098.恋文
そのあとテオドールは念のため指先から魔力を出して近づけもしてみたが、なにも反応はないようだった。
「やはり魔力が吸い出される感覚もありませんね」
「反発する感覚もないでしょう?」
「まったく。藍星鉱に無視されるなんて、悲しいことです。ところで、一定の距離に近づいたら吸いつくという、その距離についてなのですが……」
「このくらいよ」マロルネは人差し指と親指で、小指一本ぶんくらいの距離を示した。「距離計を持ってきましょうか」
「私が行きますよ。あと、藍星鉱に魔力が充填されている状態と、何割か減っている状態とで比較をしたいです。吸いつく距離に変化が見られるかもしれません。反対に吸いつかれる側の魔力量も変えて調査したいですね」
「もっともな視点だね」
「じゃあ魔力量測定器もいりますね」
テオドールとマロルネ、シルジュブレッタはぽんぽんと意見を出し、距離と魔力量を測るための実験計画をまとめていった。テオドールは遅れてやってきたにもかかわらず、いつのまにか場の中心にするりと入り込んでいた。リヒトはその手際を、圧倒されるような気持ちで見ていた。
「ちょっと、テオドール。調べ物ってなんだったの」
スピカが不機嫌そうに訊ねた。実はシルジュブレッタがなにげなく発した言葉をリヒトも気になっていたので、聴覚を二人の会話に集中させた。
「え? ああ、文献に藍星鉱の記載がまったくないとは考えづらいからな。なにかないかと調べていたんだ」
「あったんですか」
リヒトは思わず食いついた。
「本の形では見つけられなかった。〈神界の客もの〉はどうしても情報を共有しようという方向に働かないようなのだ。一つの家で閉じ込めてしまう。たとえば『〈神界の客もの〉辞典』とか『〈神界の客もの〉総覧』とかいう本があれば調べるのは楽なんだが、そういうものはない。でもウルハイ族との交易の歴史は古いから、個人の書簡を浚っていたのだ。途中だったんだが、飽きてしまって、いったん切り上げた。こっちの進捗も気になったし」
「個人の書簡……」思ってもみなかった着眼点につい言葉が漏れる。「伝書鳥ですか」
「今日見ていたのは、普通の手紙だ。百年ほど前の王都の大商人の遺品を、文化的資料として国が接収したもので……」
「貴族しか入れない王立資料館の話よ」
スピカがつっけんどんに言った。リヒトはなるほどと思った。それで機嫌が悪いのだ。身分によって触れられない情報だから。
「そうつんけんするなよ。だからこうやって一人で調べて、情報は持ってきているだろう」
「なにかあったかね」
「もしやと思うものがありまして、マリオネットに自動書記をさせて写してきました」
シルジュブレッタに問われると、テオドールは気の置けない同輩向けの態度から一変し、真面目な顔で頷いた。そしてしれっと書簡の複製を取り出した。貴族の身分がないと入れない資料館の資料を複製して持ち出してよいのだろうか。そういう疑問が一瞬、平民一同の脳裡をよぎった。よぎったが、口に出す者はいなかった。これは〈神界の客もの〉の研究をしている秘密の会合だ。みなが秘密にするならば、多少のことはどうでもよいのだ。
「ここです。この記述。この商人は若いころ、実際にウルハイの地で何日か過ごした経験があるようです。ここ……『君はあの雄大な大地を覆う豊かな草原のなかで、いまも香り良い風に吹かれているのだろうか。あの青い花散る賢し銀の眠る丘に腰を下ろし、私とおなじ月を眺めることもあるのだろうか』」
「これ恋文だろ」
「あなたここ何日も王都に出かけてこんなの読んでたの」
「聞いていたか。私は書簡を調べていたのだ。藍星鉱の記述がどこかにあるのではないかと思って」
同級生の若干嫉妬を含んだいじりに、テオドールはまっとうに言い返した。
「青い花散る賢し銀……」
「そう、それ! そこだリヒト! 前回の集まりでスピカが言っていた、『精霊のいるところに咲く青い花』という表現とも重なるだろう!」
まともな反応に飢えていたテオドールはリヒトのつぶやきに即座に食いついた。
「賢し銀っていうのがなにかってことになるね」シルジュブレッタが覗き込んで言う。
「そうなんですよね。この文だけでは普通に青い花が丘に咲き誇っていて賢し銀という藍星鉱とはなんの関係もない鉱物がそこで採れるだけ――ということもあり得ます。マロルネさんはどう思いますか?」
「これ、その大商人がウルハイ族の方に送る内容の手紙よね。でも商人の遺品にあったってことは、出そうと思って出せなかったのかしら」
(そこ……?)
リヒトはどうでもよいかと流していたところだったので、マロルネが口にしたのが意外だった。
「……これはせつないですね」
女性二人はついうっかり恋文自体に気を取られてしまったようだ。
「たしかにこの書簡は十通以上のほかの書簡とまとめられており、すべて同じ女性に宛てたものでした。しかし王都とウルハイの地は絨毯を使えど数か月に及ぶ長旅になります。若き日に恋に落ちたとしても、互いの家が許すことは少なかったようです」
テオドールはマロルネが相手なので一応丁寧に説明した。マロルネもはっと我に返りばつが悪そうな顔をした。スピカはまだ恋文が気になるようだった。
「じゃあ、悪いんだけど引き続き書簡を調べてくれるかな。賢し銀という言葉については僕も調べてみよう。今回の調べものは使用人が使えないから、一人になっちゃって悪いね」
「いえ、楽しいですから」
テオドールの報告後、藍星鉱の魔力の容量と、充填されている状態での吸いつく距離を測定した。いくらか魔力を抜くために、今回はリヒトは持ち帰らないことにして、その日はお開きとなった。