ACT8
ACT8
1
高い天井が、欧州にある古い寺院に似ている。円形の梁が装飾のように優雅だった。光線の差し込む大きな窓にはステンドグラスがはめ込まれており、幻想を描いてみせる。
日本にこのような建築物があったことが不思議なほど、会場は異世界だった。
少人数で構成されたオーケストラが、美しい音色を奏でていた。
着飾った招待客が、緩やかな調べの中で談笑を交わす。
早川まどかは、大ホールと硝子一枚で隔てられた部屋へ入った。観葉植物が配置されて、ホールからは少しだけ死角になっている。
まどかは据えられたソファにゆっくりと掛けた。
テラスのような部屋は、天窓になっている。
窓からの暖かな光を受け、青空を見ると、思わずほっと嘆息がもれた。
硝子張りの向こうに広がる会場は、まるで舞踏会のように見える。結城晶との婚約発表の段取りは、本人達を置き去りに進行し、ついに当日を迎えた。
仰々しい支度に始まり、用意された衣装に身を包む。晶と言葉を交わす暇もなく、会場へ降りると既にこの有様だった。祝辞を述べるために、人々が次から次へと二人を取り囲む。内輪の発表であると言われても、まどかには圧倒的に面識のない者が多い。
それでも久しぶりに会う人達からの言葉は、実感が伴っていて素直に嬉しかった。まどかは心の底から今日という日の幸せを噛みしめることが出来る。
午前中は、晶の隣で微笑んで挨拶を交わすことで過ぎてしまった。
交わされる祝辞が一段落したのを見計らって、まどかはそっと人の輪を抜けてきた。集った人々は、様々に雑談をはじめている。
仕事に関わる会話には、晶も巻き込まれてしまうらしく、彼は依然として人の輪の中にあった。
ソファから身をよじる様に振り返って、まどかは向こう側の会場を見た。
一枚の硝子を透かして、いつの間にか晶の姿を追いかけている。正装に身を包んだ姿が、端整な容姿を際立たせていた。
ワインを片手に、浅く笑う仕草。隣の人を振り返る、たったそれだけの動きにも、非の打ち所がない。
彼の実父や、戴家の当主。大きな舞台で活躍する人々の貫禄の中にあっても、劣ることはない。恐ろしいほどの存在感があった。
まどかの中にある彼を想う心。それを差し引いても、やはり彼は全てが完成されているように思えた。きっと誰の目にも、美しい身のこなしなのだろう。
知らずに熱い視線を送っていると、ふと彼と視線があった。途端にまどかは我に返って、よじっていた体を元に戻す
傍にいる時間は多いのに、まだ彼に見惚れている瞬間がある。今の視線で本人にも知られてしまった気がして、まどかは一人で頬を染めた。
何となく恥ずかしくて、ソファに深くもたれかかる。しばらく会場を振り返ることはできない。火照った顔を押さえて、動揺をやり過ごす。
何度か大きく息を吐き出すと、落ち着きが戻ってくる。この会場に来てからの緊張感も幾分解けたようだ。
「――疲れたのか?」
気が緩んだと同時に、背後からの突然の声。まどかは心臓が止まりそうな程驚いて振り返る。目の覚めるような美貌で、婚約者が傍に来ていた。
「晶。驚いた」
一際高鳴った鼓動を鎮めるように、まどかは思わず胸に手を当てる。
「こんな所に来て大丈夫なの?」
会場を振り返って様子を確かめていると、晶はまるで他人事のように「大丈夫だよ」と笑った。まどかの隣に腰掛けて吐息をつく。
「もう他愛無い雑談をしてるだけだ。好き勝手に盛り上がってる。それに婚約者と二人きりでいるのを邪魔しにきたりしないだろ」
悪戯っぽく微笑まれて、まどかは思わず彼に目を奪われていた自分を思い出す。再び頬に熱がこみあげる。ごまかすように口を開いた。
「そんな理由が通用するのかしら」
「しばらくは通用するだろ。ここはいい感じに死角になっているし。俺もおまえの視線がなければ気づかなかった」
言い当てられて、隠しようもなくまどかは顔が赤くなった。いたたまれない思いがして、胸元のネックレスを指で弄ぶ。
「綺麗だな」
唐突に言われて、まどかはネックレスに触れる指を止めた。細かな細工で、今日のために用意されたドレスの飾りと揃っている。
「そうね。すごく綺麗な細工。ドレスも、あたしにはもったいない位だわ」
