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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第一話:夢に眠る
7/67

6:罪と罰

1

 北の果ての空から、雲が迫り出しつつある。病院をあとにして、道路を走る間、沙輝は助手席から広がりだす暗雲を眺めていた。

 翠の生まれた日も、あんな雲が空を覆っていたのかもしれない。ぼんやりとそんなことを考えてしまう。翠の生まれた頃、関西には珍しい大雪が降ったらしい。暗雲が彼女を産み落として、再び連れ去るのだろうか。

 信号にかかって車が止まった時、沙輝は空から目を離した。車の中は、エンジンの音しか響いていない。

「晶さん、何も聞かないんですね。吹藤も」

 街路樹に目を向けたまま、会話をはじめたのは沙輝だった。

「聞いてほしいのか」

「分からないけど。でも、俺は自分一人で秘めてるのは好きじゃないから。独り言だと思って聞いてくださいよ」

 声ははっきりと通っているが、依然として彼の涙は止まっていない。後ろの座席から身を乗り出して、風巳が声をかけた。

「でも、仲谷。せめて、涙が止まってからでいいだろ?今は声を上げて泣いたほうがいいよ」

「俺もそう思うけど。そんなふうに泣けないんだよ。麻痺したみたいに」

 また腕を上げて、彼は涙を拭う。

「翠と俺の関係、よく分かってないだろ?吹藤は」

「え?そりゃそうだけど。恋人じゃないの?」

 言いながら、風巳は気付いたことがあった。翠は『兄さん』と言ったのだ。

 誰でもなく、沙輝に対して。

「恋人ってだけだったら良かったんだけど。翠は俺のこと兄さんって呼んだだろ、最後に」

「沙輝。そんなことを軽々しく俺や風巳に話してもいいのか」

 晶の問いに、沙輝は濡れた瞳のままちょっと笑う。

「いいよ。晶さんと吹藤って、優しいからさ」

 信号が青に変わって、再び車が走り出す。

「昔、今から十六年位前、すごい大雪が降ったって知ってる?」

 そんな風に、沙輝は切り出した。


2


 十七年前の春、桜吹雪の散る季節に仲谷沙輝は誕生した。初めての子供を、両親がどれほど慈しんだのかは、幼いころの写真や記録などで知ることができる。

「世津子、僕は次は女の子がほしい」

 仲谷覚――沙輝の父は、長男の次に長女を望んだ。妻の世津子が二人目を身ごもるのに、それほど時間はかからなかった。

 沙輝の誕生から十カ月を経て、女の子、沙織が生まれた。十月十日を待たずして、八カ月で生まれでた妹は未熟児であったが、元気な泣き声をあげたと言う。

 十六年前の二月、沙織の生まれた日は、関西には珍しい大雪が降っていた。降っては止み、止んでは降り、積雪は二十センチにも及び、二、三日雪が続く。



 当時、時期を同じくして、ある夫婦にも女の子が生まれた。

 体のそう強くない妻が、子供を授かることはないだろうと諦めかけていた矢先に届いた吉報である。

「あなた、私、子供が……」

 それからは大変な騒ぎだった。女――原田美代子の実家は、製薬会社をもっており、美代子の父は、経営手腕を生かして医院の開業にも投資を始めていた。

 実家である大阪からそう遠くなく、安心して娘の出産を任せられる病院。

