狩猟林清話 -表と裏の真実の愛-
私は復讐に浮かれて、苦しむ者の第一の味方であるカイラス神の加護があることに自惚れていた。
遥か東方において破壊と再生を司るカイラス神は維持と統制を司るヴァイクンタ神とは性質が全く異なる。我々が信仰するベツレヘムの教えがヴァイクンタの教えに近いとなると価値観の相違は一層顕著だ。
そう、苦しめられた者が苦しめる者に入れ替わった時、カイラス神は容赦なく今まで守護していた者にも罰を下すため、決して正しい者の味方ではないことを忘れてしまっていた。
だからこそ、私は既存の階級社会の秩序に対する壮大な復讐が果たせるように導かれたが、同時に本当に大切だったものに気付かされて、私自身が復讐で犯した罪に苛まれることになった。
維持と統制を司るヴァイクンタ神にとっての罰とは救済が約束されたヴァイクンタ神が構築した秩序における人生のやり直しを意味するものであり、死は消滅ではなく振り出しから人生をやり直すことを意味する。
そのため、ヴァイクンタ神の信徒はとにかく長生きして人智を学び尽くしてヴァイクンタ神が定めた秩序において位人臣を極めることを尊ぶため、経緯はどうあれ早死するような者は未熟者として軽蔑される社会となっていた。
その死生観によって、社会は極めて安定して誰もが長生きする代わりに新鮮味のない硬直した世情にもなっており、変化は死を招く要素として忌避されていた。
一方で、破壊と再生を司るカイラス神にとっての罰とは人間が他の動物たちとは異なる存在の証明である人間として尊い在り方を放棄させられることであり、言うなれば人間として死ねる機会を与えるのはカイラス神にとっては慈悲の在り方の1つである。
つまり、ヴァイクンタ神は自身の秩序で保障した生命・財産・権利を罪人から剥奪してゼロからやり直させるのだが、
カイラス神の場合はヴァイクンタ神が重視するような生命・財産・権利を罪人から奪わないが、人間の尊厳を破壊するため、カイラスの教えでの罪人はケダモノ同然の生き方を強いる罰を与えられるのだ。
しかし、罰は罪を許すために与えられるものであり、苦しみを伴う救いの道でもあったのだ。
そのため、カイラス神の信徒に怠惰は許されない。常に真新しい何かを追究して絶えず変化して衝突や挫折を経験する代わり、そうして一生懸命になって苦しんできた者にカイラス神は常に寄り添って成長を助けてくれるのだ。
だから、ヴァイクンタ神に似通った教義のベツレヘム神を広く信仰する 日の没するところのケダモノの国と同じ穴のムジナの国々は 不浄の大地とカイラス教徒に言われるわけだ。
事実、私は復讐の念に駆られて 連合国を共同都市:聖女の都から支配する大公にまで成り上がることができたが、それ以上にとんでもない過ちを犯してしまったのだ――――――。
国王「やあ、どうしたのかね、天下の大公陛下? 今日も月が綺麗だな」
大公「兄よ、どうして今まで本当のことを言ってくれなかったんだ?」
大公「考えてみれば、庶民のために湯屋や公衆浴場の全面的な支援を執り行うために街の視察に頻繁に出かけていた兄が娘のお目付役だった青い肌の貴人と出会わないはずがないじゃないか」
国王「まあ、国王としては会ってはいないからな」
大公「で、でも……!」
国王「だが、最後にこうして来てくれたということは、『少しは兄の頑張りが報われた』と考えていいわけだな。よかった」
大公「……どうしてなんです?」
国王「そりゃあ、婚約者候補としては最高位の公爵令嬢であった彼女と婚約者になってしまったからな。王太子だったばかりに想いを通じ合わせていた二人の人生を引き裂いてしまった」
大公「え」
国王「いやな、もう少し自信過剰のままでいられたら堂々と婚約破棄もできたんだろうけど、その頃の俺は自分よりも優秀な弟とそれ以上に完璧な婚約者がいるものでねぇ?」
国王「だからさ、王太子としての自信も失って、弟から未来の花嫁を奪ってしまったこともあって、少し世の中のことを考えるようになって、世の中の理不尽さに抗う道を行こうと決心したんだ」
大公「……それがどうして平民育ちの男爵令嬢をはじめとする下級貴族や平民たちを優遇することに繋がったんです?」
