第02話
豪奢な天蓋付きのベッドに、鏡のように磨かれた床石。
見るからに高級そうな調度品が並ぶ寝室の床の上で、俺は床石の冷たさを感じていた。
「で、なにが嫌ですって?」
ぐにぐにと後頭部を柔らかな感触が伝う。言い返すこともできないまま、ただただ床石に映った自分の顔を見つめていた。
「いや、その……滅相もございません」
なんとかそれだけ絞り出すが、頭の上の足は力を緩めてはくれない。
更に強く顔を押しつけられながら、俺は数奇な自分の運命を想い途方に暮れていた。
「魔界の王女であるこの私と契りを結びなさいと言われているのよ。這い蹲って土下座して、感謝の言葉を述べるのが当然だと思わない?」
そんな無茶なと、俺は額を擦り付けることしかできない。リリィが足を組んだのか、解放された顔をちらりと上げる。
睨みつけるように見下ろしてきているリリィの視線に震えつつ、俺は先ほどまでのやりとりを思い出していた。
『貴方様には、こちらのリリィ様と結婚していただきます』
確かにはっきりと、リチャードはそんなことを言っていた。
(け、結婚っていったって……)
突然見知らぬ世界に連れてこられたかと思えば、初対面の女の子と結婚しろだ。到底頭が追いつくはずもないが、それでも俺はちらちらとベッドの縁に腰掛けているリリィも見やった。
(そりゃあ、可愛いとは思うけど)
外見だけで言えば、美少女なんてものではない。テレビの中でもお目にかかったことはないほどの女の子を前にして、しかし俺は意気消沈とばかりに土下座していた。
なにせ、なんの後ろ盾もないままに異国に放り出されたようなものだ。異世界……漫画やラノベで聞いたことはあるものの、いざ現実のものになると不安しかない。話を聞く限り人間は俺しかおらず、この世界がどんなものなのかもさっぱりだ。
こればかりは聞いておかなければと、俺はリリィに恐る恐る質問した。
「あの……俺って帰れたりは……」
「はぁ? 帰れるわけないでしょ。常識で考えなさいよ」
どうやら帰れないらしい。泣きたくなってくるが、ここで泣いてもしかたないので耐えることにする。
俺の態度が不満なのか、リリィは不服そうに口を開いた。
「ほんと、こんな冴えない雄が私の婚約者なんて、泣きたいわマジで。リチャードはあんなこと言ってたけど、私は絶対にしないからね」
念を押すように言われ、俺は眉を下げながらリリィを見つめた。
しないというのは結婚だろうが、しかしそれは困るというものだ。
なにせ俺のこの世界での人権は「リリィの花婿」であることが保証しているといってもいい。それを失うことは、それすなわち命を失うのと同義である。
ならばなぜ「嫌です」なんて言ってしまったのか、馬鹿正直すぎる先ほどの自分を殴り倒したい。
「なんで私と結婚するのが嫌なのか簡潔に説明しなさい。あんた、このままだと不敬罪で死刑よ」
「え、えぇ……」
滅茶苦茶である。しかし選択の余地などあるわけもないので、正直に答えることにした。
「だ、だって……まだここが何処かすらよく分からないし。会ったばかりだし……それに、君だって俺みたいな奴は嫌だろうし」
自慢じゃないが、彼女いない歴19年。つまりは生まれてこの方できたことはない。
女性経験など皆無で、唯一機会があったのではと思えるのは中学時代だが、「脈ありでは?」とか思っていた彼女は夏休みが明けたら友人の佐藤とつき合い出していた。
高校時代も、大学デビューもパッとせず、気づけば大学と下宿先を行き来するだけの生活。いきなりこんな美少女と結婚と言われても、詐欺かなにかにしか思えない。
「ちょっと待って意味分かんない。なにそれ」
「え? そ、そうですかね」
思い切って本音で話したというのに、リリィは首を傾げながら俺の顔を見下ろしてきていた。
しばし考え、思いついたようにリリィが手を叩く。
