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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第一話:夢に眠る
6/67

5:永遠の眠り

1

 少し登校のタイミングが早かったのか、昇降口には人気がなかった。吹藤風巳は大きな欠伸を一つつく。下駄箱を開けようとして、手が止まった。

「おはよう、風巳」

 聞き慣れた声が入り口から届く。朝子の存在自体にはそう驚かなかったが、隣に並ぶ背の高い人影に目を見開いた。

 涼しげな目元と、均整のとれた体格。短く刈った髪。

「仲谷?」

 朝の挨拶も忘れて、呼びかけてしまう。二人はそのまま風巳の前までやって来た。

「風巳と仲谷君って知り合いだったの?」

 朝子のもっともな質問に風巳は曖昧にうなずいた。

「うん、まぁ。二人そろって登校なんて、途中で会ったの?」

「ううん。仲谷君、今日からしばらくうちに下宿することになったから」

「は?」

 意味をつかみそこねて風巳が目をむくと、無言で立っていた沙輝が吹き出した。

「そう。俺、しばらく結城のところにやっかいになるんだ。――羨ましい?吹藤」

 妙にひっかかりのある声音で、沙輝は最後の台詞をつけたす。風巳の顔が即座に反応した。

 自分の気持ちがどこに向いているか、もうばれてしまったとでも言うのか。

「吹藤って、昨日も思ったけど。思ったことがすぐ顔に出るんだな」

「うるさいな、仲谷は」

 頼むから、それ以上言わないでほしい。切に願いながら、風巳は軽く沙輝を睨む。朝子は何も気付いていないらしく、上履きを取り出しているところだった。胸を撫でおろして、風巳も下駄箱を開く。

――トン。

 足元に何か落ちた。色彩豊かな、四角の――封筒?

 唖然とする風巳を差し置いて沙輝が尻上がりの口笛を吹いた。

「すげーな。三通も?」

「すごいって何が?だいたいこれ何?」

 拾いあげながら二人に目を上げると、朝子がいやに剣呑な顔付きをしていた。

「どうしたの?朝子」

「え?べ、別に。風巳、もてるんだなって思って。あの、私しなきゃいけないことあるから、先に教室行くね」

 やけに慌てて、朝子が昇降口から姿を消した。怪訝な顔をする風巳の向かいで、靴を履きかえている沙輝が笑い出した。

「俺、何か変なことした?」

 聞くと、沙輝にバンッと背中を叩かれる。

「けっこう脈ありな反応で良かったな」

「だから、何の話だよ。さっきから」

「その手紙読めば分かるって」

 指摘された手紙を見つめて、風巳は首をかしげる。

「何で手紙が下駄箱に入ってるわけ?手で渡すとか、口で伝えた方が早いのに」

「おまえ、それ本気で言ってるのか?俗に言うラブレターだぞ、それ。うちの学校って下駄箱がこんなだから、もてる奴にはよくあるんだよ。告白手段の第一段階ってやつ?古風だよな」

「え?」

 一瞬、彼の言葉を聞き流してしまったが、すぐに理解して沙輝を見た。そう言えば、ここは共学校だ。忘れていた。初めは女子の存在に戸惑っていたが、今戸惑っている女の子は朝子だけで。