国王「だって、王族が国内有数の大物貴族と親しく付き合うのなんかありふれているじゃん。誰もが通った道でつまんないじゃん」
大公「は」
国王「だったら、王様も貴族様も怖がって誰も足を踏み入れることがない下級貴族や平民たちの世界にどんどん入っていこうと思ってな」
国王「要するに、あれだ。下々の世界を未知の狩猟林だと思って どんな獲物が潜んでいるのかを楽しみに 勇気を持って突き進むのが俺の王道だったというわけさ」
大公「なんでそんな!?」
国王「だって、俺には俺以上に優秀な弟と、それ以上に完璧な婚約者がいたからな」
国王「俺がヘマをしてもお前が後を継いでくれるし、俺がいなくなってお前が彼女とやり直すことだってできるしさ。その方が新しく得るものがあって有意義だろう」
大公「へ」
国王「でもまあ、お前も彼女も想像以上に堅物だったな」
国王「せっかく二人きりになれるようにしてきたのに、最後まで俺なんかのために操を立ててさ」
大公「え、それって……」
大公「じゃあ、ずっと、兄は、私と、同じ、気持ちで……」
国王「正直に言って、俺が彼女を選んだわけじゃないけど、俺が彼女以下の爵位の令嬢を選んでいたら王太子としての体裁が悪いとか、だったら最初から婚約者を選ばせるなっての!」
大公「それじゃあ、私はずっとあなたのことを……!?」
国王「ああ。まったく、『兄心、弟知らず』だよ」
国王「けど、どうして彼女が死ななくちゃならなかったのか、その真相は知っているか?」
大公「え?」
国王「最後だから言っておくけど、彼女が死んだ一番の理由は完璧であるが故だったよ」
大公「どういう意味です!? 何が彼女を死に追いやったんです!?」
国王「まあ、口ではどう言い繕うが、『自分の心までは騙せなかった』ってことだな」
そして、私の初恋の人を王命によって奪っていったと思われた兄の口から彼女の死の真相が語られた。
なんと、兄はたしかに閨で彼女の肌に触れることがなかったが、実際には彼女の私への断ち切れぬ想いを汲み取って、王太子妃としての務めを自ら果たす決心がつくまで待ち続けていたらしい。
だが、彼女は王太子妃の務めを果たすことがついにできなかった。頭ではどれだけ王家に嫁いだ貴族令嬢の務めを全うしようとしても肌を重ねることを心で拒絶してしまい、最終的には自ら媚薬を飲んで奉仕しようとしたところで盛大に吐いてしまったのだ。
それを克服するために、恋人である平民育ちの男爵令嬢といたしているところを見せて王太子妃の矜持を昂ぶらせることもしたのだが、完璧主義者であるが故に責任感も初恋への執着心も人一倍強かったのだ。
結果として王家の跡取りを作る使命を持って婚姻が結ばれたことへの契約不履行として、王太子である兄は義父となる公爵を呼びつけて、恋人である男爵令嬢に高位貴族の養子にして子供を生むための側妃に迎え入れることを認めさせたのだ。
そのため、恥をかかされた尊大な公爵は、仕事はできても子供を生むことができないということで 女としての最低限の役割を果たせないような役立たずの娘に対して、公爵家の醜聞として露見せぬよう 離婚も許さずに 側妃の子が成長する前に自死することを命じていたのだ。
そのため、これまで完璧であった自分の在り方を自分の頑なさが打ち壊してしまったことに絶望し、兄のように生き恥を晒しながらも生きていく勇気と度量がないために、衰弱死に至る薬を飲み続けたのだ。
そうして衰弱していく妃の許に兄が一度も通い詰めなかったのは、想いを通じ合わせていた弟に添い遂げてもらうためであった。
要するに、私が彼女を兄から寝とれと。追い詰められた彼女が生を許されるために、私は愛する妻を裏切って兄の妃となった彼女との間に不義の子を作る他ないと――――――。私は考えもしなかった。
しかし、彼女はあくまでも完璧主義者であることを捨てられず、結果として お国のために生きる理想の王太子妃にも お国のために不義をなそうと清濁併せ呑む王妃にもなれず、ただ一人寂しく儚い永遠の眠りに就くしかなかったのだ。
何なのだ、これは? 誰が悪かったというのだ? 誰が彼女を死に追いやったと言うのだ? 誰が正しくて、誰が間違っていたのだ?
