第38話
「うっひゃー、めっちゃ集まってる」
そっと覗いた先の光景に俺は思わず息を飲んだ。
魔王城のバルコニーから見える庭園。そこには新たな魔王……つまりは俺を一目見ようとたくさんの人々が集まっていて、その人だかりは城の敷地を越えて遙か向こうまで続いている。
「やべー、緊張してきた」
いやな汗が流れ、俺はその場に屈み込む。いちど深呼吸をしてから、右手の紋様をじっと見つめた。
俺の意思に呼応するように、紋様が青く光り輝く。
「……本番でもちゃんと光るよな? 頼むぜ」
輝きにホッとしつつも、俺は右手に念を押す。
部屋に備え付けられた柱時計は、出番の時間がそろそろだと伝えてきていた。
「なぁに情けない顔してんのよ。しゃんとしなさいって言ったでしょー」
そんな俺に、凛とした声がかけられる。
振り向けば、そこには煌めくドレスに身を包んだリリィが呆れた顔をしてこちらを見ていた。
「うわぁ……可愛い。似合ってるよリリィ」
「ば、バカっ! もっと他に言うことあるでしょ! ほんと、今日がなんの日かわかってんでしょーね?」
赤面しつつ怒るリリィに、俺はしゅんと肩を落とす。わかっているから緊張しているのだ。
「わかってるよ。戴冠式だろ? どんな顔すりゃいーかわかんねーよ」
数えられるわけもないが、あれは千人や二千人ではきかない数だった。下手をしたら一万人以上いるかもしれない。
そんな人たちに向かってどんな表情で相対すればいいのか、ついこの間まで平々凡々な人生を歩んできた自分には難しすぎる質問だ。
「た、戴冠式もだけど……ほ、他にも大事なことがあるでしょーが」
「えっ?」
ぼそりと呟かれた声に、俺は首を傾げた。
今日という日に、戴冠式以上に大事なことなどあるのだろうか。はてと首を傾ける俺に向かって、リリィがもじもじと指を合わせる。
「戴冠式ってことは、あんたが魔王になるわけじゃない? ……って、てことはよ。それはつまり……どういうことよ?」
恥ずかしそうなリリィの声。俺は考え込んだ。
「……え?」
「成敗ッ!!」
わけがわからないと眉を寄せた俺の顔に、リリィの右ストレートが飛んでくる。「ごめんなさい!」と受け入れる俺に、リリィはいっそう顔を赤くした。
「つ、つまりよ……わ、私と」
「あっ」
そこまで言われ、ようやく俺も合点がいく。
俺が魔王になるということは、リリィと結婚するということだ。
最初の最初の大前提。当たり前すぎて忘れていた。
だって、これまでだってリリィは……。
「み、みんなに言ってもよくなるのか」
いや違う。これまでとはなにもかもが変わってくる。
俺の呟きに、リリィは耳まで染めた顔をぷいと逸らした。
その顔は、どこまでも可愛くて。
けれど俺は、この子がどんなに頼もしいかを知っている。
「あっ、そういったらリリィ。言いたいことがあるんだ」
「な、なによ」
ふと、始まりの会話を思い出す。
最初は、偽りの関係だった。お互いの利害だけの、歪な関係。
そんな始まりだったものだから、色々と順序を飛ばしてしまっている。
俺は立ち上がると、リリィの前へ歩み寄った。
リリィを見つめる。訝しげに見てくる彼女は、なにを言われるかわかってはいないだろう。
俺は、心の底からの笑顔と共に、リリィの前へとひざまずいた。
「リリィ、好きだ。結婚しよう」
「――ッッ!!?」
ぎょっとリリィの背が飛び跳ねる。
ここまで準備をしておいて、今更すぎる。けれど、これは偽りでも打算でも仮面でもない。
「ほら行こう。俺のお嫁さんをみんなに紹介しないと」
リリィの手を取る。柔らかくて温かくて、この右手に感動した。
今度は俺が引っ張る番だ。
引き寄せる寸前で、リリィが焦ったように口を開く。
「わ、私も! そ、その……て、テッペーのお嫁さんになる」
くしゃりと、リリィの顔が恥ずかしさで下を向いた。それにくすりと微笑んで、俺は俺の花嫁を引き寄せる。
自分でもびっくりだ。きっと、一人ではこんなに格好いいことは言えなかった。
彼女がいたから。リリィがいるから、俺はこの先も前に進める。
やっぱり自信なんてないけれど、それでも大丈夫だ。
なにせ俺の横には世界最強の妻がいる。




