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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第五話:罪を贖う者

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ACT16

 ACT16


   1


 目覚めると、見ていた悪夢によって流れた涙で、頬が濡れていた。眠りに落ちる前となんら変わることなく、まどかを失った経緯が朝子の胸を抉る。

 横になったまま身動きせず、小さく嗚咽が漏れた。朝子はこみ上げた感情を振り払うことが出来ず、哀しみに身を任すことしか出来ない。

 眠りで与えられたのは、ひたすら悪夢だったような気がする。

 すぐそこにまどかがいるのに、彼女は「ごめんなさい」と告げて、向こう側へと歩いていく。行かせてはいけないことがわかっているから、どんなにか後を追ってひきとめようとするのに、追いつけない。やがて彼女を見失うと、甲高い悲鳴が轟いた。

 耐え切れない叫びが、何度も聞こえてきて、朝子を苛む。何度、彼女の名を呼んでも、走っても、彼女を見つけることができない。それが哀しくて、朝子は闇の中を彷徨う。

 絶え間なく、木霊する叫びと聞こえてくる悲鳴が、朝子を追いつめて苦しかった。

 やがて声すら聞こえなくなると、もう二度と会えないのだと漠然と悟る。それが自分のせいなのだと思うと、どうしようもなく泣けた。そのまま涙と共に溶けて流れていきそうなくらいに、朝子は悪夢の中でも泣き崩れていた。

 目覚めても、その哀しみは少しも緩むことがない。

 溢れ出て、頬を濡らして滑り落ちてゆく涙を拭おうと、朝子は腕を動かす。けれど、腕は何かに繋ぎとめられていて、動かすことが出来なかった。

 朝子はゆっくりと視線を動かして、そこに風巳を見つけた。自分の手を握り緊めたまま、ベッドに上体を伏せるようにして眠っている。

 朝子は繋がれていない片方の手で涙を拭いながら、彼の眠りを妨げないようにそろりと体を起こす。

 しっかりと繋がれている手を、その温もりを改めて感じた。きっと、風巳は昨夜、眠ることがなかったのだろう。自分を案じて、傍にいてくれたのだ。

 彼の想いを垣間見て、朝子が少しだけ気をしっかり持とうと深呼吸をした。そのままの体勢で、手を伸ばしてベッド脇のカーテンを捲る。

 太陽は既に高くて、昼過ぎの雰囲気がした。

 哀しみと後悔が、絶え間なく朝子を責める。気を緩めると、すぐに負けて悲嘆に暮れそうになるが、何とか捕われないように、自分を奮い起こす。

 泣いてばかりいても、何もはじまらない。起きた事態がなくなる訳でも、まどかが戻ってくるわけでもない。それを受け入れることは苦しいけれど、とにかく風巳を心配させることは避けなければいけないと思った。

 兄の気持ちを推し量ろうとするだけで、朝子は身を刻まれるほどに苦しくなった。自分が哀しんでいる場合ではないと思い至る。まどかを失って、兄が正気を保っていられるのか、自信がなかった。途端に、哀しみを凌駕して、不安が胸を占める。

