心のユキサキ(5)
猛獣の唸り声に似たビブラートたっぷりな重低音が、下腹の内側にまで響いている。どうしてこうなった。梅雨の近付いた曇天の下で、人も車も通らない旧道のトンネル前っていうシチュエーションは若干季節外れだ。ハナ的にはこういうのは、夏休みの特別番組とかでテレビの画面を介して観るものなんだけどな。
「ん? やっぱり視えちゃうものなの?」
因幡先輩、それ、ワザと言ってますよね。ハナが『真実の魔眼』持ちだって判ってますよね。それに、ハナは知っているんですよ。ここが『恐怖! 心霊スポット百連発!』とかいう、頭の悪いヤンキーどもが喜んで飛びつきそうなコンビニ雑誌で紹介されている場所だって。
ハナがどこでそれを読んだかとかはどうでもいいんです。問題はなぜ、ハナと因幡先輩が二人でここを訪れているのか、ということでしょう。
「夜の方が良かった?」
勘弁してください。薫風の候、新緑の美しい五月の大自然に囲まれて、朽ちかけたコンクリートにぽっかりと穿たれた穴のまあ暗いこと暗いこと。間違いなく電気が通ってませんよね? しかもつい先ほど、フェンスのようなものを乗り越えた記憶があるのですが。ぶっちゃけこんな場所に制服姿の女子高生二人が入り込んでるのって、昼でもヤバいですよ。鬼ヤバですよ。
やっぱり、因幡先輩の伝手とやらはまっとうな相手であるとは思えなかった。なんでまた、待ち合わせにこんな『心霊さん、いらっしゃぁい』なロケーションを選ぶんだか。せっかくの土曜日の午後、ハンドボール部の活動もお休みなのに。こんな肝試しに強制参加させられるだなんて、どんな罰ゲームなんだ。
本当なら今日は、朝倉先輩と良い感じに抜け駆けできるはずだったのにな。悪いのは宿題をちゃんと提出できなかった、曙川先輩だもん。朝倉先輩は今頃、学校で曙川先輩の補習が終わるのを待っている。ハナはその間、朝倉先輩とちょっとばかりお話しさせてもらえれば良かったんです。千里の道も一歩から。大事なのはインパクトと、たゆまない努力。健気で一途なハナの魅力に、朝倉先輩を少しずつ虜にしていっちゃうんだから。
「おーい、ハナ、中に入るよ?」
・・・ためらいがないな、因幡先輩は。こつーん、こつーんとローファーの音が反響する。空気が湿っていて、重い。ありがちな描写だと、ねっとりとしてまとわりつくような、って感じかな。まったりとしてしつこくない、と似ているよね。あれ、そうでもないか。ざっくりとして突き刺さるような、って言うと痛そうだ。ああもう、そういう方向に持っていかない!
なるべく余計なことを考えて、意識を向けない努力はしているんだけど。
どうしても、視界の隅をちらちらと『何か』の影がよぎっていく。はい、死霊ですね。死んだ人ですね。ここにも、そこにも、あそこにも。ワォ! ううう、視えるっていうのがこんなに恨めしく思えたのは久しぶりだ。何かここ、矢鱈と吹き溜まってません? 因幡先輩にだって同じに視えているはずなのに、なんでそこまで平然としていられるんだ。
「みんな死んでるしねー」
ですよねー、じゃあ安心だー。
・・・ってなるかぁ! 死んでるから怖いんじゃないですか。ハナには視える以上の力はないんですから、いざという時はちゃんと守ってくださいよ?
「心配しないで。ハナの『視える』のに期待しているんだから」
視ること、そして見抜くことに関しては、ハナの『真実の魔眼』は『銀の鍵』ですら凌駕する。特化型だからこそのアドバンテージがどうたらこうたら。その辺りの魔術的な理屈については、これっぽっちも興味がなかった。
とにかくハナは、ここに罠が仕掛けられていないことを確認すれば良い。後は今回会う相手が因幡先輩にとっても初見だということで、その言葉に嘘がないことを証明する見届け人になる。責任重大なんじゃないですかね。その人って、魔法使いなんでしょう?
