02 肉の塊(3)
1階の階段、懐中電灯で周辺を照らしながら地下に下りる薄暗い空間に足を運ぶ。建物の内部の空気はもともとやや濁っていたが、地下に下りるほど次第に濁りが濃くなっていくようだった。ある程度濁った空気に慣れてきたころ,シュンは地下1階に着いた。
…ピー、………ピー、
そのとき突然『濃度計』が鳴り始め、やはり気のせいではなかったと自覚した。瞬間濃度計の画面に表示された数値は108ug/m^3。空気は実際に濁っていた。シュンは立ち止まって変化する数値を観察する。
…最大で120程度か。
シュンが左手首につけているTOP濃度計は大気中のTOPの濃度が100マイクログラムを超えると自動的に信号が鳴るようになったいて、濃度が高くなるほど信号音の間隔は短くなる。
ある程度耐性があるので120ug/m^3程度なら大きな問題はない。続いて持っているTOP専用マスクを取り出して着用した。TOP粒子を100%カットすることはできないが、それでも半分以上に減らすことができる。
そうやってシュンは気を引き締めてデパート地下1階に懐中電灯を照らした。そして目の前に現れたのは、
S…A…L…E?
『SALE』という単語だった。
大きな文字でSALEと書かれたカードが何もなかったり、ビニールだけが残った棚の上のあちこちに設置されており、天井の所々には1階で見た名も知らない植物の根が亀裂の隙間からはみ出て下に垂れ下がっていた。
かび臭い空気とひっそりとした雰囲気の中でもためらいはなかった。注意深く目を配りながら所狭しと設置されている棚の間を転々としたが、最後まで食べ物は見つからなかった。
…ピー、………ピー、…
鳴り続ける濃度計の信号音が緊張感を高めている時だった。
パカッ!
何かが踏みにじられる感覚と共に足もとから物音が聞こえてきた。一歩後ろに下がって床に懐中電灯を照らした。
「やはりあったか」
そこには、高いTOP濃度の原因であり、めいを連れてこなかった理由でもある『白の破片』があった。破片につながっている白い物体を懐中電灯で照らしてみると、骨格が姿を現した。それは、白骨になって骨だけ残った人間の末路だった。
踏んだのは床に長く伏せている白骨の足首部分。
このように食料品がありそうな場所には社会崩壊直後食料を確保するために尋ねてきた人々が集団で死亡している可能性が高かったが、階を全体的に見て回った結果発見した白骨は3体に過ぎなかった。
いずれも骨だけが残っていたため正確に3体なのか確信できなかったが、それでも思ったより少ない数だった。彼らには逃げる暇さえなかったのだろうか。ふと『あの日』を思い出しながら歩いていると、いつの間にか地下1階食品コーナーの一番奥にたどり着いていた。
「はぁ‥」自然とため息が出た。
収穫はゼロ。白骨の数が少なくて期待を抱いたが、どれだけ探しても食べられるものは残っていなかった。残念な気持ちを後ろに、シュンはきびすを返した。
ところが、そうして振り向いた短い瞬間に懐中電灯の光に何かが掠った。中途半端に曲がった腰を元の状態に戻し、ぼんやりと見えたものに再び懐中電灯を照らした。
『STAFF ONLY』
それはデパートの従業員のみが利用できる空間につながる扉だった。もしくは倉庫に在庫が残っているかもしれないと思い、鉄製の取っ手に手を伸ばした。
‥カチャ。
幸いドアは開いていた。
キイー…
躊躇うことなく鉄の扉を開けて中に入った。
………ピー、………ピー、……ピー、……ピー、…
その時、信号の間隔が急に短くなった。急いで濃度計の数値を確認する。
188ug/m^3
その場で固まったまましばらく濃度計を見守った。数値はぎりぎり200を越していなかった。だんだん数値が減っているのを見ると、単純に密閉されていたせいかもしれない。
200前後ならマスクをしている以上、大して問題になることはない。ドアを開けてたままでしばらく悩んだ末、シュンはためらいがちに歩を踏み出した。何より手ぶらで帰るのがいやだった。
ドアの向こうには廊下が延びていた。暗いのは言うまでもない。ゆっくりと慎重に進みながらも万が一の状況に備えて随時濃度計の数値を確認した。まもなく廊下の両側の壁に扉のない2つの通路が現れた。まず、右側の通路に懐中電灯を照らしてみた。
!!
