序曲
君を抱いて眠りたい 永遠に
1
不協和音のあとで、不自然に音が止んだ。
彼女の上体が崩れ落ちるのを、スローモーションで見ていた気がする。
「香織?」
放課後のレッスン室で、久しぶりに二人でピアノを囲んでいた。
何が起きたか把握するのに、どれくらいの時間が必要だったのだろう。脳裏に刻み込まれたのは、倒れてゆく彼女の顔色がやけに白かったことだけで。
窓から差し込む夕日の赤が、まがまがしくレッスン室を照らし、太陽の時がおわりを告げる夕刻。
「――香織!」
細い手足が印象的で。――痩せている。
幼い頃から側にいながら、彼女のそんな変化にはじめて気付いていた。
「司。私が白血病なんて、下手なコントみたい」
白色の病室に負けない、蒼白な顔色の微笑み。
目眩を覚え、体中のだるさに耐えながら隣でピアノを弾き続けていたのだ。なぜ、彼女の不調に気付かなかった。
違う、気付けなかったのだ。香織の音には、何ら不穏なものはなかったから。平和でなかったのは、自分の心の中だけで。
おさななじみの香織。
命の期限を数年と宣告されても、すぐには、再び彼女の音色を聞きたいと願えずにいた。
生きてほしい。
その本心を、どこかで忘れてしまった。
だから、奇跡が起きたときも迷ってしまったのだ。
「司、どうしたの?」
「もう、どうでもいい」
涙がどこから溢れでたのか、分からない。
逃げたい。彼女からも、ピアノからも。
2
「司。また泣いているのか」
兄の遥が、そっと部屋へ足を踏みいれる。弟よりも更に穏やかな眼差しが、優しく司を見た。
「親父とおふくろは、おまえのことを心配して反対しているだけだ。決して、危険を伴わないわけじゃないんだから。香織ちゃんだって、同じだ」
「そんなことは、分かってる」
「だいたい、おまえがピアノを捨てても何も状況は変わらない」
「分かってる!」
いつもおとなしい弟の叫びが、やけに部屋の中に響いた。司の瞳から溢れる涙は、止まる気配がない。
「香織ちゃんだって、喜ばないだろう」
「でも、もう弾かない。このままじゃ弾けない。僕は普通科の学校へ行きたい」
「……司」
おさななじみは、今も病室で孤独と戦っている。病魔に犯されながら。
彼女が倒れた日から、一カ月。
この日から、司の進路が音楽から遠ざかる。
3
病院のロビーを、制服を来た青年が通り抜けた。彼はそのまま受付へと足を運ぶ。
「あの、すいませんが。506号室の林香織さんの容体は?」
受付で振り返った看護婦は、彼の顔を見て微笑んだ。
「また君なの?そんなに心配なら様子を見にいけばいいのに」
「いえ、でも疲れさせるだけだから」
「そんなことないわよ。少しの時間なら。消毒を受ければ無菌室に入れるわ」
「本当にいいんです。会いたくて来ているわけじゃないから」
眼差しを伏せて、彼は低く呟く。看護婦は吐息をついて、いつもと同じことを繰り返した。
「容体はいまのところ安定しているわ。無菌室にいる限り大丈夫」
「そうですか」
青年の安堵した顔を見ながら、看護婦がうなずいた。
「君は彼女の彼氏なの?」
「……赤の他人です。僕がここへ来ていることは、彼女には絶対に言わないでください」
「言わないけど」
「じゃあ、ありがとうございました」
軽く頭を下げて、青年は踵をかえす。はやあしにロビーを横切って、すぐに姿が見えなくなった。