狩猟林清話 -苦しめられた者の怒火-
若かりし頃、兄の婚約者だった公爵令嬢とは婚約を結ぶ以前から家族ぐるみの付き合いであり、あくまでも婚約者候補の一人でしかなかったことから、他の貴族令嬢とも公平に交流の機会を持つことになった。
そのため、私と兄は将来を共にする相手をじっくりと選ぶことができたわけであり、その中で私は国内でも有数の公爵令嬢と思いを通じ合わせることができた。
しかし、その時は互いに理解していなかったのだが、基本的に王太子となる兄の妃よりも爵位が高い令嬢を弟に宛てがわれることはなく、私の初恋の相手が最高位の公爵令嬢だったばかりに どれだけ彼女との婚約を願っても決して叶わなかったのだ。
そして、自分でこれはと思う相手を見つけられなかった王太子の兄は自動的に私と思いを通じ合わせていた最高位の公爵令嬢との婚約を結ぶことになったのだ。
それが私が既存の階級社会の秩序の正しさに疑念を抱くきっかけとなったが、まだこの時点では 王侯貴族たるもの お国のために政略結婚の意義を正しく理解して受け容れるべきなのだと幼心に信奉していた。
しかし、それが完全に間違いだったことに気づいたのは、国中の貴族の令息令嬢が集められる王立学園に進学してからだった。
兄は はっきり言って 長子だから王太子になったに過ぎない 可もなく不可もない第一王子であった。
もちろん、王太子教育の進行も歴代と比べて早くもなく遅くもなく、それでいて王族としての威厳を保つだけの実力と人望を持ってはいたのだ。
ただ、それ以上に弟である私の方が優れており、更には兄の婚約者である公爵令嬢がもっと優れていたのが玉に瑕だったらしく。
そのため、王太子の兄は身内である私と婚約者を次第に遠ざけるようになり、真新しさや刺激を求めて 下級貴族との挨拶回りに特に力を入れて 広く人望を集めていたのだ。
それでようやく兄の気持ちが理解できた。兄もまた私と同じく既存の階級社会の有り様に疑問を抱いていたのだと。
だから、周囲の大人とまったく同じ立居振舞を完璧に行う自分の婚約者や実の弟のことを疎ましく感じ、それとは正反対に完璧じゃない下級貴族の在り方を好ましく覚えていたのだ。
なので、兄の気持ちを理解できた私は兄の気持ちに合わせることができるようになったので距離を縮めることができ、それが今の国王に準ずる大公の地位に繋がっていた。
そう、この頃はまだ兄弟仲良く国を治めていけるのだと能天気に信じることができていた。
ところが、私のように兄に合わせることができなかったのが他ならぬ兄の婚約者の公爵令嬢であり、兄の女性の好みもあって、私の助言もあって その好みに近づける努力をしてきたわけなのだが、
それが下級貴族や平民のはしたない振舞いが求められるものともなれば、厳しい王太子妃教育に耐えてきた最高位の公爵令嬢の体面がそれを許さなかったのだ。
結果、王太子として生まれた兄は自分がそこそこ優秀で完璧じゃないことを自覚しているからこそ妥協を許す柔軟性もあったため、
何の感情も抱かない婚約者を廃して 入れ揚げた男爵令嬢を正妃にさせるといった野心など抱かずに、しっかりと手順を踏んで高位貴族の養子に迎えて体裁を整えて側妃として迎えることになってしまったのだ。
これ自体は法的には何の問題はないものの、その前に卒業後に王太子と公爵令嬢の結婚が恙無く執り行われ、貴族社会の役割を忠実に実行するだけの仮面夫婦が誕生していた。
そう、婚約者である公爵令嬢に対して王妃としての役割だけを求めて、決して閨で肌に触れることは一切なかったというのだから、これほどまでに腸が煮えくり返ることはない。
兄は特筆した功績はなかったものの、それでいて公人としては大きな間違いもしなかった。
ただ、王太子妃に対しては役割だけを求めて愛することは一切せず、世継ぎとなる子を学生時代から寵愛していた平民育ちの元男爵令嬢だった女に宿すことに夢中になっていた。
だから、一見すると完璧に見えた新たな国王夫婦は 何もかもが型通りの様式や形式に従う 外面だけの愛のない夫婦生活を築いており、
特に何かされているわけでもなかったが 逆に自分なんて存在しないものとして扱われてきた王妃は王妃の役割を忠実にこなして衆目では毅然と振る舞っていたものの、自室では完全に放心状態で閉じこもる毎日を送っていたのだという。
