ACT6
ACT6
1
兵器の開発などから著しく発達した分野は、時代を経て広い範囲に応用をもたらした。工学という言葉は、現在では多くの分野の総称となる。
米国を拠点とするTラボ(TATR――応用技術研究所)では、一つの研究成果が試されようとしていた。
晩夏は過ぎ去り、秋の気配がしだいに深まって行く。過ごし易い季節の訪れを、肌で感じる時期になっていた。
Tラボの第三研究室は五つのチームから成り、総勢二十人の研究室である。ここではサードラボと呼ばれ、ブラッド=グラストンも席を置いていた。
広い研究室には、多くのコンピューターがひしめき合う。片隅の端末の前で、ブラッドは電気信号の伝達をシミュレーションしていた。
端末の目前にある鉄の寝台に、一体の人型が横たわっている。サードラボの責任者であるスカバー=レイノルが発案した動力は、まさに劇的なシステムだった。サードラボにおいて、ロボットは短期間で信じがたい進化を遂げたと言ってもいい。
端末を叩く手を止めて、ブラッドは寝台に横たわる試作品を見た。これまでの実験体を経て出来た、技術の集大成がここにある。
見た目には、普通の人間に等しい。重量はまだ人の何十倍とあるが、それでも横たわって瞳を閉じている姿は眠れる青年のようだった。
「本当に、動くのだろうか」
サードラボのトップであるレイノルの研究を否定するつもりはない。それでも、ロボットを越えたアンドロイドの誕生に関わってきたブラッドには疑問がある。
系統立てられた設計図に、幾つか腑に落ちない点があったからだ。
全ては、数日後に行われる試運転の日に明らかになる。
「ブラッド。まだ残ってるの」
背後で無邪気な声がした。昨年、最年少でMITへ入学し、その異才を認められたリンクス=サーストンが歩み寄ってくる。まだ十七歳という若さで、サードラボの第五班に所属している。
MITは飛び級が茶飯事である。そのためTラボには六十歳を越える者から、リンクスのような若輩までが混在していた。ここでは、年の差は関係ない。実力が全てなのだ。
「リンクス。君の方こそ、まだ残っていたのかい?」
彼女を振り返って、ブラッドが問い返す。温厚な人柄そのままに、穏やかな微笑みを浮かべていた。大財団、グラストン家にありながら、彼は独りだけ偏った研究に才能があった。長兄のように商才には恵まれないが、サードラボに与えた功績は無視できない。
末の弟であるエリックと同じに、金髪碧眼を持ち、優しげな仕草が印象的な人物だ。来年には三十に手が届くが、どこか夢見ている少年のような無邪気さがある。
実年齢より遥かに若々しく見えた。
「ブラッド。白衣のボタンを掛け違えているわよ」
リンクスが指摘する。彼女は彼の胸元に手を伸ばしてボタンをかけ直す。ブラッドは格好には無頓着だった。無造作に伸ばした金髪を後ろに束ねて、時には薄い不精ひげをはやしている事もある。
「どうもありがとう。リンクス」
「どういたしまして」
まるで彼女の方が年上で、ブラッドの姉であるかのようだった。リンクスは目の前の寝台に横たわっている、造られた青年を見た。目を閉じている様は、眠っているように見える。精緻に造られた外見は、人と呼ぶには美しすぎた。
「綺麗ね。もうすぐ、目覚めて動くのね」
「――そうだね」
疑惑をしまい込んで、ブラッドも同意した。サードラボのトップであるレイノルの研究成果を覆すような発言はできない。彼とレイノルの間にある距離は近くない。レイノルの立場と地位は、誰もが疑いようもなく認める権威なのだ。
思わず吐息をついたブラッドを、リンクスが見返った。
「そういえばね、今日MITで面白い情報を手に入れたの」
サードラボの研究に携わりながら、リンクスはまだMITの学生でもある。
「面白い情報って?」
素直に興味を示して、ブラッドも彼女を見た。リンクスはすぐに口を開かず、楽しそうにブラッドの端整な顔を見つめ返す。じっくりと見るたびに、リンクスは身なりを整えれば、俳優顔負けの良い男なのにという思いがよぎる。 これまでに何度そう思ったのか、もう数え切れない。
身なりを正すこと。おしゃれに関心を向けること。 リンクスは何度も彼に進言を試みたが、右から左で効果はなかった。
「あのね、今年の編入組に吹藤家の御曹司がいるって話」
「吹藤家の?」
「そう。ブラッドなら面識あるんじゃない?」