 あれから、どの位時間が経ったのだろう。兄である晶は、どうしているのだろう。居ても立ってもいられない気持ちになると、それが伝わったのか風巳が目を覚ました。

 朝子の気配を感じて、ハッと身を起こす。

「ごめん。俺、寝てた」

 握っていた掌を開いて、朝子の手を離す。そのまま慌てたように、風巳は腕時計を見た。

「まだこんな時間。良かった、そんなに経ってない。朝子、気分悪くない?俺、昨夜、朝子を眠らせようと薬を盛ったから。ごめんね」

 打ち明けて、風巳は申し訳なさそうに苦笑した。言われてみると、薬の効用の名残りなのか、少し身体がだるい。

「眠っていても、朝子はずっと涙を零してたよ。悪夢を見てるとわかって、辛かった。起きていた方が良かったのかなって」

「ううん。そんなことない。――風巳、お兄ちゃんは?」

「まどかさんが運び込まれた、医療施設にいる。朝子が眠っている間に、また事件があって」

「事件?」

 咄嗟に、兄の身に何かあったのかと血の気が引いた。風巳は察して、再び朝子の手を握った。

「晶は大丈夫。まどかさんの遺体が、今朝方、医療施設から姿を消したんだ」

「姿を消したって、どうして?」

「それは、分からないけど。盗まれたのか――」

 風巳はそこで、少し沈黙する。考えてから、思い切ったように先を続けた。

「自分の足で出て行ったのか。今、それを調べてる」

 朝子が新たな可能性に辿り着いて、食い入るように風巳の顔を見た。

「まどかさん、生きてるの?生きてる可能性があるの?」

「彼女が飲んだ薬物が何だったのか、今、調査してるよ。ただ、アルバート博士は遺体を調べて、仮死の状態に表れる特徴はなかったと言ってるんだ。だから、何がどうなってるのか、よくわからない。彼女の遺体を盗み出すなんて、それこそ不可能に近いし」

 風巳はあえて、自分が抱えている一つの可能性を語らずにいた。まどかの遺体を乗っ取る、何らかの存在があるのかもしれないとは、朝子には伝えられない。

 いずれは辿り着く憶測だとしても、自分が語る必要はないと思ったのだ。

 まどかに対する朝子の思いをよく知っているだけに、そんな憶測が彼女をどれほど傷つけるのか想像がつく。今は、ひたすら生きているかもしれない可能性だけを示唆した。

 その希望が断ち切られる日が訪れることを思うと、胸が締め付けられるが、今はすがっていたいだろう。それは、風巳も同じ気持ちだった。

 まどかが生きているという、かすかな希望を捨てたくはなかった。



   2



 まどかの遺体が安置されていた部屋には、鍵がかかっていなかった。出入りは容易い筈だか、運び出すとなると話は別である。医療施設について詳しい人間でなければ、誰にも不審を抱かせず、施設のセキュリティを回避して出て行くことは難しい。

 遺体が喪失した部屋については、グラストン家の力を借りて捜査が進んでいる。指紋の採取をはじめとして、遺体が失われた理由の詮索が始まっていた。財団はこの失態を重く受け止めて、惜しまず力を発揮した。グラストン家が私的に派遣した捜査員が出入りしている。

 公にすることは財団側も、できれば避けたいのだろう。その思惑は、イデアから成る一連の経緯を疑う晶達にとっては、この上なく在り難い成り行きとなった。

 アルバート・スペンサーは、まどかが服用した薬物についての解答を待っていた。医療施設に用意された一室でソファにかけ、白衣を纏ったまま優雅に足を組んでいる。向かいには、目覚めた晶も控えていた。

 アルバートに打ち込まれた注射で、晶はしばらく昏々と眠りに落ちることができた。

 与えられた眠りの中で、彼は夢を見た。

 一面が闇に沈んだ世界があった。晶は昔と同じに、絶望に捕われていた。自分で辿り着いた深淵なのか、または死期を目前にした誰かの思いが流れ込んだのかは、その時は判然としなかった。振り返れば、それは出会った男の強烈な後悔と絶望のような気がしたし、自分の思いであったような気もする。

 以前、訪れたことのある深淵に似た闇の中で、老いた男が座っていた。あまりに暗くて、はっきりと顔を見分けることは出来なかった。晶はゆっくりと歩み寄った。漠然と、自分を冥府へと連れてゆく死神ではないかと感じた。

 目覚めても、きっと耐えがたい事実が待っているだけなのだ。それを受け入れるくらいならば、この闇の中を彷徨い続ける方が良いのかもしれない。

「私を連れてゆくのか」

 晶が傍で足を止めると、男の方から問いかけてきた。

「悪魔との契約通りに。――おまえは死神なのか」

 闇の中に男の声が響く。自分が問いかけようとしていたことを、男に問われたのだ。暗く閉ざされた深淵は、黒い霧が立ち込めたように、視界を奪う。晶が辿り着いたことのある深淵は、もっと透けて、澄明だった。この闇は違うのだと、感覚が悟った。

 これは、死期を前にした者の夢である。

 垣間見るという、易しいものではない。自分が望むこともなく、他者の夢に引きずり込まれたのは久しぶりだった。それほどに、男の絶望と晶のそれは似通っていたのかもしれない。

