03 黒髪の少女(3)
高級レストランを過ぎ、明るい窓際に沿って歩いていくと、すぐに広く開放的な空間が現れた。そこは「展望台」だった。
「シュン」
呼ばれて横を見た。
「あれ何?」
めいが伸ばした腕の人差し指で展望台のほうを指していた。
「ああ、双眼鏡だよ」
「そう‥がんきょう?」
首を傾げるめい。
「うん…、遠くにあるものを近くで見られるようにしてくれる道具‥みたいなものかな」
「へえー」
興味がわいたのか、小走りに先に進んだめいが不思議らしく自分と似た大きさの双眼鏡をくまなく見回した。
「‥見れる?」
「もちろん」
持っていた懐中電灯をポケットに入れたあと、めいの両脇に手を入れてそのまま持ち上げた。突然の行動にもめいは動じなかった。シュンはそのままめいの目を双眼鏡に合わせた。重くなったのは確かだがそれでも軽いのは相変わらずで、それほど大変ではなかった。
「どう? 見える?」
「…シュン」
「ん?」
「何も見えない」
その言葉にめいを下ろしたシュンが双眼鏡のレンズに自分の目を合わせた。
黒。
見えるのは暗闇だけだった。レンズから目を離してそのまま双眼鏡を調べてみる。よく見ると、右側に小銭を入れる穴があった。
金を入れなと見られないのか。
銭は探せば手に入れられるはずだが、どうせ電源が死んでるから金を入れても作動はしないだろう。
「‥ごめんめい。ダメっぽい」
「……」
何も言わずに双眼鏡を眺めるめい。その無表情は残念そうに見えた。シュンはさらりと口を開けた。
「でもまあ…、主電源を入れるともしかしたら‥」
「ほんとう?」
話す途中にめいが上目使いで聞いてきた。その目つきには少なからずの期待がにじんでいた。言うべきではなかったかも知れないが、今さら後悔しても遅い。覚悟をきめる必要がありそうだ。
そういえばフロア·マップに確か…
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「第三管理室…、第三管理室…」
それは、シュンが38階のあちこちを早足で歩き回りながら言った独り言だった。
そうやって懐中電灯を照らしながら1階で見たフロア·マップに書かれていた第三管理室を探す途中、窓際にある『ある場所』の前で足を止めた。ソファーとテーブル、本でいっぱいの本棚とテレビなどが備えられている場所。そこは『休憩室』だった。
一見、特別なことなんて何一つない場所にも見えたが、違った。慎重に止まっていた足を動かし、休憩室の中に足を踏み入れて正面に懐中電灯を照らした。
バーナーと鍋、半分ほど水が入ったバケツ、設置されたテント、二つの柱を繋ぐ物干し綱、床に広げられた寝袋、そこにテーブルの上に散らばっている数冊の本と、まだ作動中の置き時計まで…
見間違いではなかった。休憩室には誰かの生活の跡がそのまま残っていた。ほこりさえ積もっていなかった。瞬間、頭に浮かんだのはデパートの地下で見た死体であり、その次はめいだった。
生存者の痕跡を発見した以上、めいを一人にしておくことはできない。急いで身を翻したところ、めいが立っていた。
「めい?!」
びっくりした。めいも同じくぎくりと驚いた。なぜここにいるのかすぐ尋ねようとしたが、慌てた顔で一歩退く姿を見て言葉を飲んだ。
また我慢できずにうろうろしていたのか。
シュンは遅ればせながら胸をなでおろした。
「びっくりしたよ」
「‥ごめん」
シュンがほっとしたように表情をほぐすと、めいもすぐに警戒を解いた。
「いや、ちょうどいい。一緒に行こう」
そうしてめいと一緒に休憩室から出てきたシュンが立ち止まり、慎重に目を配った。変った気配は感じられなかった。このまま帰るのが正解だろうか‥、悩みにふけっていたら誰かが手を引っ張ってきた。横を見ると、めいが『どうかしたの?』という顔で自分を見上げていた。
‥何を焦っていたのだろう。
やっと判断力を取り戻したシュンがめいと手を取り合い、並んで歩き出した。考えてみたら、考えることもなかった。そもそも動かないという選択肢はなかったからだ。きっと留まっているのが一番危険だ。
とりあえずエレベーター乗り場まで行くことにし、神経を尖らせて一歩一歩慎重に進んだ。ところがそれを知っているか否か、めいはどこか楽しそうに見えた。取り合っている手を前後にぶんぶん振ったりもした。おかげで手を離さないようにずっと気を配る事になった。
そうやってめいと一緒に階の中央辺りを通るとき、偶然日の当たらない廊下の内側で『第三管理室』と書かれている鉄門を発見した。
「こんなところにあったのか」
シュンの独り言を聞いためいがシュンを見上げた。シュンも視線に気付き、めいを見た。
「ちょっと確認してくる」
「……」頷くめい。
シュンはめいの手を放してドアのほうに近付き、取っ手を握った。まさかここまで来て閉まってはいないだろう‥という心配を抱きつつ、取っ手を回した。カチッと音を立てドアがあいた。若干の安心感とともにドアを押し開けた瞬間だった。
ガタッ
門の後ろに何かが引っ掛かって3分の1ぐらいしか開かなかった。何だろうと思いながら、ドアの隙間に懐中電灯を照らした。
そこには黒髪があった。
シュンはびっくりして素早く後ずさりした。めいは不思議そうにそんなシュンの背中を見つめた。
「……」
自分の熱くなった心臓の鼓動を実感しながら、慎重に数メートル離れたところにあるドアの隙間に懐中電灯を照らした。3分の1ほど開いたドアの間に依然として真っ黒い髪の毛が突き出ている。固唾を飲み込んだ後、床の髪を見ながらゆっくりとドアの方に近づいた。
…動きも、音もない。
万が一の状況に備えシュンはめいに近付かないように言い残した後、ポケットからマスクを取り出して着用した。
「ふう‥」
一度大きく息をして、3分の1ほどの隙間に体をかけて『ドアにかかっている何か』に直接懐中電灯を照らした。
そこにいたのは、幼い少女だった。
白いTシャツと7分丈のジーパンを着た短髪の少女は古いぬいぐるみ一つを抱いたまま、冷たい床の倒れていた。
死体…なのか?