「うーん、誰だろう。風巳かな」
記憶を振り返るブラッドの台詞に、リンクスは「そうっ、それ!」と手を打った。
「たしか、そんな名前だった」
「ああ、やっぱりそうなのか。あの一族も天才肌の人が多いから」
「そうなの?私はまた財に任せて金にモノを言わせ、無理矢理、編入枠を勝ち取ったのかと思っていたわ」
皮肉いっぱいに毒を吐くリンクスに、ブラッドが慌てて否定する。
「まさか。彼がそんなことを受け入れるはずがない。それに邪な手段でMITへ入れば、後が続かないじゃないか。彼にはMITへ来るだけの才能があると思うよ」
「ふうん。じゃあ、大富豪の一族は、みなさん才能に恵まれているの?それとも、才能に恵まれているから、大富豪になったのかしら」
リンクスの言うことに、ブラッドは笑う。
「それはどうなんだろうね」
「なんだか、世の中の仕組みに苛立ちを感じるのは、庶民のヒガミかしら」
「リンクスも才能に恵まれているじゃないか。僕よりもずっと大物になるよ、君は」
「そんなふうに言うのは、ブラッドだけよ」
年相応に頬を膨らませて、リンクスが拗ねた。
「風巳って、どんな人?私はまだMITでも会った事がないの。お上品な貴公子?真面目な堅物?」
敵意むきだしの言い方に、ブラッドが苦笑した。ゆっくり横に首を振る。
「どれも外れだよ。とても気さくで明るい気性の青年だ。リンクスとは気が合うかもしれない」
「冗談でしょ」
「冗談なんて言わないよ。だけど、MITへの編入なんて。最近はIMDIも分野を広げている。吹藤の人間なら、あちらの施設へ入る方が理に叶っているのに」
「きっと偏屈なのよ」
頭ごなしに嫌悪するリンクスに、ブラッドがもう一度苦く笑う。
「彼がIMDIとTATRの掛け橋になってくれればいい。そうすれば技術は信じられない加速をするはずだから」
「機関を支える富豪同士が牽制しあっているのに、それは無理な話よ。それに、医療とサードラボの研究は相容れないわ」
「そうかな。僕はそうは思わない」
どこか力強い意志を秘めて、ブラッドが断定した。静かな仕草に漲る彼の才能の片鱗を見た気がして、リンクスは口を閉ざした。
2
肌を焦がすほどの光線が、心地良い穏やかな陽射しに変わっている。夏の蒸し暑さはどこへ消えたのかと思うほど、過ごし易い季節になった。
風巳がアメリカへ旅立ってからは、二ヶ月近くが過ぎている。土曜日は講義を選択していないので、朝子はのんびりと結城邸のリビングで本を読んでいた。
まどかは相変わらずキッチンでお菓子を作ったり、家中をピカピカに磨き上げたりしている。昨夜からねかしていたパイ生地を使って、昼過ぎには見事なアップルパイが焼きあがった。
まどかがオーブンから出してきたパイを見て、朝子も本を置くとキッチンへ向かう。
「すごーい、まどかさん。綺麗に焼けてる。食べるのがもったいない位だよ」
「ほんとに大成功。朝子ちゃん、お茶の時間にしない?」
まどかがやって来てから、結城邸で口にするおやつは、ほとんどが手作りだ。三時過ぎにティータイムになることも習慣化されてきた。
「だけどこれ。二人で食べられるかな」
七号程度の大きさだが、たしかに二人で食べるには大きすぎる。
風巳がアメリカへ行ってしまい、晶も数日前から英国の医療機関へ赴いている。
「やっぱり、二人だと淋しいわね」
まどかがしみじみと口にする。朝子も頷いた。
「今度、風巳に会えるのはいつかなぁ。元気にしてるかな」
MITの合格発表は、九月に入ってまもなく、風巳が国際電話で知らせてくれた。とても嬉しそうな声をしていたから、朝子も素直に喜べた。
同じ高校に通っていたせいなのか、朝子は風巳の持つ才能を全て理解していなかったのかもしれない。MITへ入るということも、風巳や兄である晶から聞いていると、少々難しい程度の認識だった。
けれど、例えば沙輝や晴菜の反応を窺うと、様子は全く違う。夢物語のように、実現が困難な出来事になる。
「吹藤の血筋って、天才を生み出す血統なのかな」
素朴に口に出すと、まどかも「そうよね」と同意する。
「本人達の努力とか、環境もあるのかもしれないけど」
「うん。私みたいにのんびりした幼少時代をおくってないもんね、二人とも」
まどかがポットに紅茶の葉を落とす。朝子がティーカップをダイニングの食卓へ持って出た。六人がけの食卓に、今は二人。淋しいけれど、朝子は哀しいとは思わない。
