心のユキサキ(3)
ぼがががが、とお弁当箱の中身を一気にかき込んでハナの昼食は終わった。「お行儀悪い」とクラスメイトのルカに窘められたけど、急ぐんだから仕方がない。水曜日のお昼休みは、先輩たちと図書室で待ち合わせることになっていた。
入学してまだ数ヶ月も経っていない内に、ハナはえらくとんでもない目に遭うことになった。期待していたのは、憧れの朝倉先輩との甘くて甘くて、後ついでに甘ったるくてとことん激甘な高校生活であったはずなのに。どういう訳か知らないが、『銀の鍵』なんていうおかしな先輩たちと行き会ってしまった。
ハナにも『真実の魔眼』っていう、いかにも中学二年生くらいのラノベかぶれが考えそうな謎能力が備わっている。あまりにも荒唐無稽だし、どう考えてもこれで良い目は見れそうにもないので他人には内緒にしてきた。それがこの学校には、それを上回る扱いに困った人たちが生息していたのだ。
「おーい、ハナちゃん。こっちこっち」
図書室に入ると、ほっそりとした身体つきに、とろんとした穏やかな垂れ目の女子が手を振ってきた。制服のスカーフの学年色は、二年生だ。この集まりの発起人であり、『銀の鍵』を持つ一人である因幡フユ先輩だった。
「今日はこっちなんですか?」
因幡先輩は貸し出しカウンターの近くにある、個人作業用の机の近くに椅子を置いていた。図書室の、一般生徒がいるエリアで話をするのは珍しいことだ。因幡先輩は図書委員で司書の先生と懇意にしているので、普段は司書室でお茶とお菓子まで出してもらう始末だった。
「んー、ヒナがねー」
ちらり、と因幡先輩の目線が横に動いた。ああ、そこにいたんですか。机に向かって丸くなっていたので全然判りませんでした。一瞬だけハナの方に顔を向けて、「ううー」とうめき声をあげる。知りません。どうせ宿題を忘れた、とかなんでしょう?
案の定、曙川ヒナ先輩は午後の授業で提出する宿題を、急ピッチで進めているところだった。教室でやると、朝倉先輩がいて集中できないからここに持ってきたのだそうだ。自分のことをよく把握しているとは思うけど、褒めてあげるべきかどうかは悩ましいな。
ってことは待てよ、今なら朝倉先輩とお昼休みを過ごせるチャンスではなかろうか?
ハナのよろしくない企みを察したのか、曙川先輩が物凄い形相で睨みつけてきた。はいはい、やりませんよ。今日はそもそも、因幡先輩が中心の集まりなんですから。ははは、と因幡先輩は力なく笑った。
「じゃ、始めましょうか。『大いなる世界の善意』の会、『おせっかい』の活動です」
そのネーミングセンスはどうなんだろうか。とは言え因幡先輩は気に入っているみたいだし、あえて突っ込む必要はないのかな。曙川先輩が「おー」とやる気のない返事をしてシャーペンを振り上げた。はいはい、そっちはなるべく宿題の方に集中しててくださいね。
『おせっかい』は、緩いクラブ活動みたいなものだ。因幡先輩が、曙川先輩とハナに声をかけて結成した。この学校で妙な力を持っている三人で、目に視えない世界を上手く活用していこう、とかなんとか。要は人助けとか、そういった感じ。卒業していった先輩や、因幡先輩の古い恩人の魔法使いに触発されたのが切欠だということだった。
後はこういった面倒臭い力を持っている以上、それを悪いことに使ったりしてないよね、という相互監視だ。ハナの場合は嘘を見通すくらいだけど、『銀の鍵』は冗談になっていない。その『銀の鍵』が唯一見通せないのがハナだから、「悪いことに使ってませんよね?」「ハイ」で一発確認完了となる。曙川先輩や因幡先輩を疑うつもりがさらさらなくても、こういうのは手続きが肝心だ。
「ヒナから聞いたんだけど、サキに何かあったんだって?」
今日の議題はそれらしい。曙川先輩の背中が、ぴくんと反応した。しゃべりたいんだろうなぁ。でもまずは宿題を終わらせないとですよね。
「サキという先輩と、私と同じ一年生の八代コウくんですね」
サキ先輩については、ハナは全くと言っていいほど情報を持っていなかった。曙川先輩と、因幡先輩の共通の友人で、陸上部に所属しているというくらいか。それ以上は何も知らない。苗字だって聞いたことがない。同じ校庭で部活動をしている関係で、顔ぐらいは見たことあるかなぁ、程度だ。
そんなハナに、因幡先輩はサキ先輩の事情を説明してくれた。今から約三年前に死んでしまった妹、ユキの存在。一つ年下の幼馴染である八代コウ。聞いてて、ハナは胸の奥がもやもやとしてきた。それって、実は出口がない話だったりしません?