「あー! もしかしてあんた、その歳でメスと交尾したことないとか!?」
「ぶッ!!」
思わず噴き出してしまった。あんまりな言い方に、狼狽えながらリリィを見やる。
リリィはと言うと、意地悪そうな顔で興味深げに俺の顔をのぞき込んでいた。
「へぇー、ふーん。なるほどねぇー」
「な、なんだよ。悪いかよ」
つい素で返してしまった。視線を逸らした俺を見て、リリィが愉快そうにくすくす笑う。
なぜこんなことにと思いながら、俺はリリィからの好奇の視線に耐えていた。
「あんた、あんたの世界でも冴えなかったのねぇ。ほんと、いよいよこれは大問題だわ」
「そ、そんなことないぞ。俺の世界ではこの歳で童貞とか普通だし。ば、晩婚化も進んでるし、そもそも国自体がもうちょっと少子化対策をだな」
焦って変なことを口走ってしまうが、それをリリィはニヤニヤとしながら聞いていた。
そして、なにを思ったのかリリィがとんでもないことを口走る。
「いいわ、あんたと結婚してあげる」
驚いて顔を上げるが、そこには愉快そうに微笑むリリィの笑顔。
その美しすぎる微笑みに、俺はぞくりと背中を震わせるのだった。
◆ ◆ ◆
「おお! お二人とも、初めての夜はいかがでしたか?」
翌朝、ニコニコと満面の笑みで出迎えるリチャードに、俺たちはとりあえず愛想笑いを浮かべていた。
「いやーもうやりまくりのナニまくりよ。なんていうかこう、オークもびっくりって感じ。さすがの私もメロメロっていうか」
「ぶッ!?」
とんでもないことを言い出したリリィに、思わず噴き出してしまう。ギロリと睨まれて、いけないいけないと話を合わせるために姿勢を正す。
昨晩の続きを、俺は今一度思い出していた。
◆
『やったふり?』
『そう、交尾したふり』
『こッ……!?』
言い方に不覚にも声が裏返ったが、リリィの視線に咳を払いつつ、俺は気にしていないふりをした。
『な、なんでまた』
『なんでって、リチャードが言ってたでしょ? 子を為してもらうって。世継ぎをつくれってことよ』
リリィの言葉に、なるほどと俺は頷いた。いきなり交尾と言われてたまげたが、考えてみれば当然の流れだ。魔王を異世界から呼ぶといっても、王家の血を絶やさないためには王家の者と子供をつくらなければいけない。
『リチャードの奴、見た目通り頑固だからさ。ここは譲らないと思うのよね。世継ぎが必要ってのは本当だし。……あんま駄々こねてると、『さ、わたくしめの前で!』とか言いかねないわ』
『な、なるほど』
それは俺も避けたい事態だ。初体験が無理矢理アンド爺さんの前なんて、リリィに申し訳なさ過ぎる。
『だからさ、私考えたんだけど……夫婦のふりしない?』
『夫婦の?』
リリィの言葉を聞いて、俺はふむと思案した。
子づくりはともかく、リリィと結婚しなければならないのは本当なのだ。ならば現状、仮面夫婦をするしか方法はない。
事態を引き伸ばすだけの苦し紛れにも思えるが、なんだかんだで悪くはない気がした。
『要はみんなに『魔王が召喚されましたよー。お姫様とも上手くいってますよー』って言えればいいわけよ。そしたらほら、私もあんたと子づくりする必要はなくなる。あんたも行くあてを心配する必要がなくなる。お互いにとっていいこと尽くしじゃない』
『た、確かに』
リリィの提案に俺は頷いた。考えてみれば、子づくりしてるかどうかなんて他人に分かるわけがない。
『それに、あんたが魔王としてきちんと働きだしたら、それこそ後はどうとでもなるわ。なんなら浮気して別の雌とくっついてもいいわけよ。そしたらほら、私は晴れて自由の身ってわけ』
『な、なるほど?』
そのためには俺が別の子とくっつく必要があるが、そんなことあり得るのだろうか。ただ、俺はこの世界で最もと言っていいくらい位の高い存在になるわけで、そこまでお膳立てされればいくら俺でも結婚くらいはできそうな気がしてくる。
