010.ルカの二年と九ヶ月
真夜中に起こされ、夜番を交代する。早春の夜はまだしっかりと寒く、寝起きのほてりはすぐに冷め焚火に身を近づけた。子どもたちは焚火の暖気が届く範囲で並んで眠っている。少年少女の小さな背が並ぶのを見て、自分も検査のころはあのくらいだったかと考えた。
この三年弱でルカは父親とさして変わらない体格になった。ヴォルフのような屈強な体には程遠いが、細い手足でも鍛え上げられており、天性のばねに力とスタミナが加わって、狩りでは大物を単独で仕留められるようになっていた。
初めてホホグロジカを仕留めたときのことを思い出す。まだ一年半ほど前の秋のことだ。
ホホグロジカは馬と見紛うばかりの巨躯の持ち主だ。名前の通り頬も黒いのだがそもそも全体的に黒に近い灰色をしている。山小屋のある側では見かけたことがなく、峠を越えた向こう、岩肌が剥き出しの険しい山に棲んでおり、雄はいくつにも枝分かれした絢爛たる角を太い首の上で誇示している。おなじシカでもコビトジカとは似ても似つかぬ堂々とした佇まいで、気性は荒く、自分の縄張りに入ってきた動物を見つけると頭突きしようと突進してくる。突進だけかと思うと痛い目を見る。というか死ぬ。
彼らの角は雄同士でぶつけ合って研がれているらしく、枝分かれした数だけ刃物がついているようなものなのだ。以前死んだイノシシをヴォルフと見つけた折、針金のような毛にびっしりと覆われた堅い皮がズタズタに引き裂かれているのを目の当たりにした。ヴォルフはホホグロジカにやられたなと言い、そのときにこの鹿の恐ろしさを聞いたのだ。
ルカはその話を聞いてからずっと、こいつを仕留めたいと思っていた。秋の鹿はよく肥えておいしい。あれだけ大きければ肉もたくさん取れるし、皮も角も期待できる。ルカは根気強く山を駆けた。そして岩肌を背に泰然と歩を進めるそれを見つけたのである。ルカはマーカーをつけて二日粘った。彼の射程に入ったら攻撃から逃げるだけでなにもできなくなる。彼に気づかれないまま、彼が殺せる位置に自ら来るまで辛抱だ。
以前イノシシが死んでいたのは本来棲んでいるはずの岩山よりもう少し手前だった。きっと実りを求めてこちらまで来ることがあるのだ。二日目の日が南中を通り過ぎたころ、チャンスは廻ってきた。彼は岩山を離れ茂みの多いこちらの山までやってきたのだ。
ルカは近づいてくる獲物に向けて矢を引き絞った。
(一……)
吸い込まれるように獲物の目に矢が飛び込む。鋭い痛みにはじかれたように巨体が躍る。ルカは素早く二手、追撃を放った。
(二……、三……)
続けざまに喉元に二本の矢が刺さる。
(四……、五……)
前胸部と前脚を射撃し、巨大鹿は崩れた。ルカは視界を奪った側から近づき、ナイフで喉笛を掻っ切る。待った時間に比べハントに使った時間は一瞬だ。そのくらい圧倒的な勝利だった。ルカは感慨に浸る暇もなくホホグロジカの解体を始めた。肉と皮と頭部にまで分け、ほかの部分は置いていく。頭部は角に縄を巻きつけて手に提げ、肉は皮でくるんでひとまとめにした。それだけでも普通なら持って帰れない重さであるが、ルカはまとめた荷を掴むと近場にぽんぽんと〈相互移動〉していった。峠の近くまで来ると人の気配がした。
「ヴォルフ?」
「ルカ! 無事だったか!」
ホホグロジカを泊まり込みで狩りに行くと伝えていたのだが、昨晩帰らなかったので心配になって探しに来たという。しかしヴォルフはそんな話をするあいだも、ルカの提げていたホホグロジカの首に目を遣り、焼けた顔を興奮で赤くしていた。
「よくやったな、ルカ!」
ばんばんと背中を大きな手のひらで叩かれる。力加減を学んでほしいが、嬉しかった。そのあと肉と皮を持つのを手伝ってもらい、よくこの量を運んできたなと不思議がられたが知らんふりをした。山小屋まで運んでしまえばこちらのものだ。あとはどうとでもなる。
ルカのホホグロジカ単独ハントの報は、その日のうちに村じゅうを駆け巡った。
折しも収穫祭の直前である。大量の鹿肉に人々の心は期待でいっぱいになった。
荷車に載せて広げられた極端に傷の少ない皮と鹿の頭部がお披露目される。ルカは嫌だったのだがこのハントはルカが一人前になったという証明になるとヴォルフに言われ、その荷車の近くに立つことになった。周りには人だかりができて鹿の角の見事さや、皮から推測した大きさなどを話す声でにぎやかだ。家族や村長はもちろん、隣近所の人やあまり話したことのない人たちも声をかけてくれた。くすぐったいような思いだった。
しかし人生初の大物の単独ハントは、良い思い出だけでは終わらなかったのである。
肉はともかく、角と皮は行商に買い取ってもらうつもりでいた。角は薬として高値がつくし、大きく傷のほとんどない皮はいくらでも用途があった。ところが自警団が村のためにすべて無償で供出するべきだと騒ぎ出したのだ。
彼らの言い分は、「村に育ててもらったのだから一人前になったときの仕事は村に還元すべき」というものだ。なるほど、村に育ててもらったのならそうなのかもしれない。しかしルカは幼少のころから見た目が他人と違うというだけでいわれのない差別を受けてきた。迫害されはしたが育ててもらったとは思っていない。だから対価を払うなら売ってもいいが、無償で提供するなど首を縦に振ることはできなかった。
久しぶりに実家で団欒していたルカにそれを伝えに来た村長も言いづらそうにしており、横で聞いていたヴォルフは黙ってはいるものの怒りで額や腕の血管が浮いてきていた。このまま放っておいたらどこかが破れて血が噴き出るのではないだろうか。落としどころを見つけて早くこの話を終わらせたい。
「私としては、肉は村の収穫祭で振る舞ってくれてかまいません」
「……」
ヴォルフにさらに青筋が追加された気がするが、なにも言ってこない。村長は顎に手を当て思案気だ。
「……うむ。ルカがそう言ってくれると儂としても助かる。せっかくめでたいことなのに、これ以上嫌な思いをすることもあるまい」
そうしてなんとか話をまとめたはずだった。しかしルカたちがそんな話をしているさなか、鹿の角が誰かに持ち出されてしまったのだった。皮は実家に運び込んでいて無事だったが、角は頭部全体を収穫祭のあいだ飾ろうということになり、村の集会所に置いていたのだった。
見つかったのは村の薬師のところで、もう細かく切り刻まれて見る影もない。しかも薬師は「自警団の長が供出品だからって持ってきてくれたんだ」と自分の責を認めようとしなかった。
村の集会所から勝手に持ち出されたために、そこに村の有力者たちと自警団、薬師、そしてルカたちが集められた。
自警団の長は村長に話した主張を通し、無償であるべきなのだから問題ないと言い放った。
「ではあなたの息子のガストンが一人前になったときには、どんな仕事を無償で提供したんですか?」
そう言ったのはルカではなかった。ヴォルフでも村長でもない。振り返ると、集会所の戸口に父が立っていた。