再びこの場に戻ることもままならないだろうことは容易に想像できた。
「どうした? 奨学生のリヒトくんとお兄さんのルカさんだろう?」
部屋の奥から声がする。入りたいのはやまやまなのだが入れない。
「ふう、最近の子どもはシャイで困る。研究室までは意気込んで来たものの、いざ顔を合わせるとなると恥ずかしくなってしまったということか」
見当違いな解釈を垂れながら声が近づいてきた。いや、下がってきた? ルカが声のほうに目を遣ると、そこに人間の姿をした、手のひらサイズのなにかがいた。棚の下のほう、道具の隙間を縫うようにして、そのなにかは這い出してきていた。……おっと、噛みついてくる多肉植物の攻撃をうまく避けたようだ。
「やあ、初めまして。私はクルアド・ファン・シルジュブレッタ。魔術の金属内複合処理を専門に研究している。一年生の授業は受け持っていないが、三年生以上になれば私の講義が取れるだろう」
その小さい人は、体に合った黒いローブを着て、まるで崖を降りるかのように本の壁を降りながら話し始めた。そしてルカとリヒトがハラハラ見守るなか、無事に床に着地する。
「は、初めまして。ポルカ村のリヒトです。こちらは……兄のルカです」
「初めまして」
リヒトが一瞬言葉に詰まったのは、そのときにシルジュブレッタが急に大きくなって普通の人間サイズになったからだった。急に距離感が近くなり、無意識に仰け反ってしまう。大きくなってくれたおかげでようやく顔だちもわかった。年は初老の頃合いだろう。白くなった髪を品良く切り揃え、三日月形の目には深い笑い皺が刻まれている。
「ふむ、学問に熱心なのは非常によろしい。しかし学問を追究する姿勢は常に謙虚であり、また一心不乱でなくてはならない。ほかの研究者と対峙するのを恥ずかしがっているようでは……」
「先生、奨学生はまだ体を小さくできません」
いきなり若い女性の声が聞こえた。見るとまた下からにょきにょきと生えるかのように女性が大きくなった。入口付近のスペースに、人間四人が追いつめられるようにして立っている。
「あ、そうだった。では入れないね」
シルジュブレッタはどうやら本気で気がついていなかったようだ。
「もうここは、普通に出入りすることを諦めていますからね」
濃い茶色の髪の、すこし蛙を思わせる女性は控えめに笑った。黒いローブに、不必要なくらい大きな鍔の三角の帽子を被っている。ルカはまだ知らないが、この帽子は学位持ちを表す。シルジュブレッタも持っているはずだが研究室のどこかに埋もれて行方不明だ。
「私は研究員のマロルネ。リヒトくん、君のリクエストの道具は揃えておいたわ。あと、必要になるだろうっていうものも追加で入れておいた」女性は手に抱えていた木箱をリヒトに渡した。
「あ、ありがとうございます。すみません」
「いいのよ。それよりごめんね、部屋に入ってお茶でも入れてあげたいんだけど、それをするにはこの惨状を片付けないといけなくて」
「あ、いいです。大丈夫です」
「返すのはいつでもいいよ」シルジュブレッタが言う。
マロルネはルカに向き直って手を出した。
「そちらはルカさんね、初めまして。握手してくださらないかしら。王都の白い狩人といったらいまや有名人ですもの」
欲しいものを手に入れ、二人に丁寧に礼を言って、ルカとリヒトは研究室をあとにした。
「兄さん、有名人なんだ」
「いや、知らないな」ルカは本当に知らなかった。自分が知らないところで有名になっているなんて、なんとも居心地が悪い。
「危ないな……」リヒトはぼそっと呟いた。
「そういえば、これからジュールラックのところへ行くか?」
「あ、待って。ちょっと今日はいま見たことも含めて頭ぱんぱんだから、後日にしてもらえないかな? ほんとは王都の森に素材を取りに行けたらって思ってたんだけど、マロルネさんが入れてくれた箱の中に素材も入ってたんだ。道具だけかと思ってたのに」
「いい人たちだったな」
「うん。兄さんも、ありがとう」
※2022.05.21 誤字修正をしました。