心のユキサキ(2)
「よっ」
練習が一段落して、ハルがヒナの方に駆け寄ってきた。爽やかに片手を挙げて挨拶なんかしてくる。はいはい、カッコいいですよ。高校に入って、ハルは随分と印象が変わった。何て言うか、大人の余裕? 中学の頃はもうちょっと、ちっちゃなガキ大将みたいだったのに。変に落ち着いた感じがするよね。
「朝倉先輩、ちゃんと整理体操してくださいね」
「判ってる。サンキュー、山嵜」
ハナは複雑な表情で小さくうなずいた。まぁ、ハルったらすっかり『たらし』じゃないですか。そういう思わせぶりな態度は、ヒナ感心しないな。ハナなんて冷たくあしらうくらいで丁度いいんですよ。ビコーン、と真紅の瞳がヒナの方に向けられた。おおこわ。くわばらくわばら。
そんな二人の無言の応酬を、ハルはきょとんとして見つめていた。『銀の鍵』も『真実の魔眼』も、基本的にはハルを含めてみんなには内緒にしてある。こんな力があると判ったら、まともな神経の持ち主なら気味悪がって友達付き合いなんかしてくれなくなるからね。
話す前から全部考えていることが判っちゃってたり。ちょっとした誤魔化しもすぐに嘘だと看破してしまったり。そんなの嬉しくもなんともない。健全な人間関係というのは、相互不理解を埋め合わせていこうとする意志から生まれるのです。おお、なんかヒナ今頭いいこと言った気がする。すごい。
「おー、曙川食堂は旦那のお迎えに来たのかぁ?」
ハルのストレッチを手伝っていたら、微かな雑音が耳に入ってきた。んー、なんだろう。最近耳鳴りがひどいなぁ。部活とか頑張りすぎて疲れているのかもしれない。ハルも根詰めすぎないでさ、帰りにクレープでも食べていかない? 糖分補給は大事だよ?
「あれ、ひょっとして聞こえてない? 完全に二人の世界に入っちゃってる?」
クッソうるせぇなぁ。
あまりにしつこいのでそちらの方に顔を向けたら、結構なファンタジーワールドが展開されていた。じゃがいもが、しゃべってる。ヒナ、トラックに跳ねられた覚えはないけどそういう異世界にでも転生しちゃったのかな。じゃがいもが人間の言葉を話す世界。ご一緒にポテトはいかがですか、とか自分からお勧めしていくスタイル。何それ、面白くない。一次選考落ち確定。
ハルの友達で、ヒナの中では永世名誉じゃがいもの称号を得ている、宮下とかいう根菜だった。可哀そうなくらいモテないんだけど、救済してやろうという気も起きないほどのクズです。割とどうでもいい。しっしっ、と手で払う仕草をするのも面倒臭かった。
「宮下先輩、ダッシュ2本さぼりましたよね? 後輩に示しがつかないので今からでもやってきてください」
ハナにぎろり、と睨まれてじゃがいもは激しく狼狽えた。ハンドボール部の敏腕マネージャー、ハナに対して小手先のごまかしは通用しない。そういうこすいズルをする姿勢が見透かされて、モテないという無慈悲な現実に繋がっていくのだよ。やーいやーい、ばーかばーか。
「え? そうだったっけ? 覚えてないなぁ」
「あー、3本だったような気もしてきました。そのうち4本だったことになると思います」
「シャッセン、すぐに行ってきます」
二年生の先輩相手でも物怖じしないこの対応が、ハナの人気の秘密だった。当人は真面目にマネージャーをしているだけだと謙遜しているが、こういう白黒はっきりとした物言いがウケて、ハンドボール部の部員は着実に増えてきている。見た目が可愛くてしっかり者で、気遣いもできる。非の打ち所がないよね。
これでハルに横恋慕してるんじゃなければ、良い友達になれそうなんだけどなぁ。
「ハンドボール部は大会とか出ないの?」
「最近になってようやく頭数が揃ったような状態ですからね。公式戦の予選大会はまあ、活動実績のアリバイ作りみたいなものですよ」
ハルに訊いたのに、なんでハナが返事をするんだ。抗議の視線を送ったが、完全に無視された。おのれ。
「やるだけのことはやってみるさ。何も目標がないとだらけちゃうからな」
ここのところ、ハルはすごくやる気に満ちていた。ヒナの方を振り向いて、にっこりと笑ってくれる。え? ひょっとして、ヒナのためだったりもするのかな。そうやって頑張ってるハルの姿はとても素敵だけど――
「ですよね、ほっとくとみんなダラダラしちゃうんだから。しっかり気合を入れていきましょう、朝倉先輩」
こっちのお邪魔虫も元気になっちゃうんだよなぁ。ああああー、あーあ。
「着替えてくる」とハルは更衣室の方に向かった。
「クレープなら私も行きます。抜け駆け厳禁」とハナがそれについていった。うー、今日はフユは街の図書館に、貸し出し予約をしていた本が来たからって先に帰ったし。ユマは文化祭実行委員の集まりで、遅くなるって言ってたし。せっかくの放課後デートのチャンスだったのになぁ。二年生になってから、ハルとちゃんとしたデートってしていない気がする。二人はこれでも相思相愛で、彼氏彼女の関係なんですよ? それってどうなんだ?