「私は悔いている」

 ここに居合わせた晶には、苦しいほどに伝わってきた。絶望と、後悔と、恐れ。

「悪魔は美しい少年の中にいた。私は契約をした。夢を叶える代わりに、絶望を与えると。しかし、今、絶望を与えられたのは私なのだ」

 男の言うことは、晶にはよく理解できない。無言で立ち尽くしていると、彼がふいに顔をあげた。黒い霧が辺りに立ち込めて、やはり顔はよく見えない。

「取り返しのつかない過ちを犯したのかもしれない。そこには栄光などない。自分を貶める偽りだけがある」

「私にはわからない」

 正直に答えると、男は頭を垂れた。

「私は、もうすぐ死ぬ。死神よ、最後の願いを聞き入れてくれないか」

「申し訳ないが、私は死神ではない」

 男は黙ったが、それは一瞬だった。

「伝えて欲しい。一言だけでいい。私の研究は未完だったと」

 誰に?と問おうとした時、突然闇が払われ遠ざかった。夢から乖離したのだとわかる。このままでは、眠りから醒めてしまう。あの男の抱える絶望と同じだけ、自身も悔いる時が訪れるのだ。なぜ、男の夢に誘われたのかは、その時に理解できた。

 絶望が掛け橋となり、途を開いたに違いない。

 晶が目覚めると、アルバートは変わらず白衣を来て傍にいた。視線が合うと、晶は「博士」と虚ろに口にした。

 アルバートは歩み寄って、ただ微笑んだ。

「よく眠れましたか」

「久しぶりに、夢を渡りました」

 晶が答える。アルバートは、彼が踏み込むことのできる夢の性質を了解している。同じ血筋の人間の夢。あるいは、死期を前にした者の思いから成る夢。どちらかなのだ。

 この状況では、後者であることは間違いない。彼に刻まれた絶望を感じて、少しでもそれを拭う為に、アルバートはすぐに新たな事実を伝えた。

「晶。彼女の遺体が喪失しました」

 静かな声が、けれど明瞭に告げた。すぐに身を起こして、晶はアルバートを強く見つめた。そこから導かれる一つの憶測。希望と言ってもいい。

 彼の胸を占めていた絶望が、わずかに退く。アルバートにもそれが分かって、彼はホッと吐息をついた。

 まどかの遺体が失われたことは、晶の正気を繋ぎとめた。彼女が生きているかもしれないという微かな希望が、彼に成すべき事を示す。悲嘆に暮れるのは、まだ早い。

 昨夜は、再生させるためにあらゆる方法を試みた。その結果を痛いくらいに思い知っていたが、それでも遺体の喪失は晶にある憶測を植え付けたのだ。

 イデアの中に宿っていた何者かは、単にまどかを手に入れたかった。自身に向けられた敵意は本物であったが、はじめから標的は彼女だった。

 それは、対峙した時にも語られた。

 彼女の力と、命を借りたい。そう言っていた筈なのだ。それを手に入れて、何を企んでいるのかは分からない。晶を追いつめる手段であることは、漠然と理解している。

 宿る器をイデアからまどかに移したのであれば、もう彼女自身は存在しないのだろうか。それは、最も認めたくない可能性である。

 屍を宿主として敵が動くのであれば、それは最悪の事態でしかない。

 それでも、彼女が生きている可能性を秘めているのなら、諦めることはできなかった。

 どれほど微かな希望でも、今はそれにすがっていなければ、自身を保つことができない。絶望がすぐ背後にまで差し迫って、晶を引き込もうと蠢いている。

「今は、彼女が服用した毒が何であったのか、結果を待っています」

「そうですか」

 状況を説明されて、晶は大きく息をついた。先走る思いを鎮めようと努める。

「晶。私には事件の経緯がよくわからないのですが」

「……そうでしたね」

 アルバートは事態がここに及んで、はじめて晶から一連の成り行きの全てを聞かされた。すぐに信じることは難しいほど、現実的には在り得ない話である。

 聞き終えてからも、アルバートはしばらく沈黙を守った。全てを信じて欲しいとは、晶も思っていない。何事にも敏い彼に対して、成り行きを隠しとおす自信がなかったのだ。だから、事実を話すことを選択した。

 いつも身近にいて、力を貸してくれる者に対して、それが礼儀であるような気もした。

「――なるほど」

 随分と間があってから、アルバートは口を開く。

「ようやく納得しました。晶がなぜ研究に打ち込むことが出来なかったのか。老人の束縛を振りほどき、何を躊躇う必要があるのかと思っていましたが。それが、原因だったのですね」

