心のユキサキ(1)
毎月この日だけは、お店を休みにすることになっている。これで三年目。少なくとも七回忌まではこうしようという話だから、後三年はこの状態が続く。それは別に構わない。ユキのことを忘れたいなんて思わないし、忘れられるとも思えない。
ただ、何度やってきてもこの日をどういう気持ちで受け止めれば良いのか、判らないのだ。
悲しめば良いのか。
喜べば良いのか。
いや、喜ぶのは間違っている。可愛いユキが死んだ日なんだから。お祝い事なんかじゃないなんてのは、重々承知の上だ。
ユキがいた頃の家の中を思い出すと、胸の奥が重くなる。ユキのことは大好きだった。ユキがいなくなって、お父さんもお母さんもすごくショックを受けた。
サキだってそうだ。妹のユキが亡くなって、誰よりも苦しんだ。
今だって、苦しみ続けている。これは罰なのかもしれない。心の片隅、目の届かないずっとずっと奥の方で。
ユキなんていなくなってしまえば良い。そう願うことが、なかったとは言い切ることができなかった。
「おはようございます」
「ああ、コウちゃん、よく来てくれたね」
春が来て、空気に温かさが感じられるようになって。天気だけが、どんよりと曇っていた。まるで、サキの心の中を表しているみたいだ。何も見えない。はっきりとしない。その向こうに、青空があるだなんて信じられない。
制服のスカーフを、胸元できゅっと結ぶ。鏡に映る自分の顔を見て、サキは口の端を持ち上げた。これは笑顔じゃない。ただの皮肉。今日この時、この場所で笑うことなんて許されていない。
会えて嬉しい。
言葉を交わせて嬉しい。
そんなことを、考えてはいけないんだ。
「おはよう、コウ」
「ああ、おはよう、サキ」
高校生になって、また一段と背が伸びた。「コウちゃん」なんて似合わない。ふいっ、とコウはサキから視線を逸らした。身体の奥に、鈍い痛みが生じる。本当に、どんな表情を浮かべれば良いのだろう。
仏壇の置かれた和室に、サキの家族と、コウが揃った。これで何度目だろうか。まだ色褪せないユキの遺影を前にして、手を合わせて、その冥福を祈る。ユキを誰よりも可愛がっていたお母さんが、軽くしゃくりあげる。お父さんがその背中を抱き締める。
コウは、サキの隣で静かに目を閉じたままだった。それもずっと、繰り返しおこなわれてきた儀式の一部にすぎなかった。
しんと静まり返った六畳間で、サキは大人びたコウの横顔と、無邪気なユキの写真を見比べた。
駄目だ。
どれだけの時間が経とうとも、サキには二人の間に入ることは出来ない。それは大きな裏切りであって、決して口にしてはいけないことだった。
いっそのこと、生きていてくれれば。
コウの手を取って、明るく玄関から飛びだしていってくれれば。
これ以上追いかけようだなんて、思わなくて済むのに。
サキの眼から、つぅっと涙が一筋こぼれ落ちた。これもまた、毎月決まりきった出来事の一つとなっている。サキ自身はその事実に、まるで気が付いていなかった。
交通事故だった。雨の降る住宅街を、ユキは一人で歩いていた。当時付き合い始めたばかりの、コウと待ち合わせをしていた。八代コウはユキとサキの、共通の幼馴染だった。
走ることが大好きで、とにかくじっとしていることが出来なかったサキと比べて、ユキは物静かで大人しい女の子だった。サキとは一歳違いで、並んでいるとしょっちゅう比較された。
真っ黒に日焼けして男の子みたいなサキ。色白でふんわりとした雰囲気のユキ。足して混ぜて割れば丁度良いのに、などとからかわれて笑われるのがしばしばだった。
サキは別に、自分がそうであることを変えようなどとは思わなかった。人には、持って産まれた性質というものがある。サキはきっと、自分の「女の子」をお母さんの中に置いてきてしまったのだ。ユキはサキの分まで、それを持ってこの世に生を受けた。なら仕方がない。サキは自分については諦めて、「女の子」はユキに任せることにした。