昇降口の方に移動しようとしたところで、はた、と足を止めた。部活のない生徒はほとんど下校していて、下駄箱の周囲にはほとんど人影がない。傾いた陽射しに照らされて、ほんのりとオレンジ一色に染まった世界の中に。
ヒナは、友達の姿を見つけてしまった。
すらりとして長い脚が、陸上用の短パンから伸びている。しっかりと引き締まった細い四肢は、ほんのりと汗に濡れてきらめいて見えた。スレンダーで、頭身が高い。ショートカットの髪は無造作なようで、それでいて実にその雰囲気にマッチしていて美しい。
黙って立っていれば王子様みたいにも思えるけど、でもやっぱりヒナにとっては奇麗な女の子の方がしっくりとくるかな。一年生の時に同じクラスで友人になった、サキだった。
そういえば陸上部も校庭で活動していたんだっけ。そちらも一段落したのだろうか。何気なくサキに声をかけようとして、ヒナは慌てて近くの柱の陰に身を隠した。待て待て、待て。一人じゃないぞ。なんだ、あれ。
サキは誰かと向き合っていた。男子だ。ただ漫然と立ち話をしている、という空気ではない。ヒナはこっそりと様子を窺った。大佐、至急ダンボールを送ってくれ。もっと近くで聞き耳を立てたい。乙女センサー全開。
男子はサキよりも背が高くて、細身で華奢な印象を受けた。制服のサイズも大きめだし、あれは一年だな。声を荒げてこそいないけど、言い争っているようにも見える。今の口の動きは、「放っておいてくれ」かな?
え、修羅場?
ヒナ、修羅場に居合わせちゃったの?
「何やってんですか」
ぶわぁああ!
知らない間に、ハナがすぐ隣に立っていた。び、びっくりさせないでよ。口から喉が飛び出そうになっちゃったよ。いやそれ、どんな状態だよ。とにかく声を出さない状態で驚いたから、謎めいたポーズを取ってしまった。ハルがいなくて良かった。サキにも、気付かれてないよね。
サキは男子から離れて、校庭の方に走っていた。慌ててサキの視界に入らないようにハナを引っ張って柱に密着する。流石短距離走の期待のエース、足が速い。あっという間に遠ざかっていってしまった。男子はしばらくその場に立ち尽くしてから、早足に校門から外に出ていった。あー、えーと。
これってひょっとしなくても、痴情のもつれ、ってヤツ?
「曙川先輩、今の人、何か憑いてます」
へ?
何かって、何?
っていうか、どっちに?
ハナが眉間にシワを寄せて考え込んだ。簡単には説明しにくいものなのか。ハナの『真実の魔眼』は、不可視の存在をもしっかりと捉えることが可能だ。そういったモノが常に悪さをするとは言い切れないが、今の状況からして良いものであるとも思えない。
ねぇ、ナシュト、何か判る?