「博士」

 受け止めたアルバートに驚いて、晶が顔を上げる。

「晶の血統に連なる出来事は、今までも、それだけで驚くに値するものです。今更、何を聞かされても驚く必要はないでしょう」

 いつもの穏やかな笑みを浮かべて、アルバートはそう結論付けた。

「ただ、これからも晶に矛先が向かうのならば、解決させる必要がありますね。今の話を推し量ると、今回のことは、はじまりに過ぎないように思います。……何か策はあるのですか」

「正直にいって、ありません。相手が何者であるのかも、全く検討がつかない」

「そうですか」

 重い溜息が漏れた。再び沈黙が訪れると、まるでタイミングを見計らったように、グラストン家の捜査員がやって来た。アルバートに遺体が服用した毒物についての結果を手渡すと、すぐに退出する。

 アルバートは手にした書類に視線を落とし、すぐに晶へと示した。

「晶、彼女が生きているという確率は高い。違いますか」

 即座に目を通して確認すると、晶は頷いた。アルバートに向けられた苛烈な眼差しが、彼の内に在った希望の烈しさを見せつけるようだった。

 まどかが服毒したものは、たしかに劇薬である。それでも命を奪い去る力はない。仮死の状態を引き起こすものだ。希少な薬品で、仮死状態と死亡の判断は、息を吹き返すまではわからない。強い薬剤に見られる副作用と後遺症も皆無である。昨今、開発されたばかりで良く出来た薬剤だが、抽出できる植物が希少で精製が難しい。

 市場に広く出回るには、相場が高すぎるのが欠点とされていた。

 晶は彼女が倒れてからの時間を考える。

 この医療施設から姿を消すまでを計算すれば、たしかに辻褄はあう。人が仮死の状態でいられる時間には限度があるのだ。

 イデアに宿っていた何者かは、致死に値する毒を選ぶことがなかった。そこから推測できることは一つしかない。おそらく屍に宿ることはできないのだろう。

 死体を操り、自在に動かすことが可能であっても。それはイデアを操るように可能な筈なのだ。それでも、人に宿る場合には、屍の腐敗を止める術がないのかもしれない。

 だから、彼女の身体は生きていなければならなかった。

 まどかが生きていることを強く望む。その思いがこじつけた結論でも、それは考えるほどに、正しいことのような気がした。

――そして、実際それは正しいのであるが、まどかには地獄を彷徨うに等しい苦痛を齎すことになった。この事は、今はまだ晶の知るところではない。

「では、彼女は目覚めて、自分の足で出て行ったということになりますね」

「はい。間違いないと思います」

 晶が迷いなく答える。グラストン家の派遣した捜査員も、室内から侵入者の痕跡を見つけることはできないだろう。

「それにしても、一つ解せないことがありますね。晶の言う得体のしれない輩は、どうやって、このような薬剤を手に入れたのでしょうか」

 アルバートの示唆することに気づいて、晶が彼を見つめた。

「手に入れることが不可能だとは思いません。市場には出ている薬剤です。しかし、イデアが、たとえ見分けがつかないほど人間になりきっていたとしても。街の薬局などで手に入れることはできません。性質上、医院が患者に対して処方することもない。まぁ、今はネットワークを使えば、たいていの物は手に入れることが可能ですが。それでも、おそらく共犯者がいると考える方が自然でしょう」

「――人の中に?」

「おそらく。共犯者がないとしても、この世の中に身を隠す場所を持っているように思えます。でなければ、彼女は一体どこへ行くのです。単に徘徊するのなら、見つけられるのは時間の問題ということになる。どこかに身を隠す拠点を持たないのであれば、息を吹き返してすぐに晶を狙うでしょう。もし晶の命を盗ることが目的なら、それが確実で、最短のシナリオです」

 アルバートの言うことはもっともである。彼の指摘する現実的な不可解さが、晶にも少しずつ落ち着きを齎した。段々と理性的な思考が戻ってくる。

 アルバートは「ただ」と言って、吐息をついた。

「話を聞く限り、この世の法則を全く無視した者であるだけに、そのような現実的なことが問題になるのかはわかりませんが。魔法を使うように、身を隠すことも簡単なのかもしれません」

 確かに、その辺りの境界は晶にもわからない。向かってくる敵が、この世で何を可能とし、何を不可能とするのかは、こちらでは判断できないのだ。それでも、アルバートが語ったように、一つだけ腑に落ちないことがあった。