「サキ先輩は、八代くんのことが好きなんですよね?」
「うん。それで間違いないと思うよ」
自信あり気に、因幡先輩は首肯した。嘘はない。ということは、こっそりとサキ先輩の心を覗いたのかも知れないな。曙川先輩は友達の中を視ることを極端に嫌うから、因幡先輩は大っぴらにはそういうことを口にはしない。ハナもこういう時は、余計な詮索はしないようにと心掛けている。お互いに目配せして、合図しあった。
だとすると、サキ先輩は八代コウにどう触れていいのか計りかねている、という感じだろうか。随分と辛い話だ。例えば、朝倉先輩を残して曙川先輩がいなくなったとして、ハナはどうすれば良いのか。
すかさず喜び勇んで朝倉先輩にアタックをかけるほど、ハナも無神経ではない。そうなったら、きっと朝倉先輩は悲しむ。嫌だな。手を差し伸べて、支えてあげたいとは思うけど。そこに一切の下心がないだなんて、ハナには自信をもって断言することはできない。
そうだね、何をするのにもためらってしまうか。時間が解決してくれるまで待って、それからまた一から始めようとするってところかな。
でもそこに至るまでには、どれだけの長い年月が要求されるのか。ハナにはさっぱり。見通しのつけようがない話だ。
「・・・サキは、もっと自分の気持ちに正直になっても良いんじゃないかな」
曙川先輩の言葉には、迷いが含まれていた。微かな嘘の匂い。これは嘘というより、『本当にしたい』という願いか。
「サキはもう、十分に苦しんだよ。死んでしまった妹さんに遠慮していたら、サキも、そのコウくんもいつまでも前に進めない」
その言葉は、曙川先輩が自分に言い聞かせているものだった。曙川先輩はサキの友達だから、サキの幸せを優先して判断を下す。そしてそのことを自覚しているからこそ、曙川先輩の声には今一つ力がこもっていなかった。
「そんなお二人の近くに、私には女の子が寄り添っているのが視えました」
長い髪を水草みたいにゆらゆらと揺らしている、中学生くらいの少女だった。一目で、この世のモノではないと判った。サキ先輩と八代コウの間に立って、二人の顔を見比べて。少女は、声にならない声で何かを訴えようとしていた。
「あれが、ユキさんなんですかね?」
十中八九、そうだった。二人の中で、ユキの死は少しも風化していない。その想いが、ユキという存在をこの世界に繋ぎ止めている。死者を留めるものは得てして、生者の未練だ。強い負の連鎖が、サキ先輩と八代コウの間には発生していた。
そしておそらく、八代コウの方にも何らかのわだかまりがある。サキ先輩と八代コウが別れた時、ユキは八代コウについていった。サキ以上に、八代コウにはユキへの強い感情が残されているのだ。それが何かとか。判りたいような判りたくないような。ハナはやるせなくなって溜め息を吐いた。
「スッパリ後腐れなく解決! とはいきそうにないですねぇ」
どう転んでも、何処かに何かが置き去られていきそうだ。そうと決まっているのなら、曙川先輩の言う通りに生きている人間の幸せを第一に考えるべきだろう。もしユキが死んでしまってからも八代コウのことを求めているというのなら、その繋がりを断ち切ることも検討しなければならない。
最悪――無理にでもこの世から退場していただくことになっても、だ。
「伝手があるから、問い合わせてみる予定。最近バタバタしているみたいで、イマイチ連絡が付かないんだけどね」