つまり、兄も彼女も本当は私の気持ちと1つだったのに、私は兄の想いにも彼女の想いにも顧みることなく、何も知らずに ただただ自分本位に 復讐の念を募らせていったのだ――――――。
大公「わ、私は……、私は……!」
国王「泣くな、弟よ」
大公「だって、私は独り善がりな恨み辛みでずっと兄のことを憎んでいて、彼女の本当の気持ちにも触れることができなかったんだ!」
国王「けど、その復讐心があったおかげで、お前は少し完璧の道から逸れて王国の影の支配者となる大公になって、可愛い嫁さんとの間に最高の姪っ子が生まれたじゃないか」
大公「あ……」
大公「どうして? 最初からわかっていたのなら……?」
国王「いや、俺、貴族様の相手すんの、心底嫌だし、王太子であるだけで国王になるようなやつよりも実際に才能があるやつに任せた方が国が安定するだろう?」
大公「ええ?」
国王「ホント、お前と生まれる順番が逆だったら どれだけよかったかと思ったことか」
大公「あ……」
国王「でも、それなりに国王としての最低限の威厳や評判を保っておかないと、俺の愛する人を守ってやれないからな」
国王「あいつら、狩りの最中に手元が狂ったってことで眉間に褒美の矢を贈ってやろうと何度思ったか。俺と同じようにたまたま生まれが貴族のボンボンであるだけの口だけは達者の素人共が」
国王「だから、ホント どうでもいいようなことでネチネチしてくる貴族様より素直に感謝してくれる庶民にありがたがられる偉い人になろうと頑張ったわけよ」
大公「なら、どうして王太子をあんな凡庸な子に育てたのです?」
国王「……まあ、後世に残る教訓としての苦渋の決断よ」
大公「え」
国王「なあ、人間ってのは虫や魚や鳥のように一人でには人間らしい暮らしや生活を送ることができないもんだよな。大人の助けや先人たちの教えが絶対にいる」
国王「となれば、子供は親の背中を見て勝手に育つのか、それとも教える人間の質でまっすぐに育つのかを見極めようと思ってな」
大公「それって……」
国王「まあ、『俺の子である王太子をちゃんと育てないとお前らを皆殺しにして王様を辞めてやる』って言っておいたからな。脅しは十分に効いたようだ」
国王「結果、庶民派と持て囃される国王夫婦の背中を見ても学ぶことがなく、王太子教育で頭が固いだけの本当につまんない不肖の息子が出来上がったというわけだ」
国王「つまり、俺たちの常識であるはずの教育の内容そのものが間違っていることが証明されたわけだ」
国王「だから、よくよく見直しておけよ。家庭教師が凡庸であることは罪だからな」
大公「……よく心得ています」
国王「だろうな。お前の娘が平民の子かと思うぐらいに落ち着きがなかったのに、その良さを残しながら大公令嬢に相応しい教養と知識を得ることができたんだからな」
国王「まあ、俺としては姪っ子を息子以上に可愛がったのは『公爵令嬢に生まれたばかりに初恋を実らせることができずに息絶えた彼女が歩めなかった人生を送らせる』っていう感傷からかな」
国王「だから、お忍び中に“大公令嬢親衛隊”も作らせたことだしな」
大公「ええ!?」
国王「あ、知らなかったか。俺がその“大公令嬢親衛隊”の総司令だし、お前が城でちゃんと仕事をしてくれるから安心して妻と一緒にお忍びで街に出かけることができていたぞ」
国王「だから、最初から『この国はお前の国だった』というわけだ」
大公「……それを言った時、本当は続きがあったそうですよね?」
国王「ああ。それを言ったのはお前を王にしようとする派閥の何とかかんとかっていうどうでもいいような伯爵だったかな?」
国王「それで俺は『なら、あなたの屋敷は あなたのものではなく 執事のものですね』と言い返しただけなんだがな」
大公「……その伯爵の嫡男が父親が留守の間に伯爵のお気に入りのメイドに横恋慕して密通していたのを執事が知ってメイドを追放したという裏があったわけなんですよね?」
国王「たまたまさ。お前が投資していた青い肌の貴人の娼館にそのメイドが身売りしてきたからな」