「けれど、博士が言うように、仮にまどかの身体を手に入れたとして、どうしてすぐ、こちらに矛先を向けなかったのか。私の命が狙いなら、すぐに仕掛けてくるのが適当だと思います」

「ええ」

 頷いてから、アルバートも考えに沈む。解決策は、何も浮かんではこない。彼女の行方を捜すこと。それだけが手掛かりをつかむ方法なのだ。

 アルバートはそっと、晶に視線を投げる。押し黙ったまま何かを模索している彼に、眠る前のような危うさはなかった。

 理由がどうであれ、とりあえず、彼をこちらに繋ぎとめることには成功した。アルバートにとっては、今はそれだけでも大きな成果である。彼はもう一度、晶に気づかれないように、小さく吐息を漏らした。



   3



 エレノアの所有する別宅の花壇には、遅咲きの秋桜が色を添えている。夏に起きた事故によって荒れ果てていた庭も、今は元通りの美しい様相を見せていた。

 別宅はグラストン家の本邸に比べれば、規模の小さな造りになっている。日当たりが良く、喧騒の届かない静穏さだけが、本邸に似ていた。

 広い屋根裏を持つ別宅は、本来、エリックにとっては隠れ家の宝庫でもある。少年の無邪気な意識が封じられている今は、悪戯を仕掛けたり、無邪気な玩具として扱われることはなかった。

 窓際に寄る事はなく、手入れされた庭を眺めながらエレノアはソファにかけていた。目の前には、美しい面差しの女が同じように座っていた。

 エリックの姿は、今この邸にはない。彼に宿るラファエルは、本邸で事態の成り行きを見守っているのだろう。

 エレノアの中に宿るジブリールは、ゆっくりと窓から視線を移す。以前のうっとりとした癒しは、傍にある女の身からは見る影もなく、気配を失っている。すっかり闇に染められ、見ようによっては不自然なほど漆黒に染まった長い髪が、内に宿る者の存在を現していた。

 早川まどかの持つ優しげな蜜色の虹彩は、闇に呑まれて見ることができない。艶を帯びる煌きすら乏しいほど、闇一色の瞳が、静かにジブリールを見返した。

「なぜ、辛そうに私を見る」

 唇を動かして、まどかの身体を捕らえることに成功したミカエルが問う。作り物のイデアとは違い、ミカエルも生きている人間に宿った。彼女の身体によって、幾つかの制約を受けていることになる。声もその一つだった。

 美しく澄んだ、どこか甘い響きの声は失われることなく、ミカエルの思いを語る。

 髪や瞳の黒さとは対を成すように、肌の白さは失われていない。イデアのように褐色に染まることはなく、それがまどかの身体が生きていることを示しているのかもしれない。

 あるいは、ミカエルの手に入れた膨大な闇の力も、身体に宿る彼女の血によって、わずかに打ち消されているのかもしれなかった。

 ジブリールには、それをつきとめる術はない。ただ、侵してはならない理を侵してしまったようで、その姿を見ることが辛かった。

 焦がれ慈しむ対象である、光。それは自らの半身でもある。一つであったものが、二つに別たれ、失ったものを求める。その理は庭園だけではなく、人の中にもある。

 男女の営みは、庭園の法によく似ていた。

 庭園にある理、法の全ての上に、微笑む光の女王。今も闇の王を信じて傍にいるだろう。自分たちにも、それほどの慈愛があれば良かったのだろうか。全てを許し、受け止めるほどの想いがあれば。

 けれど、きっと闇に属する自分達にはないのだろう。庭園でめぐり合う、光の半身が携えているに違いない。片割れでしかない自身は、愚かで、浅ましく、醜く、どこまでも不完全であることを思い知る。

 慈愛に満ちた微笑みは、これほどに遠い。今更そんなことに気づき、ジブリールの想いを苦しめた。

 ここに光の末裔があることが、それが許しがたい罪であっても、それを汚すような仕打ちが許されていいのかわからないのだ。自身の中にあった正義は、誤っていたのかもしれない。焦がれ、愛して止まない半身を冒涜している。そう思えてならなかった。