やはり一つ年下のコウがユキと付き合うと知った時も、それは当然のこととして受け入れた。男っぽくって年上で、陸上にばっかり打ち込んでいるサキを選ぶよりも、実に理に適っている。サキ自身、ユキのことは女子として素敵だと思うのだから間違いない。泣き叫びたい気持ちは全部喉の奥に押し込めて。
サキは、二人の交際を喜んでみせた。
それが縫い傷だらけの、物言わぬぼろぼろの姿で戻ってくるだなんて。サキの心は、その時一度壊れてしまった。
棺に取りすがって、サキは大声で泣いた。大切な、もう一人の自分。「女の子」の自分。大好きな人と結ばれる自分――サキは沢山の想いをユキに寄せていた。それはもう叶わない。
昔自分の中に閉じ込めておいた悪い感情が、サキを責め立てた。いなくなってしまえば良い。サキから奪ったものを、返してほしい。そんなどうしようもないワガママを抱いてしまった自身の幼さを、サキは恥じた。
大きな箸でユキの骨を取り上げている最中に、コウと目が合った。コウが自分を非難していると感じて、サキはその場を逃げ出した。黒い茨が、サキを縛り上げていく。眠れ。眠れ。
この気持ちは、絶対に目覚めさせてはいけない。ユキは消えてしまった。お姫様なんていないんだ。
しつこい。本当にしつこい。
何回も何回も殺しているのに、まだ死なない。死んでくれない。
早くいなくなってくれればいいのに、また月命日にはコウはやってくる。
それだけ好きだったんだ・・・ユキのことが。
コウを見て生まれてきた気持ちを、サキはそっと手に取ってナイフで一突きする。産声を上げる前にとどめを刺して、自分の中に広がった血溜まりの池に沈める。ほら、また一つ死体が増えたよ。馬鹿だね、サキは。
「コウちゃん、ご飯食べてく?」
コウはほんの少しだけ考える素振りをしてから、首を横に振った。「そう」とお母さんは寂しそうな顔をした。コウと食事をしても、ユキの話しか出来ないのならあまり楽しいものにはならない。コウもそれが判っているのだ。
店は閉めてあるので、裏の玄関まで見送ることにした。コウは何も言わない。サキも、どう声をかけて良いのか判らなかった。
コウが訪ねてきてくれることは、正直嬉しい。それがどんな理由であっても構わない。
でもユキの命日をだしにして、ユキを裏切るような真似はしたくなかった。
「コウ、学校には慣れた?」
コウが学校指定のローファーに踵を収めるのを見届けて、ようやくそれだけを言葉にした。コウは今年、サキと同じ高校に入った。三月にそれを報告された際には、びっくりした。コウはサキよりも勉強が出来るし、もっと進学に有利な学校に通うものだとばかり思っていたからだ。
「まだ一ヶ月だからね。なんとも言えないかな」
「そっか。何か判らないことがあれば・・・」
そこで、サキは口ごもった。この先を続ける資格が、サキにはあるのだろうか。ユキがいないのを良いことに、浮かれた心持ちでコウと一緒の学生生活を送ろうとしている。
サキの手の中には、何もない。
ただ、コウの好きだったユキの姉。それだけだ。
「部活とかに入れば、色々と教われるんじゃないかな? 私の知り合いの男子が、ハンドボール部に入ってるよ」
それが、今の精いっぱいだった。靴を履いたコウが、玄関に立ってサキを見つめている。昔はユキと同じくらいだったのに。三和土にいて、サキと目の高さが変わらない。きゅう、と胸が締め付けられた。
「サキは、陸上部?」
「うん。相変わらず走ってる」
そうしていないと、余計なことばかり考えてしまうから。ユキのことも、コウのことも。全部を振り切って、真っ直ぐに走り抜ける。頭の中が真っ白になって、その瞬間がたまらなく心地好かった。
「サキらしいな」
コウが、ふっと笑みをこぼした。
驚いて顔を上げるサキの前で、「じゃあな」という別れの挨拶と共に扉が閉まった。サキはその場で、ぼんやりと立ち尽くしたまま。口の中で小さく、ユキに対して謝った。
ごめんなさい。サキはどうしても――コウのことが好きです。