「それをさっき伝えようとしたのだ」
ナシュトがイケメンを掌で覆って、首を横に振った。あらま、それはどうも気が回りませんで。神様の託宣をロクに聞こうともしていなくて、こりゃまたすいませんね。あいたたやれやれどっこいしょ。
スタートラインに立つと、それだけでぴりぴりとした緊張感に襲われる。それはまんざら嫌なものでもない。これから始まる自分との戦いに、むしろある種の恍惚ささえ覚えるくらいだった。
ゴールの位置をじっと見据える。今回は、あそこまでだ。長いようで短く、短いようで長い百メートルという距離。時間にすれば、十三秒と少し。最近は調子が良ければ、十二秒台も出せるようになった。タイムが縮まるたびに、溜め息が漏れる。何も考えないでいられる時間は、長いままでいてほしいのに。なかなか上手くいかないものだ。
昇降口を抜けて、男女が並んで歩いていくのが判った。なんでそれを見つけてしまったのか。やり過ごしてしまえれば、心がざわめくこともなかった。膝を曲げて、クラウチングスタートの姿勢を取る。遠くで、話している声が聞こえる。楽しそうな、笑い声。こんなにも離れているのに、どうしてここまではっきりと届くのだろう。腰を持ち上げて、前へとつんのめる。
スターターピストルが、乾いた音を響かせた。
コウとは、幼稚園の頃からの友達だった。一つ年上のサキは、妹のユキと同じような子分という感覚でコウに接していた。コウは大人しくて引っ込み思案で、サキが二人をぐいぐいと引っ張っていくのが日常だった。
前を歩くサキが、コウとユキの関係の変化を悟ったのは中学に上がるくらいの頃だった。ユキがコウのことを意識して、一緒にいる時間が長くなった。サキのことを放っておいて、二人で話をすることを好むようになった。ああ、そうなんだ、と悟って。
サキは、自分の心に蓋をすることに決めた。
別にコウは、運動神経が悪い訳ではない。単純に意識の問題だ。一度本気でかけっこをしてみたら、サキは危うく負けてしまうところだった。身長も、歩幅も全然違うのに、だ。コウは「サキに勝ちたかった」と本気で悔しがった。その気概があるならば、いつかは抜かされてしまうかもしれない。その時、サキはどきどきと胸が高鳴っていた。
コウと走ったら、どんな風景が見えるだろうか。サキはコウの背中が見てみたかった。自分を追い抜いて、どこまでも加速していく姿。それはきっととても腹立たしくて。
同時に、とても嬉しいものに違いない。サキはそこで、ようやく自分の感情の正体を知った。
でも、コウはサキの隣に並んでくることはなかった。コウが選んだのは、ユキだった。それはサキにとっては最も残酷で――それでいて、何よりも一番納得しやすい結論でもあった。
サキから見てもユキは美人だし、コウともお似合いだった。幼いころからサキに振り回された仲間同士、気が合うところもある。ユキは中学に入学してすぐにコウに交際を申し込んで、そのまま付き合うことになった。ユキにその話を報告されて、サキは笑顔で祝福した。
「よかったね。おめでとう」
掛け値なしの本音だった。本当に良かったと思う。相手がユキなら、サキは満足だった。何しろユキは、サキが母親の中に置いてきた「女の子」を全部持っているのだ。まるで自分が選ばれたかのように誇らしかった。
その代わり、サキはコウの顔が見れなくなった。
二人が一緒にいると、逃げ出すようになった。
そして今まで以上に、陸上に打ち込むようになった。速く、もっと速く。あの日視た、コウの幻影に追い抜かれないために。走っている間は、頭の中が真っ白になる。何も考えない。心の奥底の痛みも、流すはずの涙も、みんな後ろに置いていける。
十三秒に満たない、ほんのわずかな瞬間で良い。限られたほんの一握りのランナーズハイを求めて、サキは地面を蹴り続けた。ただひたすらに。一心に。
「サキ」
ゴールを抜けて現実に戻ってきたところで、声が聞こえた。針の先のように縮んでいた視界が、徐々に広がっていく。遠く、校門の辺りでコウが手を振っている。ああ、ダメだ。
ぎゅうう、と心臓が締め付けられた。今、サキは喜んでしまった。サキがコウを見つけたのと同じに、コウもサキに気が付いてくれた。手を振って、声援を送ってくれた。これが、とてつもなく嬉しかった。
コウの横で、ユキがじっとサキの方を凝視していた。コウと結ばれるのは、ユキだ。大丈夫、ちゃんと理解している。この感情は、サキが持つべきものではない。それがコウのためでもあるし、ユキのためでもある。ぐっと奥歯を噛み締めて、こらえる。
軽く手を振って、サキは踵を返した。もう一回だ。そうすれば、きっと何もかも忘れられる。サキは誰にも追い抜かれることはない。その相手は、トラックの中にはいないのだから。
二人の仲が順調なことに、サキは満足していた。そうであってくれなければ困った。ユキはサキにとって、「女の子」の自分だ。可愛くして、恋をして。好きな男の子と結ばれてくれるなら、これ以上の喜びはない。サキはコウのことが好きだ。そしてこの気持ちを叶えてくれるのは、ユキなのだ。
ユキの髪をすいていると、サキはとても幸せな気分になれた。コウはこんな素敵な女の子と結ばれるんだ。サキにはない、たくさんの魅力がそこにはある。うらやましいという気持ちはあったが、それは嫉妬とは微妙に異なっていた。
――相手がユキなら、このまま素直に諦めきれる。
サキにはそんな確信があった。だって、ユキだ。見も知らない誰かではない。ユキのことは、サキが一番よく判っていた。
「コウが好きな感じにしてあげるからね」
「もう、やめてよお姉ちゃん」
コウのことだって、サキは十分に理解していた。それなりに長い時間を共に過ごしてきたのだ。ショートトラックなら何本分だろうか。疲れ果てて倒れてしまうに違いない。そんなことを考えて、くすくすと笑っていたのが懐かしかった。
ユキは中学一年生の六月に、交通事故に遭って息を引き取った。
雨の降りしきる日の午後、コウとの待ち合わせに急いでいる最中のことだった。