心のユキサキ(6)
此岸と彼岸。生者と死者は、異なる世界に属するもの。この世界は生きているもののためにある。ならばこの世界において、死者の理を受け入れるものは等しく邪悪であると判断される。
死んだ人の言うことばかり聞いても、生きている者には何ら益はない。冷たく感じられるみたいでも、死んでしまえばもうこの世界からは離れるべきなのだ。いつまでもしがみついていたところで、お互いに良い結果を生み出すことはありえない。
故に、死者の言葉に耳を傾け、その願いを聞き届けようとする死霊術師とは、邪悪な存在である。
「死んでしまったユキちゃんは、何を願ったんですか?」
恋人だったコウと、死んだ後も結ばれることか。
それとも姉のサキと、コウが仲睦まじくなることに反対しているとか。
ハナの質問に、死霊術師は穏やかな表情で語った。
「止めてしまっていた時間を動かすこと、です。ユキという子は、あなたたちが思うよりもずっと強い子なんですよ」
「サキ、俺はあの日、ユキに別れ話をするつもりだったんだ」
コウの言葉が、サキの心臓を貫いた。どうして。
――どうして、そんな酷いことを言うんだ。
そう口にしようとしたが、喉に詰まって出てくることはなかった。その理由に、サキには心当たりがないわけではない。それを期待してしまう自分が、情けなくてたまらなかった。ほら、また湧いてきた。早くナイフで刺して、殺してしまわないと。
なかったことにしておかなければ・・・今度こそ取り返しのつかないことに。
「俺はユキに告白されて付き合うことにしていたけど、俺にはもっと好きな人がいたんだ」
もう。
もうやめて。
そんなの、聞きたくないよ。
その感情は、生まれてはいけないものなんだ。
だって、サキなんだよ?
ユキじゃないよ? 可愛くなんかなくて、いつもじっとしていなくて。
走ることばかりで、少しも「女の子」じゃない。
高校に入ってからも、「王子様」なんて言われて。女の子からきゃあきゃあ騒がれて。
そんな自分でも良いかな、なんて。
そうやって、ようやく何もかもを諦められそうになっていたのに。
どうして?
――どうして、今なの?
『好きだから、だよ』
サキの手の甲に、誰かが触れた。温かくて、冷たくて。淑やかで繊細な、サキの中の「女の子」。視線を上げると、目の前にコウがいた。
サキ先輩は、妹のユキに女の子としての全部を譲るつもりでいた。自分の好きな相手であるコウについても、そうだ。女の子としての魅力がより強いユキと結ばれる方が、コウは幸せに違いない。妹のユキなら、サキ先輩自身も認めることができる。そんな想いでいたのだと、因幡先輩が教えてくれた。
それはそれで、悲壮な覚悟だ。ハナで言えば、朝倉先輩を曙川先輩に任せる、ということかな。うん、心のどこかでは、それが相応しいって理解している。だからって、ハナの場合はそう簡単には認めてあげないけどね。ハナだって可愛いし。朝倉先輩のこと、ちゃんと幸せにしてあげられる自信だって持っている。根拠? そんなのは後付け設定でどうにでもなるんだって。
「サキは陸上部のエースだし、女子にはモテモテだ。女の子っぽさなんかなくても、十分に魅力的だ」
サキ先輩の噂は、一年生にも届いている。ハンドボール部の活動をしていても、陸上部にカッコいい女子がいると話題になればサキ先輩のことだった。すらりとした長身で、ショートカットが良く似合って。去年の学園祭で、やきそば千食を完売させた伝説を持っているとかなんとか。ハナは遠目に見たことがある程度だけど、なんというか、同じ人類なのに骨格から別物なのだと自覚させられたね。
「ユキちゃんとは、全然違うタイプってことですか?」
ああ、そういうことか。ハナと曙川先輩は、系統としては近い部類に入る。ふわっとして、ガーリッシュな感じ。綺麗系と可愛い系なら、可愛い系。かっこよさとは若干離れている。うん、若干。
異性の好みなんてのは人それぞれだ。それにぶっちゃけ、サキ先輩って外見もかなり整ってますよね。女子人気は伊達じゃない。天は二物とか三物とかホイホイ投げ売りしすぎですよ。ハナだって曙川先輩とはいい勝負、負けてないつもりなんだけどなぁ。
「俺はサキと・・・同じ高校に通いたかったんだ」
それは、ユキの気持ちを裏切る行為だった。コウは十分に承知していた。その上で、自分に嘘を吐き通すこともできなかった。
