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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第五話:罪を贖う者

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ACT21

 ACT21


   1


 ミカエルが目的を果たし、強大な王の力を手放した瞬間、護りは躊躇せずに動いた。胸を貫かれて倒れた彼に与えられていた、絶大な護り。

 王の末裔である結城晶の胸を貫いた剣は、王の命と強大な力そのものだった。召還によって、制約を受けずに堕園したミカエルだけが、宝珠に封じられた力でその剣を形作り、手にすることが出来たのだ。しかし、それを手放した瞬間、ミカエルは大した力を持たぬ者に成り下がる。

 護りはそれを見逃さずに、彼が剣を手放した瞬間、行動に出た。

 一部始終を眺めていたジブリールは、その鮮やかな動きに目を奪われたほどである。護りは黒き流れを真っ直ぐに貫いて、躊躇わずに向かう。

 部屋には黄昏の陽射しが射しこみ、絨毯の上に全ての物の影が落ちていた。護りは陽射しによって形作られた早川まどかの影へと潜み、刹那、すぐに浮上した。ミカエルの影を捕らえて引きずり出し、そのまま室内の壁に叩きつけて、磔にする。

 しかし、一連の動きに感嘆をもらす間もなく、護りはジブリールとラファエルにも矛先を向けた。いまや護りに在処を知られているのだ。当然だった。

 声を上げる隙も与えずに、同じようにエレノアとエリックを照らして出来た、絨毯に伸びている影へと潜り込む。

「―――っ!」

 ジブリールは引き裂かれる激痛にもだえた。護りは容赦なく、宿った体からジブリールを引き剥がした。一瞬の出来事である。再び護りが影から立ち上がると、ジブリールを捕らえたまま、同じように壁に磔にして、動きを封じた。

 ラファエルも同様の制裁を受けている。

 ジブリールは壁の高い位置から、自身の宿っていた身体を眺めていた。エレノアもエリックも気を失い、その場に倒れている。次に目が覚めた時には、彼らの意識も眠りから醒めて、取り戻されていることだろう。

 長い夢を見ていたとでも言うのだろうかと、ジブリールは場違いなことを思った。

 承諾もなく、身体を乗っ取り、残酷な役目を演じさせたのかもしれない。それでも、彼らは引き換えに、失われるはずの命を取りとめたのだ。何者にも変えがたい報酬であるはずだと納得させた。

 護りに引き剥がされた身体は、この地では器なしに形をもたない。ぼんやりとした影が蠢いているだけである。さらされた身体は、無理矢理引き剥がされて激痛を伴っていたが、ジブリールの想いは満たされていた。

 王の想いは、光を慈しむのだ。倒れている結城晶が、見事にそれを示した。言葉にされるよりも、どんな証拠よりも、一番信じるに足る結末を迎えた。

 輪廻に還ることは許されない。もうジブリールは滅びるだけであるが、無駄ではなかったと噛みしめる。

 護りは、ジブリール達を捕らえたまま、動きを見せた。立ち上がった影のような護りは、よく眺めると、膝をついて何かを迎えているようだ。

 ジブリールは、護りが迎えるものを、信じられない想いで眺めた。エレノアの身体に宿っていたのなら、間違いなく涙が溢れたことだろう。

 もう見ることも叶わないと思っていた王の姿があった。ミカエルの手放した剣は、ゆるやかに形を失う。命と力はそのまま在るべき主の内に還ったのだ。

 取り戻すために、王はこの地に渡ったのだろうか。どんな理由であろうとも、ジブリールは歓喜に震えた。

 王は光の末裔を導いてから、こちらを見た。変わらぬ美しい金の髪と、蒼穹をうつした青い瞳。憤ることもなく、穏やかに向けられた眼差し。自分を裏切った者を眺めて、険しい顔をすることもない。

