心のユキサキ(4)
朝の空気は清々しい。そりゃあもう、普段の三倍増しくらいで。冬が終わって、陽が長くなったのもあるかな。夏服には早いけど、ぽかぽかとした温かささえも感じられる。うん、それもこれもハルが一緒にいてくれるからだ。
ハンドボール部に朝練はない。ハルとはいつもみたいに早朝、通学路の途中にあるコンビニで待ち合わせしている。ハルの分のお弁当まで準備しなきゃだから大変。でも、この幸せには換えられない。人の少ない早朝の通りを二人きりで登校する、ヒナの甘くて大事な蜂蜜タイムだ。
これが少し前には、ハナのせいで散々な目に遭った。既にハルと付き合っているヒナに対して、一方的にライバル宣言してきてさ。それを聞きつけた野次馬的一年生女子共がどやどやと押しかけてきた挙句に、「ハナちゃんが可哀想だとは思いませんか?」って――
思うワケねぇだろうが、このボケナスが。
あのね、ヒナだってすっごいすっごい大変な思いをして、ようやくハルとお付き合いできているんだからね。傍目にはもうラブラブチュッチュにしか見えていないのかもしれないけど、それは血の滲むような土台があってこその結果なの。
それに、言う程アツアツカップルしてないから。できてないから。むしろしたいの。今だって本当は腕とかぎゅーって抱きしめて、いっぱいいっぱいハルにくっついて、頭とか髪とか撫でてもらって、超幸せボンバーを全方位に向かって放ちまくりたい所存なわけ。ドゥーユーアンダスタン?
で、所詮は他人事でしかないニワカ勢は、ハルとヒナの登校時間に合わせることがすぐにできなくなったのでした。ふははは、ざまぁみろ。人の恋路に口を出してる暇があったら、自分のことをなんとかしなさいってことですよ。
ようやく戻ってきた静かな日常に、今朝はハルと顔を見合わせて思わず吹き出してしまった。去年は色々あって、ヒナたちは学校で公認同然のカップルになった。冷やかされたりなんだりもあって、二年生でも同じクラスになれて。もうそろそろ一緒にいるのも当たり前なことだと、周囲の評価も落ち着いてきたところだったのに。
ハルには感謝だ。今こうしてヒナが安心していられるのは、ハルが一年生の時に告白してくれたから。二人の気持ちは同じだよって、ちゃんと認め合うことができている。『銀の鍵』なんかなくたって、心は一つだって信じられる。
それって、とてもすごいことだ。
ヒナがハルのことを、男の子としてしっかりと意識し始めたのは小学校三年生の時。ハルもその頃から、ヒナのことを大事にしてくれていた。そうやってお互いのことを想い続けて、結ばれるっていうのはなかなかないんじゃないかな。
――だから、サキのことを考えると苦しくなる。どうにかしてあげられないのかと、思い悩む。
「そうか。なんか、大変だな」
ハルには、とりあえずサキとコウの関係だけを相談した。「ハナが何か憑いてるって言ってたよ」とか、余計なことはお口にチャック。ハナの評価を『不思議ちゃん』にしてやりたいところだけど、ヒナが後輩のことを悪く言うみたいに思われるのはノーサンキューだ。嘘は何一つ含まれていないのにね。おかしいね。
「私は、サキに幸せになってほしいかな」
サキは、幼馴染のコウのことをずっと好きだったんでしょう? 妹のユキがいるから、それを諦めてきた。ユキが死んでしまって、そこにつけ込むみたいになってしまうのは確かに否めない。
でも、だからといってその気持ちを殺してしまっては、いつまで経ってもサキが報われないじゃないか。
二年になってサキとはクラスが別れてしまったし、今は大会前であまり変な刺激を与えたくはなかった。サキ自身の考えというものもあるだろう。ヒナも馬鹿じゃないから、自分の意見を押し付けるようなことはしないつもりだ。