その様子が非常に危ういということを彼女の侍女が 妻のことを一切顧みずに恋人と愛を育むのに忙しい夫にではなく 親しい間柄の身内である王弟の私に知らせを持ってきた時は私は言葉を失った。
私も兄が結婚した後に自身の婚約者と結婚を果たしており、順風満帆の夫婦生活を送っていただけに、それとは正反対の境遇に苦しめられている初恋の人の不幸を見過ごすことはできなかった。
しかし、さすがに結婚をすれば最高位の公爵令嬢である王妃の価値がわかるのだと私も周りも楽観視していたが、
完璧を目指さない新たな国王はその鷹揚とした態度で大多数の下級貴族からの支持を集めることに成功し、平民育ちの男爵令嬢が 側妃とは言え 国王の妻にまでなった恋愛譚も庶民から人気を博していたのだ。
そのため、巷では新たな時代の到来を予感させる存在として あの成り上がりの令嬢の側妃さえも称賛され、逆に複雑怪奇で微妙な均衡を保つ高位貴族たちの調整役を 誠心誠意 務めてきた正妃の彼女の実績は顧みられることはなかったのだ。
なので、完璧主義者の最高位の公爵令嬢だった王妃と再会した時にはすでに神経衰弱を患って顔面蒼白となっており、結婚式であれほどまでに輝いていた容貌は完全に光を失っていた。
必死に通い詰めて私は彼女を励まし続け、多少は光が戻ったかのように思えたものの、日に日に窶れていく彼女の姿を見るのはただただ苦しかった。
そして、王妃である彼女は国王である兄と一緒の公務の席で崩れ落ちるようにして倒れた。
この時ばかりは夫婦生活では無関心を決め込んで苦しめ続けてきた兄も、公衆の面前では王妃の夫である国王らしく振る舞って王妃の無事を祈る姿が人々の胸を打った。
しかし、それ以降は療養することになった王妃の許に一度たりとも訪れることなく、私が代わりに見舞いにくる始末で、
しかも、時同じくして世継ぎとなる我が子の誕生を盛大に祝っており、あまりの扱いの酷さに私は思いがけず貴族社会の一員として決して言ってはならない言葉を言いそうになっていた。
言ってはならない言葉を言いかけた瞬間に、彼女は最後の力を振り絞り 私の唇に触れたのだ。
王妃「…………ダメですよ、大公様。私たちは誇り高き貴族として正しく振る舞わないと秩序が保てませんわ」
大公「でも! 兄は見せかけだけだ! 型通りのことさえして周囲を満足させれば後は自分の好き勝手にしていいだなんて、そんなの――――――!」
王妃「いいんです。私は私の力不足を悔いることはあっても、王妃たる公爵令嬢として決して恥じることのない生き方をしてきました……」
王妃「そのことをわかってくれている方がここにいるのですから、もう十分なんです……」
王妃「だから、大公様は私のことは忘れて、奥様のことを幸せにしてあげてください……」
大公「……いやだ! いやだよ!」
王妃「……大公様」
大公「……ずっとずっと好きだったから! 夫婦として側に抱き寄せて愛せなくても、良き隣人として愛する日々がずっと続くものだと!」
王妃「……本当にあなたは優しい人ですわね」
王妃「だから、私も大公様と同じでしたわ……」
大公「なら――――――!」
王妃「でも、それ以上はいけません」
大公「うっ」
王妃「これからもお国のために務めを果たすのですよ……」
王妃「あ、今お迎えが――――――」
王妃「」
大公「あ!」
大公「ああ……!?」
大公「どうして!? きみはどうしてそこまで完璧なんだ……? もっとわがままでいて欲しかった……!」
大公「でも、死んじゃ意味がないじゃないか!? それで本当に幸せだったのかよ!?」
大公「なあ、返してくれよ! どこにも連れて行かないでくれよ、神よ! 生きてさえいれば、これから迎えに行くことだってできたろうに!」
大公「こんな寂しい場所でひっそりといなくなるだなんて……! こんな理不尽なことがあるか!?」
大公「ふざけるな! ふざけるな! バカヤロウ! この神のクソッタレがあああ!」
大公「うわああああああああああああああああああああああ!」
この時から私の中で神は死んだ。
こんな運命に殉じるのが彼女に課した神の定めならば、国王である兄の願いである既存の階級社会の秩序を破壊することにお望み通りに協力して全てに復讐を果たすと誓ったのだ。
だから、ずっと望んでいたのかも知れない。この復讐心を満たせるのなら、たとえ異端であろうとも利用できるものは利用し尽そうと私は貪欲になっていたのだ。