因幡先輩の周辺事情は、何かと複雑だった。親族と呼べる人は一人もいないし、『銀の鍵』なんていう特殊な異能力者でもある。ハナには想像もつかないことだが、そんな因幡先輩の諸々全てを理解できる人、というのがいるらしい。因幡先輩の生活は、住居から何からまとめてひっくるめて、その人が一切合切の面倒を見てくれているとのことだった。
そういった支援のお陰もあって、因幡先輩はここで普通の高校生として生活していられる。同じ力を持つ曙川先輩と出会って友達にもなれたし、ハナとも知り合えた。なかなかどうして、その人というのは因幡先輩にとっては人生レベルでの恩人なのではなかろうか。
それなのに、因幡先輩はその人とはある程度距離を置いている素振りだった。細かいことに関しては、デリケートな内容だろうから訊かないようにはしている。ただ、『銀の鍵』のことを知っていて、なおかつ高校生一人の身分と生活を保障できるとか。どう考えても、『その人』とやらはまともな相手ではありえないが。
まあ、こういう時にはその異常さが却って役に立ちそうかな、とも思えるんだけどね。
「魔法使い、とかですか?」
「んー、そんな感じというか、今回はより専門的な人に見てほしいかな。その辺りも質問してみるよ」
どういう専門家なのかは知らないが、心強いことに変わりはない。何にせよ、自分のすぐ近くでそういう不可思議な現象が起きているというのは、精神的に落ち着かないものだ。サキ先輩の直接の友人である因幡先輩や曙川先輩なら、尚更のことだろう。ハナだって、ルカがそっちの世界に足を踏み入れたとか言い出したら気が気じゃなくなる。オカルトだろうが何だろうが、トラブルなんて無いに越したことはない。
「うぇー、これ絶対終わらないよぉう」
静かにしていると思ったら、曙川先輩は完全にハマっている様子だった。昼休みだっていつまでも続く訳じゃない。やれやれ、と因幡先輩は肩をすくめた。
「ヒナ、それの提出が遅れたらきっと補習だよ?」
「二年になってから、補習だけは受けないつもりだったのにぃー」
それはあれか、一年の時には補習を受けたことがあったのか。ハナは他人事ながら心配になってきてしまった。朝倉先輩も、どうしてこんなのを好きになっちゃったのか。ハナもそんなに勉強は得意な方じゃないけど、ここまではいかない。幼馴染って、そういうものなの? あーあ、羨ましい。ハンデありすぎじゃん。
サキ先輩と八代コウも、幼馴染だ。そして、ユキも。
死んでしまっているユキは、八代コウをどうしたいのだろうか。う、怖い考えになってしまいそうだ。これ以上深く掘り下げるのはやめておくか。
そんなことよりも、目の前にいるこの情けない恋敵をどのようにして出し抜けば良いのか。そちらの方が非常に重要、かつ喫緊の課題だった。
「うううー。むぅーりぃー」
ホントに、ねぇ。
雨が降っている。
手が冷たい。顔も冷たい。
それだけじゃなくて、身体全体が冷たい。
アスファルトにぶつかった雨粒が、音を立てて弾けて割れる。それが幾つも幾つも重なって、ざぁ、という雑音を形作る。耳に入ってくるのは、そればかりだ。後は何もない。世界は騒々しくて、同時に静寂に包まれている。
じんわりとした熱が、お腹の奥の方から溢れ出してきた。寒くて、熱い。道路の堅い感触。折れて、転がった水色の傘。お気に入りっだったんだ。壊れちゃったかな。大事にしてたのに。もう、ダメなのかな。
ユキは、このまま死んじゃうのかな。