「おまえが、彼女の身体を生け捕りにすることを望んだ。私はそれを受け入れて、おまえが用意したものをわざわざ用いたと言うのに」

「彼女を殺めることなど、私達には許されることではない」

「まだ、そんなことを言っているのか。この娘も理の外にあるもの。罪の証に変わりはない」

「それでも光の末裔だわ。その輝きを奪い、断つことなどできない」

 ミカエルは、手に入れた美しい面差しで酷薄に笑む。

「しかし、今は私の手中にある。輝ける気配は失われて、跡形もない」

 ジブリールが眼差しを伏せた。ミカエルは更に追いつめるようなことを口にする。

「おまえは殺めるなと言うが、女は死んでいたほうが幸せだったかもしれぬ。捕らえても、女の意識は目覚めたまま。おまえたちの主とは違い、今も内から全てを見ている。そして、このような有様になろうとも、光の末裔であることにかわりはない。闇の末裔を愛し、想い続けている。私の内にある憎しみは、女の想いを苛む。生きている限り、私が目的を果たさぬ限り、気が狂いそうなほどに、この憎しみに傷つけられるのだ」

 これ以上はない残酷な仕打ち。ジブリールが唇をかみ締めた。もし自分の内にある光を憧憬する想いを否定され、踏みにじられ続けるのなら、それは死を願うほどに苦しい。

 光の末裔が闇を想う気持ちも、変わりないはずなのだ。考えるだけで、身震いがするほどの拷問だった。

 ミカエルが身体を捕らえたら、彼女の意識も眠りに落ちるとジブリールは考えていた。エレノアやエリックと同じように、意識は遮断されるのではないかと。

 もしかすると、エレノアはジブリールを通して夢をみるように、事態を眺めているのかもしれない。それでも、自身の想いや彼らの想いが行き交うような気配はない。

 残像のように、ジブリールは過去に刻まれたエレノアの気持ちに触れることが出来るだけだった。

「ミカエル、あなたはそれを楽しんでいるの?」

「私は、おまえ達ほど優しくはない」

 簡単にミカエルは宣言する。同じ眷属でありながら、ここまで酷薄になれる彼に、ジブリールは恐れすら感じる。

 光の末裔を殺めることは出来ないという、自分の譲れない理。

 早川まどかを苛む拷問と化している。それでも、自ら進んで彼女の命を絶つことはできない。それほどの大罪に耐えることはできない。

 ミカエルが目的を果たし去った時、再び、輝く気配が取り戻されるのなら。

 彼女の内にある罪の証。その力は、例え罪でもいずれは費えて行く。ここで絶たなくても、裁かなくとも、長い年月を待てば失われて戻るのだ。

 光の女王が刻んだ罪は、跡形もなくこの地から消えて行く。作り変えられたルシファーの血統とは、明らかに違うのだ。

「彼女を殺めてしまったら、身体は腐り、朽ちて行く」

 自分を慰める言い訳のように、ジブリールが告げる。

「闇の末裔がここに辿り着くのに、器が朽ち果てるほどに時間がかかるとも思えぬ。仕掛けも全て手に入れた」

 ミカエルが掌を差し出した。宝玉が乗っている。それはゆっくりと容貌かたちを変え、黒き鋼の煌きとなった。長く天へと伸びて、刀身が輝く。

「珠の力を剣と成し、間違いなく討つ。この身体を盾とし、護りを切り裂くほどの刃となろう」

「護りは、光の末裔を切り裂くかしら」

 呟くように漏らされた問いを、ミカエルは笑い飛ばした。

「おまえの未練は大したものだな、ジブリール。それほどにルシファーを信じていたいのか」

「私は……」

 違うとは言えなかった。救いとなる足跡が残されているのなら、すがっていたいのは確かなのだ。

「そのような成り行き、既に意味のないことだが。おまえは、王の護りがこの身体に向かわぬことを祈っている。それを見届けたくて、この身体を生かし、ここで待っているのではないのか」

「――たしかに、そういう思惑もあるわ」

「すぐに片がつくものを。まぁ、良い。好きに見届けるがいい。どちらにしても私は成し遂げる。間違いなく罪を葬り去る為に、私はこの身体を手に入れた。闇は光に辿り着く。必ず、ここまでやってくるに違いない。しかし、私はもう待たぬ。早急に成し遂げる為に、進む道を示唆してやろう」