「死霊術師だって聞いてる」
語感からしてもう、嫌な印象しか抱けなかった。確かにそりゃ、死んだ人に関しては専門家だろう。こっちの疑問にも的確に答えてくれそうな、ベストマッチだ。
でもそれって――ハナがいないところで、なんとかできないものですかねぇ?
「来たみたいだよ」
ただでさえ冷え切っていたトンネル内の空気が、更に温度を下げた。ぴん、と張り詰めて、まるで氷の棺にでも閉じ込められたみたいだ。カリツォー・・・ってなんだっけ?
「ハナ、魔眼で相手の嘘を見抜くのって、目を閉じてても使える?」
何ですか急に。
多分、できますよ。声に嘘の匂いが乗っているのが判るというか。魔力自体は目に込められてますけど、視界を奪われても効果が消えるわけじゃないので。どのような手段を用いても『真実の魔眼』を欺くことは不可能、です。ハイ。
「じゃあ、すぐに目を瞑ってくれた方がいいかな」
ふえぇ、ただでさえ怖いのに、目隠しプレイとか。因幡先輩じゃなきゃ、怒って帰ってますからね。トンネルの先に誰かの姿が見えたような気がしたところで、ハナはぎゅむっと固く瞼を下した。見ない。絶対に見ない。因幡先輩が、力強く掌を握ってくれた。その温かさだけが、生者の世界との繋がり。そう思ったところで、落ち着いた雰囲気の女の子の声が辺りに反響した。
「初めまして、ですわよね因幡フユさん。『銀の鍵』との接触は禁則事項ですので、こんな場所を指定することになってしまって申し訳ないです。宮屋敷より非公式にですが、よろしくとの言伝を預かっております」
――全部、本当だ。
え?
何それ、ちょっと意味が判らない。
禁則事項ってことは、『銀の鍵』とは話したりしちゃいけないってことなのかな。そう言えば以前聞いた魔法使いさんも、因幡先輩と直接会おうとはしてくれないみたいだった。それに。
宮屋敷って、誰だ?
ハナの不安を感じ取ったのか、因幡先輩が体を寄せてきてそっと囁いた。
「大丈夫。嘘がないのなら、この人は味方だ」
――これも、本当。
因幡先輩には、ハナの知らない秘密がたくさんある。それは訊いてしまっても、良いことなのかどうか。ハナは、因幡先輩が自分から話してくれるまで、こちらからは尋ねないことにしていた。
だって、図書室で一人でいるときの因幡先輩は。
とても悲しそうな目で、どこでもない空間を見つめているから。
「八代コウという男の子についてです。私と同じ高校に通っているんだけど、何か心当たりはありますか?」
暗闇の中に、因幡先輩が問いかけた。どうもさっきからおかしい。因幡先輩の存在は、しっかりと掌を通して感じられる。それに対する相手の声は、トンネルの先の方から流れてくる。
「ええ、あります。そうですか、その件に関してのことだったのですね」
ただ、この気配はあからさまに『変』だった。具体的に何がどうと説明するのは難しい。『真実の魔眼』も違和感をビンビンに感知している。言葉に嘘はない。偽りなのはそこではないのだ。ああくそ、なんだかもどかしい。
「八代コウは現在私が仕掛かっている案件です。どうかご心配なく。生きている方々に対しても、悪いようにはいたしませんよ」
それは一体、どういう意味だ。嘘がない。その発言の内容は完璧な真実で満たされている。しかし唯一おかしいのは――
この声は、偽物だ!