「あのさ、仲谷」

「ん?」

 教室へ向かって廊下を進みながら、風巳が情けない声を出す。

「こういう場合、どうすればいいのかな」

「おまえ、初めてだったの?……さっきの反応からして当然か」

「前は男子校だったからさ」

「へぇ。……何て言うか、好きな奴がいるなら断る。それだけのことだよ」

「そっか。ありがと。そうする」

 先にC組の教室に着いて、風巳は彼と別れた。沙輝の後ろ姿を見て、ふと肝心なことを思い出した。

「あ!仲谷」

 ゆっくりと彼が振り向く。昨日会ったときよりも、表情が優しいことに気付いた。

「おまえ、登校できるようになったってことは……」

 最後まで言い切らないうちに、浅い笑みが返って来た。

「今日の放課後、俺に付き合えよ、吹藤。そうだなぁ、結城も一緒にさ」

 それだけ告げて、A組の教室へ姿を消した。彼の入った教室から、どよめきが沸き起こったのが、C組まで聞こえてきた。

 昨日の今日で、一体彼に何が起こったのかは、分からない。

 そして沙輝の緩んだ表情を見たとき、自分が安堵していたことにすら、風巳は気付いていなかった。



 これほど親友の室沢晴菜を恨んだ事はない。よりによってこんな時に席が前と後ろなんて、冗談ではなかった。

 朝子は机に顔を伏せて、目まぐるしく考えていた。

 昇降口で、下駄箱から落ちた風巳宛の手紙。

 彼が他クラスの間で人気のあることを知らなかったわけではない。問題は目の当たりにして動揺した自分の気持ちだ。

 カタンと、前の席で物音がした。風巳も教室に着いたらしい。

 普通に笑えないような気がして、朝子は顔を伏せたまま身動きせずにいた。

「朝子、どうしたの?気分でも悪いの」

 そっとしておいてほしいと言う願いは空しく、風巳の声が降って来る。仕方なく伏せていた上体を起こして彼を見た。

「違うよ。リーダーの予習忘れてたから、早めに学校に来たのに、ノートと教科書忘れて来たみたい。それでがっかりしてただけ」

 嘘でもないので、朝子はそう理由をつけてみた。風巳が安心したように笑う。

「そうなんだ。でも、俺も何も準備してないし」

 彼は髪も瞳も黒の色素が薄い。琥珀を湛えた瞳の色合いが澄んでいた。

 確かに綺麗な顔をしている。

「でも風巳は予習してなくても答えられるもん」

「朝子のノートのおかげだって」

「黒板を写してるだけだよ」

「でも、転入生にはありがたかった」

 人当たりが良くて、優しいと言うことは少し話せば見えてくる。こんなに印象的な男の子は初めてかもしれない。

 では、時折見せる無表情な仮面の裏では、何を思っているのだろう。

 風巳と当たり障りのない会話を続けていると、親友の晴菜がやって来た。

「おはよ、朝子。吹藤君。朝から仲がいいね。どう?吹藤君、新しい席の感想は」

「うん。前の席よりいい場所だね。窓際の後ろって。あ、そう言えば、一つ頼みごとがあるんだけど」

 風巳が思い出したように、朝子と晴菜を見る。

「あのさ、クラスの住所録とかあったら少しの間貸してくれないかな」

「住所録なんて何に使うの?」

 晴菜の突っ込みを、彼は笑顔でかわす。まさか原田翠の住所を知るためだとは言えなかった。不審に思いながらも、朝子が口を開く。

「風巳、転入生だから先生に言ったらもらえると思うよ」

「あ、そっか。じゃあ、そうしよう」

 鞄の物を、机の中へ移す風巳の横で、晴菜が朝子を見る。「どうしたの?」と聞くと、親友の顔に一瞬不敵な笑みが浮かんだ。

「朝子、今付き合ってる人なんていないよね」

「え?」

 いきなり何を言い出すかと思ったら。

「ちょっと待って、晴菜。いきなり何の話?」

「さっきD組の前田君と会ったんだけどね。伝言頼まれたわけ」

 嫌な予感がした。この悪友はまた良からぬことを企んでいるに違いない。

 チラリと風巳の方を見ると、彼はこちらを見たまま動作が止まっていた。あまり聞かれたくない内容だ。朝子が晴菜を連れて、どこかへ場所を移動しようとするより早く、隣の席の鳥羽良久が話題に入って来た。

