第10話
視界が回復する。
ガンガンと響く頭の音と痛みに眉を寄せながら、俺はゆっくりと目を開いた。
ぼんやりと鮮明になっていく景色を見上げながら、そこが寝室の天井であることを理解する。
「ほんと、あんたって馬鹿よね」
声のする方へ振り向けば、リリィの呆れたような顔が見下ろしていた。
どうやらここは魔王城のようで、俺は記憶の糸を手繰る。
「あれ、リチャードさんは? 俺、確かリチャードさんと仕事の話を」
「慌ててあんたかつぎ込んで来たわよ。もうほんと、無茶はやめてよね。あんたに何かあったら困るのは私たちなんだから」
溜め息を吐きながら、リリィは腰掛けていた椅子の背もたれに体重を預けた。
見れば俺が寝ころんでいるのは寝室のベッドで、リリィは傍らの椅子に座っている。テーブルに置かれているのはどうやら水を張った桶のようだ。
「ご、ごめん」
「こういうときは、ありがとうよ」
ぴしゃりと注意された。タオルを絞って、額の上に放り投げられる。
冷たい感触が広がって、ひんやりとしたタオルを軽く押さえる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
リリィが微笑んだ。相変わらず呆れたように眺められるが、こんどはちょっと嬉しそうだ。
額をさすっている俺をじろりと眺め、リリィは片眉を上げる。
「聞いたわよ。あんた、10日もろくすっぽ寝てなかったんでしょ? 夜な夜な抜け出してなにをしてるかと思えば、馬鹿なんじゃないの」
「うっ、やっぱバレてたか」
あまり心配をかけるのもよくないと、夜はリリィが眠ったのを確認してから作業場に行っていたつもりだったが、どうもお見通しだったらしい。
頑張ったのに馬鹿だと言われるのも切ないものがあるが、実際倒れて迷惑をかけているのだからリリィの言うことも尤もだ。
目線で「なんでそんなに頑張ったの?」と聞かれ、なんでだろうと濡れたタオルを握りしめた。
「なんか……俺にもできることあんのかなって。ほら、リリィのお父さん凄いじゃんか。本当は、ああいう人がやるべきなんだよ」
戦争の英雄。自分には逆立ちしても無理な話だ。勿論、他のことならどうだと言われても、さっぱりできる気はしない。
いきなりやってきた見知らぬ世界で魔王をやれ。考えてみたらとんでもない話だ。
そんな話を何代にも渡って魔界がやってこれた理由など、一目瞭然。
優秀だったのだ。それも信じられないほどに飛び抜けて。今までの魔王が、凄い人たちだったのだろう。
「俺は違う」
ただの、平凡な大学生だ。インターハイで優勝したスポーツマンでも、全国模試で名を馳せた秀才でも、若くしてデビューした漫画家でもなんでもない。
彼女すらできたことのない、真面目だけが取り柄の、そんな男だ。
「あんたって、ほんと馬鹿ねぇ」
リリィの言葉が突き刺さる。ただ、言葉とは裏腹にどこまでも優しいリリィの眼差しに、どきりと胸を震わせた。
足を組み替えながら、リリィはいつも通り呆れたように口を開く。
「あんたにできることって、あるに決まってるじゃない。あんた、自分がなんだと思ってるのよ。あんたは魔界に一人しかいない魔王候補で……私の、たった一人の婚約者よ?」
驚いた。心底驚いて、俺はリリィを見つめる。
「頑張るのはいいけどね、そんな焦らなくても大丈夫よ。ゆっくりでもちゃんとやってたら、いずれはみんなが認めてくれるわ」
そう言うと、リリィは立ち上がって俺の隣に腰を下ろした。
少しベッドが凹んで、リリィの方へ身体が寄る。
肩が着きそうな距離にどきどきしながらも、俺の耳はリリィの言葉を聞いていた。
「あんただけができることじゃなくていいの。あんただからできることをやりなさい。焦らなくていいし、誰かを頼ってもいい。そしたらほら、それがあんただけができることよ」