表には出せない――隠された想い。許されないと知りつつも、コウにとってサキの高校に進学することは、どうしても譲れない一線だった。
せめて、そこで顔を合わせることがあるという言い訳が得られなければ。
ユキの月命日にサキの顔を見るという事実が、コウの中で罪悪感となって重くのしかかってきてしまう。
「サキ、ごめん。ユキ、ごめん。俺はずっと、ごまかしていたんだ」
子供の頃から見つめ続けてきた、眩しい背中。コウはいつだって、そこに手を伸ばしていた。前だけを向いて、真っすぐに駆けていくサキに並びたかった。同じ場所に立って、同じ景色を眺めたかった。
同時にコウは、後ろから声をかけてくるユキのことも見捨てられなかった。ユキが好きだという感情は、確かにある。サキにはない魅力が、ユキの中には溢れている。ユキはとても愛らしくて、周りにいる誰が見てもユキの方が美人であると評価を下すだろう。
でも――
「ユキとサキは違う。俺が求めていたのはユキじゃなくて、サキなんだ。本当に好きなのは、サキなんだ!」
サキの肩が、びくん、と震えた。最悪だ。そして、最低だ。コウのしていることは、ユキとサキの両方を傷付ける結果となってしまった。
最初から、なんでそう言えなかったのだろうか。
ユキの気持ちを知っていたのに。
その場だけを取り繕って、交際を始めて。
それなのに、サキの姿ばかりを視線の先に捉えて。
ユキにその事実を告げようとしたところで、ユキは死んでしまった。
コウにはもう、サキのことを想い続ける資格なんてない。
遺影の前に座る度に、苦しくて苦しくて仕方がなかった。
その行為が、ユキを偲ぶためのものなのか、サキとの繋がりを保つためのものなのか。
考えれば考えるほど、自分自身を許せなくなった。
せめて。
せめて、サキの近くにはいたい。
いさせてほしい。
その小さなわがままを満たすために、コウはサキと同じ高校に進学した。
サキの噂を聞くと辛かった。
サキの姿を見かけると胸が痛んだ。
これは、罰だ。
どんなに好きでも、コウはもうそこに首を突っ込んではいけない。
走り抜けていくサキの背中を、黙って見送ることしかできない。
自分から近付いておいて。
寄ってくるなら、遠ざけるしかない。
ユキに与えてしまった痛みに対する、コウが自身に課した報いだった。
「サキ、俺はサキのことが好きだ。ずっと前から、ユキよりも、サキのことが・・・好きだったんだ!」
身勝手なことを言っているのは判っている。許されるだなんて思ってもいない。
嗚咽が止まらない。言葉にしてしまったことで、ユキへの罪の意識がより一層強くなった。愛される資格も、愛する資格もない。サキにも、ユキにも、合わせる顔なんてなかった。
――やっぱり、サキの近くにいるべきじゃなかったんだ。
静かに、そっと蓋をしておけば良かった。長い時間をかければ、忘れることも可能だったかもしれない。ユキのことも、サキのことも。全部雨に流されて、綺麗さっぱり消えてなくなって。
そのまま、コウ自身も。
『そんなこと、ないよ』
コウの背中に、掌が当てられた。小さくて、温かい。さっきから、ずっと感じている。こんなものは都合の良い解釈に基づいた、妄想の産物だとばかり思っていた。
ユキの言葉を捏造して、サキへの気持ちを無理矢理に肯定するなんて。コウは卑怯者だ。小さな身体が、体重を預けてきた。ユキ。ごめんよ、ユキ。ユキのことだって、好きだった。本当なんだ。でもそれは、サキへの好きとは比較にならないものだったんだ。
『判ってる。別に、許すとか、そういうつもりはないから』
コウはその場に膝を付いた。ユキがいる。うなだれると、涙が落ちて地面の上に染みを作った。この声がユキなら、コウはいくら謝っても、心が晴れることはなかった。
土下座だって、なんだってする。サキの前から消えろというのなら、それに従う。コウがユキに与えてしまった仕打ちを省みれば、それは当然のことだった。
「コウ」
今度は頬に、より確かな感触があった。コウは一息に現実の世界へと連れ戻された。指先の向こうに、命の脈動が感じられる。きゅっと吊り上がった、猫みたいなサキの瞳。そこに浮かんだ表情を見て取って、コウは思わず嘆息した。
「泣かないで。ユキがそう言ってる」