 美代子の父は、その条件の元に医院の世話をし、美代子は予定日より三日遅れで無事女の子を出産した。

「お前に似ていて、とても可愛いな」

「そう?でも、目元はあなたに似ているわ」

 娘の名前は翠。大雪の日に、沙織と同じ屋根の下で生まれた。

 けれど原田家の幸せは、たったの一日で脆くも崩れ去ってしまう。

 翠の生まれた夜、病院に火が出たのだ。

 火事と呼ぶには大袈裟な小火程度の出火。病院の一角が黒く焼け焦げ、被害者は一名、原田翠。

 生まれたばかりの女の子だった。

 子供のもちにくい体でやっと授かった子供。きっと、もう二人目は望めない。望んで望んで奇跡的に生まれた子供が、一夜で他界。

 美代子はどうしても、子供の死を認められなかった。諦め切れなかったのだ。

「あなた、翠は死んでいないわ。ほら、あそこで眠ってる子がいる」

「美代子、違う、あれは」

「あの子は翠よ。亡くなったのは別の女の子よ」

 夫の腕の中で、彼女が指さした娘こそ、沙織だった。



 かくして美代子の父は、医院側の経営状態を見て、交換条件を持ち出す。

 今回の事故で亡くなったのが、原田翠でないと認めるならば、子供を亡くしたことになる家庭への損害賠償を肩代わりし、経営の援助も惜しまないと。

 折しも医院側は、損害賠償を払えるほどの経営状態ではなく、選択の余地は残されていなかった。

 美代子は再び、我が子を腕に抱くことが叶う。原田家の養子である夫には、もはや口を出す権利はなく、夫自身、妻の願いを叶えてやりたかった。

 雪の降りしきる夜に、二人は医院をあとにする。

「この子、私に似てるわね、あなた」

 真っ白な結晶が、帳を降ろす。目前の闇を一瞬白く塗り替えるように。

「ああ、似てるよ。可愛い子だ」

 原田も、妻も、ただ娘の幸せだけを願って歩き続ける。足を進める度、雪の軋む音を聞きながら。

 沙織の、――いや、翠の幸せだけを望む。娘が幸せになることが、この罪への償い。

 強引に奪い取った幸せ。それでもほんの一時だけは、二人も、確かに幸せを信じられたのだ。

 翠と共に、幸せな家庭を築き上げるのだと。

 胸の奥底に、いかなる罪悪感が沈んでいようとも。



 桜が咲き誇る季節がやってきた。何の問題もなく、原田翠は十五歳になっていた。

 立派に育った娘が高校へ通うになり、人並みに恋に落ちる。

「翠はクラブに入らないの?」

「うーん、どうしようかな」

 新しい友達と、放課後に広いグランドへ出た時が兄との出会い。皮肉で不吉な、罰のはじまり。

 いきなり飛んで来たサッカーボールが、激しく翠の肩を打った。

「悪い!大丈夫?」

 駆け寄って来たのが沙輝だったのだ。慌てた仕草で、心配そうに翠を見下ろす眼差し。

「あ、大丈夫です」

 二人は出会ってはいけなかった。恋に落ちることなど許されはしない。

 兄妹なのだ。恋は禁忌。決して、許されない。

 美代子がその事実を知った時、どれほどの衝撃を受けたか。美代子だけでなく、夫も。

 罪は贖えない。どれほど、隠しても浮かび上がって来る。あの、十六年前の皮肉な事故が。

 罰が返って来た。あの子達は今、深い血のつながりを知らず恋をしている。やはり、許されはしなかったのだ。子供の死を認めず、全てを狂わせることなど、許されるわけがない。

