第4節 畢罪の花 Ⅱ
――天咲茎最上部。
月と星の仄かな光に輝く庭園は、柔らかな静謐の中にあった。
皆の安全を祈る春咲姫も、来るべきときのために精神を研ぎ澄ますウェスペルスも、互いに言葉を交わさなくなって久しい。
しかし、言葉などなくとも、ただお互いがそこにいるというだけで、二人は充足感のうちに落ち着いていられた。
かつてないほど大きな嵐のただ中にいながら……それでも二人の心は、どこか穏やかに静まっていた。
――そしてその時間は、永遠に続くかのようだった。
これまで彼らが過ごしてきた、気の遠くなるほど永い時間と同じに……。
どこまでも、また気が遠くなるほどに、永く。
しかし――永遠など、夢幻に過ぎないと告げるかのように。
優しく帳を下ろす静謐に、小さな靴音が――かすかな波紋を広げた。
「……とうとう、来たのか」
窓辺から離れたウェスペルスは、ゆっくりと、階下に続く螺旋階段の前へと移る。
一つ、また一つと大きくなる足音は……やがてこの場に、一人の人物を招き入れた。
ウェスペルスが、そして春咲姫が――。
再会を渇望し、しかし再会するべきではなかった……かけがえのない人物を。
「……カイン……」「パパ……!」
二人それぞれの、万感の想いの籠もった呼びかけに――。
カインは、ゆっくりと顔を上げる。
「――久しぶりだな」
カインもまた、込み上げるものを噛み締めるように、目を伏せた。
「二人とも、大きくなった――。
本当に……見違えるほどだ」
かつて、もう一度聞きたいと願い、しかし叶わなかった父の声――。
千年を経て再び見えたその優しい声に、少女は改めて心震わされ……すべてを擲ってでも、愛する父の胸に縋り付きたくなる。
――話したいことがいっぱいあった。
それこそ、数え切れないほどにいっぱいあった。
聞いてほしかった。
聞いて、あの頃のように、優しくうなずいてほしかった。
いや――聞いてくれなくてもいい。
ただそこに……ただそこにいてくれるだけで、どんなに嬉しいだろう……。
だが――それは、望んではならないことだった。
自らが預かる数多の命のため、生きたいという人間の願いを護るために、訣別を誓った彼女にとっては。
――永遠が罪であろうと、罪として背負い続ける覚悟を決めた、彼女にとっては。
だから彼女は、自らの衝動を必死に堪え、あふれそうになる涙を懸命に抑え――。
記憶の中の姿そのままの父を、気丈に見据えた。
いや――彼女だけではない。
ウェスペルスも、そしてカインも。
その胸には、言葉を尽くして語りたい想いが、汲めども尽きない泉のようにあふれていた。
だが、どちらもまた、己の立場に言葉を封じ……。
為すべきことを為すために、想いをも封じる。
立ち塞がる者の命を断つ――ただ、そのために。
「オリビア。私がここへ来た理由……分かっているな?」
「……はい」
「――そうか。
ならば……もはや、何も言うまい」
――カインは、娘との間に立ちはだかる、白い法衣の青年と向き合う。
かつての少年は、彼の記憶の面影をそのままに……立派な美丈夫へと成長していた。
「カイン……僕の想いは、あのときと変わらない。
オリビアのためならば――あなたが相手でも、全力を以て戦うだけだ」
「……そうか。
私もだ――ウェスペルス」
二人の所作も気配も、どこまでも静かながら……しかしそれゆえにか。
場の空気は、加速度的に張り詰めていく。
かつての嵐の夜をなぞらえるように――。
二人は、それぞれにとって最も鋭利な凶器であるその身体に、互いの信念を力として漲らせた。
妥協などあるはずもない――。
ぶつかればどちらかが砕けて散るしかない、その信念を。
「――――!」