死霊術師の言葉を信じるのならば、ユキはコウにもサキにも危害を加える意図はないとのことだった。安心、と言ってしまって良いのかどうか。因幡先輩は力強く頷いて応えてくれた。ああまあ、それならそれで構わないんですけど。
ハナ的には今のところ、この死霊術師が一体何者なのか、という方が断然気になるんですね。
最初に因幡先輩が「目を瞑れ」と指示したのは、ハナの『真実の魔眼』が死霊術師の『本当の姿』を遠慮なく暴いてしまうからだった。何かと場慣れしている因幡先輩と違って、ハナは一般ピープルど真ん中だ。このトンネルの中をふよんふよんとしている死霊たちだけで、ばっちりと肝を潰している。
そこにこんなのが出てきたら、そりゃあ悲鳴の一つくらいは余裕で上げますって。とりあえず自分で絶叫しておいて、「うっわ、あんまり可愛くないなぁ」とか自己嫌悪に陥りましたよ。こういう場合、せめて「きゃあ」って言おうぜ自分マイセルフ。
「死霊術師さんはその、生きている人間なんですよね?」
「一応そのつもりですよ」
ははは、「一応」ときたか。なるほど。魔法使いとかその辺の世界っていうのは、奥が深い。ハナも『真実の魔眼』が使えるようになってからこれまで、理不尽に妙なものを目撃したりもした。はっきりと見えちゃうようになれば大抵のものは怖くなくなるとか、あれはデラタメだね。怖いよ。すっごい怖い。
で、この死霊術師の場合はそれを飛びぬけて断トツで怖かった。
外見は、中学生くらいの細めの女の子だ。黒いドレス風のひらひらとした服装に、黒手袋。長い髪の毛も黒一色。対照的に、素肌の方は真っ白だ。以前テレビでドールとかいう割と大きめの人形が紹介されていたことがあって、それに似ている気がした。
・・・っていうか、ほぼほぼそれだ。
他の部分はともかく、眼を見たら歴然だった。この人――うん、便宜上この『人』の身体には、血が流れていない。
血肉、そして生命。それらが一切感じられなかった。どこからどう見ても人間なのに、生き物ですらない。機械、っていうかそれが魔法なのか。本物そっくりの部品が組み合わされて、実に滑らかな動きを作り出している。でもそれ、全てまがい物ですから。口を開けて声帯を震わせて発している言葉ですらも、精巧な偽物。ハナの『真実の魔眼』は、無情にもその本質を見抜いてしまった。
「『真実の魔眼』が相手ではどうしようもないですね。フユさんは良いお友達を持たれたようで。皆さん安心されますよ」
「それはどーも」
因幡先輩は、どうしてそう普通にしていられるんだか。とにかく、サキ先輩に関しては死霊術師さんに任せてしまって問題なし、と。そういうことにして、こんな物騒なところからはさっさと退散しましょうよ。本体の視えない人型と会話しているなんて、どう考えてもまともじゃないですってば。
しかし何よりも恐ろしいと思うのは、この死霊術師が当たり前のように街中を歩き回っていたとして――
その正体を誰にも見とがめられそうにない、ということだった。
ハナは『真実の魔眼』があるから気付けるけど、ここまで生身に近いと判別のしようがない。
世の中にはこういった化け物みたいな存在が、果たしてどれだけ紛れ込んでいるのか。考えたら憂鬱になってきそうだった。晩御飯を食べる頃までには早急に忘却しておくことにしよう、そうしよう。
「死霊術師さんは、お名前は何とおっしゃるのでしょうか?」
何気なく訊いてみたら、なぜだか敬語になってしまっていた。よく判らないものを相手にしているという、苦手意識からかな。死霊術師はきょとんという顔をした。あれ、変な質問でしたか。まさか、リカちゃんとか言わないよな。商標とかに引っかかるぞ。
「魔法使いは、深い関わりを持たない相手にはあまり名乗ることはしないのです。貴女が今後も私とお付き合いを続けていきたいとおっしゃるのであれば、やぶさかではありませんが」
いーえ、滅相もございません。
魔法使いにも色々あるんでしょうけど、死霊術師は輪をかけて辞退させていただきます。ハイ。
「では二つ名だけ。『夢視る死霊術』と申します。またの機会がありましたら、お手柔らかに」
ええっと、ちょっとカッコいいな、とか思ったりしていないんだからね。機会なんかなくても構いません。ハナはそっちの世界とは無縁の、普通の女子高生なんです。