「D組の前田?あいつがどうかしたの」

 始業の十分前にもなると、クラスメートの顔触れもかなり揃ってくる。いつの間にか、近辺の席の友人が集まっていた。口々に「おはよう」と挨拶を交わしている。

「前田って確か、あれだよな。朝子のこと狙ってた奴だろ」

 いつの間にか、木崎京一が風巳の隣に割り込んでいた。C組の生徒は、晴菜を初めとして色恋沙汰にとことん強い。情報が溢れ放題のクラスである。

「とにかく前田君から伝言。付き合うだけでも付き合ってみようって。それで駄目なら諦めるって。どうする、朝子」

「前田君ならいいよね。かっこいいし優しいもん。誰もいないなら、朝子付き合っちゃえばいいのに」

 無責任な発言は、隣の上月琴子だ。朝子は吐息がもれる。風巳をけしかけたり、前田をけしかけたり訳が分からない。

「一度、遊びに行く位はいいんじゃない?」

 鳥羽の台詞に少しがぶるように、その場に不似合いな真摯な声音が通った。

「でもさ、好きじゃないなら、相手に失礼だよ」

 風巳の言葉だった。何の表情も浮かべず、じっと朝子に視線が注がれる。どこか居心地が悪くて、朝子はただ頷いた。

「私も、そう思う。ごめん、晴菜。前田君には悪いけどそう言ってくれないかな」

「分かった」

 話が一段落した所で、チャイムが鳴り響いた。慌ただしく席へ戻る生徒の中、朝子はもう一度親友を呼ぶ。

「晴菜。後で話があるんだけど」

 彼女は振り向いて、朝子の顔を見ると笑顔を返してきた。

「分かった」


2


 薄いカーテンを透かして、日差しが入って来る。朝の光線を受けながら、彼はけだるげに身を起こした。

 寝過ごしたかと思ったが、時計を見ると九時過ぎだった。今日の講義は午後からの三コマ目だけだ。

 法学部に席を置きながら、晶はあまり講義には顔を出していない。弁護士を志しているわけでもなく、彼の場合は『学生』の肩書を得るために授業料を払っている。

 甘えであると分かってはいたが、一度位は普通の学生の時期があってもいい。幼いころから叩きこまれた晶の知識は、並大抵のものではないからだ。

 いずれは、忌まわしい研究室へ帰らなければならないだろう。

 実験動物として、あるいは研究者として。

「あら、起きた?……入ってもいい?」

 寝室の扉をそっと開けて、まどかが笑顔を覗かせた。晶が眩しいものを見たように目を細めうなずく。スルリと部屋へ足を忍ばせて、まどかが扉を閉めた。彼の寝室へ入ると、まどかは途端に他人行儀になる。

 一番プライベートな部屋なので、戸惑ってしまうのだ。

「朝子ちゃんと沙輝君は、ちゃんと学校へ行ったわよ」

「まどかは?大学」

「誰かさんに倣って、今日は自主休講」

 茶化すように言いながらも、まどかは不自然に扉の近くに立ったままだ。ベッドには一切近づこうとしない。

「朝食ができてるけど。食べるでしょ」

 晶は軽く頷いて、長い髪を掴むようにかきあげる。

「新妻みたいだな、おまえは」

「所帯じみてるってこと?」

「そうじゃなくて……。でも、どうして不自然にそこで立ち尽くしてるわけかな」

 からかうように指摘すると、まどかは顔を赤くして頬を膨らませる。

「いじわるね。晶の一番のプライベートルームだから気を遣ってるのに」

「そこで意地をはらないように。俺はこっちにおいでって促してるんだから。――おいで」

 彼の寝室は、主に寝るためだけに存在する部屋であるが、それでも十帖は軽くある。ベッドとコンポ程度しか置かれていないので、広い室内は更に広く見えた。

 フローリングの一部分に敷かれたカーペットの上を歩いて、まどかがベッドの傍らに近寄る。

「晶は今日、大学へ行くの?」

「どうしようか」

 彼女にベッドに腰掛けるように言ってから、彼は軽く腕を組む。

「一つ相談してもいいか」

「相談?いいけど、珍しいわね」

 まどかの表情が、ふっとほころんだ。彼に頭をポンと軽く叩かれる。

「普通、余命いくばくもない恋人に会いたいと思うか。会ったところで意識もないかもしれない。下手をすれば死んでいるかもしれない。そんな再会の仕方しかなくても、会いたいと思うか」