 罪を犯せば、我が身に罰が返る。我が身よりももっと痛く、娘にまで火の粉が飛んで行く。

「あなた、私は、何てことを……。翠が。全て、狂ってしまった」

 罪に苛まれて、美代子の心が脆く崩れ去ってしまう。

 沙輝と翠の恋路は成就してはならない。原田は娘の転校を企て、やがては、仲谷家にも全てを告げて、両家から圧力をかける。

 翠に全てを打ち明けることは、最も避けたかった。けれど、そんな猶予も許されないほど、二人は強く引かれあう。

「翠。彼に会うのはやめなさい。兄妹なんだ、お前達は」

 父、原田は娘に全てを打ち明ける決意をした。十六年前、妻と自分の犯した罪。

 雪の日にすり変えた二人の子供の話を。

 兄と妹。そんな濃い血のつながりで結ばれることなど許されない。

 彼は兄であるから。恋愛の対象にだけはなれない。

「本当に?」

 何度、娘にそう問われただろう。嘘であってほしいと、自分ですら思わずにはいられないほど。

「本当なのね」

 その言葉こそ、最後に父に向けられた言葉。後は何の別れもなく。

 翠は愛する兄の元へ、全てをしたためた手紙を出して、夢に眠る。


3


 いつの間にか、車は街路樹に寄せて止まっていた。話し終えると、沙輝は深く息をついた。やりきれないと言うように、短い髪をクシャリとつかむ。

「翠の母親はさ、さっきの病院で入院してるんだ。俺と翠のことを知ってから、ずっと。精神的にまいったんだろうな。脆い女性だよ、子供を諦められなかった時点で」

 翠が望まなくても、狂った歯車に関わった者は、もう罰を受けている。

 遠い昔に罪を犯した時から、罪悪感という罰を受け続けていたのだ。

 原田美代子は、本当にそれで幸せになれると思ったのだろうか。ほんの一時でも、心の底から幸せだったのだろうか。

「俺とあいつが兄妹。今でも信じられない、どうしてよりによって」

 最後の彼女の呼びかけの意味は、痛いほど分かった。

『好きよ、本当よ、兄さん』

 兄として愛していると。だから自分のことも妹として思い続けてほしいと。そうしなければ、終わりが見えないから。

「でも、何も死ななくても良かった。そしたら、いつか兄妹として――っ」

 沙輝が言葉を詰まらせる。息が出来ないくらい、激しく涙が溢れでた。ハンドルに上体を伏せていた晶が、ゆっくりと身を起こす。バックミラーで風巳を見ると、悲愴な顔をしていた。今にも沙輝につられて泣き出しそうだ。

「吐き出して、気が済んだか」

 むせび泣く沙輝の背中へ声をかけると、彼は顔を伏せたまま首を振った。

「沙輝。翠は俺にはこう言った。自分が眠るのは、未来がないからだと。望んでいる未来を見ることが出来ないから、選んだと言っていた。彼女は自信がなかったんだ。おまえを兄にする自信がなかった。でも、妹である以上、生きていれば兄が恋人を見付け、結婚して幸せな家庭を築くことを見守ることしか許されない。それはおまえを好きな翠には地獄だろ。できないと思ったんだ、彼女は」

「そんなの、俺だって、同じだよ。……同じなんだから、二人で一生恋人も作らず、独身で、仲のいい兄妹でいたらいい」

「そうだな。でも、翠は違う幸せをおまえに望んだんだろ。普通の恋、普通の結婚、普通の幸せ」

 沙輝が涙で濡れた顔を上げた。厳しく晶を睨んでいる。

「そんなこと分かってます!」

 凛とした声だった。

「分かってるけど――」

 声が震えだし、彼は再び顔を伏せた。パタパタパタと涙が落ちる。

 分かっていても、どうにもならない思いがある。哀しみが大きな波になって、打ち寄せて来るのだ。

 誰も苦しまなかったとは思わない。原田も、彼の妻も、翠も自分も、両親も苦しんだに違いない。

「死ぬことなんて、なかった」

 でも、今はそれしか考えられない。

 翠を好きになって、一緒に過ごした時間は本当のことだから。

 血のつながりを知らず、ただ幸せに過ごした時間が確かにあった。自分の蹴ったサッカーボールが彼女に当たって、全てはそこから始まったはずなのに。

 もう、翠はいない。

 自分の想いだけが、残されて。


4


 関西圏の最南に位置する和歌山には、吹藤本家の中でも、最も感覚の強い女性が療養している。

 斎藤克行は東京の本部を離れ、白浜に建っている個人で所有する別荘へ足を向けた。

 夏場には海水浴場や、花火などで賑わうが、時期をずらすと、驚くほど閑散とした町並みになる。

 吹藤グループの三本柱の一人である吹藤和彦の命で、彼は関西へ来ていた。本来ならば、すぐに風巳の元へ足を運ばなければならなかったが、斎藤は、この地に誰よりも放っておくことのできない人間を住まわせていた。