綺麗な声だ。
リリィの言っていることは難しくてよく分からなかったけれど、そんな俺でも少しは分かった。
俺にはリリィがいて、リチャードもいて……ネココも、城の人たちだって大勢いる。過ごしていたら、他にもたくさんの人と出会うだろう。
自分にだけできることなんて大層なことはないけれど、それでも、そんな人たちと何かを為すことができたなら、それは間違いなく俺にしかできなかったことなのかもしれない。
「あんた、自分の代わりなんていくらでもいると思ってるでしょう?」
図星だ。実現可能かどうかはともかく、俺より相応しい奴がいくらでもいる。
見慣れた呆れ顔がくすりと笑った。
「そりゃあね、あんたより上手くやれる奴なんて沢山いるわよ。それこそあんたの世界にだって魔界にだって、腐るほどいるでしょうよ」
リリィの身体が近づいた。
ほんの少し、肩が触れ合うくらいの距離だ。
「でもね、そういうことじゃないの。代わりなんていくらでもいることを繰り返して、みんな誰かの特別になっていくの」
どきどきとした鼓動が、リリィに伝わっているような気がした。
「少なくとも私は、あんたでよかったって思ってるわよ」
少し照れくさそうな、リリィの声。俺は信じられないものを見る目でリリィを見やった。
それに「なによその目は」と軽く目を細めて、けれどリリィは再び笑顔で俺を見つめる。
「しょうがないから、今夜は一緒に寝てあげる」
「へ?」
リリィがベッドに乗り込んでくる。薄い寝間着のスリットからはみ出した生足が露わになって、俺はびっくりして顔を向けた。
「病人を床で寝させるほど鬼じゃないわよ。いいから、ちょっと詰めなさいよ」
目をまん丸くしている俺に、リリィはあっけらかんと言い放つのだった。
◆ ◆ ◆
「なによ、人の顔じろじろ見て」
「いやその……」
なんて答えたらいいか分からずに、俺はどうしようもなく口ごもった。
なにせ「見てなんていないよ」と言えたらいいのだが、これはもう完璧にリリィの顔に見入っていたからだ。
改めて見ると、やはりとんでもなく可愛い。
正直性格も、本当は優しい子だというのを今の俺は知っていて。
それはつまり、俺には刺激が強すぎるということだ。
「あ、今度は目逸らした。ふふ、なによ。私の顔見るの嫌なの?」
「そ、そんなことないけど」
完全にからかわれている。くすくすと笑いながら、リリィは俺の方へと身体を寄せた。
ふにゅりと、柔らかな感触が腕に伝わる。
「そんなことないなら見なさいよ。ほら、見やすいように近づいてあげたわよ」
「う、うぅ」
弄ばれていた。手玉に取られているのが少々悔しいが、当然ながら悪い気はしない。
それよりも、この柔らかさはどこが当たっているのだろうとそればかりが気になってしまって、俺は心臓の鼓動を速くした。
「ちなみに当たってるのは胸よ」
「……ッ!?」
驚いた。心が読まれたこともだが、もはやそんなことはどうでもいい。
「なんてね。ほんとはお腹でしたー」
ぶっちゃけそれでもいい。左腕に感じる温かさと柔らかさとで、俺はどうにかなりそうだった。
というか実際、どうにかなっていた。
「無茶はダメだけど、頑張ってたのは本当だもん。リチャードも褒めてたわよ。……少しくらい、ご褒美あげる」
リリィが何やら嬉しいことを言ってくれている気がするが、もはや俺の耳には半分以上届いていない。
「ほら、仕方がないからぎゅっとしてあげるわ」
意識がまた遠のいていく。なんというか、急激に血が抜けていくような。
「まったく、感謝しなさいよ……って、ちょ!?」
リリィの驚く声がうっすらと聞こえた。
「あーもう! あんたは本当にぃッ!」
申し訳ない。怒っているリリィの声に、そう最後に謝りながら、俺は満足げな表情で悔いはないと意識を消したのだった。