不思議と、そう考えると楽になった。生きたいという願望は当然のようにある。ただそれとは別に、ユキにはずっと悩んでいることがあった。
答えを出すべきか、出さないべきか。ずっと迷っていた。いや、そうじゃない。本当は判っていた。判っていたからこそ、今日だって重い足を引きずって、ゆるゆると道を歩いていた。
だからこれは、神様が与えた罰なのだ。
もっと早く、ユキは認めなければいけなかった。それなのに、いざとなると言葉にすることができなかった。せっかく手に掴んだ幸せを、放したくないと願ってしまった。
大好きな、コウ。
ユキは小さな頃から運動が苦手で、姉のサキに置いていかれてばかりだった。そんな時、振り返ってユキを引っ張ってくれたのはいつもコウだった。
コウはいつだって、ユキのことを待っていてくれる。ユキに合わせてくれる。独りぼっちになんかさせない。追いつけないほど遠くになんか――いかない。
その向こう側には、いつもサキがいた。ユキとコウが並んでいる姿を、じっと見つめている。サキの気持ちは判っていた。コウに、追いかけてきてほしいと願っている。ユキはそれを知っていた。知っていたけど、許したくなかった。
コウは、ユキのものだ。
いつだって、そのために頑張っていた。可愛いお洋服を着て、話し方も仕草も気遣って。コウに選んでもらえるように。立ち止まってくれるように。前を見ないままでいてくれるように。
ずっと、努力していたんだ。
腕が上がらない。痺れていて、感覚がない。それでも、持ち上げる。ああ、血でべったりと汚れている。嫌だなぁ。こんなの、コウに見せられない。
好きだよ、コウ。
告白して、彼女になれた時は嬉しかった。よかった。これで、コウは自分だけのコウになってくれるんだ。そう思って、安心した。もう、サキの背中を見ないで済む。ユキはコウと共に、違う道を歩いていく。一緒に、手を取り合って。
サキも認めてくれた。そうだよね。もうずっと、ユキの方がコウといる時間は長かったし、距離だって近かった。当然の結果だ。そう信じて、何も疑わなかった。
ああ、意識が朦朧としてきた。
この後、コウと会わなくて本当に良かった。
嫌な話を聞かされないで済むから。
ユキは最後まで、コウの彼女だった。
そうだよ、ユキは死ぬまで、コウのただ一人の恋人だったんだ。
それで――
それで、いいじゃないかっ!
誰かが、ユキの掌を取った。はっとして、顔を上げる。雨が止まった。空間を埋め尽くす、無数の水滴。その向こうで、遠巻きにユキの姿を眺めている人の群れ。まるで雑踏の中の大道芸人に招かれたみたいに、ユキはそこの中心に立たされた。
艶やかな黒髪が、はらりと崩れて優雅な音色を奏でたように感じられた。黒い手袋に包まれた繊細な指が、ユキの手を包んでいる。時間はまだ、動いていない。いや、そうじゃない。
ユキの時間は、この瞬間に終わったのだ。
「・・・それで、いいの?」
闇色の瞳が、ユキの裏側まで見通してきた。病的なまでに白い、ビスクドールを思わせる滑らかな肌。ユキとそれほど年の変わらない、まだあどけなさの残る顔つきの少女だ。少女はそっと、桜色に潤んだ唇を近付けてくると。
「大丈夫、私に任せて」
ユキの耳元で甘美な言葉を囁いて、妖しい微笑みを浮かべてみせた。
「私は――邪悪な死霊術師だから」
ユキには何も判らない。
ただ、どうしてもこのままにはしておけない。そんな想いだけが、その存在を支えていた。