Ⅱ 思い出の味
――いつものように施設の病室を見舞った私は、その日久しぶりに、娘が作ったシチューをふるまわれていた。
それは、妻とは幼くして死に別れ、記憶らしい記憶などほとんど残っていないはずのオリビアにとっては、唯一縋り付くに足る形見のようなものなのだろう――。
料理する妻を、手伝いと呼べるほどに手伝ったことなどなく、当然レシピなど教えられてもいないはずなのに……。
自らの思い出と私の感想だけを頼りに、調子が良いときを見計らっては試行錯誤を重ね、妻の味に近付けようと努力していた。
しかし、皮肉にも――。
娘がそうして料理に挑戦したりできるのも、葬悉教会が約束を守り、我らを庇護したからに他ならない。
世界最高峰の治療、そして生活の保障を与えるという彼らの言葉――それそのものに偽りはなかった。
――少なくとも、私が彼らに忠実でいる限りは。
こうして、葬悉教会に身を寄せることになって……すでに三年。
その間に殺めてきた人々の名を、私は忘れることがない。
決して忘れてはならないと、常に心に刻み込んできた。
その犠牲の果てに……私は今こうして、娘とともに過ごす時間を得ているのだと。
当然のことながら、娘には私の『仕事』が何であるかは伝えられていない。
だが親の贔屓目を差し引いても、オリビアは妻に似て聡明だ。
暗殺者という単語には行き当たらなくとも、私が――そして私たちを取り巻いているこの組織が、非合法な行為に手を染めていることぐらいは察しているだろう。
察して、その上で……聡明であるがゆえに、私たちの事情を思ってそのことには触れず、ただ、普段通りでいようとするのだ。
「……どう? パパ」
シチューを食べ終えた私に、オリビアは目を輝かせて感想を尋ねてくる。
こういうときに見せる表情は、年相応の無邪気なもので、私を安心させてくれた。
「ああ……美味かったな」
私の返事に、そうじゃない、とむくれるオリビア。
もしかすると、私が誤魔化そうとしているとも感じたのかも知れない。
「……そうだな。もうほとんど、母さんの味と同じだ」
そこで私は改めて、素直にそう感想を言い直す。
事実、私は手掛かりも少ない中、よくここまで妻の味を再現したものだと感心していたのだが……オリビアはまだ不満らしい。
むくれたまま、首を傾げて愛らしく唸る。
「この間、パパが言ってた通りにしてみたはずなのになあ……。
あと、何が足りないんだろう……」
いっそのこと、まったく同じだと言ってしまえば良かったのかも知れない。
所詮、基準となるのは私の主観でしかないのだから。
ここのところ、日に日に衰え、施設内の庭まで散歩に出る回数すら減ったという娘。
その命が、まさしくいつ果てるとも知れない状態だと知っていればこそ、こんな嘘ならいくらでもついて、満足させてやるべきなのかも知れない。
だが、私は――だからこそ逆に、正直でいることにした。
思い出の味を追い求めようとする姿勢がある限り、その熱意がオリビアの命を繋ぎ止めてくれるのではないかと期待して。
あるいはいざ最期を迎えたとき、それは小さなことでしかないかも知れないが……一つのことをやり遂げたという、偽りのない達成感を得てくれればと願って。
「……すまんのぅ、邪魔するぞ」
病室のドアが開き、白衣の老人が姿を見せたのは……。
もう少し何か教えてやれることがないだろうかと、頭を捻っていたときだった。
主治医として、娘の『最高の治療』の人的な部分を担っているのが――。
組織に『碩賢』との通り名を受けた、この老人だ。
もとは世界的に名医として知られていた彼だが、その研究に目を付けた組織によって死を偽装され……半ば拉致に近い形で、組織に取り込まれたのだという。
無論、彼も当初は組織への反発心しかなかったようだが……。
人里離れた山奥、一個の独立した都市機能さえもった、城塞のごときこの施設に、組織の手足となって働かされる子供たち――。
そんな、彼の治療を必要とする者たちが数多くいることを理解するにつけ、どのみち老い先短い身の上なのだから、自分はここでできることをしよう……と、開き直ったらしい。
しかしそうした人道的な理由とは別に、表社会の学会ではまるで相手にされなかった研究について、組織が全面的な支援を買って出たことも……組織に腰を落ち着けることを決めた理由の一つになった、とは本人の弁だ。
もっとも彼は、いかに支援を受けようと、組織にその研究の成果を渡すことだけは絶対にしないと、固く誓ってもいた。
不老不死の実現という、夢物語のような――。
そもそも実を結ぶかどうかも分からない、その研究については。
「先生……もう検査の時間なの?」
「うむ、すまんのぅ、オリビア。
たまの親子水入らずの団欒を、邪魔したくはなかったんじゃがなあ」
碩賢は目を細めて優しく笑いかけながら、少し不服そうな娘の頭を撫でてあやす。
……優秀な医師であり研究者であるという以前に、私は、彼の人間性にこそ最高の治療があると思っている。
オリビアを本当の孫のように大切にしてくれる彼のような人間がいるからこそ、治療施設に半ば監禁された状態にありながら――しかしオリビアも塞ぎ込むことなく、少なくとも精神的には健やかでいられるのだろう……と。
「――オリビア。先生の言うことを良く聞いて、良い子にしているんだぞ?」
私はベッドに投げ出された娘の小さな手を握ると、そう言い聞かせて立ち上がった。
「……パパ、これからまた、お仕事?」
「ああ。今回は少し遠くらしくてな。
いつもより、帰るのが遅くなるかも知れないが……」
自分でそうとは意識していなかったが……。
そう言う私の表情は、多少なりと沈んで見えたのかも知れない。
私を元気付けようとばかりに、オリビアはにこりと笑って見せた。
「うん。先生もお兄ちゃんたちもいるし……わたしなら大丈夫だから。
だからパパも、ケガとかしないように気を付けてね。
また、ママのシチュー作って……帰ってくるの、待ってるから」
「ああ、楽しみにしている。
――先生、娘のこと、よろしくお願いします」
「……うむ。お前さんも気を付けてな、カイン。
くれぐれも、無茶はするでないぞ?」