 この地に渡りながら、王だけがその絶大な力と護りによって、顕在できる。それが、古に彼に大きな過ちを与えることになった原因の一つであったのかもしれない。

「私の想いの在処は示された。―――これで、救われたか?」

――この世は、これで過去と未来を失う。私は救われた。

 ミカエルが答えた。ジブリールとラファエルには、意味がわからない。救いとは、そんなところにはなかった筈なのだ。

――私は、救われました。ルシファー、あなたを信じきれず背いたこと、許してくださいとは言えません。進んで罰を受けます。

 ラファエルの答えに、王は深く吐息をついた。

「そういうことだったのだね。ミカエル、君は私の想いの在処ではなく、歪められたこの地を救いたかった。そうであれば、残念ながら君は救われることはない」

 ミカエルが形を持たぬままに、憤ったのが伝わる。

「ラファエル、ジブリール。私は人を愛したが、その瞬間も、君達を裏切ったことはない」

――そうだったのかもしれません。

 ジブリールが答えると、ルシファーは首を横に振った。

「君達は、この世の因果を知らない。ミカエル、君は知っているだろう」

 答えはなかった。王は人を愛した理由を、はじめてラファエルとジブリールに語った。

 彼の犯した過ちの全てが、失われることの許されない道程。世界を越えた者と、時を超えた者の出会いが、導いた現在。そして未来。

――ミカエル、なぜ黙っていた。

 ラファエルが激昂する。無理もない。分かっていれば、王の末裔を討つことがどれほどの過ちであるのかは知れたことなのだ。王の想いが、古から揺るがず光に向けられていたことも、証明された。ミカエルからは、やはり答えがない。

「ラファエル、彼を責めるのは間違えている。私の招いたことは、やはり過ちであることに変わりはないのだから。法と理を破って、行動した」

――しかし、それはあなたを信じず、絶望させた周りの者達が導いたことです。

「いや、そうではない。ラファエル、ジブリール。私の言葉がおまえ達に届いたとは思えない。それほどに、私と眷属の想いは遠ざかっていた。今は、彼が命をかけて私の想いを示してくれた。けれど、この成り行きを見守らず、おまえ達が堕園する前に、今語った真実を言葉にしても、おまえ達に届いたとは思えない」

 二人は言葉を失った。庭園での日々を思い出す。堕園を決意した前後の自分達は、確かにそうだったのかもしれない。ルシファーの語る真実が、全て偽りに聞こえた。それは、思い込みであったが、それ故に、どんな真実も自分達には届かなかったに違いない。

「だから、私はおまえ達の堕園を止めなかった。行方を追わなかった。私の残した血が、全てを導く日を待った。彼が倒れるまでの成り行きを、私は分かっていて止めずに、見守っていたのだ」

――彼を犠牲にして、私達に真実を教える為に?

 ジブリールの呟きは、ルシファーに届いたようだ。彼は頷いた。

「私の血を受け継いだ彼には、残酷な試練となった。詫びる言葉もない。けれど、私は後悔していない」

――彼が死ねば、少女の生まれる未来は訪れない。この地を滅ぼしてまで、あなたは想いを証明したかったのですか、ルシファー。

 思わずジブリールが指摘すると、近くでミカエルの低い笑いが響く。彼がどのような思惑の元に行動していたのか、ジブリールにはわからなかった。

「この世が滅ぶことはない。彼女の生まれる未来は訪れる。――私はこれから輪廻の法に従い、旅立つ」

――王が自ら?

 驚いたラファエルが問い返した。今は自分達の堕園で、王を助ける重鎮も著しく不在となっているのだ。新しく任命するにしても、今すぐと言うわけにはいかないはずである。

「庭園には、これから永く王不在の時が流れる。ラファエル、ジブリール。おまえ達の復職を命じる。庭園の安寧を見守ることを、私に誓ってほしい」

――莫迦なことを!