一瞬目に入ったのはナイフやまな板などの調理器具がゴミのように散らかっている広い空間だったが、問題は視覚ではなく嗅覚だった。自然と口の上のマスクに手が伸びた。
鼻持ちならない異臭。久しぶりだからか、油断すると吐き気が起こりそうだった。片手で鼻と口を半分覆い、眉をひそめたまま両側の空間を見渡した。そこは魚や肉を調理または加工するための場所のようだった。食べられるものはなさそうだった。
シュンは両脇の空間を無視して、続く通路に沿って前に進んだ。実の事を言うと食糧の有無はどうでもよかった。ただ一刻も早く異臭が漂う空間を抜け出したかった。
しかし、いくら歩いても悪臭は消えなかった。
…いや、逆にますますひどくなった。
「うっ!」
歩く途中突発的に起こった吐き気に片手でマスクを包み、廊下の両側に長く設置されている鉄製の取っ手に頼って倒れるように身をかがめた。
「は‥! はあ‥!」
幸いに首のてっぺんまで上がってきた何かが限界点から元の位置に戻った。半分うつぶせの姿勢で息を整えて意識を取り戻した時だった。
ピ!ピ!ピ!ピ!ピ!ピ!ピ!‥
聞こえてきたのは凄まじい速さで鳴っている信号音。吐き気もまだ治まらないうちに急いで濃度計の数値を確認するために手首に懐中電灯を照らした。
3407。
一瞬、目を疑った。TOP濃度計に表記された数値は3000を優に超えていたが、目を疑ったのはそのせいではなかった。左手首の後ろに夢中になってうごめく小さな白いもの達。そしてそれらが群れで食いついていた「腐ったもの」は…
「ううっ!!!」
さっきようやく中に戻ったものがすごい勢いで食道を通り抜けて口の外へ溢れ出た。吐瀉物がつけていたマスクとともにうじだらけの「肉塊」の上に散らばった。
苦しいその瞬間にもシュンはできる限り息を我慢しようとしたが,それは無駄なあがきだった。肺はすでに自ら制御できなくなり、恐ろしい勢いで肋骨が折れそうに収縮、膨張することを繰り返した。
もう出るものも無いのか空えずきをし始めた頃、全力で身を起こし逃げるように開いているドアの外へ飛び出した。ドアを通り過ぎた瞬間、足の力が抜けて何もないところで転んだ。唯一の光源である懐中電灯が遠くまで転がって行った。
事態は深刻だった。直ちに力が抜けた体を立ち直らせた。しかし半分起きた時に極度に敏感になった胃腸が再び大きく収縮した。でも出るものがない故、開いた口からよだれが溢れるだけだった。
「はぁ…、はぁ…」
口いっぱいにカレーの匂いと胃液の苦味を実感しながら正面を見つめた。目の前、3-4メートルほど離れたところに落とした懐中電灯が光を放っていた。
…まだあきらめるのは早い。
うつ伏せの姿勢でぎりぎり息を整えた後、歯を食いしばって体を起こした。がたがた震える足。体はまともに言うことを聞かなかったが、懐中電灯を拾ったとたんに素早く足を運んだ。
そうやって真っ白になった頭の中に目的地だけを思い浮かべながら進んでいたシュンが間もなく登る階段に足をのせた。
「っ‥!」
体が重くなると同時に頭がぼーっとしてきたが、それでも足を止める事はなかった。1階、裏口、そして駐車場。もうろうとした意識の中でやっと白い車が視野に入ってきた。
急いで車の中に入ってドアを閉め、換気システムを作動させた後にグローブボックスを開けて救急箱を取り出した。そしてためらうことなく中にあった幾つの小さな注射器のうち1つを腕の動脈に注射した。
数秒後、シュンは中身のない注射器を腕から抜いてすべてがぼやけた世界で手を震えながらも注射部位を消毒し、そのまま倒れるように背もたれに背をもたせてゆっくりと目を閉じた。