サキの結論は、どちらに転ぶのか。コウに憑いているユキがどんな影響を与えているのかも、現時点では定かではない。状況によってはサキの意思を無視して、『銀の鍵』を使った力ずくの解決に頼ることになる。
そういうのは正直、もうやりたくなかった。去年の夏、ヒナはやはり同級生の友達、サユリに対して『銀の鍵』を使った。サユリは自分自身を傷付けるほどに厳しく、自らを律する妄執に悩まされていた。
その強固な楔を、ヒナは一刀両断に断ち切った。サユリはヒナにとって、大切な友人だったからだ。それがたとえサユリの願わない道であったとしても、サユリには元気でいてほしかった。夢を追いかけてもらいたかった。六月の大会では、サユリは水泳部の選手として出場する。そのことをヒナは、心の中で誰よりも喜んだ。その方がずっと、サユリらしいと思えた。
そして同じくらい――ヒナは人知れずに傷ついた。サユリは何かを得るのと同時に、何かを失った。原因は、ヒナのワガママだ。ヒナが望んだ未来を、サユリには選ばせてしまった。その後悔を理解できるのは、同じ『銀の鍵』であるフユだけだった。
『ヒナの判断は優しい。それでいいんじゃないかな』
フユは、正しいとも間違っているとも言わなかった。その通りだ。そんなことは、誰にだって判りはしない。だからこそ、『銀の鍵』なんていらないと思う。ヒナは、そんな歪んだ力になんか頼らない。
自分のことに関しては、誓ってそう言える。
でもそれがサユリや、サキのことになったら――
「ヒナ」
ぽふん、と頭の上に大きな掌が乗せられた。ふわっ。油断してたからこれは効く。ハル、素敵だな。いつもこうやって、ヒナがしてほしいことを判ってくれる。ハルに何も話せないとき、黙ってヒナのことを支持して慰めてくれる。
「多分、そんなに悩むことはないんじゃないかな」
そう・・・なのかな?
この前昇降口でサキとコウが話をしているのを見ちゃたんだけど、あんまり平和そうではなかったよ。お互いに何かを抱えていて、それが打ち明けられずに、その手から離せないままって感じ。
それは多分、死んでしまったユキのことだ。どうあがいたって、そのわだかまりは残ってしまう。三年の月日が流れても、コウの背中にはユキの姿がくっきりと表れている。ハナがそれを、ばっちりと視てしまったわけだし。
「俺にはそういうの、よくわかんないんだけどさ」
そう? ハルさん、ここのところすっかりジゴロじゃないですか。知ってますよ、クラスの女子の間でも人気が高まっているって。ヒナと一緒にお昼にお弁当食べていて、それが可愛いとかなんとか。それ、ヒナのものですから。ヒナの作ったご飯を食べて喜んでいるハルの笑顔は、本当なら他の誰にも見せたくないのに。それを生み出したのはヒナです。ヒナなんですー!
もうね、どいつもこいつもホント油断ならないったらありゃしない。中学の時なんて、みぃーんなハルなんて見向きもしなかったくせに。「ハルカッコいいよ」って言ったら、「ああー、はいはいまた始まった」ってな扱いまでしておいて。それがなんという熱い掌返し。ハルもね、そういうの安売りしちゃダメだから。ヒナは知っているよ、イケメンを無駄にしているナシュトとかいう神様を。
「俺はヒナと一緒にいたいから、この学校を受けたんだ」
うん、ヒナもそうだよ。懐かしいね。ハルと毎日勉強会した。頑張って同じ高校に行こうね、って。その努力があって、今の二人の関係がある。決して棚からぼた餅とか、なし崩し的とか、そういうのじゃないんだからね。世の中の幼馴染男女が全部うまくいっているとか、そんなのは妄想! ありえないんだから!