それが少女の第一印象だった。
‥いや、違う。
シュンはあわてて少女を仰向けにして状態を確認した。
「…生きてる」
そう、少女は生きていた。消えかけの火種のように、小さく息をついていた。体が恐ろしいほど冷えていた。どうやらかなり長い時間放置されていたようだ。
急ぎ少女を抱えたシュンが壁にドアがぶつかる音を背に、第三管理室を抜け出した。管理室の中を探る余裕などなかった。
「な、何? その子‥」
女の子を見ためいは驚いたようだった。無理もないと思った。
「めい、ちょっと手伝ってくれ」
めいの慌てた姿にも構わず、シュンは足を運んだ。呆気にとられたが、めいもその後を追った。
その後、めいと一緒に以前の休憩室に入ったシュンが中央の3人用ソファーの上に女の子を横たえた。そして日当たりのいいところでもう一度、女の子の状態を確認した。
目立った外傷はなかったが、低体温症と深刻な脱水症状を見せていた。即座に席を立ち、テント周辺に転がっていたきれいなペットボトル一つを手にとってその中の水を少しずつ女の子の口に入れた。
入った少量の水に気道が詰まったのか、小さく咳をする少女。水を飲む気力もないのか、女の子の口に注がれた水はほとんどソファの上に流れた。急ぎ頭をひねって水を吐かせた後、気道を開いた。
‥このままだと危険だ。
そう判断したシュンは、床に散らばっている寝袋を適当に女の子にかぶせた後、ずっとそばでその光景を見守っていためいに言った。
「めい、ちょっと‥」
ところが、すぐに言えなくなった。果たしてこのような状況でめいを一人にしてもいいのだろうか。そうやって目を合わせたまま口がきけなくなっていると、めいがソファの上の女の子をちらっと見つめた。
「…私は大丈夫」
そしてめいは決心したように、再びシュンと目を合わせた。
「だからできることをやってあげて」
「……」
言わなかったのにどうやって分かったのか不思議だったが、不思議に思う余裕はなかった。
「‥ちょっとの間でいいから」
めいがうなずいた瞬間、シュンは体を起こした。急いで休憩室を抜け出し、エレベーターに乗って1階のボタンと閉じるボタンを相次いで押した。
…37、…36、…35、…
上がる時と降りる時の速度に違いがあるのではないかと疑われるほどエレベーターはゆっくりと動き、そんな焦りの中でも時間は流れやがて1階に到着した。ドアが開け始めた瞬間、シュンは狭いすきまを横切って外に飛び出した。
階段を駆け下りて広いロビーを通り過ぎたシュンが正面に現れたガラス扉に手をつけた。ぱっとドアが開き、変わった空気と共に鬱蒼とした草むらが視野に広がった。そして遠く、伸びた雑草の間にかすかに白い車体が見えた。
少ない階段を一歩で降りて長い雑草を振り切りながら進んだ後、ためらうことなく前に現れたNP50の助手席のドアとグローブボックスを相次いで開けて救急箱を手にした。
息をつく暇もなく車のドアを閉めて来た道を引き返す。庭とロビーを過ぎ、ボタンを押すと『チン~』とベルが鳴ると同時にドアが開いた。急いで中に入り、38階のボタンと閉じるボタンを相次いで押した
…一つ、‥そしてもう一つ。上がる数字をじっと見ていると、額から汗が流れ落ちた。また『チン~』とベルが鳴り、ドアをすれちがったシュンが全速力で暗い廊下を横切った。
「‥めい!」
休憩室の中、ハンカチで女の子の口元を拭いていためいが後ろに振り返った。
「シュン!」
泣きそうになっていためいに近づき、肩に手を掛ける。
「ありがとう、次はまかせてくれ」
ひっそりと席を外してくれるめいと交代でソファーの横にしゃがんだ。テーブルに救急箱を置いて再び女の子の状態を確認する。微かだが、まだ息はついていた。
シュンは救急箱の中から大きな注射器を取り出し、パッケージを開けた。少女が飲めなかったペットボトルの水を注射器に入れて針を着けた後、少女の腕の静脈にそれをゆっくりと注射した。
そうやって一度の注射を終え、また繰り返し注射器に水を入れて少女の細い腕に太い注射針を突き刺した。その瞬間めいはぎくりと目をつむり身をすくめた。
反応する気力さえ残っていないのだろうか。太い針が何回も少女の柔らかい肌を貫通し腕から血が流れたが、力なく垂れ下がっている少女は身動きひとつしなかった。
「はぁ…、はぁ…」
四回目の注射で女の子の息が少し荒くなった。次の注射を準備しながら少女の額に手を当てた。体温が上がっていた。そうして五回目の注射を最後に、シュンは救急箱から取り出した抗生剤と消炎剤、そして栄養剤を順番に少女の腕に注射した。
注射部位を消毒して絆創膏を貼った後、小さくため息をつきながら額の汗をふいた。すると、隣ですべての過程を見守っていためいが慎ましく質問してきた。
「大丈夫?」
「わからない」
水分が供給されて呼吸が戻り体温も少しずつ上がってはいるけど、すぐさま大丈夫と言える段階では決してない。
「‥でも、できることはしたから」