 海に面した坂道を車で三十分も走れば、ひっそりとたたずむ別荘へ到着する。

 インターホンを押すと、中から本家付きの世話役である女が顔を出した。

「斎藤様。遠路はるばる御苦労様でした」

 深く頭を下げる女に、一言か二言声をかけて彼は廊下を進んで行く。

 二階へ上がると、奥の部屋の前で足が止まった。背後をついてきた世話役の女を振り返り、斎藤が低く呟いた。

「あの方は、変わらず?」

「はい」

「そうか」

 ゆっくりと奥の部屋の扉を開き、部屋へ踏み込む。海が一望できる窓から、彼女は水平線を眺めていた。

 軽くうねった漆黒の髪が、彼女の小さな背中を飾っている。

「光様」

 英語でそっと呼びかけると、ゆっくりと彼女が振り向く。長い髪が、彼女の肩の上をサラサラと流れた。白い頬に赤味のさした唇。瞳は紫紺をたたえ、斎藤を真っすぐに見つめる。

 東洋と西洋の血を引く彼女を、誰よりも美しいと感じるのは斎藤だけではない。

 しっとりと濡れた唇を動かして、彼女は英語で呟く。

 今、誰かが夢に眠ったと。

 それから、わずかな微笑を浮かべて、もう一度口を開く。

「斎藤。――私、もう日本語を話せるわ」

「光様」

 すっと、白い手が斎藤へ差し出される。促されるまま、彼は手の甲へ唇を寄せて挨拶を交わした。

「あの人は、まだ迎えに来てはくれないのね」

 斎藤の表情にさっと痛みの色が走る。過去の痛手から、彼女の心を救うために、斎藤は嘘を告げたのだ。

 彼はあなたを愛していたと。いつか、必ず迎えに来るに違いないと。

 恋愛感情を別にしても、彼が光を放っておくのは義務を犯している。風巳が本家を出て、吹藤和彦が動き出した今、彼の閉ざされた過去も、動き出さなければならない。

 吹藤総帥をはじめとした一族が、長く黙ってはいないと斎藤には思えた。

 血統の研究のためには手段を選ばない中枢が、彼を初めとして全てを野放しにはしないだろう。

「もうすぐです、光様」

「本当に?」

「はい。彼――晶様は確かにあなたを思っておいでです。それに、彼が再びあなたと出会うことは義務でもあるのですから」

「そうだといいのだけれど」

「日本が嫌なら、英国でお待ちになってもよろしいのですよ」

「いいえ。できるだけ、あの人の近くにいたいわ」

 まだ、これほど彼を愛している。本当の愛が何であるかも知らずに。吹藤を名乗っていた頃の晶は、もういないのかもしれない。

 彼がどれほど変貌したか、斎藤ですらまだ知らずにいる。 あの頃の彼にすら、光だけは特別であったのに。今は、愛を語るのもおかしいほど遠いだろう。


5


 涙に濡れた頬をそのままに、沙輝が晶の自宅へ帰って来た。出迎えたまどかに「ただいま帰りました」と呟いた声が震えている。

 成り行きで一緒にいる風巳を、自分のために作られた部屋へ連れ込んだ。二人はそのまま閉じこもって、出てくる様子はない。

 車のキーをリビングのサイドボードの上へ置いて、晶が上着を脱いだ。まどかは、落ち尽きなく沙輝の部屋を気にしている。ソファに腰掛けて、晶が呆れたように彼女へ声をかけた。