ふがふがと憤慨していたら、微かにフルートの音色が聞こえてきた。あちゃー、もうこんなところか。学校が近付いてきたので、本日の蜂蜜タイムは終了だ。
ヒナとハルもかなり早起きをして登校しているけど、上には上がいる。吹奏楽部の朝練メンバーは、まだ空に星が瞬いている時間帯に個人練習を開始しているとか、半端ない。
去年同じクラスだったヒナの友人、フルート奏者のチサトは本校舎の屋上を練習場所にしている。そこからはヒナたちが使っている通学路が丸見えだ。以前はそのことを知らなくて、校門の近くぎりぎりまでハルと楽しくじゃれついていたりして。大変恥ずかしい思いをいたしました。反省。
「あ、そういえばさ、今度の土曜日、ハンドボール部の活動が急に休みになってさ」
あー、その話は聞いたわ。知ってたわ。意図的に記憶の中から消し飛ばしていたわ。
ハル、ありがとう。ちゃんとその話題を振ってくれて。そうだよね、デート、してないもんね。こんな形だけのおままごとなイチャコラじゃなくて、もっとがっつりと恋人的なこともしたいよね。ハルも男の子だし、ヒナもハルとは将来のことまで約束しているから、全然オッケーなんでもアリだよ。むしろもう、ハルのものにしてもらいたいかな。高校生って、コドモじゃないし。
でもね。
「えっとね、ハル。私ね――」
フルートの旋律が、甘いメロディに変調した。チサト、貴様見ているな! 確かに一見するとヒナが顔を赤らめて、もじもじと何かそれっぽい言葉を紡ぎ出そうとしているようには思えるだろう。しかぁし、残念ながらここはそんなロマンチックな場面ではないのだ。音声がお届けできないことが非常に残念です。
「私その日・・・補習なんだ」
ハル、あなたの彼女は馬鹿です。努力が足りませんでした。ゴメンナサイ。
欲しかったのは、コウと二人きりの時間だ。彼女とか恋人とか、そういうのはよく判らない。いつまでも一緒にいられればいいな、とは思う。感情としては、その程度のものだ。
公園のブランコで二人で並んで、他愛もない話をするのが幸せだった。コウが、ユキのことだけをみてくれる。それが何よりも嬉しかった。コウ、どこにも行かないで。ここにいて。ユキから離れないで。
サキが来ると、何もかもが台無しになってしまう。コウは、サキの方に走っていく。サキも、駆け足だ。ユキは二人に追いつけない。待って、って言うとコウが引き返してくる。悔しい。苦しい。
コウが傍にいてくれるように、ユキは色んなことを頑張った。
サキよりも綺麗に。サキよりも可愛く。それはみんな認めてくれた。サキだってユキのことを、自分よりも女の子だって。
そうだよ。
ユキはサキよりもずっとずっと、女の子だ。
コウの幼馴染で、彼女で、お付き合いしている。
ユキが、コウの彼女なんだ。
それが良いって、サキも言ったんだよ。コウとユキはお似合いだって。二人がこのまま結ばれてくれれば、それが一番だって。
きぃ、きぃ。
ブランコが軋んだ音を立てて揺れている。
コウの声が前から、遅れて後ろから聞こえてくる。
唇が動く。キスすれば恋人になれる? 教えて、コウ。ねぇ、ユキはどうしたらいいの?
コウが何かを口にした。
知りたくない。そんな言葉、聞きたくない。いつも最後まで言わせずに遮った。抱き着いて、胸元に顔を埋めて。
判っていないふりをして、引き留めた。
急ブレーキの音と、強い衝撃が走って。
ユキの身体から、ぱぁ、と赤い色彩が飛び散った。
灰色の空に、真紅の絵の具。
咲き誇る、曼殊沙華。
折れた傘と、ひゅうひゅうという自分の咽喉の奥から聞こえる音。
そして降りてくる、おしまいの帳。
――心のどこかでは、これを喜んでいた。
もうあの場所にはいかなくていいんだ。
もうあの言葉を聞かされなくていいんだ。
これからはずっと、ユキはコウの恋人でいられる。この場所で、ブランコは永遠に揺れ続ける。楽しいおしゃべりのひと時は、終わらない。これがただひたすらに繰り返される。繰り返し。リピート。ふりだしに戻る。おかえりなさい、ユキ。またイチから、ここで始めましょう。
進まなくてもいい。そうすれば、壊れることもない。ユキはこれでいいの。判り切った未来なんて、見たくないから。ここで世界の全てを止めて、完結させてしまえればそれで幸せ。
サキが、連れて行ってしまうこともない。二人を追いかけなくてもいい。コウを引き留めなくてもいい。
きぃ、きぃ。
もう不安になる必要はないんだ。
コウ、ここでずっと一緒にいましょう? ユキはコウの彼女だから。たった一人の、恋人だから。
コウのこと、好きだよ。本気だよ。そうじゃなきゃ、こんなこと思わないよ。
どんなに綺麗になっても。
どんなに可愛くなっても。
コウが走っていくその背中を、止めることができない。
お願い。
ユキを――置いていかないで。