……動いたのは、まったくの同時だった。
常人からすれば瞬きにも満たない刹那――白と黒が、薄闇の中に混じり合う。
初撃からして、二人が狙ったのは首――急所だった。
互いに皮一枚でかわした渾身の貫手は、そうするのが自分の責任と、目を開いて見守る春咲姫の耳に、これまで聞いたこともない音を届かせる。
――形のない空気すら断ち切ったかのような、あまりに透き通った風音を。
ただそれだけで、戦いのことなど何も知らない春咲姫にも、二人の立つ場所がはるかな高みであると理解できた。
まさしく、次元の違う場所――世界で彼らしかいない高所なのだと。
いかなる達人、戦士であろうと、彼らの渾身の一撃をかわすことは不可能に近い。
だが、今彼らの間で応酬されているのは、重奏のごとく、あるいは嵐のごとく響き渡る、あの透き通った風音が表すまま……余すところなくすべてが、その必殺の一撃だった。
拳も、脚も、その挙動のすべてが、頭を砕き、首を裂き、心臓を貫く――。
命を奪う、ただそのためだけに費やされる。
重なり合い、離れ、また重なる――。
激しく目まぐるしく交錯しながらも、しかし決して混ざり合うことのない表裏たる白と黒は――まさしく彼らの象徴だった。
互いに生と死の紡ぎ手として、境界線上で綱渡りを続ける――彼らの。
「……ウェスペルス……パパ……」
まるで目が追い付かない二人の動きに、これ幸いと顔を背けようとする臆病な心――。
それを必死に奮い立たせ、少女は死神同士の死闘を見守り続ける。
だが……彼女が目を背けずにいられたのは、もう一つ理由があった。
彼らの殺し合いは――。
そう、それ自体は殺し合いという野蛮な行為であるにもかかわらず――背筋が寒くなるほどに、美しかったのだ。
本来なら振れ動いた果て、どちらかに傾くしかないはずの生と死が、鬩ぎ合い、完全なまでの調和をもって共存する空間――。
その至高の二律背反が、彼女の無意識を惹き付けていたのだ。
拳は打ち、弾き、合わせて空が震え――。
脚は蹴り、躱し、釣られて空が啼き――。
指は貫き、捌き、引かれて空が吼える。
卓越した技術ゆえに――そして、慈悲深いがゆえに。
一撃の下に決着をつけんとする死神たちの拳舞は、決して一つとなることのない彼らの象徴そのままに――永遠を刻むかのように、止むことなく繰り広げられた。
それは、一時として気を抜くことを許さない、生死をかけた時間だ。
――にもかかわらず、ウェスペルスは。
カインを殺すことに集中しながらも……。
しかし心の片隅で純朴に、懐かしいと感じていた。
ずうっと、永い間、この瞬間を待っていたかのような……そんな気すらしていた。
殺意を鈍らせることなく。
決意を曇らせることもなく――。
絶え間なく、急所目がけて必殺の一撃を見舞い続けながら。
しかしウェスペルスは、なぜか――目尻に一滴、涙が浮かぶのを自覚していた。
「――――!」
思考はもとより、本能や勘といった感覚さえ超越した反応で――首を狙ってきたカインの貫手を、紙一重でかわすウェスペルス。
彼は、そこに一瞬……カインの死角が生まれたことを悟る。
同時に――今度ははっきりと、懐かしさを感じた。
……脳裏に、あの嵐の夜の光景が……雷光のように閃く。
――そうだ……あのときも。
あのときも、この一連の動きからだった――。
思わず涙したのは、また同じ結果を繰り返すことを、察したからか――。
すかさず、ウェスペルスはカインの死角へと潜り込む。
……それは、時間にすれば数えることすら難しいほどの一瞬。
しかし――彼らほどの人間にとって、放つ一撃を真に必殺とするには、充分過ぎるほどの時間だった。
――カイン――!