国王「いや、ホント、凄いぞ。湯屋には本当にいろんな理由で貴族の屋敷を追われた娘たちも噂を頼りに意を決してやってくるから、いろんな情報が集まってさ」
国王「特に、主人やぼっちゃんに傷をつけられた娘たちの情報を知っていると、これがなかなか俺の愛する人を護る切り札になってな」
大公「だから、私よりも先に湯屋の支援を取り付けることもできたわけですか……」
国王「そうだぞ。俺が俺になれたのは最高の弟であるお前がいてくれたからだ」
大公「!!!!」
国王「だから、お互いに不幸なこともあったけど、俺は心の底からお前が生まれてきてくれたことを神に感謝している」
国王「本当にありがとう。達者で暮らせよ。お前は最高の弟だった」
大公「兄よ! なんで!? どうしてそこまで死に急ぐのですか!?」
国王「いや、そうしないとお前が聖女の都の支配者になれないだろう?」
大公「だから、どうして自分の扱いを軽くできるんですか、そこまで!?」
国王「はあ? そんなの、“お国のために生きて死ぬ”のは当然だろう?」
大公「え?」
国王「それ以外に何がある? まあ、それが生まれながらの王として育ってきた俺の口だけは達者な貴族のボンボンとはちがうことの矜持かな?」
大公「………………」
国王「今度もお前が俺への復讐を取り止めるんじゃないかってヒヤヒヤしてたんだぞ? お前は彼女を取り戻すこともできたのに俺への操を立てて俺からの厚意を無下にした前科があるし」
国王「だから、こうして王国や可愛い姪っ子に仇をなした連中やずっと復讐したかった俺に目に物見せてくれたことは嬉しかったぞ」
大公「だから、なんで? なんでそんなに嬉しそうに語れるんですか、自分が復讐されたことでさえも……?」
国王「……まあ、今までがそうだったんだし、俺はどうやら簡単にはわかってはもらえない人間らしいからな」
国王「そうだな。息子があんなふうに育ってしまった責任を夫婦でとるつもりだったからだ」
兄がここまで何でも許してくれるのは、兄以上に優秀だった私の存在がいたことが何よりだったというのが真実であった。
だから、国王の権力は私が握っている一方で、国王の権威を思い切って振るって、私の見えないところで庶民と寄り添って大立ち回りを演じる日々を送っていたようであった。
そうした日々の中で、大公令嬢として生を受けた私の娘を公爵令嬢だった彼女が『自分の想いに素直になって奔放に生きていたら』という空想に重ね合わせて、陰ながら見守ってくれてもいたのだ。
そして、私が客人として王都に連れ帰ってきた青い肌の貴人がお目付役になることで、奔放だった娘はかえって大公令嬢としての自覚を持ち、果てには“聖女”にまでなってみせた。
だからこそ、可愛い姪っ子をずっと見守ってきた兄はお忍び中に青い肌の貴人と接触する機会が何度となくあり、大公として堂々と接していた私とはちがった関係性を築き上げていたのだ。
なので、本当は私が復讐しようとしていることを最初からわかっていた上で、自分の選んできた道が果たして正しかったのかを青い肌の貴人に問いかけ、その答えをもらって娼館を中心に生まれ変わっていく王都の発展に陰になり日向になり貢献していたようである。
そうして最終的に迎えたのが私が既存の階級社会の秩序に対して復讐を果たして連合国を支配する聖女の都の大公へと成り上がった葬儀の夜であり、
やはり、兄もお忍び中に青い肌の貴人から親愛の証として東方の金に匹敵する価値を持つ香辛料を譲ってもらえていたようで
あらかじめ何かが起きることを青い肌の貴人に予言してもらっていた兄は口の中に黒胡椒の実を投げ入れて その風味と歯応えで 催淫剤のお香に耐性をつけていたようなのだ。
世の中には精力剤と期待されて宴の席に用意される食べ物があるわけで、今回の葬儀の後の宴においても湯屋の女の味を知った男共が常日頃から吐き出した精力を取り戻すために多量にそれらが含まれていた。
では、精力剤になるものがあるのなら 逆に精神安定剤となる食べ物が存在するのではないかと兄は常日頃から考えていたようであり、青い肌の貴人から譲ってもらえた東方の香辛料がそれに相当していたようだ。