日本を発つ数日前に、風巳は多くのこと伝えてくれた。その言葉が、ずっと朝子の胸に灯っている。風巳は勇気を持って、揺ぎ無い自信を伝えてくれた。
朝子を思う気持ちを失わない。だから、他の誰よりも自分を待ち続けて欲しいと。
これから続く、長い不在の時間。風巳は朝子のことを束縛した。
待っていてほしい。その言葉には相手を縛る意味がある。全てをわかっていながら、風巳は朝子に伝えたのだ。
朝子はそれを受け入れた。待っていると覚悟を決めた。その約束は束縛ではなくて、二人にとっては絆になると思えたからだ。
おそるおそる差し出された、彼の手。自分に触れるとき、風巳の腕は微かに震えていた。
初めて感じた生身の体温。
想像以上に熱くて、切なくなるほど彼を愛しいと思った。胸いっぱいに何かが満たされて、約束を守るための力が蓄えられて行く。朝子には、そんなふうに思えた。
「まどかさんの言うとおりだった」
パイにナイフを入れて切り分けながら、まどかが上目遣いに朝子を見る。
「何の話?」
「寂しさ以上の絆になるって話」
照れて答える仕草を見て、まどかは微笑む。二人が深く触れあったことは、雰囲気から何となくわかっていた。身近な二人のことを見守っているまどかには、嬉しくもあり、どこかくすぐったいような気もする。
「あたし、ほんとにお赤飯でも炊いて盛大に祝いたかったのに。二人ともすごい剣幕で止めるから」
「だって、お兄ちゃんに何言われるか分からないもん。恥ずかしいよ」
朝子が沸かしたお湯をポットへ注いだ。
「絶対にね、わかってるくせに「何か祝い事があったのか」とか言って、からかうに決まってるもん」
「そうね。晶の性格なら間違いないわね」
二人でそんな分析をしていると、ふいにインターホンが鳴った。朝子が玄関を映し出すモニターを振り返る。鮮明な画像は、よく知っている人影を映している。
「斎藤さんだ」
まどかも振り返ってモニターを眺めた。
「どうしたのかしら。晶は不在なのに」
言いながら、まどかがパタパタとスリッパの音をさせてダイニンクからリビングを通り抜ける。
小走りに玄関へ向かった。
朝子が来客者のティーカップを一つ増やして、ポットの紅茶をいれる。すぐに、まどかと斎藤克行がリビングへ顔を出した。
「いらっしゃいませ、斎藤さん」
ダイニングの食卓から朝子が迎えると、彼は軽く会釈した。
いつもと変わらず、三つ揃いのスーツをきっちりと身に纏っている。穏やかに微笑んで、律儀に挨拶を返す。
「お久しぶりです、朝子さん」
まどかに促がされて、斎藤がリビングのソファに腰掛けた。朝子とまどかが、焼き立てのアップルパイと紅茶を運んでくる。
「これから二人でティータイムする所だったんです。斎藤さんも一緒にどうぞ」
「ありがとうございます。それでは遠慮なく頂きます」
三人がリビングのソファに掛けて、向かい合う形になった。
「斎藤さん。今日はどうしたんですか。お兄ちゃんはまた英国へ行ってるし。もしかして、知らなかったとか?」
ティーカップをソーサーへ戻し、斎藤は横に首を振った。
「いいえ。今回は晶様に用があったわけではありませんから」
「じゃあ、どうして」
朝子とまどかが不思議そうに顔を見合わせた。
斎藤が傍らに置いていた鞄から書類を取り出す。書類と言うよりは、何かのパンフレットのようにも見えた。
「婚約発表の日取りが決まりました。本日はそれをお知らせに伺ったのです」
「――婚約発表?斎藤さんの?」
成り行きがつかめず、まどかが問い返した。その質問に今度は斎藤の方が驚く番だ。
「まさか。私にはそんな相手はおりません。あなたと晶様の婚約ですよ」
「あ、あたしの?」
心底驚いて、まどかが唖然とする。彼女のリアクションに顔をほころばせて、斎藤がスケジュールの書き込まれた冊子を彼女に渡した。
朝子は無邪気に「まどかさん、おめでとう」と笑っている。
「ちょっと待ってください、斎藤さん。晶は知っているんですか」
「さぁ、どうでしょう。何しろかなり急なお話ですから。晶様はこのように事を大きくすることを望まない性分ですし。おそらく知らないでしょうね」
サラリと無責任な発言が返ってきた。一体、何が起こったのか。
まどかには訳がわからない。
「どうして急に、こんなことになったんですか」