「それが相談?……そうね、その時の状況や人にもよると思うけど。会いたくてたまらないなら、あたしは会いたいと思うわ。例え意識がなくても、死ぬ間際だったとしても、顔を見たいと思うもの。最後なら尚更、見届けないと終われないと思うし」

「なるほど。確かに決着はつけた方がいいかもしれないな」

「誰の話?」

「骨が砕けるまで塀を殴る青年の話」

「じゃあ、沙輝君の?」

 一転して表情の曇るまどかに苦笑を向けて、腕を伸ばす。肩を引き寄せるようにして呟いた。

「夢を、見たんだ。どうにもならないと思った。でも、会いたいと思っているなら、そうすることがいいかもしれない」

 低い囁きだった。まどかには、何と答えればいいのか分からなかった。すっと身を離して、晶がベッドから出る。背中を向けたまま、いつもの口調で続けた。

「ただの夢だけどな。……今日も大学は休もうか」

 上着に腕を通している彼を見つめて、まどかがふと不安にかられた。

 輪郭のはっきりしない、不安。

「何を考えてるの?」

 思わず口にすると、ゆっくりと端正な顔が振り向いた。ただ、弱い微笑みだけが返って来る。いつから、彼はそんな儚い笑い方をするようになっただろう。

 つい最近のようで、ずっと昔からのような気もする。

 全てを曖昧に包む笑い方。

「あなたのせいじゃないわ」

 何にたいしてそう宥めたのかは、分かってはいなかった。気がついたらそう口にしていた。

 一瞬掻き消えた目前の微笑みは、次の瞬間には更に多くを包み隠す。

「分かってるよ」

 どんなふうに理解したのか、彼からはその一言だけが返って来た。


3


「人気のない場所がいいな」と言う朝子の言葉を尊重して、室沢晴菜は南館の渡り廊下へやって来た。

 薄暗く、気味の悪い場所だが、人が来ることはほとんどない。

 お昼休みなので、校庭のざわめきが遠くに聞こえた。

 晴菜が立ち止まり、朝子を振り返る。

「さて。何の相談事かな」

 緊張感もなく、朝子の親友はいつもの笑みを浮かべた。促されても切り出せずにいる朝子の肩をポンと叩く。

「だいたい予想はつくけどね。吹藤君、のことでしょ」

「あたり」

 素直に答えると、親友は途端に笑みを潜めて真顔になる。真剣な話かどうかで態度を分けるのが彼女のいいところだ。

「……すごく嫌な気分がした」

 廊下の窓枠にもたれて、朝子がポツンと切り出した。親友はただ聞き手に回っている。

「すごく動揺したし、すごく気になる」

 朝子がうつむいたまま上目使いに晴菜の顔を見る。

「――やっぱり風巳のことが気になってるみたい」

 意地を張らずに打ち明けると、笑顔が返って来た。クシャクシャと頭を晴菜に掻き回される。

「初めてだね、朝子」

「自分でも信じられない。まだ一カ月も経ってないのに」

「時間なんて関係ないよ。でも、なんで嫌な気分になったり動揺したりするの」

 朝の昇降口でのことを話すと、晴菜は吐息をつく。

「ラブレターか。うちの学校って古風な習慣残ってるからね。そっか、噂だけでなく、彼が本当にもてると自覚したんだ、朝子が」

「そうかな」

「そうそう。で、これからどうする?攻めの一手?」

「わたし自信ない。だから今まで通りでいいもん。晴菜も茶化したり、強引に話を進めるのはやめて」

 朝子が言うと、しばらく沈黙があった。

「――うん、分かった」

 理解したのか、いやに真摯な親友の声がかえってくる。

「分かったよ。無茶はしない。でも、協力は惜しまないからね。それに、朝子。何もしなきゃ片思いのままで終わっちゃうよ」

「分かってるけど」

 怖いのだ。彼の笑顔が凍りつくような気がして。受け入れてもらえないことは、何となく分かってしまう。

 風巳の無表情なもう一つの顔は、他の者を寄せ付けない厳しい孤独を抱えている。

 彼の仮面を取るのが怖い。それを感じながら深入りして行く自分が、もっと怖い。

「教室に帰ろうよ」

 晴菜が強引に朝子の腕を引っ張る。

「できるだけ吹藤君の側にいなきゃ損だよ、朝子」

 力強い言葉をくれるこの親友とは、幼い頃からの付き合いで長所も短所もお互いに知り尽くしている。双子の姉妹と言っても過言ではない仲だ。彼女の行動は時には強引でもあるが、いつでも前向きなのだ。羨ましい位行動が先に立つ。