そして、周りの様子が徐々に不穏な熱を帯びて淫靡な色に染まっていき、やがて堰を切ったように一斉に盛りだしたことで、最愛の妻と 息子の婚約者ということで義理の娘となる辺境伯令嬢がケダモノ共の餌食にならないように目まぐるしい状況の中で奔走していた。
しかし、誰もが体験したことのない大乱交事件の現場で渦巻く色欲の狂気に呑まれかけてしまったことで、
いつの間にか、最愛の人である王妃もまた慣れた手付きで堅苦しい衣を脱がして兄の腰のところに膝を折って顔を寄せて音を立てることで恍惚としてしまっていたそんな時に、
狂騒の中であっても声が届き、気づいた時にはバカ息子が婚前交渉をいたしてしまい、婚約者である辺境伯令嬢に乱暴を働いていたのが目についてしまったのだ。
瞬間に近くに転がっていたフォークとナイフを拾ってバカ息子に迫ろうとした時、兄の放った殺気と俊敏さに驚いた拍子にハッとなった王妃は必死になって夫が今にも我が子を後ろから突き殺そうとするのを止めたのだ。
そして、王妃は息子の政略結婚の相手である辺境伯令嬢をこれ以上傷つけさせぬよう、それから身を挺して我が子の孤独を埋めるため、夫の怒りを必死に宥めて 安全な場所に移るように説得したのだ。
そう、あの狂気に満ちた状況において兄夫婦は正気を失いかけながらも互いを支え合って本当に大切な成すべきことを成し遂げていたのだ。
一方で、実の娘のように可愛がっていた姪っ子の死に息子が関わっていることで死刑は免れないことも理解しており、王妃もまた催淫剤の狂気に呑み込まれて意識が朦朧としていたため、
それならばと近親相姦の禁忌を犯そうとも王太子教育によって引き離されてしまったことで荒んでしまった愛する我が子と1つになることを選び、
本当は親子の愛にずっと飢えていた一人息子が吐き出した精一杯の思いの丈を身体の奥深いところで受け止めて満たされた表情をするのを側で見ている他なかった兄は一人の女性に一途な夫として唇を噛みしめて涙を堪えてジッと耐え忍んでいたという。
そして、ガウンに包んで呆然とケダモノたちの盛り場を見続けてビクッとなる 息子のよくできた嫁の後ろで、兄は冷めた表情で誰と誰が交わっているのかを観察し続けたそうだ。
そこで思うのは、こうして結婚の誓いや純潔の誓いも最初から生まれ持った獣欲によって平然と破られて、自分の立場や身分も忘れて誰とでも股を広げて腰を動かすようになるのに、王族も貴族も庶民も平民も関係なんてないということだ。
赤い血と青い血に貴賤なんてものはなく、高貴な身分なんてものは見せかけだけで、こうしてグチャメチャに交わってしまえば、どんな絵の具も真っ黒になるというわけで黒い血に誰もが染まるのだ。
なら、何が遥か昔に赤い血と青い血に人間を選り分けたのかを考えていくと、
自分と愛する妻との間に生まれた一人息子が王太子教育をまじめにこなして本当につまらないやつになったのは対照的に、
弟が溺愛する一人娘が青い肌の貴人をお目付役にしたことで、奔放さはそのままに“聖女”に相応しい気品も兼ね備えるようになったことを考えれば自ずと理解できた。
――――――天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
しかし、それならば なぜバカ息子と同じように王太子教育をそれなりにまじめにこなしてきた自分は今までの王族とはちがった視点を持つことができたのかを考えていくと、
それは自分以上に優秀な弟とそれ以上に完璧だった公爵令嬢がずっと側にいて、二人の方が自分よりも国王の正道に相応しいと常日頃から思っていたことが大きいだろう。
そして、王侯貴族が進んで入ろうとはしない獣道である赤い血が濃い世界に往くことで王太子に必要な資質である道なき道を進む勇気が得られるのだと考えるようになっていたからだ。
――――――全てはあの日の狩猟林から始まっていた。