投げられた問いに、斎藤は「おや?」という顔をする。
「私にも詳しいことはわかりかねます。ただ、発端は晶様にあるはずなんですが。あなたはご存知ありませんか?」
「晶に?」
「ええ。――婚約発表をきちんとした形で執り行うよう指示してきたのは、戴家の総帥です。たしかにお二人の婚約は、晶様が結城の名に戻った瞬間から約束されていたようなものですが。何か心当たりはありませんか」
まどかが返答につまる。ないことはない。
けれど、まさかそんなことが華僑財閥の総帥である大蓮の耳に入るだろうか。
「あれじゃない?まどかさん」
隣で聞いていた朝子が口を開く。
「お兄ちゃん、まどかさんの両親に挨拶に行ったから。そこから話が広がったんじゃないかな」
まどかも予感していたことを、朝子が話した。斎藤が「なるほど、そうだったのですか」と頷いている。
まどかの母親である洋子の出生は、戴家を支える曹家にある。様々な事情を経て、今は断絶され曹家の娘であった過去は抹消されている。
それでも、大蓮は懐の広い主君だ。麒麟祭の折、母の洋子を昔と変わらず白蘭と呼んで、親しげに語りかけていた。もし繋がりがあるならば、その線が色濃いだろう。
決まってしまったことは、仕方がない。晶が一体どのように思うのかは気がかりだが、周りが動き出してしまったなら、従うしかないだろう。
「結納みたいなものですか」
婚約発表と言われても、想像がつかない。まどかが手渡された冊子を開いた。組み込まれたスケジュールや会場の規模を見て、動作が止まる。まどかの様子を不思議に思って、朝子が隣から覗き込んだ。
「うわぁ。会場の収容人員が千人。こんなに誰を招待するんですか」
固まってしまったまどかに変わって朝子が聞く。斎藤が「それほど大袈裟なものではありません」と答えた。
「事情を知る内輪の発表にとどめていますので、参加人数は二、三百人程度でしょう」
まどかや朝子の感覚では、充分大袈裟な行事だと言える。さすが世界に名を馳せる富豪だけあって、モノサシの規模が違うらしい。
「あたし、ここで何をすればいいのかしら」
不安になって思わず呟くと、斎藤がにこやかに教えてくれた。
「何もなさらなくてよろしいですよ。ただ綺麗に着飾って、晶様の隣で微笑んでおられたら、それで充分です。周りは勝手に盛り上がっていますからね」
改めて、斎藤がまどかに向き直った。ゆっくりと彼が頭を下げる。
「遅くなりましたが、この度は御婚約おめでとうございます」
真面目に祝辞を受けて、まどかが戸惑う。
「あの、ありがとうございます。あたしの我儘で、斎藤さんには色々と迷惑をかけているのに」
「そんなことはありません」
穏やかに否定して、斎藤は一瞬だけ躊躇ってから続けた。
「正直にお話すると、あなたと晶様の関係を認められなかった時期もありました。振り返れば、大変な思い違いだったのですが。今は、あなたと晶様が出会えたことに感謝しています。あなたが諦めずに晶様を想ってくれたこと。彼にとっても、おそらくそれに勝る幸運はないはずです」
訥々と斎藤が語る。まどかに対して、彼が今までのことを打ち明けるのは初めてかもしれない。
斎藤は組織にあっても、誰にたいしても平等に穏やかで、立場や才能に奢ることはない。
決められたことを従順に遂行する。例え困難な条件でも、彼が手がければ嘘のように道が切り開かれて行く。
常に表舞台を好まず、影の立場を選ぶ。
決して、自らが称賛を浴びる位置には出てゆかない。
斎藤に導かれてここまで辿り着いた晶にも、その理由はわからない。
自己に下す評価が厳しすぎるのかもしれない。斎藤克行は自分の思いを、自身についての出来事を、ほとんど語ることはない。
晶ほど斎藤と時間を過ごしていないまどかにも、彼のそのような気質は窺い知ることができた。
穏やかな印象と優しげな物腰。けれど、彼の内面に触れるのは容易くないだろう。
彼に対して抱いていた印象が、まどかの中で少しだけ変化した。
「あなたが晶様の中に在った、凍りついた感情を溶かしてくれた。そうして出来上がった泉に、惜しむことなくあなたの想いを投げ入れた。そこから広がった波紋が、晶様に一体どれほどのことを教えたか。そうして彼がそれを糧に、どれほどのことを成しえたか。その全てを知れば、我儘だなんて口が裂けても言えなくなりますよ」