『子供の頃から『お前は次の魔王と結婚するんだー』って嫌気が差してたのよね。そう考えれば、あんたみたいな腰抜けでよかったわ』
嬉しそうにリリィが口を開く。
聞いていると、俺が嫌というよりは決められた相手との結婚が嫌なようだ。考えてみればいきなり現れた相手と結婚して子づくりしろと言われているわけで、そりゃあリリィでなくとも思うところがあるだろう。
『そのためには、私たちの関係を疑われるわけにはいかないわ。仲睦まじい、ラブラブ夫婦だと思われなくちゃ』
『ら、ラブラブ……』
言われ想像するが、できる気が微塵もしない。新婚どころか、こっちは女の子と手を繫いだことすらないのだ。
けれど、困惑している俺に向かってリリィはニコリと右手を差し出した。
『よろしくね、テッペイ』
その右手を、俺はおずおずと握りしめた。
◆
というのが、昨日の作戦なわけだが……。
「おおっ! ということは、テッペイ殿のことを気に入られたのですね! さすがですテッペイ殿! いやぁ、魔王さまはあちらのほうがお上手とみえる! あの跳ねっ返りのリリィ様に一晩で気に入られるとは!」
「ハハハ、マァ……ソ、ソーデスネ。ナレテマスカラ」
喜ぶリチャードに乾いた作り笑いで応えるしかない。
慣れているどころか、一度も女性と手を繫いだことすらないとはとても言えない雰囲気だ。むしろ、昨日リリィに踏まれたのが生涯一番の性的な夜だった可能性すらある。
「もう、テッペイの逞しさに骨抜きっていうか。こう見えてテクニシャンというか。そういうことだから、不用意に私たちの寝室には近づかないように」
「ええ! わかっておりますとも! うう……この爺、感激しております。魔王さま関係なく、もはやリリィ様をもらってくださる危篤な御仁などいないのではないかと心配でありました」
右手で涙を拭うリチャードを見て、リリィのこめかみがピクピクとひくつく。笑ってはダメだが、美少女とはいえ王族でこの性格のリリィの貰い手を探すのは、案外と難しいのかもしれない。
「と、というわけで私たちはラブラブだから、リチャードはなんの心配もしなくていいわ。ね、テッペイ?」
「って、うわッ!?」
ぐいっとリリィの腕を掴まれて、感じた柔らかさに思わず払いのけてしまう。びっくりしたようにリリィの目が見開いて、リチャードの目がキラリと光った。
「テッペイ殿、どうなされました?」
「えっ!? あ、いや……静電気が、バチっと。いやー、痛かったなー」
腕を振りながら、リチャードに必死になってアピールする。
よもや女性経験のなさが、こんなところで仇になるとは。だって、女の子に腕を握られたことなんてないんだもん。
「……本当に、お二人はラブラブなのですかな?」
「も、もちろんですよ! ラブラブもラブラブ、熱々の熱々で!」
懸命に弁解するが、リチャードの瞳が疑わしいものに変わっていく。どうすればいいんだと、俺は半泣きでパニくった。
「テッペイ!!」
そのときだ、傍らのリリィから俺を呼ぶ声。振り向けば、リリィが両手を広げて俺の顔を見つめていた。
鈍感な俺でも分かる。それはつまり、飛び込んでこいということで。
(え? いいの!?)
目を見開いた俺に、リリィはこくりと頷いた。
◆ ◆ ◆
柔らかい。すごく柔らかい。
それに、すごくいい匂いがする。あと、すごく気持ちいい。
「ちょ、ちょっとテッペイ!? 大丈夫ッ!?」
遠くの方でリリィの声が聞こえる。なんかふにふにと柔らかいものがお腹辺りに当たっていて、俺は「もう死んでもいいや」と少し思った。
「テッペイッ!? って、きゃあああっ!?」
とりあえず、死んだ甲斐はあったかもしれない。そう思いながら、俺はこれからの日々に思いを馳せ、あまりのショックに気絶した。
なにはともあれここに、魔界初の仮面夫婦が誕生したのだ。