第3節 生か、死か Ⅱ
何も事情を知らない人々にとっては、今日という一日も、わざわざ一日と数えるほどのものでもない、日常の一片でしかないのだろう――。
庭都中央部の市街地は、これまでとまるで変わらない、いつも通りの平穏な夜を過ごす人々で賑わっていた。
その中を抜け、天咲茎を取り囲む広大な、庭園というよりは自然公園に近い緑地に辿り着いたところで……カインは一度足を止める。
あらゆる意味で庭都の中央に座する、大樹のごとき尖塔――。
彼はそれを今一度仰ぎ、そして……背後に控える兄妹を振り返った。
「覚悟は……いいな?」
「……覚悟――か。
それなら、あそこを逃げ出すときからしてる――つもりだった」
答えながら、ノアもまた尖塔を見上げていた。
「けど、そんなのは……本当の意味での覚悟でも、何でもなかった。
でも……もう大丈夫だ」
ノアは手を握るナビアと顔を見合わせ、うなずき合う。
「今度こそ、俺だって覚悟を決めた。
だから――戻ってきたんだ」
三人は隠れることなく堂々と、天咲茎正面へと続く広い道を、真っ直ぐに進んでいく。
なだらかな上り坂を上りきり、ようやく視線の先に現れた天咲茎のエントランス前には――。
赤衣の枝裁鋏や警備隊員が、列をなして待ちかまえていた。
「三十人はいるよな……。
はは、豪勢なお出迎えってやつか」
自らの緊張を解すように、大口を叩きながら……ベルトに挿していた拳銃に手をかけるノア。
だがそれを、カインが制する。
「先日のライラの件もある。お前たちの身柄が、絶対安全だとは言わないが……。
それでも、率先して狙われる可能性は低いだろう。
少なくとも、今はまだ……お前まで戦うときではない」
「で、でも、あれだけの人数がいるのに……」
「――問題ない。少しだけ待っていろ」
そう言い置き、カインはたった一人――。
連なる銃口が、槍衾のごとく待ち受ける集団へ向かって歩を進める。
彼が近付くにつれ――。
集団は重苦しい緊張を保ったまま、包囲するように輪を広げる。
そうして、後方に控えた指揮官の合図を待つ集団の視線にさらされながら……。
しかしカインは、無防備にすら見える動きで……。
まるで服を整えるように、襟元に手をやっていた。
一歩、また一歩と互いの距離が近付くにつれ、比例して高ぶる緊張感。
それが臨界間際まで迫り……いよいよ司令官が必殺の確信を込めて、一斉射撃を指示しようとしたまさにその瞬間。
ひゅっと、包囲の一角に向かってカインの腕が伸び――。
そして、その延長線上にいる警備隊員が、弾かれたように身を仰け反らせる。
それが、カインが指で弾き飛ばした、僧服のボタンによるものだと誰かが理解するよりも早く――。
攻撃の指示を今か今かと待ち受けていたその隊員の指が、半ば反射的に、手にする拳銃の引き金を絞っていた。
――張り詰めた静寂を、突然の銃撃が乱暴に引き裂く。
平時であれば、せいぜい驚く程度で済むだろうその出来事に――。
しかし極限の緊張下にあった彼らは、釣られて無意識に――司令官の指示を待つことなく、ロクな狙いも付けずに、次々と発砲してしまう。
不協和音となって重なり響く銃声は、彼らの恐慌そのもののようだ。
もっとも、それはほんの一時的なもので、そう長くは続かないはずだった――。
そう……何事もなければ。
――ひっ、と悲鳴にすらならない悲鳴を上げ、驚愕を顔に張り付かせたまま……。
一人、また一人と、屈強な戦士が崩れ落ちていく。
条件反射による騒がしいだけの銃火は、カインを止めるどころか……。
彼が一息に距離を詰めるための、煙幕の役割を果たしたに過ぎなかったのだ。
