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第21話


「……で、こうなるわけね」


 すっかり昇りきった月の真下で、俺は背中に感じる柔らかさと重力に苦笑した。

 ぐーすかと寝息を立てている王女さまは起きる気はないらしく、このまま魔王城の寝室まで運ぶことになりそうだ。


「大変ですね。お姫さんのお世話係も」

「いやぁ、はは。まぁそうね」


 隣を歩く足音を聞きながら、どうしたもんかと思案する。

 どうやら、横の猫娘さまも付いてくるつもりらしい。


「もう遅いし、ネココさんを先に送って……」

「あー、ええですよ。うち、今晩は魔王城に泊まりますよって」

「え?」


 なにやら聞き逃せない言葉が聞こえてきた。どういうことだと視線で聞く俺に、ネココは胸元から一片の木簡を取り出す。


「へへへー、リチャードさんに頼んだらくれましてん。うちも魔王城の仮眠室使えるくらいには偉くなったっちゅーことです」

「あ、そうなの? ……まぁ、そりゃそうか」


 ネココが握っているのはただの入城証ではなく滞在許可証だ。俺のように自由に出入りができるものではないが、日を跨いでの入城や魔王城の設備の一部が使用できる効力を持っている。


 なんどか城に入ったことはあるネココだが、それは会議に出席するためといった事務的なものだった。それでも初めて足を踏み入れたときには感激していたものだ。


「ああ~、憧れの魔王城。いつもは会議室行くだけですから、今夜はこれで大浴場に入れさせてもらうんです」

「ああ、いいよね。俺も使ってるよ」


 本当は寝室の隣に備え付けのものもあるのだが、あれはもっぱらリリィ専用だ。俺としてもお風呂の用意をしているリリィと同室なんてどうにかなりそうだし、そそくさと男湯に退散するが吉である。


「なんなら一緒に入ります? お兄さんならいいですよ?」

「ぶっ!」


 胸を軽く寄せて言ってくるネココに、思わず噴いてしまった。

 リリィが起きていたら大乱闘だが、幸いにも気持ちよさそうに眠ってくれている。


 軽く眉を寄せつつ、ネココを叱るように睨みつけた。


「あのですね。そもそも混浴じゃありませんし。それに……あまり女の人がそういうこと言っちゃダメですよ」

「構いません」


 即答で返されて面食らう。豆鉄砲を食らったような顔をしている俺に、ネココはにこりと笑みを浮かべた。


「本気ですよって。お兄さんになら、裸だろうがなんだろうが見せたげますよ」

「ぶふっ!」


 また噴いた。なんてことを言うんだとネココを見やるが、顔が赤くなるのを止められない。

 というか背中にリリィがいる状況で、これはまずいですよと俺は慌てた。


「ほ、ほんとに怒りますよ。あんまり年上をからかわないでください」

「年上って……ほとんど一緒です。それに……にゃふふ、お兄さん可愛いわぁ。据え膳なんやから食べればええのに」


 くすくすとニヤけながら見つめてくるネココに、俺はどうしたものかと頬を掻こうとして、両手が使えないのを思い出した。


「ふふ、どうしました? ほっぺた痒いんですか?」

「そんな感じです」


 どうも俺の手癖も見抜かれているようで、俺は観念したように息を吐いた。それを見て、ネココが後ろで手を組みながら月を見上げる。


「あーあ、うちも王女さまやったらよかったのに」


 らしからぬことを言い出して、俺がなにか言うよりも先に、ネココは「なんてね」と柔和に笑った。

 ゆっくりと歩きながら、ゆっくりと楽しそうに笑いながら、これまたゆっくりとこちらに寄ってくる。


 肩が少しだけ触れて、俺はどきりと胸を揺らした。


「……お兄さんて、うちのこと好きですか?」


 ネココの唇が揺れる。一瞬前よりも大きく揺れた心音に、コンマ数秒だけ動きを止めた。


「好きだよ」


 正直に答えよう。そう思えるようになったのは、きっと進歩だ。

 その答えにネココの目が見開いて、けれど声色を染み込ませるように目を細めた。


「そっか……そうですよね」


 きっと、ネココには伝わっている。俺は、この人以上に鋭い人を他に知らない。


「でも、一番じゃあないんだ。憧れてもいる、尊敬もしてる。ネココさんがいなかったら……俺はきっとここまで来られてないと思う」


 嫌いなはずがない。もしかしなくても彼女は、俺を初めて好きになってくれた女の子だ。

 けれど、だからこそ言わなければいけない。俺は背中の重みを感じながら、ネココに振り向いた。


「リリィが好きだ」


 言った。言ってしまった。言った後、言ってよかったのだろうかと汗が出たのが、なんとも情けない話だ。

 いろいろと言い過ぎな俺の言葉を、ネココはゆっくりと受け取って、愉快そうにくすりと笑った。


「立派になりましたよ、ほんとに。はは……ちょろい人やと思ったんやけどな」


 実のところはすごく危なかった。そんな俺の心中が伝わったのか、ネココが「ふーん」と俺を見つめる。


「お姫さまと、どういう関係なんです? 恋人やなさそうですけど」

「えっと、なんていうか……複雑っていうか」


 説明が難しすぎる。ただなんとなく伝わったようで、ネココは楽しそうに俺とリリィの顔を交互に眺めた。


「王女さまと、キスしました?」

「ぶッッ!!」


 次になにを聞かれるのやら。そう身構えていたが無駄だった。顔を真っ赤にして振り向くと、全てを察したネココのニヤけ顔が飛び込んでくる。


「あきまへんよー、そういうのはちゃんとせんと。悪い雌に取られてまいますよ」

「いや、そう言われても――」


 その瞬間、目の前をネココの顔が塞いでいた。

 悪い顔だ。心底愉快だと言うように、ネココの顔が近づいてくる。


「悪い猫も、おるんですから」


 柔らかな感触が走った。ついで、少しだけ湿ったものも。

 くちゅりと小さく音がして、俺が固まる中、数秒の時が流れた。


 衝撃で動くことができない。慌てようとして、背中のリリィの暖かさに俺はどくんと心臓を跳ねさせた。

 まるで数分にも思える時間。たっぷりと俺の口の中を堪能して、ネココが数秒の悪意を終える。


 糸を引く唇が目に映り、恍惚としたネココの表情に俺は不覚にも息を呑んだ。


「初めて、貰いましたよって。……お姫さんには、内緒にしといたげます」


 ぺろりと唇を舐めるネココを、俺はたぶんエイリアンでも見る目で見つめていたと思う。

 そんな俺を愉しそうにじっくり眺めて、ネココはくすくすと笑ってみせた。


 俺が声も出せないでいる中、再びネココの唇が近づいてくる。

 渇いた喉を通過して、唇は耳元でぴたりと止まった。


「うちな、諦め悪いんや」


 俺は、顔が見えないのに感謝した。


「――ほな、今日はこれで」


 そう言って、ネココは微笑みながら歩き去った。


 泊まるんじゃなかったの? なんて質問は当然できずに、俺はネココの足音と鼻歌が聞こえなくなるまで、汗を滲ませながら立っていた。


「や、やっぱ……苦手かも」


 勝てる気がしない。ぐうすかとイビキを掻いているお姫様を背負いながら、俺はごめんなさいと月に向かって謝るのだった。



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