 ジブリールの声に、ルシファーは微笑んだ。

「どうして。今は天籍にある他のどんな重鎮よりも、おまえ達に信頼がおける。私の望みを疑わずいてくれることだろう。おまえ達の犯した罪は、私の罪から派生したに過ぎない。罰を受けるのは、私なのだ」

 簡単なことのように決断して、ルシファーはミカエルを見た

「おまえは、光に憧憬を抱かないのだね。しかし、こちらの世界を誰よりも愛している」

 思いも寄らぬ事実に、ラファエルとジブリールは驚愕した。振り返れば、彼の振舞いには、思い当たる事があった。

「しかし、この地はこちら側のもの。今更、私が言うのは可笑しいが、私達が関与して良い場所ではない。おまえは、知識を持つことを許された人が、この世を汚すというが。私はそうは思わない。彼の想いを見届けて、気付かなかったのか」

 ミカエルは押し黙ったまま、反応がない。

「自身を顧みることを忘れる瞬間。それは人に許された、強い力だ。彼らは、想いを守るために考え、闘うことができる。何かを慈しみ、大切に思う。そこから形作られた世界が、愚かなだけであるとは思えない。人を愛し、取り巻く世界を思う、その心根がある限り、人は世界を滅ぼすほどの罪を犯すとは思えない」

 やはり、ミカエルからは返答がなかった。

「おまえの天籍を剥脱し、混沌の渦に呑まれることを命じる」

 ミカエルが、ルシファーを見た。罰として滅びることを命じず、再び巡ることを許すという、彼の真意がわからなかった。

「混沌の中にある業火に焼かれて、穢れを払ってから、再びこの地に触れてみるがいい。どれほど優しい世界であるか、おまえにもわかる時がくる。人が愚かではないとは、私も思わない。遠い未来に、この星は人によって死の星となる。しかし、懐かしい姿を求めて再興してゆく。私の愛した少女が、教えてくれた。緑の大地と、青い海原を取り戻す、その方法を残してきたと。だから、信じてみたいのだ」

 答えぬミカエルに、ルシファーは苦笑した。

「私は輪廻の法に従い、その命で彼を救う。しかし、やがて還れば混沌の渦に呑まれて、自身の犯した罪に対して罰を受けるつもりだ」

――ルシファー、では、あなたの旅は長くなる。

 ラファエルの静かな言葉に、彼は頷いた。

「護りと力を、おまえ達に預けておく。留守は任せたから」

――はい、王よ。間違いなく、あなたが還るべき場所を守ります。

 ジブリールとラファエルが声を揃えた。

 彼は静かに頷いた。眩しいほどに金色の髪を翻らせて、踵を返す。

「私は、望んだ結末を手にした。――後は罪を贖うだけ」

 彼はセフィロトの樹で待っている、愛しい面影に思いを馳せた。同じ罪に身を落として、力を貸してくれた美しい女王。彼女と共に巡るのなら、それは至福に違いない。



   2



 暗闇が辺りを支配している。光は一片も射しこまない。幾度か訪れたことのある淵である。眠りに落ちた時、辿り着くことを許された深淵だった。晶はとりあえず澄明な闇の中を歩き出す。天上を見上げても、澄んだ闇だけが広がっていた。夜空のように、星が煌くことはない。

 目的もなく、とりあえず清浄な闇の中を進んでいく。やがて、向こう側に夜明けのような、ほのかな明るさがじわりと広がり始めた。晶は自身の辿った道程が間違いではなかったのだと、歩を早める。じわりじわりと明けて行く闇に向かった。