……元より、ヨシュアの死という起こりえないはずの現実を知り、その慣れようのない怖れを必死に抑え込んでいた者たちである。
一時のはずの恐慌は、黒衣の死神の肉薄により、本物の恐怖となって……瞬く間に全体に伝播した。
指揮官の指示に従うどころか、陣を整えることもなく、彼らは急き立てられるように――思い思いに、乱戦へと身を投じていく。
そしてその状況こそが、カインが意図したものだった。
高い志を持ち、戦士としての訓練を重ねて、自らを練磨してきた天咲茎の強者たちが――。
指揮の及ばぬ混戦の中、次々と倒れ、命ある屍となって折り重なっていく。
……ノアはこれまでも、カインの研ぎ澄まされた動作に目を奪われることがあった。
だが、今回は――まさしく次元が違っていた。
世界最高の暗殺者――その言葉が、実感として染み込んでいく。
群がる戦士たちの中心で舞い踊るのは、正しく死神に違いなかった。
誰より死の意味を知るがゆえに非情に徹し、その痛苦も罪もすべて引き受けようとする――最も慈悲深き、死神に。
……結果として、決着が付くまでは、ものの数分とかからなかった。
最後に一人残った指揮官の赤衣すらも容易く討ち果たすと、カインは兄妹を呼び寄せる。
「戦闘が始まったことが知れれば、後詰めが続々と押し寄せるだろう。
動きが取りにくくなる前に、お前たちを最優先でデータルームに連れていく。
――それでいいんだな?」
この先の行動を確認するカインに、ノアは駆けつけながらうなずいた。
「ああ。――先に言った通り、真っ先にあそこを押さえてしまえば、アンタに春咲姫への道を示してやれる。
それに俺たちも、そこに立て籠もれば、アンタの足手まといにならずに済む」
「よし、ならこのまま行く。道案内は任せるぞ」
見事な彫刻の施された、実に雅やかな正門を抜け、三人は天咲茎の内部へと駆け込む。
目的地を目指し、長い回廊を走り抜ける間……意外なことに、誰も彼らの邪魔に入ることはなかった。
しかし、通路が集まる中央広間には、たった一人――待ち構える男がいた。
「……あれだけの数を相手にしても、まるで無傷、か」
広大な空間の中心で一人、瞑想をするかのように静かに佇んでいたグレンは――。
ゆっくりと瞼を開き、訪れた侵入者を見据えた。
「世界最高なんて表現すら、アンタには追い付いていないのかもな」
「……どう賞賛されようと、私は所詮……人殺しでしかない」
淡々としたカインの返答に、微笑さえ浮かべたグレンは……。
続けて、兄妹に視線を向ける。
「坊主。どうせお前の目的地は、奥のデータルームだろう?
今は俺の権限で、この階層は人払いしてある。
……邪魔される心配はない、行け」
予想外の提案に、ノアは戸惑う。
そこへ、重ねて告げるグレン。
「モタモタしてると、俺の勝手な行動に気付いた連中が、大挙して押し寄せて来るぞ?」
「で、でも……」
「構わん、行け。
――少なくともこの男が、お前たちを罠にはめることはない」
迷っていたノアも、カインがそう背を押したことで決心がついたのだろう。
向かい合う二人を見比べた後……。
ナビアの手を引いて、広間から駆け出していった。
「……これでまあ、子供の邪魔は入らんというわけだ」
「――良く言う。
データルームは厳重な造りで、一度立て籠もれば、そう易々とは侵入できんと聞いた。
これも、あの子らの安全を守るための……お前なりの気遣いだろう?」
カインの言葉に、グレンはふん、と鼻を鳴らす。
そして――
「どう解釈するもアンタの勝手だ。
どのみち……ここでアンタを倒せば、終わりなんだからな」
ナイフを抜き放ち、逆手に持ち替えて構える。
カインも応じて――僅かに腰を落とした。