 朝子はよく、晴菜との違いはどこにあるのだろうと思う。

 彼女の下にいる二人の弟と妹のせいかもしれない。けれど、それだけでは割り切れない。持って生まれた性格、環境。結局はそこへ返ってしまう。

 自分が両親を共に亡くした時も、晴菜が側にいてくれた。一カ月近く、家に泊まってくれたのだ。

「せっかく好きな子できたんだから、頑張らないと」

 速足に廊下を歩きながら、小声で朝子を応援する彼女は本当に嬉しそうな笑顔だった。

「うん。地道に頑張ってみる」

 不思議と親友に言われると、自信のないことも前向きに考えることができた。いつでもそうだ。

 風巳の存在が、少しは自分を強く変えてくれるかもしれない。

 そう考えるだけで、朝子は気持ちを楽に解放できる。

「でも、ほんとに私は嬉しいよ」

 教室の前へ来ると、晴菜はそう囁いてから教室の扉を派手に開けた。


4


 黄色い紙の束で作られた電話帳が、ドカンと書斎のソファの上を陣取っている。窓から差しこむ朝の陽射しが、いつのまにか真昼の光線へ変わっていた。

 パラリと薄桃色に塗られた爪が、分厚い電話帳のページをめくる。

 くいいるように番号を見ているまどかの向かいでは、晶が受話器を片手にアドレスを見ていた。

「ね、病院の電話番号なら、ここにもたくさん載ってるわよ。ほら、職業別で。110で尋ねても教えてくれるかもしれないし」

「最終手段として、今、知り合いの医師に聞いてる。外来で忙しいから、大学の医局にいる医師に問い合わせてもらってるらしい。番号を言ってあるから、もうすぐ電話がある筈だ」

「なんだ、そうなの?晶の情報網で簡単に見つかっちゃうのね」

「さぁ、それはどうかな」

 手にしていたアドレスをテーブルへ放り投げて、晶が受話器をソファに転がす。最初は沙輝が捜し出せばいいと思っていたが、どうやら時間に猶予がないらしい。

 手遅れであることは分かっていたが、翠の夢が日ごとに遠ざかる。情景が吹雪以外の、霧の白さを持ってかすんでいく。

 死期が近いのかもしれない。

 そんな可能性もないとは言えない。だから、晶はあえて先に状況を把握しておこうと考えたのだ。

「でも、沙輝君の相手ってすぐにどうこうってことはないんでしょう?あなたの夢でも、そこまでは分からない筈よ」

「だから電話をかけてるんだろ。ただの夢だから」

「そうね」

 彼の場合、今回のように恋人達の行く末を知ってしまうのも、医療の世界に知人を持ち得るのも、全て過去に連なり、その血へ連なる。

 最も認めたくない血統、忘れ去りたい過去へつながってしまう。

 英才教育、環境、全てにおいて吹藤が作り上げた人間。結城晶は医療――異に脳の分野においては、世界でも数えられるほどの権威を有する。

 そして吹藤の血脈を持つことにより、彼は不可思議な夢を見る義務を強いられた。彼にとっても、研究者にとっても、これ以上はない研究材料となり得るために。

 決して、彼が望んだことではなかったけれど。

「ただの夢だものね」

 まどかがつけ加えると、晶が深くうなずいてみせる。彼女にも分かっていた、彼が普通の夢を見ていたいことを。見ていると思っていたいことを。

「本当は沙輝に任せたかったんだけどな。俺って世話好きだから」

「そういうことは自分で言わないの」

 明るく釘をさして、まどかはパタリと電話帳を閉じた。同時に向かいで転がっていた真っ黒な電話が鳴り出す。

 待っていた相手からの通話らしく、晶が耳をかたむけて相槌ばかり返している。会話の途中で彼からまどかへ向けられた眼差しは、切なく歪んだ。受話器を耳にしたまま、首を振る素振りが続く。