 ふと、彼は誰かに呼ばれたような気がして、足を止める。背後を振り返っても、立ち込めた闇が彼方まで続いているだけである。暗黒の向こう側に、何があるとも思えなかった。

 再び、夜明けにも似た目前の光景に向かって、踏み出そうとする。

――行かないで。

 今度こそ、間違いなく声が聞こえた。晶は弾かれたように、もう一度振り返った。視界を占めるのは、密度の濃い暗闇だけである。声の主は、どこにも現れない。

――晶、独りにしないで。

 明瞭に、胸に響き渡った言葉。彼は、ようやく自身の置かれた立場を思い出した。引き止めて呼んでいるのは、置き去りにしてきた愛しい女。

――行かないで。帰って来て。

 ぼんやりと明るい前方を見てから、晶は迷いを断ち切るように踵を返した。

 彼女を手に入れるために辿った経緯は、いつでも楽な道程ではなかった。だからこそ、辿り着いたときの喜びは計り知れない。

 目前の明けて行く闇に向かって歩むのは簡単だが、彼女はそこにはいないと思えた。反対側に広がる深い闇を越えて、辿り着くような気がしたのだ。

 夜明けのような、薄くなってゆく闇の方角に未練を残さず、晶は歩いてきた道筋を戻る。どれ位か歩み続けると、再び背後に広がっていたほのかな明るさが姿を消していた。

 振り出しに戻ったのだと考えていると、ふいに一条の光が淡く暗黒の彼方に向かって途を示す。闇の向こう側は見えない。果てしないように感じる。気の遠くなりそうな、長い途を光は指し示しているように思えた。

 どこからともなく、果ての見えない背後から、一筋の燐光が深淵を貫いている。宝珠の灯す、淡い優しい光に似ていた。導かれるように進むと、晶は小さな煌きを見つけた。それは近づくに従って、ふわりふわりと優雅に動いているのがわかる。

 真っ直ぐに細い光が貫く筋道に従って、その煌きに辿り着くと、蝶のようなものが舞っていた。闇の中にあっては、正視するには眩しすぎるほどである。柔らかに動く羽が、羽毛のようで見たこともない生き物だった。

 羽から輝く粉が落ちて、闇の中でそこだけがひどく明るい。蝶のような生き物は、宝珠の燐光にも似た光の筋を辿るように、晶を先導する。

 間違いなく自身を導いているのかはわからない。光の筋を辿って、蝶に導かれながら、晶は永い時を歩き続けた。闇は一向に拭われず、目前に広がる暗黒が深さを増して行くばかりだ。この道程が間違えていたのではないかと不安になる。

 晶は迷った挙句、数歩、反対側へ歩いてみた。途端に、前方を優雅に舞っていた蝶は激しい瞬きを繰り返して、目前の至近距離に羽ばたいた。晶の視界をさえぎるほどに、激しく踊って行く手を阻む。

 これでは、戻ろうとしても戻ることも出来ない。晶は覚悟を決めて不安を殺すと、再び蝶に導かれて歩き出す。

 やがて、少しずつ闇が薄くなってゆくのを感じた。はじめの様に彼方が夜明けのように白んで行くのではなく、立っている世界全体が少しずつ暗さを失ってゆく。

 淡い光の筋道が失われるほどに辺りが明るくなると、彼方に大木が見えてくる。

 ぼうっと白くけぶるのは、花だろうか。桜にも似た立派な巨木である。蝶は真っ直ぐに、その大木に向かっているようだ。後をついて大木を目指すと、それは感じていたほどの距離を経ずに近づいてきた。

 ようやく辿り着くと、眩しい金色の髪をした女が立っていた。大木の幹に片手を添えて、こちらを見ていた。蝶は晶の傍らから離れると、女に纏わりつくように飛んでいる。

 女が歩み寄ってくると、さらさらと衣擦れの音がした。

「――良かった」

 女は胸に手を当てて、心底安堵したように呟いた。

「私の護りと宝珠は、あなたを導いてくれたようです。本来、還る者はここを訪れることができない。本当に良かった。――彼女は、諦めずにあなたを想い続けている。だから、あなたは引き返すことができたのですね」

 晶が頷くと、女は「あなたはここで、もう一度命を手に入れる」と告げた。

 長い巻き毛を風に躍らせて、女は大木を仰いだ。梢から振ってくる花片が、この上もなく美しい。命の輝きだった。

 晶はこれまでの経緯を思い出しながら、女に問うた。

「あなたは?」

「私は、庭園を治める光の長。ティフェレトと呼ぶ者もおります」

 胸を刺し貫かれる前に、エレノアに宿っていた者が多くを語った。晶の生きる世界とは、全く異なった、けれど繋がりのある世界。

 庭園と呼ぶのだと、教えられていた。

「あなたのおかげで、ルシファーは望みを叶えました。感謝しています」

 それだけで、晶には察しがついた。夢の中で、幾度か出会うことのあった、美しい青年。彼が犯した罪、そこから派生した禍が晶を巻き込んで、彼らの理を示した。自身に流れる、血統の源。本来は生まれることもなく、この世に現れることもなかった血筋。