返ってきたまどかの反応に、晶は苦笑した。
「衣装のことを褒めたわけじゃないんだけど」
「え?」
衣装は光沢のある白い絹を基調に作られていた。落ち着いたマーメイドのスタイルで身体のラインがはっきりと出る。裾と大きく開いた胸元には、レースがゆったりとしたヒダを生んだ。
結い上げられた髪に大きなヴェールでも添えれば、そのまま落ち着いた花嫁衣装になりそうだ。
正装に身を包んで息を呑むほど綺麗なのは、まどかにも言えることだった。
「事を大袈裟にされるのは嫌だったけど、そんなふうに着飾ったおまえを見ていられるなら、悪くないな」
「本当に?」
素直に褒められてまどかは戸惑う。恥ずかしい気がしたが、嬉しさの方が大きい。思わず自分の衣装に目を向ける。
「こういうのを、馬子にも衣装って言うのかしら」
「それは違うだろ。せっかく褒めてるのに、自分でそういうことを言わない」
「だけど、あたしなんかより、晶の方がずっと素敵よ。きっとみんなそう思ってると思うもの」
遠慮しているわけではなく、卑屈になっているわけでもなく、まどかが思ったことを口にする。晶が呆れたように息をついた。
「おまえみたいな状態を何て言うか知ってる?」
「あたしの状態?」
「そう。恋は盲目。ただ一人のこと以外、全く周りが見えない。恥ずかしいから、その偏った意見はあまり人に言わない方がいい」
「そんなことないわ」
抗議すると、晶が可笑しそうに笑う。
「あるよ。まぁ、俺から見ると可愛いけど。何事に対しても、そうであってほしいね」
「晶。あたしのこと馬鹿にしてるでしょ」
「してないよ」
簡単な否定に不満を覚えて、まどかがもう一度訴えようとする。口を開きかけると、ふいに彼の長い指が耳のイヤリングに触れた。細工の触れ合う微かな音が響く。
驚きを言葉にする隙もなく、まどかは背中に回された手に強く引き寄せられた。
成り行きが把握できないまま、軽く触れる程度に唇が重なってすぐに離れる。
仕掛けられた口づけに、心が追いつかない。腕に抱かれたまま呆然とするまどかに、晶は浅く微笑んだ。もう一度強い力がこめられる。
「――まって……」
ぎりぎりの所で我に返って、まどかは顔を逸らした。
「こんなところで。……きっと、人が見てるわ」
抱きすくめられた腕から逃れようと、まどかは強く晶の胸を押し戻す。けれど、か弱い力に屈することなく、回された腕はますます彼女を束縛した。
「晶、放して」
「誰も見てないよ。もし、見ていたとしても、見ていないふりをするしかない」
「そういうことじゃなくて……」
抵抗を企てても、彼の力は揺るぎない。晶が低く囁く。
「もう誰にも、咎められるような想いじゃない」
手に入れた想いを確かめるような言葉だ。直後の力の強さに、まどかは抗うことができなかった。深く押し当てられた唇は、さっきの触れるだけのキスとは異なる。
彼の中でこみ上げた熱が、絡み合わせたところから行き交う。やがて激しい波となって、まどかの中にある戸惑いをかき消した。お互いを求め合うだけの、密度の濃い口づけ。
ゆっくりと力を抜いて、二人が離れる。
「どうしたの?」
少し呼気の乱れた調子で、まどかが問う。至近距離で晶が自嘲的に笑んだ。
「こんなに祝福されていても、不安が止まない」
日増しに強くなって行く予感がある。夢で美しい青年に、何事かを示唆された時から。まるで手に入れた故郷の在処が、完全ではないことに気づいたように。
誰にも、何があっても、二度と引き裂かれることのない関係。それを信じていたいのだ。彼女が他のどんなことよりも、誰よりも、自分を選んでくれること。それを祈っている。誰かのためではなく、自身のためだけに。欲した望みのままに。
例えば、周りに築かれた人々の気持ち。取り巻く人々の幸せ。それを引き換えにしてでも、最後まで形を残すのが、自分への想いであればいいと願う。
示唆された暗い予感が、常に晶の不安を駆り立てている。
自分の欲望を後回しにできること。
それは美徳でもあるが、同時に自己満足を導くこともある。そうして、そこから生まれ出るのは、自己犠牲なのだ。