「そんなに気になるなら、沙輝の部屋へお茶でも持って様子を伺いに行ったらどうだ」

「いやよ。今はそっとしておく方がいいもの。でも、風巳君が一緒で良かった。あの二人って仲がいいのね」

「そうみたいだな」

 複雑な思いを抱えながらも、晶も今だけは風巳の存在を認めている。沙輝のためには必要だと思えるのだ。

「沙輝君。彼女に会えたの?」

「会えたよ。息をひきとる瞬間にたちあった」

「じゃあ……」

「沙輝は大丈夫。そんなに脆い奴じゃない」

「そうね」

 さっきから、目を伏せている晶の表情に、わずかに悼みの色が浮かんでいた。そっと彼へ近づいて、まどかが背後から腕を伸ばす。

「晶も辛そうね」

「いま笑えたら、人間じゃないだろう」

 そう口にしてから、晶がわずかに苦笑する。そういう労りや思いやりの点から人間性をはかるなら、昔の自分は人ではなかっただろう。

 少しの期間に自分がどれほど変わったのか、痛いほど思い知らされる。

「昔の俺には考えられない台詞だな、今のは」

 嘲笑を含んだ声を聞いて、まどかは晶に回している腕にわずかに力をこめた。

「そんなことないわ」

 筋肉質な腕が、自分の首に回された細い腕をつかむ。そのまま彼女の腕を解いて、彼はまどかと向かい合った。中心が紺青にも見える、限りなく漆黒に近い瞳に、小さくまどかが映っていた。

「お前はあの時、俺を憎まなかったし、責めなかったな。それはなぜだ」

 滅多に触れることのない過去の話題に、まどかが一瞬表情を歪める。

 二人の関係は、晶の強引な手段によって開かれた節がある。まどかの気持ちをふみにじるようにして。

 嫌悪されて当然のやり方を、彼女は受け入れた。

「あなたを、嫌いじゃなかったから」

 強くつかまれている腕に、更に力が入る。

「晶、痛いわ……」

「今、言い訳をさせてもらうと。あの頃はああいうやり方しか知らなかった。時間もないように思えて」

「知ってたわ」

 浮かんだ言葉を飲み込んで、晶がまどかを見据える。怖いほど、真っすぐに。

 後悔している。あの時、彼女を望んだ自分の行為を。おし殺すべき感情に、なぜ従ってしまったのだろう。

「痛い。晶?」

 翠が沙輝を置き去りにしたように。自分は彼女を――。

 吹藤の血統を受け継いだために、晶は過去に薬物投与を受けた。

 能力維持のために。

『どんな影響が出るかも分かっていないのに。ただのサンプルを』

 周りの思惑も、自分の想いも。どうでも良かったのだ、あの時は。疲れていた、全てに。早く自分に対する研究が終わるなら。

 手が届かない夢を見る位なら、消えてしまいたかったのかもしれない。

『何の変化もありません。あなたの脳波は正常値に戻りつつある』

 既に数値に異常はなく、吹藤晶の能力は例外なく二十歳を迎える前に消え去った。普通の人間と変わりがない。

『どういうつもりで、そんな茶番を』

 能力は消えてなどいないのに。眠りの間の脳波も普通の人間とは確実に異なった数値を示している。

 偽りのデータを作り上げた彼は、白っぽい金髪を揺らして振り向いた。

 冷たく、凍てついた瞳の青がふっと歪む。笑みをたたえて。

『あなたには、実験動物のように変わりがいるわけではありません』

 一瞬、目前の白衣をまとった男の言葉を、理解できなかった。

『このままモルモットでいれば、あなたの知識が研究へいかされない。それ所か実験動物として殺されるだけでしょう。私はあなたを、実験台としてではなく、高く評価しています。このままなぶり殺されるのを見ているわけにはいきません』