 それを誰よりも強く受け継いだ為に、これほどの試練が与えられた。

「私は、彼女の元に戻れるのでしょうか」

 今更血統についての関わりを、晶は詳しく知りたいとは思わない。全てが終わったのなら、それでよかった。知りたいのは、これからもまどかと共に生きてゆくことが許されるのかということである。

「あなたの生きる世界は、あなたを欠いて未来を築いてゆくことは出来ないのです。あなたは、無事に彼女の元に戻れるでしょう。それが、決められた成り行きなのです。そうでなければ、あなたの背負った宿命は、あまりに残酷な試練でしかない。あなたは苦しむ為だけに、生まれたわけではない。幸せを求めて、生きてきたのでしょう?」

「――はい」

 頷くと、女は笑った。心地よい微笑みだった。

「彼が、帰ってきました」

 女が晶の背後に何かを見つけたのか、そう教えた。

 振り返ると、向こう側から人影が歩いてくる。見たことのある、長い金色の髪。緩やかに吹く風にさらされて、きらきらと流れた。

 彼は巨木までやってくると、晶に向き合い膝をついた。そのまま深く頭を下げた。

「私の思惑で、君には大変な災厄を与えることになった。詫びる言葉もない。けれど、私は望みを叶えることができた。感謝している」

 晶は彼の腕を掴んで立ち上がらせた。感謝されるために、この成り行きを選んだわけではない。ただ、自分がまどかを守りたかっただけなのだ。

「今度は、私が君の望みを叶える番だ」

 青年の澄んだ眼差しが、晶に注がれる。その視線を受け止めて、当たり前のように言葉にした。いつでも、どんな時も、出会った頃から、願い続けていたこと。

 そのためだけに、長く闘ってきたのだ。

「では、彼女と共に生きてゆける未来を」

 迷いなく答えると、青年は穏やかに微笑んだ。

「君は、必ずそう言うと思っていた」

 微笑みを失わず、彼はそのまま背後に立っていた女を見返る。彼女に向けて、真っ直ぐに手を差し伸べた。

「ティフェレト、私と共に、旅立ってくれますか」

「――喜んで」

 女は答えて、青年の掌に白い手を乗せた。

「晶、君の失われた命は、間違いなく私達が贖う。――元気で」

「どうか、幸せに」

 二人が、大木の幹に手を触れて、うっとりと目を閉じた。ゆっくりと姿が霞んで見えなくなる。はらはらと舞い散る花片が激しさを増したように感じた。

 輪廻を司る大木の下に、晶が独りで佇んでいる。ふと、花片の一片が彼に向かって舞いおりる。ひらひらと目の前を過ぎて身体に触れると、突然、激しい光を発した。

 正視できない輝きに目が眩むと、胸に何かが灯されたのが分かった。温もりが身体に満ちてゆく。ゆっくりと鼓動が蘇るのを感じた。

 大木の幹に手を伸ばして、触れる。

 夢のように美しい光景の中で、晶は瞳を閉じた。再び、目覚めるために。

 彼女と共に、未来を生きてゆくために。


3



 目覚めると、薄い闇が室内の輪郭を滲ませた。晶はゆっくりと視線を巡らせる。暗がりに目が慣れてくると、天井の形がはっきりと浮かび上がる。

 少しだけ首を回してみると、ここが病室であることに気が付いた。今までの出来事が、脳裏をよぎって行く。命を取りとめたのだと、すぐに思い至った。

 見事な巨木の風景が、記憶にあった。庭園の二人は約束を守ってくれたのだ。