天秤に乗せられた。自分の幸せと、周りの幸せ。
彼女はきっと、自身を犠牲にして周りの平穏を望んでしまうだろう。自分の想いが、どこかで負の働きをするならば、きっと断ち切ってしまう。想いを殺して、何かを成し遂げようと。そんな道を選んでしまうに違いない。
深読みしすぎだと言い聞かせても、消えない不安。思い違いであればいいと、切に願っているのに。
何らかの予知といってもいいほどに、なぜか日増しに膨らんで行く。
「まどか」
切なくなるような声音が、まどかの胸に染みた。ただ、名を呼ばれただけであるのに。
「おまえには、もっと自分を守ることだけを考えてほしい」
「どうして、そんなことを言うの?」
「自分を犠牲にすることを厭わない性格だから」
はっきりと伝えると、まどかは「そんなことないわ」と答えた。晶は静かに首を横に振る。今までを振り返っても、思い違いでは片付かない。
「俺が吹藤を名乗っていたとき、おまえは再会した時何て言ったのか、もう覚えていないのか」
「……覚えているわ」
「おまえが別れを告げた日のことは?」
畳み掛けられて、まどかはすぐに反応できない。確かに自分が傷ついても、彼の想いを守りたかった。いつでも自分が枷になることを望まない。
「だけど、それはあなたの気持ちがあたしに向いていないと思っていたから」
「じゃあ、今なら自分の想いを守れるのか。殺してしまうことなく、何があっても」
質問に答えず、まどかは指先で晶の頬に触れた。
「晶は、それを不安に思っているの」
「――そうだよ」
真摯な眼差しを彩る、宇宙色。手に入れた至福の中で、想うあまり生み出される不安。彼も自分と同じだったのだ。
完璧な自信を持てずにいる。
彼は隠すことなく、弱さを打ち明けてくれる。まどかの胸を満たす想いが、ゆっくりと溢れた。暖かくて、ただ愛しくて、傍にいたいと願う。
「晶があたしを望んでくれるなら、あたしは自分を守る。努力するわ」
「何があっても?」
「ええ、何があっても。約束する」
迷いなく答えると、彼は柔らかく微笑んだ。
交わされた約束。二人を繋ぐ、強い絆。
何モノにも太刀打ちできず、侵されない想い。満たされた日々が続くことを、信じている。
それが断たれる日が訪れることなど、考えたくはなかったから。
2
婚約発表という晴れやかな場に相応しく、正装に身を包んだ人々が行き交う。寄り添って立つ二人が喜ばしく、李杏沙は微笑みが浮かんだ。多くの試練を乗り越えてきた二人を知っているだけに嬉しかった。
まどかと会うのは久しぶりであるが、彼らを取り囲む人の輪は厚い。一段落するまでは、ゆっくり話をすることもできそうにない。
内輪といっても、大富豪の用意した会場である。招待客には要人も多く含まれている。杏沙の主君である大蓮も、主役の二人以外にも久しぶりに会う者がたくさんいる。会話が途切れることがない。
午前中は騒然としたまま時が過ぎた。昼を過ぎると、少しずつ勢いが引いてくる。大変なスケジュールを裂いての出席も珍しくないため、日常へ戻って行く者も増えた。
「玉環、どこへ行っていたの?」
杏沙の双子の妹も、この会場に招待されている。
李玉環は、戴家の麒麟祭で舞姫を務めた経緯から、まどかとも打ち解けた関係だ。
こちらに到着してから二人に祝辞を述べ、それから杏沙は玉環の姿を見失っていた。
先日、戴家が毎年行う青龍祭が終わった。麒麟祭ほど盛大なものではなく、儀式的な要素が強い。玉環はその祭事の要となる舞姫を務めてきたが、今年が最後の舞となった。
双子の父の犯した罪は軽くない。玉環の受けた被害も大きく、傷跡は今も胸に巣食っている。杏沙は舞姫を辞す決意をした妹に、反対はできなかった。
杏沙は今年で三十という年齢を迎える。妹の童顔と、舞で鍛えられた身体を見ていると、年下の妹のような気がしてならない。それでも、双子である玉環にも同じだけ年月が流れた。杏沙も、舞姫を降りるにはキリがいいと思えたのだ。
これからは全てを忘れて、玉環は自分の幸せのために自由な世界を見た方がいいような気がしていた。