「――分かりました。そうですか、どうもお忙しい中ありがとうございました。失礼します」

「晶?」

 向かいのソファから隣へ移動して、まどかが通話を終えた彼の顔をのぞきこむ。

「高校へ行って来る」

 素早く立ち上がって、彼は籐椅子にかかった上着を手にした。恋人を振り返って、苦笑を送る。

「今からでは、間に合わないかもしれない。でも、沙輝を病院へ連れて行ってくる。あいつ、会いたいって言っていたから」

 果たして最後であろうとも、彼は再会を望むだろうか。


5


 教室へ帰った途端、朝子は風巳と目が合った。

 出入り口からは一番遠い窓際にいるにもかかわらず、風巳は真っすぐこっちを見ている。

「おかえり」

 風巳が言うと、その周りにたむろしていたクラスメートが一斉に振り向く。その輪に入って行くと、鳥羽が晴菜の肩をトンと叩いた。

「二人でどこ行ってたの?」

「ちょっとね」

 そのまま鳥羽と晴菜が雑談に突入すると、朝子は風巳に同じことを聞かれた。

「どこ行ってたの?」

「うん、ちょっと」

「俺、朝子のこと探してたのに」

「え?ごめん。又ノート?」

 反射的にそう答えると、風巳が苦笑した。

「そうじゃなくて」

 台詞の途中で、隣の会話で盛り上がっていた木崎の声が割り込んだ。

「俺ら、学食にアイス買いに行ってくるけど。吹藤と結城も何か買って来ようか」

 二人で首を振ると、人だかりが賑やかに教室を出て行く。晴菜の気遣いであることはすぐに分かった。取り残された風巳が、朝子の上着を引っ張った。

「席に座れば?で、さっきの話だけど。仲谷が今日の放課後俺達に付き合ってくれって」

「仲谷君が?いいけど。どこに?」

「それは俺も知らないけど」

「朝子!」

 いきなり大きな声が教室に響いた。見ると、さっき出て行ったばかりの晴菜が、息を切らして、廊下から朝子を呼んでいる。

「どうしたの?」

 風巳と二人で入り口まで行くと、晴菜が一気にまくし立てた。

「晶さんが来てる」

「え?」

「だから、朝子の兄上が来てるんだってば。何かすごく急いでて。ほら」

 校庭が見渡せる廊下の窓を晴菜が示す。慌てて窓を開けて校庭を覗くと、鳥羽や木崎、C組のクラスメートの中心で一際長身な人影があった。朝子はすぐに兄へ呼びかける。

「お兄ちゃん!どうしたの?」

 鳥羽が朝子を指で差すと、晶が校舎を仰いだ。妹に気付くとすぐに口を開く。

「朝子、沙輝を呼べ。早く!」

 鋭い声だった。朝子がA組の教室へ駆け込んで、沙輝に事情を話すと彼はすぐに廊下へ出て来た。手身近な校庭側の窓を開けて、晶の方へ声を張り上げる。

「晶さん!どうかしたんですか?」

「翠が見つかった!病院へ行くから出て来い、今すぐ。時間がない!」

 すっと、沙輝の横顔が強ばったのが、朝子には分かった。しばらく動けない沙輝に、晶がたたみかけて声をかける。

「会いたいんだろう?早くしろ!沙輝!」

 怒声で我に返って、沙輝が踵を返すと、廊下で立っていた風巳と目が合った。

「一緒に来てくれ」

 低くそれだけ告げて、沙輝が風巳の腕をつかんだ。そのまま校庭へ向かって階段をかけ降りる。


6


 病院へ向かう道程の途中で、晶が突然沙輝を連れ出した理由を説明した。成り行きで一緒にいる風巳は、車の後部座席でただ黙って話を聞いている。

「いろんな病院へ問い合わせて、O大学病院にいるのが分かった。時間がないと言うのは、その通りの意味だ。もしかすると間に合わないかもしれない。覚悟はしておけと言っただろう。会いたくないなら、このまま学校へ引き返してもいい」