 けれど、実験動物という肩書がとれても、本家の仕打ちは、血統を継ぐ限り次の手段へと伸びて行く。きりがなかった。

 だから、まどかに安らぎを求めた。ほんの一時だけでも、自分だけが楽になるために。

 これからは、その罪を贖わなければならない。

 強くつかんでいたまどかの二の腕を離して、晶が弱く笑う。まどかの嫌悪する、全てを隠してしまう微笑み。

「沙輝は、よく一人で秘めて耐えたな」

「そうね」

 何も問うことは許されない。まどかには、それだけしか答えられなかった。


6


 沙輝が、制服のままゴロリとベッドに横になった。風巳は身の置き場がなく、仕方なく近くの小さな椅子へ腰掛けた。

 そっと沙輝へ視線を向けると、彼は両手で目を押さえて、じっと横たわっている。

 気まづい沈黙の中を、壁時計の秒針の音だけがいやに大きく響いた。

「吹藤は、結城のどこを好きになったんだ?」

 いきなり声をかけられて、風巳は一瞬飛び上がるほど驚いた。沙輝がガバッと身を起こして、明るい表情で風巳を見る。

 無理に空元気を演じていることが、すぐに分かった。

「どこをって言われても。好きって言うより、ただ、ちょっと気になってるだけで」

「ふうん。結城はいい奴だと思うよ。頑張れよな」

 役割が逆になっている。今、傷ついているのは沙輝であり、励まされるのも、彼でなければならない。風巳は慌てて口を開いた。

「仲谷、そんなに気を遣わなくても。俺、ここで黙ってるから、泣いてたっていい」

「沙輝でいいよ。気安く呼んでくれたらそれで」

「あ、うん」

「俺もお前のこと気安く呼ぶし」

 また、沈黙があった。こういう時に相手にかける言葉を風巳は知らない。何を言っても傷をえぐるような気がして。

「翠と俺も、何となく付き合うようになったんだ。好きとかって言葉はお互いに言わなかった気がする」

「沙輝。俺、何て言ったら一番いいのか知らないけど。女の子は彼女だけじゃないとか、そういう無責任なことは言わない。だって、原田は一人だけだし。これからどうするかは沙輝が決めることだし。だから、俺はとりあえず、早く元気になれよってだけ言うな」

 沙輝が深く頷いて、顔を伏せたまましばらく黙り込んでいた。涙が落ちるのが、風巳からも見える。

 それから、ボソリと低い呟きが届いた。

「変な奴」

「え?」

「普通は、もっと慰め方あると思うけど」

「ご、ごめん」

「まぁ、いいや」

 パッと顔を上げて、沙輝が涙を拭う。風巳がほっと胸を撫で下ろした。

「おまえの前では思う存分泣けるし。今更きどっても仕方ないしな」

「そうそう。泣けばいいんだよ、とりあえずは」

「だから、もうちょっと慰め方があるだろ」

「ごめん」

 それから、沙輝は途中で何度も声を詰まらせながら、翠のことや、学校のことや、クラブのことを無茶苦茶な順番で風巳に話して聞かせた。

 朝子がいつの間にか帰宅して、部屋へ二人を呼びに来るまで、ずっと。

 翠はさ、家庭科でお菓子作ってもって来てくれるのはいいんだけど、ある時なんか、すげー味だったことがあって。俺、次の日学校休んだんだ。

 サッカー部の鳥羽はよくゴールに激突して、救急車呼ぶので有名だし。

 俺らの学校って一年と二年の間にクラス変えないんだよ。その変わり二年の途中で文系と理系で別れる筈だけど。

 ランダムに、沙輝の口からは次々に思い出が吐き出される。

 派手に飾られた、賑やかな夕飯が終わった後も、沙輝と風巳は二人で部屋に籠って語り合いを続けた。

 様々なことを話しているうちに、風巳も一つの決意が固まっていた。朝子の兄である、結城晶から逃げずにいようと。彼は何かを知っているに違いない。言葉の端から滲み出る苦さは、嘘ではないように思える。彼自身も、何か大きなものを抱えているに違いないのだ。

 『吹藤』という大きな枷に、自ら負けてしまわずに。

 挑んでみる。

 どこまでのことを知ることができるか。そう考えると、風巳にとって、沙輝と共に『結城』邸へ転がり込んでいるこの状況は、好都合だった。

 夜が更けると、晶がやって来てワインを一本差し入れてくれたりもして。

 風巳と沙輝は、ひたすらたわいもない話を続けた。しだいに酔いがまわって、ろれつがまわらなくなっても。

 やがて二人でデロデロに酔って眠りにつくと、夢の中では確かに翠が笑っていた。

 何の迷いもなく、沙輝に伸ばされる腕。

―――幸せに、兄さん。

 幸せに。ただそれだけを告げて。

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