杏沙は自ら好んで、主である大蓮に一生を従う決意をした。美しい妹はそうではない。過去に父が妹に仕掛けた仕打ちを乗り越えて、女としての幸せを手に入れてほしいことも事実だ。
「別に、少し席を外していただけよ」
双子の姉に答えながらも、玉環はなぜか杏沙の背中に隠れるように立っている。何かを警戒しているのか、怯えているのか、杏沙には妹の様子が理解できない。
玉環の真意を問いただそうとしたとき、杏沙を呼ぶ声がした。
「杏沙。蓮花の姿がないが、知らないかい?人の出入りも少し落ち着いてきた。彼女に例の物を贈りたい」
大蓮が刺繍の見事な中国服の裾を閃かせて、こちらへやって来た。飛麟が細工を施された宝珠の入った包みを腕に抱えている。
「さきほどまて、人の輪に紛れておられましたが」
言いながら辺りを見渡しても、確かにまどかの姿がない。同じように婚約相手の結城晶の姿も消えている。まさか主役が会場を抜けるようなことはない。
姿を探す杏沙の腕を、隣にいた玉環が引っ張った。
「向こうのテラスにいるんじゃないかしら。人影が見えるわ」
妹である玉環の言葉は正しく、テラスへ向かうと主役である二人が杏沙達に気づいた。大きな硝子扉を開けて入っていくと、ボーフォード家の時期当主と噂されているヘンリーの姿もあった。
杏沙の背後をついて来た玉環が、一瞬歩みを止めた。杏沙が気づくと、まるで知られたくないことがあるように、平静を装った。
「晶、美しい人。僕以外にも、君達の逢引が見つかってしまったようだぞ」
陽気で屈託なく、ヘンリーが二人に告げた。大蓮が笑いながらテラスにいた三人に声をかける。玉環はテラスへ一歩足を踏み入れてから、ますます杏沙の背後に隠れている。
「一体どうしたの?玉環。あなた、ここへ来てからおかしいわよ」
小声で指摘しても、玉環は取り繕うように微笑むだけだ。
「そんなことないわ、杏沙」
訝しく思いながらも、杏沙は飛麟が携えていた包みの布をとく。美しい作りの箱から、戴家の宝珠を取り出す。いつでも身につけていられるように、宝珠には細く絡み合う細工の鎖が繋がれている。ペンダントに作り変えられていた。
大蓮が杏沙から受け取ると、宝珠はポウと光を灯す。まどかが「綺麗」と呟いた。
「蓮花。いや、まどか。これを私から贈りたい」
大蓮が彼女の手を取って、宝珠を掌に載せた。不思議な光は消えることなく、まどかの手の中でも美しく弱い光を放つ。
「これは、我ら一族の宝珠だ。古に神獣が齎したものだと言う。我らの血に反応して、なぜか光を放つ。世界に二つとない。ぜひそなたに持っていてもらいたい」
「そんな大切な品を、あたしなんかが持っていても……」
戸惑った声を出すと、大蓮は優しく笑った。
「いいんだよ。一族には、もはやそのような権力の象徴は必要ないのだから。そなたは一族の麒麟でもある。この宝珠のあるべき場所だと思えるのだ。この珠がそなたの幸せを護ってくれるかもしれない。私からそなたに、護りの変わりだ。いつも身につけていてほしい。そう思ってこのような形に作り変えた。受け取ってもらえないか」
静かな調子で、大蓮が思いを語る。まどかは想像を絶する高価な贈り物に、気後れがした。そっと晶を窺うと、彼はゆっくりと頷いた。
自分を思ってくれる気持ちを無駄にするなという意味合いを含んでいる。まどかが手の中の宝珠を強く握りしめた。
「大蓮様、ありがとうございます。いつも身につけて、大切にします」
まどかが頭を下げて礼を言うと、大蓮がほっと嘆息をつく。
「ありがとう、まどか。それから晶にも。改めて、二人の婚約を祝うよ」
戴家の主の祝辞を受けて、晶も改めて「ありがとうございます」と言葉を返した。
「晶。君は約束を違わず、守ってくれたね。私の出した条件は、生半可なものではなかったのに。礼を言うよ。本当にありがとう。よくここまで辿り着いてくれた」
「いいえ。当主が私達を信じて、道を切り開く機会を下さった。辿り着くのは当然です」
殊勝な面持ちで晶が告げると、大蓮が軽く笑った。
「たしかに、君は二人の命を賭けていた。成し遂げるのは当たり前だったね」
楽しげにそう言って、傍らのまどかを見る。
「知っているかい?まどか。彼が僕を何と言って説き伏せたか」