 今は何時ごろなのだろうと思うが、視界の届く範囲に時計が見当たらない。あったところで、この暗さでは、時間を読み取ることは不可能だろう。

 晶は貫かれた胸元に、掌を当ててみる。分厚く巻かれた包帯の感じからすると、相当な怪我を負ったことには変わりない。

 上体を起こすことが出来るのかわからなかったが、麻酔をかけられている気配はない。

 出来る限り腕に力を込めて、ベッドに起き上がってみた。

「―――っ」

 射すような痛みが、厚く包帯を巻かれたところから迸る。下手に横になるために身動きもできず、晶は胸を抑えたまま半身を起こした状態で、病室を見回した。

 個室をあてがわれているらしく、他にベッドのある気配はなかった。誰もいないのなら、ナースコールで人を呼ぶしかない。

 手探りでスイッチを手繰り寄せながら、寝台に誰かが寄り添っているのを感じた。ぎょっとして目を凝らすと、見慣れた輪郭が見えてくる。

「――まどか」

 腕を伸ばすと、彼女の頬に触れることが出来た。ベッドに上体を預けて、眠り込んでしまっているようである。起こすことを躊躇っていると、気配に気付いたのか彼女が身動きした。

 薄い闇の中で、彼女と視線があった。

「――晶?」

 身を起こして自分を見つめている人影が、信じられないらしい。動作が止まっている。

「悪いけど、明かりをつけてくれないか。今は何時頃だろう。あれから、どの位時間が経っているんだ」

 怪我の具合からすると、それなりに時間の経過があるはずだった。彼女からは反応がなく、かすかに嗚咽が聞こえた。

「また、泣いているのか」

 手を伸ばして、彼女の頭に触れた。長い髪に指を絡ませて、梳くように動かす。

「だって、……晶、ずっと目覚めなかったから。あたしのせいで、ひどい怪我……」

 途切れ途切れ、彼女の声が聞こえた。自分の手で、晶の胸を貫いたのだから、彼女の呵責は半端なものではないはずだ。あの時は捕われた彼女を救うことで精一杯だったが、考えてみれば、その後の彼女の苦しみも生半可なものではない。

 浅はかだったと、晶は自嘲した。

「もう大丈夫だから。――二度とこんな真似はしない。おまえを独りにしないよ」

「――晶、よかった」

 まどかが長い髪を弄んでいた晶の手を捕まえる。両手で握り緊めて頬を寄せた。ぽつぽつと、手の甲に暖かい涙が落ちる。

「明かりをつけてくれないか。おまえの顔を見せてほしい」

 もう一度頼むと、しばらく沈黙が帰ってくる。

「まどか?」

「――嫌よ」

 意外な返答があった。晶の掌を捕まえている手に、力がこもる。

「あたし、ずっと泣きっぱなしで、ものすごくひどい顔してるもの。晶には見せられないわ」

 晶が思わず笑ってしまう。胸に力が入って傷が痛むが、彼女のこだわりが可笑しかった。

「おまえは泣き顔も可愛いから、心配しなくていい。とにかく、明かりをつけてくれないか」

「嫌」

 強情に拒まれて、晶が笑いを噛み殺す。

「じゃあ、俺に立ってスイッチを入れろというわけだな」

 晶が身動きすると、まどかが慌てて立ち上がった。

「もうっ、そういう言い方はずるいわ」

 蛍光灯ではなく、彼女は部屋の隅に据えられた小さなライトをつけた。それでも充分、部屋を照らし出す光量がある。晶がまどかに目を向ける。ライトの傍で立ち尽くして、頬を手で抑えるようにしてこちらを見ていた。