これ以上は語ることはないだろう。あとはこれまでに書き残した手記の数々を辿れば、長年連れ添ってきた清らかな妻の葬儀を終えて あの狩猟林のある別荘と兄夫婦も祀られることになった聖女の神殿を往復する隠居暮らしに入った経緯と我が半生がわかる。
一人娘の人生と引き換えに大公家に生を授かった双子の子らは立派に大公の地位を受け継ぎ、兄と私が歩めなかった心一つにした道を歩み、湯屋の女将や親衛隊とも上手くやっていっている。
そして、かつて我が国を侵略しようとした連合国や我が国から離反した王侯貴族たちは尽く神罰が下ったかのごとく、後継者争いや様々な内輪揉めが激化して勢力を大きく損なっていくことになったのだ。
そのため、数々の政変によって国情が安定しないために国許を離れて共同都市:聖女の都への人口の流入は止まることがなく、連合国各国や王侯貴族たちの影響力は著しく減退していったのだ。
更に、本国から共同都市に避難してきた国民を保護していく内に衛星都市に駐屯している連合国の要人や軍隊が独自の行動を取るようになり、連合国各国は政変において自分たちの正統性や潔白を共同都市:聖女の都において内外に示すことを余儀なくされるようになったのだ。
つまり、軍事・経済・政治の中心が共同都市とそれを囲む衛星都市に移り変わり、王国は解体されたにも関わらず、かつての王都が連合国の中心都市へと生まれ変わったのである。
その地を治める一領主に過ぎない大公家には連合国の政治に介入する権利は与えられないものの、“聖女”を輩出した地上の楽園を束ねる一族の権威が保証され、数百年に渡る栄華を極めることになるのだ。
――――――全てがあの日の狩猟林から始まっていたのだ、何もかも。
ただ、少しだけ未来の話をしておくと、共同都市:聖女の都の領主である初代大公である私から数えて13代目に地上の楽園は消滅する運命にあるという。
その御時世に人々の心の拠り所となるのが当地より発祥したベツレヘム神の教えの聖女派に加えて、聖女に比肩する“救世主の再来”という最高の守護聖人の信仰も確立されることになった。
その守護聖人とは 庶民の信仰が伝説となって事績に尾ひれがついてまわった結果の“純潔王”という二つ名を持つ“救世主の再来”として後世に称えられることになった 地上の楽園である 聖女の都の真の始祖と認定された兄のことなのだ。
なぜ実際には結婚して子供もいる身で“純潔王”なのかと言えば、それは後世の伝承の中で十字架を背負って丘の上で磔刑に処せられた聖書の救世主に同一視する流れで、
一般的に想像する聖者というのが不犯の誓いで妻帯せずに純潔を貫く教会の神父であるため、『“救世主の再来”とされる大人物が人間との間に子を成すはずがない』という何とも偏見に満ちた宗教観が入り混じったせいなのだとか。
それを補強する材料として、最初の妃であった公爵令嬢との間に子をもうけず、平民育ちの男爵令嬢を妃に迎えていた歴史的事実も、その当時の評判や内情を知らない後世の人間の勝手な想像や憶測で彩られることになった。
公爵令嬢の妃を冷遇して平民育ちの男爵令嬢を妃に迎えた歴史的事実が、罪人が悔い改めることを何よりも説いて社会から疎まれている者たちにも許しを与えてきた聖書の救世主の事績に重なり、絶対的な弱者である女性の社会的地位向上のための娼館から始まった改革はその象徴と見なされてきたのだ。
そして、なんと平民育ちの男爵令嬢の妃もまた“国母”と称えられながら純潔を貫いて“純潔王”と殉死したことになっており、いかに兄夫婦が当時の王国貴族から嫌われていても庶民からは時代を超えて慕われていたかを物語るものとなっていた。
そこから“純潔王”からすれば姪であった“聖女”の信仰との辻褄合わせのために、実の息子であった王太子は“純潔王”の真の後継者である“聖女”のために用意された“偽救世主”として引き取られた孤児という話になっており、
時代を超えて庶民に慕われて ついには列聖された両親とは打って変わって、先に信仰が芽生えていた“聖女”を暗殺した“偽救世主”の汚名から誰も“純潔王”の子であることを誰も認めたくない感情が働き、実際の親子関係を抹消されることになってしまったようだ。