「え?いいえ」
口を滑らせようとする大蓮を、杏沙が笑いながら諌めた。
「大蓮様。それは言わずに置くのがルールですわ」
「そうです、当主。それは男同士の秘密ということで」
続けて晶も釘を指す。大蓮が無邪気に「それも悪くない」と言って、真実を闇に葬り去った。まどかが「二人でずるいわ」と不平を言うと、近くにいたヘンリーも口を挟む。
「男同士の秘密なら、後で僕にはこっそりと教えてもらいたいな」
その場に笑い声が響いた。そんな調子で久しぶりに出会った者達の談笑が続く。
まどかがそっと掌の宝珠を眺めた。不可思議な燐光を放って、心なしか温度を保っているような気がした。まるで、命を持っているような光。
魂を封じ込めて形にしたなら、このような石が出来上がるのかもしれない。
美しい光を宿す命。そんな気がした。
しばらくテラスで話し込んだ後、大蓮と飛麟が会場であるホールへ戻った。晶も姿をくらましているのが限界らしく、吹藤家の当主である和彦に呼ばれて出て行った。
「あたしも戻らなきゃいけないかしら」
まどかが呟くと、ヘンリーが「女性は気楽に過ごしていても咎められない」と能天気なことを言う。
「そう思わないですか?賢い人と、愛しい人」
ヘンリーが李家の双子を振り返って同意を求める。どうやら、賢い人は杏沙を、愛しい人は玉環のことを示しているらしい。
まどかが彼らしいと笑みを漏らす。
ヘンリーの視線が玉環を捕らえた瞬間、彼女は「私も会場に戻ります」と踵を返す。まるで彼から逃げるような素振りで、杏沙が慌てて声をかけた。
「玉環。まどかと会うのも久しぶりなのよ。あなた、たくさん話したいことがあると言っていたじゃないの」
姉の言葉を受けて、玉環は仕方なくテラスに留まる。まどかが不思議そうに双子のやりとりを見ていた。ヘンリーを振り返ると、口を閉ざして同じように成り行きを見守っているようだ。
杏沙と玉環は、揃いの黒いドレスを身に纏っている。微妙に形は違うが大人っぽい作りで、二卵性の双子である彼女達の違いをうまく引き立たせている。
杏沙は常に颯爽とした雰囲気がある。綺麗な女性なのに、なぜか賢く落ち着いた印象の方が強い。女らしいゆったりとした仕草が、あまり見られないせいかもしれない。
玉環は杏沙と対照的で、仕草の一つ一つがこの上なく優美だ。舞に鍛えられた成果も大きいのだろう。舞姫を降りた今でも、玉環の美しさに対する世間の評価は揺るぎない。まどかも久しぶりに会う彼女を見て、その思いを強めた。テラスの向こう側に広がるホールには、晶の異父妹である久方光の姿もある。まどかは二人を交互に見比べた。
大勢の人の中で、無意識に目に止まる女性だ。光と玉環の持つ魅力は、晶と等しく格別であるように思えた。
「そう言えば、あたしさっき少し話に聞いたんだけど。玉環が今年で舞姫を降りたって。それは本当?」
妙な空気を一掃するように、まどかが彼女に話し掛けた。玉環も気を取り直して微笑みを浮かべる。
「そうなの。色々と思うところがあったし。若い人達に任せようと思って」
まるで自分が年増であるような言い方である。まどかは杏沙と玉環が双子だと知りながらも、杏沙を姉のように思い、なぜか玉環を同い年位に思っていた。
「若い人達って。玉環の舞に叶う人はいないのに。ねぇ、杏沙」
「そうね。だけど引き際も大切だから。いい機会じゃないかしら」
惜しむことなく潔い決断をする双子に、まどかは「そういうものかしら」と呟いた。玉環が「そういうものよ」と答えて、話題を変える。
「私は、今日はじめてまどかの好きな人を間近で見たわ。とても驚いた。まどか、あなたって実は見た目重視の女の子?」
「え?」
「だって、あの人、神がかり的な美貌よね。しばらく吸い込まれるように眺めてしまったもの」
ホールで輪に囲まれている晶を見ながら、玉環が以前と同じ打ち解けた様子で言った。まどかと杏沙が笑っていると、ヘンリーが気軽に口を挟む。
「なんだ。愛しい人は晶みたいなのがタイプなのか。それとも、一般論?」
彼が関わってくると、なぜか玉環はぎこちなく口を閉ざす。青龍祭や麒麟祭などを含めて、ボーフォード家の時期当主として、二人が対面した機会は数多い。