「そんな隅でじっとしていないで、こっちに来てくれないか」

 まどかが降参したように、近くまで寄る。晶に示されるままベッドに腰掛けた。まどかは泣き濡れて赤くなった目を隠すように俯いていた。

「あんまり、顔を見ないでね。本当に、ひどいから」

「ひどくないよ。俺のために泣いてくれたんだから」

 まどかは頷いたが、顔を上げようとしない。

「――顔を見せてほしい」

「駄目」

「じゃあ、抱きしめていたい。……それなら顔も見えない」

 まどかは抗議しようとしたが、思いとどまって頷くと、そっと体を寄せる。晶が腕を伸ばして、彼女を抱いた。甘い香りがわずかに漂って、晶は全てが終わったのだと初めて実感した。彼女の髪に頬を押し当てるようして、うずめた。

 彼女が再び、声を殺すようにして涙を零している。

「また、泣いてる」

「とても、心配だったもの。もう、駄目だと思った」

 彼の体に沈んで行く刀身を思い出すと、まどかは今でもぞっとする。晶が震えている彼女に「ごめん」と呟いた。まどかは横に首を振った。

「戻ってきてくれたから、それでいい」

 泣きながら許されて、晶は苦笑した。

「おまえの声が聞こえた。呼んでくれたから、俺は引き返すことができた」

「本当に?」

「ああ、感謝してる」

「――良かった」

 腕の中で、まどかが深く息を漏らした。彼を失いたくないという願いが、届いていたのだ。諦めるなといった青年の言葉は、夢ではなかった。まどかには晶が倒れてからの記憶が曖昧だった。衝撃で混乱していたせいなのだろう。

 しばらく言葉もなく抱き合ってから、晶はその後のことを彼女に聞いた。

 晶が刺し貫かれてからは、既に二週間が経過していた。医療施設に収容されて、すぐに手術を受けたらしい。傷は体内の臓器の合間を縫うように刺し貫かれ、幸い大事には至らなかったと言う。

 それを聞くと、さすがに苦笑が漏れた。間違いなく、心臓を一突きされていたことを晶は知っている。新たな命を与えられたことによって成り行きが変化したのだ。執刀医はアルバートだった。彼は臨床医ではないが、時折、外科に携わり奇跡的な技術を披露することがある。医療においては追随を許さぬ、天賦の才と言えた。まどかがこんな深夜に病室を行き来できるのも、彼とリカルドのおかげである。

 アルバートは二人の血統的な関わりを知っている。少しでもまどかの癒しを近くに起きたかったのだろう。

 権威ある博士には、今回だけでなく多大な迷惑をかけている。これからは、何のわだかまりもなく、彼の研究の力になれるはずなのだ。それで、少しでも恩を返すことができればいい。そんなふうに考えられることが、晶は嬉しかった。

 エリックとエレノアは自身を取り戻し、不自由なく日常に戻っている。夏の事故からの出来事も、記憶にはあるようだった。

 二人は巻き込まれたことを恨んでいる様子はない。命をとりとめた原因が、そこにあるのだ。当然であるのかもしれなかった。

 経緯についての事後処理は、リカルドが完璧に整え、何の問題も残っていない。

 晶はひとまず安堵した。これから病室を尋ねてくる見舞い客の数を思うと辟易するが、それは仕方がないだろう。

「おまえは、彼らの思いを聞いてどう思っていた?」

 改めて、晶が腕の中のまどかに問いかけた。彼女は意味がわからず「え?」と聞きかえす。

「この血統が、人に知識と才能を与えたという話。人が間違った未来を築いてゆくと言っていた。たしかに、人間の生み出した科学や技術は、諸刃の剣だ」

「そうね」

「これからは人の手によって、人型のような命も創られ、生まれてゆく。人は人のためだけに、技術を追求する」

「――晶」

「俺はね、それは悪いことだとは思わない。――人は、そこまで愚かではないと思ってる」

 まどかが頷いた。人は人のためだけに、技術を追い求めるけれど。人を取り巻く輪は、それほど小さなものではない。一人から二人、それは果てしなく繋がって、常に想いは行き交っているのだ。まどかも、これまでたくさんの想いを噛みしめた。

