枯れ専悪役令嬢。
会社早上がりの日、五十路の彼はスーツのまま白髪になり掛けの銀髪をなびかせながら大正レトロな古書店に入った。
間口も狭く天井まで覆いつくす古書は窮屈さを殊更に増していたが本好きな彼にとって至高の場所であり、過ごす時間はまさに至福の時間だった。
そんな彼に対し、細い指で本を指しながら
「その本取ってください」と
隣で棚を見ていた令嬢が不躾に言葉を放った。
「あっ、この本ですか?」
急な事に戸惑いながら本を取り、手渡した。
「春琴抄、好きなのですか?いや、今から買う訳だから違いますね、すみません。
谷崎と言うか、春琴抄が好きなもので」
彼女はフフっと笑った後、本を摩りながら
「私の名前は春崎琴音で、昔から春琴抄に親近感を覚えていて、見つけると買っちゃうんです。この本いります?」
そう悪戯っぽく言いながら撫でていた本をおもむろに差し出した。
彼は慌て受け取り
「は、はい」
「お持ちなのに?可愛い方ですね」
圧倒的に年下にも関わらず、彼は満点を褒められた子供の様に照れていた。
「近くに喫茶店があるので、良かったら春琴抄を語らいながら珈琲でもどうです?」
いつもなら断っていた所なのだが、彼の中の何かがそれを阻んだ。
そして、促されるまま喫茶店の奥にある個室に入り席に着いた。
彼女は春琴抄を机に置き
「二人きりですね」と聞こえる声で囁いた。
その一言で緊張を増しつつ注文した一杯立ての珈琲がすぐに来た。少なくとも彼にはそう感じた。
そして、とりあえず飲もうと彼がカップに手をやろうとした瞬刻
「左利きなのね」と言いながら裸の薬指を撫でた。
「あっ、いや、その」と
頭が回らず戸惑っていると。
「貴方、紳士だから既婚なら来なかったはず」
「紳士だなんて。独身です、だからと言って…」
「何も期待してなかった?」
額から一筋の汗が流れた。
「あっ猫」
彼女は、幼いくらい無邪気な表情になって華奢な指で彼のネクタイをスルッと出した。
「この猫の柄、可愛い」
「猫可愛いですよね」
照れを隠すために一生懸命吐いた言葉は彼女の指よりも弱々しかった。
その表情に何か感じたのか、彼女は持っていたネクタイの先を持ち、軽くキュッと締めた。
「はぁっ」
吐息にも似た声
「どうしたの?」
「どうして欲しい?」
器用に一瞬でスルスルとネクタイを緩め、上のボタンを外した。
「はあぁ」銀髪紳士の抑えきれず漏れる声。
「私、ずっと頑張っていた様な男。健気で美しいものを汚したいの」
彼は汚されたいと祈った。
『なろうラジオ大賞』応募にあたり、なんとか1000文字に収めた作品です。
もっと比喩や情景など書き加えたかったですが…。
折を見て文字数制限を考えずに書いたものを投稿できたらいいな、と思っています。