杏沙には、二人がそれなりに親しく、自然に話をしていた記憶があった。
今更、緊張や人見知りもないだろう。
「一体、どうしたの?玉環。あなた、今日はおかしいわよ」
「別に、なんでもないわ」
杏沙の指摘は、もう何度目なのかもわからない。返ってくる答えにも進歩がなかった。
何かに戸惑い、怯えている玉環の態度は、ヘンリーの存在から派生している。まどかにもわかるほどに、様子から滲み出ていた。
ヘンリーも結論に辿りついたらしく、すうっと表情から笑みを消す。
「もしかして、僕を恐れているの?」
表情はかたいが、彼の声音は優しく響いた。言い当てられたのか、玉環の頬が一気に紅潮した。思いも寄らない成り行きに、杏沙は言葉もない。
一体、妹に何があったのか、それが知りたかった。
「賢い人。その様子だと、彼女は君にも相談してはいないようだ」
彼が突然、杏沙に向かって言葉を投げる。
「ヘンリー様。どういうことです」
「僕は、何度となく彼女に想いを伝えた。手紙を書いたこともあるし、直接打ち明けたこともある。その僕への返答がこういう態度なのか、愛しい人。僕は気長に待つつもりだったが、君がそれでは話にならない」
想像を絶する告白に、さすがの杏沙もすぐに反応ができなかった。まどかが驚きと期待の入り混じった思いで二人を眺めている。他人事ながら、鼓動が高くなった。
いつか、彼が結城邸を訪れて宣言したことを思い出した。
ボーフォードの関わる事業を全て無視して、ヘンリーは伴侶を探す旅に出たという。既に、その時から、彼の想いは決まっていたのだ。一年という猶予期間は、玉環を振り向かせるための時間なのだろう。
「愛しい人。それが君の返答だと受け止めていいのか」
真っ直ぐに投げられる言葉に、玉環は顔をあげた。強く両手を組み合わせて力をこめる。何かを決意したのか、しっかりとヘンリーと視線を交わした。
「私はあなたの想いに答える資格を持たない女です。それに、あなたに婚約者の名があがっているという噂を耳にしました。私を戯れにからかうのは止めてください」
杏沙とまどかが、胸の痛くなる思いで彼女の声を聞いた。
想いに答える資格を持たない女。暗い響きを持つ、その意味がわかってしまったからだ。
玉環は自身を蔑んでいる。こんな事態に及んで、杏沙ははじめて気がついた。失脚した自分達の父は、舞姫の神聖な身体を売って利益を貪った。
その姦計の餌食となったのは、娘の玉環である。
ここ数年、青龍の舞を務めてきた妹の才能は、妹を苦しめるためだけに機能した。杏沙はどんな思いで玉環が今の言葉を言ったかを思うと、胸が塞いだ。
「僕はからかってなどいない」
ヘンリーが強い調子で断定する。
「たしかに、婚約者の名があがったことは認めよう。しかし、僕は断った。僕は僕の愛した人しか妻にもちたくない。周りを説き伏せるのに、少々時間を必要としたが。今は父にも全てを打ち明けてある」
まどかはヘンリーの言葉が嘘ではないことが、よくわかった。今までの彼の行動や言動を振り返れば明らかだ。
それでも、玉環の抱える一番大きなわだかまりは、そんな処にはない。罠に落ちて汚されたのは、身体よりも心なのだ。周りの者がどれほど彼女に非がないと説得しても、玉環が納得しなければ意味がない。彼女が自分を認められなければ、誰かを想う気持ちには鍵がかかってしまうだろう。鎖で縛られた鍵を解くのは、並大抵なことではない。
戴家の古書が示す、夢眠草。絶対の催淫作用と、避妊効果をもつ薬湯となり、玉環に盛られた。効力は玉環を誘い、おぞましい記憶の全てを奪い、闇の彼方へ葬り去る。
相手の名前も顔も身体も、おかした行為すら、玉環には覚えがない。
姦計を企てた首謀者すら、舞姫を手に入れた人間の所在や姿は知らなかった。誰にも身元が割れないということも、その企ての売りとなっていたのだろう。
何も知らないヘンリーが、李家に起きた事件の全てを知っても、同じ態度を示せるかもわからない。
「愛しい人。それでも君は僕を受け入れることはできないのか」
熱烈な想いを受けて、玉環は言葉を失ってしまった。ヘンリーを突き放すことのできない妹のためらいが、杏沙に彼女の想いを見せつけた。