「いえ、このまま病院へ向かってください」

 強く組合わされた彼の手は微かに震えていた、それっきり何の会話もなく、車が都内の大学病院へ入って行く。

 受付で病室を聞いて、七階にある個室へ向かう。受付の女性は、今は病室へ入れないかもしれないと答えた。

 エレベーターの中で風巳の視線に気付くと、沙輝はちょっと笑った。痛々しい微笑みで、日に焼けた顔色が、白っぽく見える。

 エレベーターを下りて、翠のいる個室への廊下を進むと、背広を来た男が病室の前で長椅子に腰掛けている。組んだ手の上に額を押し付けて動かない。

 三人の足音に気付くと、男はゆっくりと顔をあげた。いやに老け込み、堅い表情だった。目的の個室には、面会謝絶の札がかかっている。

「原田さん」

 沙輝の、驚くほど低い声が廊下に響いた。原田と呼ばれた男はじっと沙輝を見つめ、静かに首を振った。重い沈黙があった。

 晶が沙輝に座るように促すと、彼は男の隣に腰掛ける。しばらくしてから「すまない」と、小さな声が届いた。

 沙輝が横の男の顔を見る。原田の瞳から涙が落ちた。

「私達の責任だ、すまない。翠が、こんなことになって――」

 嗚咽が微かに響いて、沙輝は彼を責めることができなかった。苦しかったのは、自分と翠だけではなかったのだ。

 晶と風巳が傍らで静かにたたずんでいる。風巳は晶の背中を見ながら、この前の会話を思い出していた。

 翠の夢、沙輝との関係。そして、本家との関係。

 一体、何者だろうという考えだけが残る。分かっているのは朝子の兄であることだけだ。

 カチャリと音がして、面会謝絶の部屋から医師と看護婦が出て来た。

「どうぞ、中へ」

 小太りな医師はそれだけ告げて、わずかにずれた眼鏡を指で押し上げる。

 なかなか病室へ入れない沙輝の肩を押したのは、翠の父である原田だった。

 片隅のベッドで、翠が眠っている。酸素麻酔も接続されていたコードも全て外されて、彼女の寝顔は落ち着いていた。

 今にも途切れそうな呼吸が、ゆっくりと繰り返される。

 白い頬から、わずかに肉が落ちていた。それ以外は、以前のまま変わりがない。

「翠」

 沙輝がベッドへ近づいて、そっと頬を撫でる。今にも、消え入りそうな弱い息。医師と看護婦は、扉の前で静かに見守っている。

「翠が全てを知った翌日だった。車の行き交う道路へ飛び込んだんだ。外傷はほとんどなかったが、打ち所が悪くて、ずっと眠ったまま」

 原田の言葉はそこで途切れた。声を殺して泣いているのが沙輝に伝わってくる。

 溢れでそうになる涙をこらえるように、堅く目を閉じてから、沙輝は再び翠に目を向けた。

「おまえ、ひどい奴だな。誰が一番罰を受けるか考えなかったのか」

 話しかけて、まだ暖かい彼女の手を握る。看護婦が「あっ」とわずかに声を上げた。

 ゆっくりと、翠の瞳が開いた。どこか沙輝と似た光を宿す瞳は、虚ろに空を見てから、沙輝で焦点が合う。

「――沙輝」

「翠……」

 強く手を握ると、彼女は微かに微笑んだ。血の気の引いた白い頬が、確かに緩んでいる。

 彼女は沙輝の背後に立っている晶を見付けて、更にはっきりと微笑えむ。

「あなたの、おかげね。……これも、夢かしら」

 晶はただ首を横に振っただけだった。翠はうなずいて、涙を零した沙輝の手をわずかに握り返した。

「沙輝。ごめん、ね」

「馬鹿野郎。ほんとに馬鹿だよ、おまえ」

「でも――」

 その先は言わず、彼女は儚く笑う。細い手から、ぬくもりが引いて行くのが沙輝には分かった。

「翠?」

「好きよ、本当よ。――兄、さん」