「どうやって?」

「イデアの生みの親。スカバー=レイノル。奴の絶望は深まるばかり。今一度、慈悲を与えてやる。最後に目覚めて、真実を話すがいい」

「――ミカエル」

 来るべき時が、間違いなく訪れようとしている。

 目の前の華奢で美しい身体に宿るのは、圧倒的な憎しみ。圧倒的な力。

 ジブリールには、後戻りは出来ない。そんなことは庭園を出たときからわかっていたことなのだ。救いが訪れるのかどうか、いつの間にか、それだけが支えとなっていた。



   4



 周りは騒然としていたが、グラストン邸はいつものように時間が過ぎてゆく。早川まどかの死に対しては、あらゆる憶測が飛び交っていた。

 そこに一つの希望を見つけることが出来て、風巳と朝子も少しだけ落ち着いたよう見える。ブラッド=グラストンは、やっと自分達の問題を考える余裕ができた。

 結果、夕方になって意を決したように、ブラッドはジュリアン=シーガルを呼んだ。

 共にサードラボ第一班ファーストチームに属するのだ。イデアが発見されたことは、一番に彼に伝える必要があるだろう。

 ブラッドはジュリアンの心遣いを知っていたが、それでもこの損傷の激しいイデアを見て、彼が自分を責めないとは言い切れない。

 連絡をとって、その旨をリンクスに伝えると、彼女は激昂した。

「莫迦じゃないの?ブラッドってば。あれだけ言われて、ジュリアンがこの有様見たら、どうなるかなんて、考えなくてもわかるじゃない!」

「いや、だからね、リンクス。あれはジュリアンが……」

 彼と交わした暗黙の了解を語ろうとするが、リンクスがぽんぽんと悪態をつくので、ブラッドは最後まで伝えきれない。

 そんなやり取りを繰り返して、ようやくリンクスに真実を伝え終えると、予想より遥かに早くジュリアンがグラストン邸を訪れた。広い庭に夕陽が照って、景色を朱に染める。空にも紅いパノラマが広がっていた。

「イデアが見つかったと?」

 薄手のコートを纏い、いつも通りきっちりとした装いで、ジュリアンは開口一番そう言った。知的な眼差しに敵意や不穏な色は浮かんでいない。あまりに穏やかな調子に、ブラッドと出迎えたリンクスは言葉を飲み込んだ。

 言葉数も少なく、三人が客間とも言えるリビングへ入る。ビニールシートの上に無造作に横たわっているイデアは、すぐに視界に入ってくる。

 ジュリアンは近くまで歩み寄って、しばらくの間、無言でイデアを見つめていた。ブラッドとリンクスは、さすがに緊張して見守っている。

「――見つからなければ良かったのに」

 予想もしていなかった呟きに、ブラッドは自分の耳を疑った。リンクスも同様である。

 彼はそのまま踵を返し、イデアには興味がないと言った風情で傍のソファにかけた。イデアに触れることも、損傷の具合を細かに確かめることもない。狼狽もなく、いつも通り落ち着いていた。

 呆然と立ち尽くしている二人を見て、ジュリアンは「とにかく座って話をしよう」と言った。ますます緊張して、二人がぎこちなくソファにかける。

「あの、ジュリアン。さっき、おかしなこと言わなかった?」

 おそるおそるリンクスが問う。ジュリアンは無表情にこちらを見るだけである。問いには答えず、ブラッドに眼差しを向けた。

「イデアが発見されたことは、どの位の人間が知っている?」

 質問の意図を把握できないまま、ブラットが答えた。

「僕達と、例の彼らと、グラストン家専属のSGが幾人か」

「口止めはできそうか」

 どうしてもジュリアンの意図がわからない。

「ジュリアン。君はさっきから、何のことを言っているんだい?」

 意図を正そうとすると、ジュリアンは少しだけ迷いを含んだ表情で、ブラッドを見返す。しばらく緊迫した沈黙があった。

「ブラッド」

 やがてジュリアンが口を開く。彼もやはり緊張しているのか、いつもより低い調子だった。

「正直に聞く。君はイデアの研究成果をどう考えている?」

「どうって……」

 やはりジュリアンの思惑がわからず、ブラッドは戸惑った。リンクスが言葉を挟むこともできないほど、彼は何かを苦悩している様子で唇を噛む。

「こんなことを言うと、ブラッドは僕を軽蔑するかもしれない。けれど、あえて言う。僕はイデアの公開実験の成果について、疑問を抱いている」

「―――っ!」

 ブラッドが目を見開いた。リンクスも驚きのあまり身動きできない。けれど、二人の中にある驚きは、全く違ったところにあった。

 ブラッドはジュリアンの意図に正しく辿り着いた。自身が抱えていた疑惑は、ジュリアンにもあったのだ。イデアに与えられた新しい動力循環が、正しく機能したのか。設計図を眺めて不審を抱いていたのは、ブラッドだけではなかったのだ。