玉環も彼を想っている。
過去を振り返れば、気がついてもよさそうなものだった。玉環の明るい笑顔。何のわだかまりもなく、ヘンリーと親しげ話していた頃の妹は無邪気だった。いつから、あの笑顔をなくしてしまったのかを思えば、疑う余地もない。
何という残酷なめぐり合わせだろう。杏沙は玉環の気持ちが移ってしまったのか、涙を堪えるのに必死だった。
沈黙してしまった双子を前にして、ヘンリーが小さく息をつく。
「僕の一方的な気持ちを語ったところで、意味はないな」
まどかは彼がこの場を去るのかと思ったが、そうではなかった。ヘンリーはますます表情を緊張させて玉環を見た。何かとてつもないことを打ち明けるのではないかと、まどかは胸がどきどきする。
「僕も卑怯だ。全てを打ち明けていないのだから。僕の抱える恐れも君に等しい。愛しい人。君が全てを知って、僕を軽蔑したなら、潔く諦めるしかない」
言葉の意味を掴むことができず、玉環が少し潤んだ瞳でヘンリーを見上げる。彼は自身を蔑むように浅く微笑んだ。苦い笑い方だ。
「率直に述べよう。青龍の舞姫、その一夜を手に入れ続けたのは僕だ。愛しい人、言い訳はしたくないが。僕には、そのようにして君を守るしか術がなかった」
静かに淡々と、しかし明瞭でよく通る声が真実を告白する。多くの想いが玉環の中を渦巻き、激情となる。記憶にない一夜の相手。恐れて、恐れて、自分を平穏な生活から、濁流の中に突き落とした張本人。
目の前で佇む青年が、悪夢の相手。尊敬し、慕い、愛していたかもしれない人。
怒りなのか、哀しみなのか、それとも喜びなのか、玉環には判断がつかない。すぐには受け入れられない現実だった。
黒目がちの美しい瞳から、涙が溢れていた。ヘンリーが彼女の様子を見て、苦しげに目を細めた。
「――あなたを」
玉環の震える唇から、言葉が漏れた。
「あなたを、許せない」
何が許せないのか、わからない。胸に湧き上がる気持ちが交錯して、交じり合い、混濁していく。絶望にも似た哀しみが、波を寄せてはかえす。
溢れ出た混乱が彼女に与えた言葉。
ヘンリーの反応を待たずに、玉環がテラスを飛び出した。
「玉環!」
我に返った杏沙が呼び止めるが、振り向くこともなくホールからも姿を消した。追いかけようが迷ったが、杏沙はテラスに留まった。いつもの落ち着きを取り戻して、ヘンリーに向き直る。
「ヘンリー様。今のお話は本当なのですか」
いつも陽気な彼にも残酷な告白だったらしく、辛そうに眼差しを伏せている。
「こんなことで、嘘などつかない」
落ち込んだ口調が投げやりにも受け取れる。杏沙の中にあった玉環の混乱が、少しずつ退きはじめる。まどかが、はらはらした面持ちで二人を見守っていた。
二人の想いは、皮肉で、残酷な仕掛けの餌食となった。しかし、冷静に考えれば、玉環の抱える不幸や負い目は、癒される可能性を持っているのではないかと思えた。
ヘンリーは、玉環を愛しているから、そのような手段を用いたのだ。
それしか守る術がないと、そう告白した。
「あなたが妹を愛していたのは、いつからのお話なのでしょうか」
彼は糸の切れた操り人形のように、力なくソファに座る。まどかがヘンリーの横顔を見つめた。暗い眼差しをそのままに、彼が重い口を開いた。
「僕が二十歳の時からだから、十年越しの恋になるね」
大きな溜息をついて、ヘンリーもいつもの様子を取り戻し始めた。ソファから身を起こし、背筋を伸ばして、姿勢正しく杏沙を見る。
「僕の気持ちを誤解されるのは避けたい。賢い人には、僕の想いを話しておこうか」
「伺います」
杏沙が真面目に答えると、ヘンリーはやっと微笑みを取り戻した。
「僕がボーフォードを継ぐ気になったのは、その頃からだ。昔は大変な放蕩息子だった。君も噂位は聞いているだろう」
「はい」
肯定して、杏沙がボーフォード家の後継者についての事情を思い返す。ヘンリーは現在のボーフォード家当主の三男なのだ。当初は誰もが、長男が時期当主になると疑わなかった。次男は身体が丈夫でなく、甘やかされて育ったせいもあり、人の上に立つには相応しくない。