事実、最後の夜が明けて火刑に処される処刑台までの道を進む中、庶民から常に惜別と尊敬の念を向けられ続けた兄夫婦とは正反対に、侮蔑と憎悪の眼差しを向けられ続けた甥の有り様を見ているので、そうなるのも納得というものである。
そのことを身内として誇らしく思うと同時に、他者の功績や周囲の熱で浮かれて他者の痛みや苦しみなどまるで知らない顔をしている人々に、紛れもなくその一人だった自分が犯してしまった罪の重さを再び自覚させられた。
そして、共同都市の支配者になった王弟の私は貴族たちの反発を受けながらも懸命に弱者救済と民衆教化に励んでいた“純潔王”を裏切って火刑に処した極悪人として地獄に堕ちているのだそうだ。
実際問題、そうする以外に王国が滅亡する他ない情勢下でカイラス神の加護を受けた一世一代の謀略を働かせた私がしてきたことを考えれば、兄が守護聖人となり 私が地獄に堕ちるのも当然のことで、
むしろ、兄の功績は王国貴族たちが認めなくても民草はずっと憶え続けていて、私はそんな“純潔王”を火刑に処して権力を握った裏切り者なのに、現状では兄弟揃って民の安寧を第一に治めてきた王族の鑑として称えられたことに身を切るような苦しみさえ感じていた。
私と同じ時代を生きて当時をよく知る下々の民に全てを肯定されて罪を問われないことに私自身が受け容れられず、本当の悪人だった私が生き残り 本当の善人であった兄が運命に殉じたことが長年の心残りだっただけに、
未来のことを 遠方よりの友であり 有難き師である 青い肌の貴人と再会して天眼で見せられたことで、後世において私たちが正当な評価を受けるようになっていたことを知って、ようやく間違いが正されることに安心することができたのだ。
実は、そうした“純潔王”の信仰が確立していく流れにおいて、大公家の子孫たちが始祖たる私が犯した罪を告白して私に成り代わって天地神明に対して許しを求めることにもなっていたようである。
それで本当の意味で初代大公である私の罪は許され、更なる繁栄の時が訪れるのだという。
だから、私の子孫たちには申し訳ないが、こうして長きに渡る平和と繁栄の時代を築き上げた“純潔王”の名誉のために尽くしてやって欲しいと思う。
そして、大公家の跡継ぎとなる双子を生ませる時ももう若くないと言っていたが、あれから随分と長生きすることになり、本当にもう若くないところまでくることができた。
嗚呼、日の没するところのケダモノの国に生まれた我が人生はいかに狩猟林の中の獣道であったか――――――。
けれども、私も兄と同じく、ようやく一匹のケダモノから宇宙の真理の一部を体得した神人に至る道に達することができた。
私はこれから罪を清めるために地獄に堕ちて禊ぎをするのだが、地獄の責め苦を味わうことになるのをもう怖いとは思っていない。
なぜなら、我が偉大なる神にして、誉れ高き吉祥者にして、破壊と再生を司る暴風と慈雨の王であるカイラス山の恐怖と慈悲の大王は地獄に堕ちるような極悪人であろうとも苦しむ者に救いの手を差し伸べてくれるのだから。
いや、カイラスの教えを受けてから私はずっと兄が辿ってきた苦難の道に続き、未だ誰も見たことがない地上の楽園をこの地に根付かせるために奔走し、カイラス神の加護である苦中之楽の導きを受けながら死にたい気持ちを力に変えて今日まで勤め上げてきたのだ。
そう、明日には死んでもいいという気持ちを世のため人のために力を尽くすことに結びつけたら、未来はこんなにも変わっていったのだ。万感の思いでいっぱいである。
さあ、私がこれまで見送ってきた愛する者たちの許へと遥かなる旅路の入り口にこれから参ろう。
そのための準備として、この回想録を書き記した。
願わくば、地上の楽園の最後の時を担うことになるだろう大公家の13代目とその子孫たちに神の祝福があらんことを――――――。
国王「…………行ったか。言いたいことは言った。あとは天に身を任せる他ないな」
国王「(だが、俺は本当に正しい判断をすることができたのだろうか?)」
国王「(青い肌の貴人は最後に予言してくれていた)」