「おまえ……」

 これしか方法がなかった。間違いを犯す前に、断ち切るためには。

「……翠」

 握り締めた小さな手から、全ての力が抜けて、呼吸がひっそりと止んだ。

 原田が娘に駆け寄って、激しく名を呼んでいる。沙輝はそこから動くことができなかった。握った手を離すことができないのだ。

「翠……」

 掠れた声が、涙に呑まれて行く。



 黙って様子を見ていた晶が、傍らの風巳の背中を叩いて部屋を出るよう促した。

 病室を出て、廊下の長椅子に腰かけると、晶が風巳に苦笑を向ける。

「おまえが泣いてても仕方ないだろう」

「だって」

 グイッと涙を拭って、赤く濡れた瞳で風巳が晶を見た。

「彼女を夢で見たんだ。いつも、吹雪の中を走っていて。まさか、こんな。沙輝が……」

「可哀想?それはおまえの気持ちだ。翠は後悔してない」

「そんなのは嘘だ。絶対後悔してるさ。でも、彼女はもう納得するしかなかった。だから」

 冷静に構えている晶の態度に、風巳は憤りが沸き上がる。思わず声が高くなって、口をつぐんだ。深く息をついてから、改めて口を開く。

「聞いてもいいですか」

「何を?」

「どうしてあなたが知っているんですか。この前の朝子の件といい、彼女のことといい。『吹藤』のことといい。どうして」

「そんな事を聞いてどうするんだ」

「だって、どう考えても普通じゃない。まるであなたも夢を見てるみたいだ、吹藤の人間として」

「夢は見るよ、人並みに」

 軽く受け流す彼の態度に無償に腹が立つ。謎ばかりが自分の内には残されて、彼は答えを一切返さない。

「俺が言ってるのはそういう意味じゃない。知ってるんだろう?あなたは」

 薄い笑みを隠して、晶は鋭い視線を風巳に向ける。

「年上に対してその口の聞き方はないだろう。『吹藤』の後継者は礼儀正しいはずじゃないのか」

「俺は後継者じゃない。家を飛び出したんだから」

 ふっと、侮蔑した笑みが晶の口元に浮かんだ。

「おまえがそう思ってるだけだ。『本家』には個人の意見など関係ない」

 いやにすごみを帯びた声音で、吐き捨てられた言葉。風巳が何も言えなくなるほどの、重みを持って。

「まぁ、この件はこれ位にして。吹藤へ帰る決心はついたか?朝子を諦める決心も」

 一気に風巳の頬に赤味が差した。

「そんなこと、あなたに関係ない」

「あるさ。俺と朝子は兄妹だからな。それに忠告しといてやる。おまえはいずれ朝子に対して負い目を感じずにはいられなくなる。一緒にいることさえいたたまれないほどのね」

 静かに告げると、固く手を組んで晶が視線を伏せた。風巳は苛立ちにまかせてドカッと隣に腰掛ける。

「本当に、やめておけ。朝子のためではなく、自分のために」

 微かな囁きだった。風巳が驚いて彼の横顔を見ようとしたが、長い髪が表情を隠していた。

 声をかけようとするより早く、目前の病室の扉が開いた。医師や看護婦と共に沙輝と原田も顔を見せた。

 二人とも未だに、涙を零している。拭っても拭っても止まらないらしく、沙輝はそのまま晶へ近づいた。

「ありがとうございました。晶さんのおかげで間に合った。……帰りましょう」

 はっきりした声だった。晶が無言で立ち上がり、廊下を歩き出す。背後で原田の声がした。

「仲谷君。葬儀には来てくれるね。――来てほしい、翠のために」

「分かっています」

 振り返らず、沙輝はそれだけ答えて、エレベーターへ乗り込んだ。

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