06 窓の外
全体的に建物を見回った結果、生存者どころか遺体すら見つからなかった。信じがたいが、あやは本当に一人ぼっちだった。
チン~
ベルの音を聞いて頭を上げた。エレベーター内部のディスプレイには38という数字が表示されていた。すぐドアが開き、しばらく物思いにふけってからドアが閉まる直前にエレベーターを出た。
エレベーターのドアが閉り、シュンは懐中電灯を取り出したが、電源は入れなかった。日光でいっぱいのエレベーターの内部に比べて暗いのは事実だが、38階のエレベーター乗り場はぎりぎり日光が届く場所にあった。
懐中電灯をポケットに入れてエレベーター乗り場を出ると、スペースが広がるとともに明るくなった。しばらくすると休憩室の入り口が見えてきた。広い入り口の内側の窓から入ってくる日光がぎっしりとした網の目のように外に流れ出ていた。
光の網に足を踏み入れた直後に中を見たところ、めいとあやが三人掛けソファーの両端に座っていた。少し前まであやが被っていた寝袋を肩にかけたまま落ち着かないように、持っているステンレス製のコップを弄るめい。そんなめいからは普段の落ち着きが感じられなかった。
それに対してあやは壊れた時計を首にはめた古いぬいぐるみを抱えたまま、ただぼんやりと何考えてるかわからない目で前のどこかを眺めているだけだった。めいどころか、周りの全てに無関心なようだった。
それを知っているかいなか、めいは相変わらずカップを弄りながら横目でちらっとあやを見つめるのを繰り返している。まるで愛する乙女のように。
その時、目線に気づいためいが驚いたように目を見張って休憩室の入口に立っているシュンを見た。そして、『いつからそこに…』というような目でシュンを見つめた。
やがて恥ずかしそうにうつむいて視線を避けためいが、数秒後に顔を上げて落ち着いた演技をしたが、すでに顔は十分赤く染まっていた。
「何をしていたんだ?」
「別に‥」
それは、別に何事もなかったことを意味するし、別に何事もなかったことも事実なんだろうけど、それがすべてではないように見えた。たぶん、自分があやを意識した出来事をなかった事にしたかったのだろう。一種の照れ隠しで違いない。
無理もない。めいがあやに興味を示すのはもしかしたら当たり前のことかもしれない。これまで一度も同じ年頃の女の子に会ったことがないめいにとって、あやの存在は研究所で接してきた研究者たちとはずいぶん違く感じられたはずだから。
興味はあるが、どう接したらいいのか分からないようだ。2日間一言も話せなかったことを考えると残念で仕方ない。どうか頑張ってほしい。
ひょっとしたらめいに初めて同年代の友達ができるかもしれない。そう思うだけで胸が熱くなったが、隣に座っているあやの無愛想な姿を見た途端その気持ちは吹っ飛んだ。
いや、無愛想というよりは無関心というべきだろう。何の動きもなくただ止まっているその姿は、ふと道で銅像のふりをするアーティストを連想させた。
めいも口数が多い方ではないが、あやと比べると良好な方といえる。あやを『静かな文学界の読書少女』程度に例えると、めいは『小心な体育界の運動少女』程度にはなるだろう。例えて余計に紛らわしくなったように見えるのは気のせいだ。
あやの姿勢と視線は、シュンが入り口にいた時と全く同じだった。あやは目の前に立っているシュンの存在を認識してないようだった。
「あの、あや?」
「……」無反応。
様子を見てまた声をかけようとした瞬間、あやが頭を上げた。どんよりとした目に聞いた。
「大丈夫?」
あやはようやくシュンの存在に気づき、軽くうなずいた。
「そう‥、どこか悪かったら言ってくれ」
「……」
すると銅像が動いた。突然立ち上がったあやが古いぬいぐるみを抱いたまま、どこかへ歩いていった。シュンとめいは観察するようにその光景を黙々と見つめた。
ついに立ち止まったところはソファの後ろ側にある窓際だった。そこであやはほこりで曇ったガラスをしばらくじっと見つめていたかと思うと、やがて窓枠のへりに腰掛けた。
またか‥
まるで自分の指定席にでもなるかのように、ふわふわのソファーがあるにもかかわらず、時々ああやって硬い窓枠に腰掛けることはある。一緒にいるのが不便なのか、それともただ日光を浴びたいだけなのか、まだ正確な理由は分からない。まあ、まだとは言っても会ってから二日しか経っていないが。
声をかけられなかった悔しさのせいなんだろうか、静かにあやの横顔を見つめるめいの横顔が少し意気消沈したように見えた。
「‥めい」
呼びかけられ、めいがシュンを見た。
「頑張れよ」
その言葉にめいは頬を染め、顔をそむけた。そんな反応は確かに異色があったが、それ以上に可愛らしさが溢れた。ささやかな楽しみの後、シュンは再度あやを見つめた。
またいつまでああしているのやら‥
それは昨日のこと。朝食の後、休憩室を出る時に窓枠に座っているあやを見て、不便そうだな‥と思ってから約5時間、38階から20階まで探索を終えて帰ってきてみると、驚くことにあやは休憩室を離れる前に見たのと全く同じ姿勢で座っていた。
正直、ちらっと見ただけで姿勢を完璧に覚えていたわけではないが、それでもふと感じた既視感になんとなく直感した。確信したのはその次。休憩室でずっとあやを観察していためいが自信に満ちた声であやが少しも動かなかったと言うのを聞いた後だった。