 同じサードラボにあり、第一班にいれば、ジュリアンは自分の告白が、どれほどレイノルに対して失言であるか知っている筈だ。死期を目前にした、尊敬し慕うべき研究者を、どれほど貶める発言なのかは、痛いほど受け止めているに違いない。それを示すように、ジュリアンの顔からは、血の気がひいていた。

 ブラッドは自分を信じて思いを語ってくれた彼と、そこに辿り着いた才能に感謝したかった。

「ジュリアン、それはいつから気づいていたんだい?」

 思わず問うと、今度はジュリアンが瞠目した。

「いつからって。ブラッド、やはり君も……?」

 ブラッドは深く頷いた。頷いてから、補足する。

「正直言って、自信を持って言えるほどの確信はないけど。だけど、腑に落ちなかった。イデアが動いたとき、スカバー博士が倒れたとき、自分の考えが間違っていたのだと強く思った。それでも、疑惑を捨て切れなかった。それがスカバー博士にとって、どれほどの裏切りであるか思うと、誰にも言えなかったんだ」

「――僕もだ」

 ジュリアンが、ブラッドの迷いを受け止めてくれる。

「博士を追いつめるつもりはないし、そんなことはしたくない。それでも、やはり真実を知りたかったのも事実だ。たとえ動力循環が出来あがっていなくても、博士の研究は、アンドロイドの核となる心臓であることには間違いない。それだけで充分、称賛を受けて、歴史に名を残せる。だから、僕は今回の事件でイデアが喪失したとき、このまま見つからなければいいのだと思った。そうすれば博士の名誉を汚さず、僕達がやり直すことが出来る。……ブラッド。やはり、博士の研究は未完だったんだ。僕と君が気づいたのだから、きっと間違いない」

「そうだね」

 二人の語る、信じられない事実を前にして、リンクスは言葉もなかった。何とか気持ちを立て直して口を開く。

「じゃあ、イデアには公開実験のはじめから何かが宿っていて、それが動かしていたって事?」

 リンクスの台詞には、ジュリアンが反応する。

「何かが宿る?僕が最後まで謎に思っていたのは、もし研究が未完であれば、あの時にイデアを動かしていた仕掛けは何だったのかということだ」

 ブラッドが大きく息をついた。信じるか信じないかは別として、ジュリアンにも経緯を話しておく必要がありそうだった。最終回の起動実験で起きた事故の原因も、これで彼には明らかにできる。

 リンクスは自身の見たことを語り、ブラッドは知りえる成り行きの全てを語った。

 ジュリアンは固く瞳を閉じて聞いていたが、途中で怖くなったのか「もういい」と言った。

「僕はオカルトには興味がないし、信じていない。それは君達が勝手に捜査してくれればいい。僕は人型の研究にしか興味がないんだ」

 彼らしい反応で、ブラッドは笑いがこみ上げた。半信半疑であるのは仕方がない。それを信じろと強要するのは無理な話だ。実際、全てを間近に見ていたブラッドでさえ、全てを受け止めているかと言うと、それは疑わしい。

 リンクスはしつこく「本当なのに」を連発して、ジュリアンの恐怖を刺激している。

「とにかく」

 ジュリアンが、こみ上げるオカルトへの想像を振り払うように、声を高くした。

「僕は、博士の名誉を傷つけることはしたくない。だからと言って、イデアなしではデータの建て直しも難しいことは確かだ」

 ブラッドが頷く。ジュリアンがほっとしたように、肩の力を抜いた。

「だけど、ブラッドが協力してくれるのなら、やり方があるかもしれない」

 もう一度、ブラッドが頷いた。リンクスがぽつりと呟く。

「レイノル博士と、話が出来たらいいのにね」

 それは二人も強く望むことだった。レイノルの思惑がどこにあったのか。彼は、研究者としての誇りを捨ててしまったのか。未完の研究を偽って発表し、そこに悔いはないのか、それが知りたかった。

 誰よりも尊敬し、慕っているからこそ、彼には正しい道を示して欲しかったのだ。

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