028.ヨルムンガンドの血
第一王子に傷つけられたヨルムンガンドは、痛みにのたうち回りながら、その血を空から森じゅうに振りまいた。魔獣を巨大化させ、凶暴性を高める毒の血を。
降ってきた血を舐めた魔獣は突然変異体となって信じられないパワーを発揮していた。それが町を襲った耳打牛だったり、王都への道程で出くわした鋼羆だったりしたわけだ。
「ヨルムンガンドは結局どこまで逃げたのかわからん。見えないからな。ルカが鋼羆に出くわしたのが南の街道だろ? さらに南で酷い魔獣襲撃があった話は聞かない。南東で二件、血の影響を受けたと思われる魔獣が発見されている。東の街道上ではまだ報告がない」
「すると、ヨルムンガンドは北西の森からやってきて、南を回り、南東のどこかにいると……」
「さすがにもう血は止まってると思うし、止まっててくれないと困るんだけど」クロムウッドは溜息をついた。
「なぜ王都の真上は通らなかったんでしょうか。通ったのかな? 魔獣がいないからなにも変化が起きなかったってだけで」
「王都はさぁ、防衛の魔術具っていうすっげぇ魔術具がいつも作動してて、魔獣を寄せつけないようにしてんだよね」
これにはルカも心がざわつくのを覚えた。
街道上や王都を囲む森から反対側の町や村を魔獣が襲うのは、王都のほうへ行けないからだ。つまり王都が除けたぶん、周囲の町村が脅威に晒される。それは今回のヨルムンガンドの血の件がなくてもそうなのだ。
「それで第一王子はどうしたんですか」
「んー……わかりやすく言うと、逃げたんだよね。攻撃したわけじゃなく、事故だったって言って。血の性質も知らなかったみたいでさぁ」
それで騎士団が尻ぬぐいしているわけだ。
「よくそんな話が洩れましたね」
「騎士団のなかにも義憤を持ってるやつがいるってことよ」
クロムウッドは一層声を潜めた。
「私の村近くの町に――春分の日です――不自然に王都からの兵士が多かったことがあるんですが、あれはヨルムンガンドの血で突然変異体が出ていないか警戒していたんでしょうか」
「たぶんな。あとは特殊な調合薬で血を無効化できるみたいだから、それを散布しながら来たのかもな」
でも耳打牛が襲来したのだから、その薬に効き目があったか怪しいものである。
「……さっきクロムウッドが言った通りもう血は止まっているだろうし、大丈夫では?」
「うーん。その血はさぁ……あ、体外に出た血は俺らにも普通に見えるらしいんだけど、魔獣にとってめちゃくちゃ美味そうに見えるらしいのよ。いい匂いでもするのかな。とにかく葉っぱの上にでも降りかかってたら、乾いてても油断できないわけ」
「じゃあこれからもそれを舐めとったりした魔獣が出てくるかもしれないと」
「雨で流れ落ちてくれてるといいんだけどねぇ」
狩人たちはいままでそれを知らされず、王都付近の森へ狩りに出かけている。ルカの腹に沸々と熱がこみ上げてくる。
「しかもいままで報告されてるのも全部討伐できてるわけじゃないんだ。とにかく命からがら逃げてきたってのが半分以上かな。北西の森はちょっと手がつけられないみたいだな」
王都からは八方へ街道が延びているが、ヨルムンガンド襲撃の場となった西と北西の街道に挟まれた森に多量の血がばらまかれたため、規格外の魔獣の棲息地になってしまっているらしい。
騎士団が極秘で対処に当たっていたが、とうとうハンターズギルドにまで救援要請が来たのだ。
「それが、あれ。あの赤い紙」
クロムウッドが指差す先には、掲示板に貼られた赤い依頼票がある。命の危険がある魔獣討伐。ルカが最初から見もしなかったやつだ。
「いまは掲示板に貼ってあるけどさぁ、近いうちに指名依頼になってくと思うんだよね」
「クロムウッド……正式登録してますよね」
「うん、国からの受注義務が発生しちゃうねぇ」
「……」
「そんな顔すんなよぉ。今回の件は事が事だからな。ギルドからも抗議してて、あくまで王国軍が前線に出ろって戦ってるところだから。それになぁ、街道沿いの村とかもう結構被害受けてるみたいだから、出張らなきゃしょうがないでしょお」
「……はい」
「だからルカはぜったいあの赤い依頼受けんなよ」
クロムウッドはルカから離れるとまた若い狩人に話しかけに行った。第一王子のやらかしは公には説明できない。だから経験の浅い若者が高額報酬に釣られて赤い依頼票を取らないように「こっそり全員に」声をかけているのだった。