真実を見抜いたハナは、思わず眼を見開いてしまった。魔眼が、そこにいる死霊術師の姿を赤裸々に映し出す。まるで人間の女の子そっくりな外見を装った。
「うわあああぁぁ!」
邪悪な死霊術師が、にやりと口角を持ち上げた。
あの日と同じ曇り空からは、いつ雨粒が落ちてきても不思議ではなかった。
三年という決して短くもない月日が流れて、未だに何をする気力も沸いてこないことに驚いている。成し遂げられたことは、最低限度の一つだけ。本当に、情けない限りだった。
サキの言う通り、部活でも始めて見ればいいのだろうか。中学時代のコウは、何をしていたのか。思い返そうとして、やめた。そこには、悲しみしかない。振り返ったところで、得るものなんて一つもなかった。
ユキのことは、好きだった。
その気持ちは本当だ。いつもコウのことを追いかけて、呼びかけてくれる。急にどこかにいなくなってしまったりはしない。コウのことだけを見て、コウのことだけを想ってくれる。優しくて、おしとやかで。綺麗に着飾って、コウの隣にいてくれる。
それで、良かったんだ。
雨が降る中で、コウは傘をさして立ち尽くしていた。ばらばらという音に紛れて、伝えてしまおうと思っていた。コウの胸の奥にある、どうしようもない感情。好きな人は、決まっていたはずなのに。それを受け入れて、幸せであると感じていたはずなのに。
どうして、そんな残酷なことを告げなければならないんだ。
遠くで救急車のサイレンが聞こえた。なぜか、胸騒ぎがした。時間になっても、ユキは来なかった。衣服が濡れて、手足が冷たく冷え切って。
唇が真っ青になった頃になってようやく、公園の入り口にサキが駆け込んできた。
サキは雨だろうがなんだろうが、いつでもお構いなしだった。傘もレインコートも身に着けない。きっと雨粒が落ちるのよりも早いんだ。ユキとそんなことを話して笑い合った。
――笑っていたんだ。
気が付いたら、コウはその公園の前に立っていた。こんなことは、しょっちゅうだった。ここだけはいつも変わらない。近くの駄菓子屋は潰れて普通の民家になったし、広い畑も大きなマンションになった。
どうして、この公園はまだあるのだろう。
いっそなくなってくれれば、忘れることだってできるのではなかろうか。あの時のコウが伝えようとしていた言葉。コウを信じていたユキの笑顔。そして。
どこまでも遠ざかっていく、サキの背中。
「コウ」
サキの声がして、コウは動揺した。誰もいないと思っていた公園のブランコに、誰かが腰かけていた。・・・『誰か』なんてしらばっくれる必要はない。サキだ。ユキがいた場所に、サキがいる。その現実を見て、コウの心は乱れた。
なんで。
『あのね、コウ』
よく覚えている。白いワンピースだった。うっすらと、体のラインが透けて見えてドキドキとした。普段よりも、一歩距離が近い。サキは確か、中学校のグラウンドまで駆け出していた。それを追いかけようとしたコウを、ユキが呼び止めたのだ。
『私ね、コウのこと』
言われるまでもなく、判っていた。ユキの気持ちなんて、改めて告白されるまでもない。コウもユキのことを、可愛くて素敵な女の子だと思っていた。いつか時が来れば、付き合うという可能性もあるだろう。比較的ありえる未来が訪れた。
それだけの――ことなのに。
コウは奥歯を噛み締めると、無言のまま後ろを向いた。じゃり、という音が足元から聞こえる。サキが手を持ち上げて、そのまま固まる気配がした。追いすがって、無理に引き留めることはしてこない。そうに決まっている。サキだって判っているんだ。
だって、そうじゃなければいけないんだ。コウは、ユキを選んだ。ユキの想いを受け入れて、ユキと一緒にいようと心に誓った。それはコウにとって充分に幸せな選択だった。ユキのことは好きだった。絶対に。ちゃんと好きだったんだ。
コウは、ユキのことが好きなんだ!
『コウ』
耳に入ってきた呼びかけに、コウははっと息を飲んだ。サキの声なのか。それにしては、幼さが残っていて。後はどことなく。
――懐かしい。
『もう、いいんだよ』
いいって、なんだよ?
ずっと、後悔してたんだ。
あの日、コウがユキのことを呼び出したりしなければ。
こんなことにはならなかったんだ。
コウに、勇気があればよかったんだ。
ユキのこと、一番に好きだよって。
いつまでも好きだよって。
そう言えれば、言ってしまえれば。
それで。
それだけで――
『ううん、違うよ』
ほんとうは、わかってた。
みんな、わかってたんだ。
だから、もうまえにすすもう?
小さな手が、コウの指にそっと触れた。視えない姿。聞こえない声。
そこにはいない、誰か。
導かれるままに、コウはゆっくりと公園の中に足を踏み入れた。ブランコから立ち上がったサキが、すぐそこにいる。
ずっと追いつけなかったサキと正面から向き合うと、コウの目から自然と涙が零れ落ちた。ぼろぼろと、後から後から際限なく。
視界が滲んでよく見えないサキの顔も、ぐしゃぐしゃに濡れていた。