思い出の光景をなぞり――。
ウェスペルスは無防備なカインの心臓目がけて、渾身の貫手を放つ。
その感触と、迎える結末すら、あの夜のままに――。
果たして、渾身の貫手は――狙い通りに、心臓を貫いていた。
……ウェスペルスの、心臓を。
「ウェスペルス――っ!!」
春咲姫の悲鳴で、ようやく事態を理解したように……。
ウェスペルスはゆっくりと、自身を見下ろす。
彼の指は、カインの胸を切り裂く程度に終わり――。
代わりに、黒衣に包まれた腕が……。
彼の胸を、疑いようのないほどに深く、貫いていた。
「……カイン、あなたは……」
あの一撃は、決してかわしようなどないはずだった。
まして、そこに反撃を乗せるなど。
そう――。
あの流れを知り、死角を知り。
そして、そこから繰り出される一撃を……あらかじめ知っていなければ。
「覚えて……いたのか。自らの命を奪った……一撃を。
いや――」
そこで一度血を吐き出し、ウェスペルスは弱々しく、微笑んだ。
「……あなたのことだ。きっと……千年前のあの夜も……見切っていたんだろう。
なのに……あなたは、その優しさゆえに……躊躇ったんだ、あのときは。
……この……一撃を――」
「優しさなどではない――ウェスペルス。
私はただ……弱かっただけだ。
声高に正論を語りながら、その実は――。
大切なお前たちを喪う恐れに、屈しただけなのだ……」
カインはウェスペルスの身体を支えつつ、胸を貫く左腕を抜く。
「僕は……あの日あなたを殺したことを、後悔していない……つもりだった。
でも……僕もまた……同じだったのかも知れない。……オリビアと。
僕もあの日……自分こそが死ぬべきだったと……。
そう……どこかで想い続けていたのかも……知れない……」
「……ウェスペルスっ……!」
たまらず側へ駆け寄った春咲姫が、取り上げたウェスペルスの手を両手で包み込む。
ウェスペルスは何を言うでもなく、ただ、少女に笑いかける。
春咲姫も、何を言うこともなく――。
ただ、取った手を慈しむように……自らの頬にあてた。
「ウェスペルス……お前はあの日からずっと、ずっと……変わらず、オリビアの側にいてくれたのだな。護ってくれていたのだな。
……ありがとう、本当に。
よく――本当によく、頑張ってくれた」
カインのその言葉に……。
穏やかな顔をしたウェスペルスの目尻に、大粒の涙が浮かんだ。
「約束……だったから。あなたとの……オリビアとの。
それに……何より、それこそが……僕の願い、生きる意味……だったから。
でも……ああ――僕はこんなにも……待ち望んでいたのか。
カイン、あなたにこうして……よくやったと、ほめてもらえる……そのときを」
「ウェスペルス……」
春咲姫は、想いが言葉以上に伝わるようにと、ウェスペルスの手をぎゅっと握る。
ウェスペルスは、小さく――しかししっかりとうなずき返した。
「大丈夫……オリビア。
僕は……君が望む限り、側にいるよ……ずっと。
……約、束――――だ」
「うん……約束だよ」
春咲姫の答えに、いかにも満足そうに……ウェスペルスは目を閉じた。
静かに――眠るように。
「約束だよ……」
もう一度繰り返し、春咲姫は握っていた手をそっと、ウェスペルスの胸元に戻す。
庭園の優しい緑の中に横たわるウェスペルスは――ただただ、美しかった。
だがそれは、人間離れしていて近寄り難いほどだった普段の美しさではなく……あくまで人らしい、人としての、人であるがゆえの美しさだった。
命の終わり――それが、浮き世離れしていた彼という存在を引き留め、ようやく『人』として、この世に完成させたかのように。
その姿を愛おしげに見つめていた春咲姫は……やがて、意を決したように立ち上がった。
続いて、カインも膝を伸ばし――。
父娘は、改めて向かい合う。
「私に、こんなことを言う資格は無いのかも知れない。
だが……一つだけ、言わせてくれ。
――オリビア。
お前は、本当に……立派に育ってくれた。
私と、母さんの……一番の誇りだ」
「…………パパ…………っ!」
まさか、そんな言葉をもらえると思っていなかった春咲姫は……。
驚きのままに父の顔を見上げた後――。
とうとう、堪えきれなくなった涙を、その大きな眼からあふれ出させた。
「パパ……! ごめんなさい……わがまま言ってごめんなさい……。
いやなお願いしてごめんなさい……。
つらいことを押し付けて……ごめんなさい……!」
子供に戻ったかのように、嗚咽を漏らす娘。
父はその頭を……大きな手で、そっと撫でた。
かつて……そうしていたように。
「……いいんだ。
私は、至らない父だったが……それでもやはり、お前の父親なのだから」
娘が泣き止むのを待ち――父は、頭を撫でる手を止めた。
……喉まで出かかっていた、すまない、という謝罪の言葉は呑み下す。
これは、自身が受けるべき罰であり――そして、すべての罪を背負って逝く覚悟の彼にとって、決して口に出すわけにはいかない言葉だったからだ。
だから、彼はこれ以上は何も言わず……不意に、その凶手を突き出す。
そして――
愛する娘に。その胸の奥に咲く、小さな一輪の花に。
永遠の命に。庭都に在る、すべての人の命に――。
迎えるべき死、夢の終わりを――厳かに告げた。