5時間だ。5時間もびくともしないというのはそう簡単にできることではない。それもあんな不便な姿勢からだと尚更。
依然として硬いへりに腰をかけてぼんやりとどこかを眺めている姿に、まるで周りの時間が止まってしまったかのような気がした。そんな姿を黙って見ていたシュンがたちまち席を立ち、本棚の前にあった黒いオフィスチェアーを引きずってあやに近づいた。
椅子の固いキャスターの音が静けさを破ったが、あやはその騒音が自分のすぐ後ろで止まったにもかかわらず反応がなかった。シュンが背中から肩を軽く叩くと、ようやく後ろを向いた。
「座る?」
「……」
すると、しばらく黙って椅子を見つめていたあやが席を立った。シュンは座りやすいように椅子を押した。
椅子に座ったあやが膝を抱えながら背もたれに背をもたせた。その姿は硬いへりに腰をかけている時と比べて楽に見えたが、氷のように固まるのは同じだった。瞬く間にぎしぎしとした音が止み、再び静寂が訪れた。
ただぼんやりと座っているだけだと思っていたが、近くで見るとあやの視線はちゃんと窓の外を向いていた。下の道路を見ているようだったが、ガラスに異物がいっぱいついたため、ぼやけてよく見えなかった。
「ちょっと‥」
後ろから椅子を押すと、一瞬驚いたようにあやが膝を抱えていた両手を放し、椅子の肘掛けを握った。シュンはそのまま少し前まで椅子を押してから、あやが振り向く前にとなりにある窓の取っ手を握って押した。
窓の狭いすき間からかすかに見えるきれいな視野。窓を開けると、なまの日光が風と共に中に入ってきた。下についている取っ手を前に押すと上に開く方式の窓は両側が直径1メートルぐらいで広かったが、開かれた隙間は、それほど広くなかった。
子供がぎりぎり抜けられるぐらいの隙間。もし、成人男性が投身自殺する場所としてここを選んだとしなら、死因はきっと転落死ではなく窒息死になるだろう。
そんな風に外を眺めるには無理があるのかと思いながら狭い隙間を広げられる方法がないか調べていたら、急に下から出てきた黒くて丸い物体が視野を遮った。
それはあやの頭だった。どうやら窓外の風景に興味があるようだ。上に蝶番がついている窓の構造上、近くから見ても下しか見えないが、それでもあやは恐ろしい集中力でその狭い隙間から外を注視した。以外だった。ここまで積極的に行動するとは思えなかった。
そして、しばらくしてそんなあやの両肩からかすかな震えが生じた。
「あや?」
シュンが疑問を示すと同時に、あやが窓の外へ手を伸ばした。風でも感じようとしているのかと思ったが、
‥!!
その手は決して止まらなかった。
一瞬だった。シュンは少しのためらいもなく窓の狭いすきまに吸い込まれる体を両手で抱え込み、そのまま中に引き寄せた。しりもちをつきながらあやと一緒に休憩室の冷たい大理石の床に座り込んだ。
「一体何を‥!」
言葉が終わる前に、
「きゃあああああ─!!!!!」
悲鳴…いや、それは絶叫に近かった。急に胸の中のあやが我を忘れて叫びながら踠き始め、シュンはそうやって再び立ち上がろうとするあやを必死に抱きしめた。
どうやったらこのように小さな体からこんな力が出るのか疑問だった。全力で抱きしめたにもかかわらず、激しい抵抗に何度も手を振り放されるところだった。あやが着ている古いTシャツからばりばりと縫い目がちぎれる音がした。
しかし、それもつかの間。
「あ‥! ああ、ふぅ‥、うっ…」
踠くのを止めて自分の腰を抱えている腕を掴んだまま荒い息を整えるあや。力が抜けたのか、あやはもう腕を振り放そうとはしなかった。チャンスだと思った。
「あや!」
シュンはあやのたるんだ肩をつかんで後ろを振り向かせた。あやの充血した目には涙が溜まっていて、その濡れた瞳はまるで『お願い、放して』と言っているようだった。
「落ち着け。一体どうしたんだ?」
その質問と同時に、あやの瞳に溜まっていた涙が流れ落ちて、しわくちゃになった白いTシャツを濡らした。
「ぬいっ‥、ぐるみが…」
涙声。そういえば、あやが抱いていた古いぬいぐるみが見当たらない。シュンは急ぎ起き上がって開いた窓の外を見た。
‥落ちたのか。
そうやってしばらく見えるはずのないぬいぐるみを探している時、
「シュン、何?」
いつの間にか後ろに近づいてきためいが心配そうに声をかけてきた。
「‥あやのぬいぐるみが落ちたみたい」
「ぬいぐるみ?」
めいは少ししかめ面をして、すぐに何かを思い浮かべたように頭を上げ両目を大きく開けた。心の中で『あ、あれか』と言っていたに違いない。シュンは再び窓の外を眺めた。
1階…、それとも4階か‥
4階には広い屋外ラウンジがある。ぬいぐるみが落ちた場所は道路か4階の屋外ラウンジのどちらかだろう。窓を閉め、力なく床に座り込んでいるあやの正面にしゃがみ込んだ。
「あや」
頭を上げたあやの目には、いまだ流れきれずの涙が溜っていた。
「すぐ持ってくるから」
「……」
その言葉にあやは歯を食いしばり、間もなくうなずいた。
「めい、ちょっと見ていてくれ」
「…うん」
となりで右往左往していためいがためらいながらもうなずいた。そしてシュンは席を立って走り出した。たかが落としたぬいぐるみを拾ってくれば済むことだ。ひととおり見回ればすぐに見つかるに違いない。