三男であるヘンリーも、学生時代は大変な放蕩息子であったという。その筋では有名な話だ。そんな彼が、ボーフォードの持つ世界で頭角を現し始めたのは、成人したころからである。
ヘンリーは長兄が時期当主になることに、何の不満もなかった。兄の威信を汚さぬために、自分が三流を演じてきたのだ。いずれは家のために、どこかの名家の娘を娶って、平穏に暮らしていけば言いと、野心を持たずにいた。
決められた退屈な人生の代償に、学生時代の無茶が許される。ヘンリーの中にあった将来の方程式は出来上がっていた。
李玉環との出会いがなければ、ヘンリーは軌道を修正することもなかっただろう。
富豪同士の交流で、戴家に仕える李家の玉環と、ヘンリーは出会ってしまった。彼が、揺るぎない地位を欲したのは、その時からである。
「僕は愛しい人を好きになってしまった。彼女との将来がほしくなった。放蕩息子を演じて手に入れられる未来は、決まっていたからね。仮に当主となっても、中途半端な力では、周りの力で結婚相手が決まる。僕は何としても、それを受け入れたくはなかった。だから、努力したのだ。そして、今を手に入れた」
誰にも揺るぎなく誇れる立場。認められた才能。その世界に通じている杏沙には、彼の真実が手に取るようにわかる。
「しかし、運命は皮肉な事件を用意してくれる。李家の企てたオークションだ。はじめてそれを知った時は、さすがに目の前が真っ暗になった。愛しい人が、何を思ってそのような謀略を受け入れたのかもわからなかった。まぁ、彼女は薬をもられていたから、本人の意志はどこにもなかったけど。それは僕にとっては、せめてもの救いだった」
「しかし、例年の多額の資金を。いくらヘンリー様と言えど、自由になる資金は限られていたのでは?」
「たしかに。僕の築いた自己資産は使い果たした。父に目をつけられそうになったことも少なくない。李家の陰謀について、僕は当時多くを知らなかった。戴家が噛んでいるのならば、下手な手出しはできない。だから、彼女との一夜を買い続けるしか方法を持たなかった。今もまだ舞姫の競売が続いていたら、僕は破産したかもしれないな。しかし戴家が制裁を加え、真実は闇に葬り去られた。僕の作った架空の口座に、今までの資金が返還されていた。僕はそれを使って、父から一年の時間を買ったんだ」
ヘンリーの手に入れた時間には、そのようなからくりがあった。まどかは彼らの世界の厳しい掟を見た気がした。彼らが自由を手にすることは、簡単なことではない。
晶がこの短期間で成し遂げたことは、ヘンリーにも覚えのあることだったのだ。
「僕は手に入れた一夜で、愛しい人を抱いた。その事実は認める。それが彼女を傷つけ、汚したというのであるなら、償う覚悟はある。賢い人、僕は出来心で彼女をほしがったわけではない」
「ヘンリー様。あなたのお気持ちは、よくわかりました。しかし、妹の受けた傷は簡単に拭えるものではありません」
杏沙の辛辣な言葉に、ヘンリーはただ頷いた。
「私も、妹同様、簡単にあなたを許すことはできません。あなたの誠意で、償っていただきます。大変な時間を必要とするかもしれません。しかし、妹を深い溝から連れ出すことが出来るのは、あなただけなのですから」
杏沙が簡単に結論を出した。本人の意志を聞くこともなく決めてしまった杏沙に、ヘンリーもまどかも驚いた顔をする。
「賢い人。そんなに簡単に、答えを代弁していいのか」
「私と玉環は双子なのです。常人には理解できない絆が存在します。私は妹の真意を誤ったことは一度もありません」
玉環から伝染した一瞬の感情の渦。そこに含まれた歓びを、杏沙は味わっていた。怒りや哀しみと混ざり合い、確かに見え隠れしていた想い。
すぐには解かれることのない複雑な感情であることは間違いない。それでも、ヘンリーの語った妹への想いがあるならば、玉環の想いが美しく磨き上げられる日は、必ず訪れるだろう。
杏沙の胸に広がった喜びが、二人のこれからを示している。
妹が過去の仕打ちを乗り越えて、幸せを手に入れる。その舞台が用意されているのを知って、杏沙は嬉しかった。