髪に付いた塩素を丁寧に洗い流して、ドライヤーで乾かす。毎度のことなんだけど、これが手間がかかるんだ。ロングの子なんかはもっと大変そう。ふんわりヘアーは高校に入ってからヒナのトレードマークであり、チャームポイントなんだから。ハルに今日も可愛いね、って思ってもらうために一生懸命だ。
曙川ヒナ、十六歳。高校二年生。ノーキューティクル、ノーライフ。
水泳部の活動が終わって、女子更衣室はわいわいと大賑わいだった。来月に大きな大会を控えているので、部活の後半、プールはそれに出場するガチ勢に全面明け渡される。友達のサユリも、最近はタイムを着実に伸ばしていてばっちり出場メンバーに入っていた。ぷかぷか浮かんでいるだけのヒナなんかは、お呼びでない訳だ。とほほ。
制服に着替えて、鏡の前で確認。髪はふわっと、肌はさらっと。石鹸とプールの匂いって、薬っぽいけど清潔感も感じられて嫌いじゃない。ハルはどうかな。スカートの丈は去年よりもこっそり短くしてる。スカーフの下に隠れてるけど、そっちの方もさりげなくワンサイズアップ達成。こちらも、ハルのお気に召してくれるといいな。
「お疲れー、ヒナはこの後どうする?」
「えーと、ごめん。グラウンドの方を覗いてみる」
訊くだけ野暮だったか、と水泳部の友人がぺろっと舌を出した。いやまあ、ご想像通りですよ。ヒューゥ、と一斉に冷やかされる。有名税みたいなものだ。赤面しながら一人、ヒナは更衣室を後にした。
朝倉ハルは、ヒナの幼馴染。同い年の十六歳。最初に会った時のことなんて覚えていないくらいの昔からの顔馴染で、幼馴染だ。
小学校三年生の時、ヒナは雨の中怪我をして動けなくなっているところをハルに助けてもらった。それ以来、ずっとハルのことが好き。ハルも、ヒナのことを一番に気にかけてくれている。今では優しい両想い。高校に入って、告白してもらって。そうそう、お付き合いを始めて一周年です。やったー。このまま素敵な高校生活を送れるといいな。
高校一年の終わりに、ハルはヒナにプロポーズしてくれた。お互いにまだ学生だし、ハルは十六歳で法的に結婚は認められないしで、実際にはまだ何年か先の話にはなるんだけど。でも、本人たちは心に決めました。ここまで変わらなかったんだから、この気持ちはずっと今のままなんだって。うひゃあ、超大胆!
・・・でも、学校では清く正しい関係でいなければならないのです。何しろヒナとハルは、この学校で最も有名なカップルだからね。二人の味方をしてくれている担任の美作カオリ先生をガッカリさせないためにも、模範的な行動というヤツを示さなければならないのですよ。
まあ言わるまでもなく、学校でそこまでいちゃいちゃしようとは思わない。ハルもヒナとの交際はすごく真面目に考えてくれていて、とても大事にしてもらっている。別にそこまで我慢しなくても、いいのに、ねぇ?
ハルはハンドボール部に所属している。中学まではバスケットボール部で、身長が伸び悩んだのもあってスタメン落ちしたのを気にしていた。ウチの高校のハンドボール部は本気度が低いお遊び部活で、友達に誘われて軽い気持ちで入部した。
そうしたら、ちょっとした事情によって今年は部員数が激増して、ハルは部活に真剣に打ち込むようになってしまったのだ。そんな話聞いてないよ。ヒナとしてはもっとこう、ゆるーくて足元から三センチくらい宙に浮いてるような、そういうお気楽な日常モノの方が好みだったのになぁ。
それに、スポーツ物って大体盛り上がってくるとひどい怪我をするじゃない? ハルにそんな目には遭ってほしくないなぁ。双子ではないから、交通事故で試合前に死んじゃったりはしないか。弟のカイは今年中学に進学した。あちらは勉強もできるサッカー少年。でもハルの代わりにはならない。残念。
校庭では陸上部とハンドボール部が活動していた。ヒナのいた屋内プールから、状況はばっちりと把握済みだ。さっきまでダッシュとパス練習で、今は紅白戦。ハルが活躍するところをこの眼に焼き付けておかないと。さあ、ハルはどこかな?