――――――王太子殿下の妃の実家となる辺境伯家の血筋から生まれる嘘の子によって楽園の崩壊が50年は早めることになるから根絶やしにすべきだと。
国王「(さすがに この忠告は聞くことができなかった。娘を傷物にされた被害者なのに、楽園の崩壊が50年だけ早まるのを阻止するのに、一方的に同盟国の辺境伯家を滅ぼす手間暇や人道に悖る在り方を考えるとな……)」
国王「(そして、俺はその原因を『例の大乱交事件で娘が傷物にされたことの怨みをずっと忘れずにいる』と考えて、弟には辺境伯家への謝罪と礼を欠かさないように念押しをしておいたが……)」
国王「(今になって考えると、本当に警戒すべきはバカ息子に乱暴にされた当人である令嬢の方ではないのか? どんなに許そうと思っても毛筋の幅も怨まないはずがないよな?)」
国王「(いや、諸外国との政略結婚の相手として幼くして聡明であると弟に見出されて王太子妃として王宮に招かれた時からあの娘は不思議と私と弟に懐いていたぐらいだ)」
国王「(だから、あの娘は自らの意志で弟の養子になることを受け容れたんだ。並々ならぬ信頼がなければ普通は修道院に入るか、実家に帰るかするだろう――――――)」
国王「(……まさか、それも異常だったのか? 婚約者の王太子よりも婚約者の父親、婚約者の父親よりも婚約者の叔父に懐いていたのはやっぱり変だったか?)」
国王「(じゃあ、ケダモノたちの盛り場を見つめていた時にガウンに包まれて自分を慰めていた時に誰との行為を想像していたんだ?)」
国王「(いや、よそう。あの娘は王太子教育をまじめに受けて凡庸に育ったバカ息子には本当に不釣り合いの野に咲く花のような令嬢だったのだ。それだけが真実だ)」
国王「(ああ、自分を信じろ。俺は自分の選んだ道に後悔なんてないのだから)」
国王「(弟があの娘を見つけられたのも彼女に通じるものがあったからなのだろうな。彼女の夫になってしまった俺も時折気まずくなるぐらいに彼女を思い出させるものがあったしな……)」
国王「(すまないな。俺は明日、お前が愛してくれた弟のために貴族にとって最悪である火刑に処されるから、少しは機嫌を良くしてくれると助かるんだがな……)」
国王「(まあ、王太子である俺の妃になるからと言って女の子を狩猟林に置き去りにするようなひとでなしの俺から逃げずに最後まで付き合ってくれて本当にありがとう)」
国王「(俺以上に王に相応しかった弟への遠慮がなかったら普通に夫婦生活を送ることができていたのかな……?)」
国王「(いや、結果として俺の妃になる女の子を狩猟林に連れ出して置き去りするようなことになるような腐れ外道の教育が施されていた以上は、今度は息子の教育方針をめぐって苦しむことになっていたはずだから、俺の代で断ち切れて正解だったのかもしれない……)」
国王「しかし、俺が自分で見つけてきた平民育ちの男爵令嬢は本当に誰よりも先頭を切って狩猟林を駆け巡る俺に相応しい烈女だったよ」
国王「今も我が子と肌を重ねているのかは知らないが、今まで注ぐことができなかった一生分の愛を精一杯に注いでいるはずだ」
国王「本当に一度決めたらどんな手を使ってでもやり通すのは最高の美徳だよ。あるいは、それが母親としての無償の愛というやつなのかもしれないけどな」
国王「ホント、楽しかったな。一緒にお忍びでいろんなところに出かけて、気に入らないやつをぶちのめしたり、周囲に俺たちのアツアツなところを見せつけたりとかさ」
国王「もう最高! 本当ならあと5,6人ぐらいは子供ができても良かったけど、そうなると後で子供たちが死ぬほど面倒なことになるから東方の避妊薬を使わざるを得なかったけど、その分だけ愛し合えたしな!」
国王「だから、これでいいんだ、これで。この時に裏切られて」
国王「聞け! 天よ! 地よ!」
国王「俺は、俺が思うがまま、俺が望むがままに、日の没するところのケダモノの国の狩猟林の獣道を駆け抜けて、誰も見たことがない地上の楽園に辿り着いたぞ!」
――――――我こそが真のケダモノの王なり!! なんてな!!