 ずっと独りだと思っていたけれど、それは間違えていたのだ。自身を独りにするのは、自分の思いだ。晶に出会って、人を想うということを教えられた。

 誰か一人を、慈しむということ。それは難しいことではない。そこから、その人を支える周りの人間を想うようになる。彼を、自分を取り巻く人々を、取り巻く世界を、想うようになるのだ。

 人は、決して独りだけでは生きてゆけないから。

 多くの人と関わり合いながら、ふとした瞬間に気付く。自分がこの世で必要とされていること。大切に想われていること。自分が同じように、周りを大切に想っていること。

 自分のために生きていても、どこかで誰かの力になっている。

 生きてゆくとは、そういうことなのだ。

 誰か一人でもいい。想うことができたなら、その人を慈しみ、愛する。そうすれば、やがて、たった一人の周りに広がる関わりが愛しくなる。

 人が、人のためだけに何かを生み出しても。それは広がり、繋がり、どこかで関わって行く限り、この世界を想うという行為にも繋がって行く。

 例え、人が手にした知識が過ちだとしても、諸刃の剣だとしても、使い方を誤らなければいい。きっと、人にはそれが出来るだけの想いがあるのだから。

 晶がまどかの頬に触れて、顔をこちらに向けさせた。まどかが慌てるが、彼は泣き濡れて赤くなった目元を見て、唇を寄せた。

「きっと、おまえに出会わなければ、そんなふうに思えなかった。そんなふうに人を信じたり、周りに築かれてゆく世界を受け入れることが出来なかった」

「―――そんなことないわ。晶は、優しいのに」

 彼は微笑んで首を横に振った。

「優しいだけでは、気付かない。自分で何かを手にしたいと思って動かなければ、努力しなければ、周りに築かれているものは見えない。俺は、おまえが欲しかった。ずっと、おまえと歩いて行く未来を、手に入れたかった。――だから、まどか、ありがとう」

 改めて言葉にされて、まどかの胸を満たす想いが溢れ出る。堪えたが、また涙が零れ落ちた。

「泣いてばかりだな、おまえ。俺は笑ってほしいと言ったのに」

「だって、晶が、そんなこと言うから」

 彼が零れ落ちる涙に唇を寄せる。まどかが、微笑んで見せた。

 闘うことを恐れて、逃げていた日々。自分が傷つくことを恐れて、周りの全てを拒絶した。いつでも、自身が自由に生きてゆけることに焦がれながら。諦めていた。

 自由を手に入れるということは、容易くない。立ち向かい、傷ついて、時には悔いる事があったとしても、振り向いてばかりいては進めないのだ。

 途を諦めた者が、何かを手に入れることは出来ない。

「晶に出会えて、良かった。あたしの方こそ、ありがとう」

「泣かされてばかりなのに?」

 からかうと、彼女が拗ねたように「それは、これから償ってもらうわ」と呟いた。

「どうやって?」

 まどかはしばらく躊躇った後に、思いきって口にした。

「あたしのことを、幸せにして」

 ほとんど求婚の台詞である。まどかは言ってしまってから、言葉を間違えたと後悔する。

 晶が予想通り嫌な笑い方をしているので、慌てて付け足した。

「だって、その、幸せは自分が努力しないと、手に入らない物だから。せめて、意思表示くらいはしとこうかなと……」

「へぇ。俺はまたプロポーズの言葉かと思った」

 まどかが頬を赤く染めて、ぷいと横を向いた。

「だけど、おまえに言わせてしまったら、俺の立場がなくなる」

 晶がくすくすと小さく笑って「約束するよ」と告げた。

「必ず、おまえを幸せにする」

 彼の指先が、横を向いている彼女の頬に触れた。少しだけ力を込めて、彼女の顔を引き寄せる。ゆっくりと、晶が唇を重ねた。

「―――……」

 ずっと手に入れたかった、彼女との未来。その道程が目前に広がっている。

 これからは、二人でこの至福を永遠にする為の戦いが始まるのだ。

 いつでも、幸せは向かって行かなければ手に入らない。

 待っているだけでは、決して届かないものだから。

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