「ヒナ」
うっせぇ。
今盛り上がってるんだよ。ヒナちゃんの高校青春グラフィティの真っ最中なの。
イロモノ、怪談、宇宙的恐怖はすっこんでろ。
ヒナの隣に、唐突に違う世界の存在が現れた。間違いなく場違い。運動に汗を流す高校生たちの中に、半裸で毛皮を纏った銀髪の男とか。たとえイケメンであっても編集削除で対応だ。誰かフォトショ持ってこい。
ヒナの左掌には、『銀の鍵』が埋め込まれている。手にした者を神々の住まう幻夢境カダスへと導く、究極の願望器だ。あらゆる魔術の触媒となり、人の心を読み、操作するという危険な力を持っている。
鍵の持ち主をカダスへと誘う道標の役となるのが、鍵の守護者にして神官であるナシュトだ。エジプトでは魔術の神としてブイブイ言わせていたらしい。知らんがな。ヒナには学校で習った、津田仮面とかいう王様ぐらいしか判らない。ん、なんかおかしいか? まあいいや。
見ての通り、ヒナは超忙しいんだけど。何か用?
「いや、大した話ではないが――」
「あら、曙川先輩。ご自分の部活の方はどうされたんですか?」
出たよ。
次から次へとお邪魔虫ばっかり出てくる。こういう展開はノーサンキューだ。ここはハルがカッコ良くシュートを決めるところを、ヒナが眩しそうに見つめる場面でしょう? ハル、素敵。やっぱりヒナは、ハルのことが好き。卒業までなんて待たなくても良いから、ヒナをがっつりハルのものにして、って・・・
「後輩の話くらいは真面目に聞いて下さい。それでもって、ハンドボール部の活動中はマネージャーの私を通してください」
ぐぬぅ、生意気だな。ヒナの前で、ジャージ姿の女子が腰に手を当ててふんぞり返った。黄色いパンジーのヘアピンがきらり、と陽光を反射する。ジャージのラインの学年色は一年生だ。そう、これが今年ハンドボール部の大躍進を作り出した張本人。
ハンドボール部女子マネージャー、一年生の山嵜ハナだった。
「水泳部はもう終わったのよ」
「嘘ですね。いい加減学習してください」
ハナの右眼が、真紅の輝きを帯びていた。ああもう面倒臭い。ハナは『真実の魔眼』というややこしい力を宿している。どんな小さな嘘も見逃さない、厄介な魔術だ。術者を完全に欺瞞から隔離するためとかいう理由で、『銀の鍵』であってもその心を操ることはできないのだそうだ。ヒナには他人の心なんて覗き見する趣味はないから、関係ないけどね。
「私は来月の大会に出ないから、今日は終わりで良いの」
「ああ、邪魔だから追い出されたんですね」
嫌らしい笑い方するなぁ。一応仲直り、ってことにしたじゃんか。ふん、とハナはヒナから顔を背けてグラウンドの方に向き直った。ハンドボール部の部員たちが、土まみれになりながら走り回っている。鋭いパスが、ゴール前にいる一人の手に渡った。
ハルだ!
日焼けし難い体質のせいで色白ではあるけれど、背も高くなって、筋肉もついて逞しくなった。片掌でボールをしっかりと掴んで、ぐるっと身体を回してディフェンスを掻い潜る。うん、バスケの時に培った動きだ。そのまま、前にジャンプしてシュート! ハル――
「朝倉先輩、ナイッシュー!」
ヒナが声を出そうとする寸前に、ハナに先を越されてしまった。軽くずっこける。ああ、もう! 恨みがましく睨み付けたが、ハナは素知らぬ様子だった。はいはい、判ってますよ。人を好きになるのは自由。誰を選ぶのかはハルの勝手。ヒナがそう言ったんです。確かに、言ーいーまーしーたーっ!
ヒナは『銀の鍵』を使わない。そんな力でハルの気を引くのは間違っているからだ。ハナの方も『真実の魔眼』で良い目を見たことなんてないから、あまり積極的には使おうとはしない。
これは正々堂々、女同士の勝負だ。ふんだ。ヒナはもう、ハルと結婚の約束までしてるんだからね。周回遅れなんかに負けてたまるもんですか。