斎藤が、初めて今までの経緯をどう感じてきたのか、教えてくれる。彼は素直に、まどかのことを讃えてくれていたのだ。
真っ直ぐに向かってくる言葉を受けて、まどかは少しだけ自分を誇りに思えた。
晶を想い続け、そこから派生した出来事や事件の全てが、ただ責められるだけのものではなかったのだ。
「お二人の関係がやっと形を取り、私も嬉しく思っています。本当に良かった」
心からそう述べて、斎藤がもう一度「おめでとうございます」と頭を下げた。
穏やかで、どこか控えめな気性。たやすく思いの内まで辿り付かせない、絶対の護り。
それは斎藤の中にたしかにあるが、思い描いていたほど強い護りではないのかもしれない。
「ありがとうございます」
まどかも彼に会釈を返す。自分を讃えてくれたことを喜ばしく思う。
けれど。
それ以上に斎藤克行という人を少しだけ垣間見た気がして、まどかは嬉しかった。
3
薄靄のような霧に包まれていた街並みも、昼過ぎにはいつも通り晴れた。空も晴天で、くっきりとした青さの中を、一筋二筋の細い雲が流れている。
再び英国に滞在を始めた晶は、昨夜もフラットに戻ることができなかった。IMDI(国際医療開発機関)の研究室で仮眠を取り、一夜を過ごした。数日、そんな日々が続いている。ここでは宿泊のための施設も完備されているので問題はない。
それでもほとんど眠る時間を惜しむような形で作業が続いていた。
翌朝も早くから、同じように施設に泊り込んだアルバートやチームの面子と顔を突き合せている。
彼らが携わる一番大きなプロジェクトに、人工頭脳がある。様々な臨床結果をデータ化し、コンピューターの中に架空の頭脳を作り上げていく。
吹藤の曽祖父が亡き後、研究の体制も変化した。利潤の追求は今でも絶対条件だが、彼らにとっては遥かに動きやすくなった。
春からアルバートの立案で、今まで違う分野にいたメンバーを同じチームに迎えた。二人ともまだ十代と若いが、柔軟な発想と医療の域を超えはじめた分野には長けている。
普通の人間とは異なった晶という特別なサンプルは、未曾有の事象を引き起こす。他では得られないデータは、解き明かせない領域に有効に働いた。
ほとんど徹夜に近い状態で、チームは実験を繰り返していた。
晶が英国に滞在していられる時間は限られている。
そのために、どうしても滞在期間は多少無理な時間割になってしまうのだ。
「やはり無理ですよ、博士。きっと根本的に間違いがあるんだ」
春からチームの一員となった河原が口にした。机上でデータを見直していた晶も頷く。
「私もそう思います、アルバート博士。今はこれ以上繰り返しても同じでしょう」
「そうですね」
徹夜の成果も虚しく、実験は終了した。また一から再考しなければならない。
「メンバーには数日間無理をさせました。本日と明日はオフとします。ゆっくりと休んでください」
チームのトップを務めるアルバートの言葉で、一時解散となった。
チームの研究室を出ると、太陽が既に昼過ぎの高度にある。アルバートと晶が連れ立って、一階の休憩室へおもむいた。
休憩室は食堂と兼用で、それなりに広い。所々に観葉植物が配置され、リラックスさせる環境に出来上がっている。
ランチタイムには少し遅いのか、人影もまばらで閑散としていた。濃い目のコーヒーをオーダーして二人が席についた。晶は思わず溜息が出る。
「疲れましたか?」
涼しげな顔で問われて、晶は横に首を振った。徹夜の後でもアルバートの紳士的で優雅な仕草は変わらない。
「彼女の気配がないと辛いのではないですか」
「そんなにすぐに倒れたりはしませんよ、博士。今は疲れと言うよりは、研究が振り出しに戻ったのが悔しいですね」
同じように端整な動作を損なうことなく、晶がコーヒーを口にした。アルバートが「そうですね」と同意する。
否定しながらも疲労しているのか、二人は黙ってコーヒーを飲んだ。
アルバートが飲み干したカップを置いて、再び口を開く。
「実は晶に必要な彼女の血清ですが。そこから精製した新しい薬剤ができました」
「新しい薬?」
「ええ。今となっては、彼女自身が傍にいますが。何かあった時、一時的な効果では不安な面もあるかと」
彼の言おうとすることを察して、晶が続きを口に出した。
「それは、効果が長く継続するということですか」
「ええ。長くというよりは、一度打ち込めば半永久的に持続するでしょう。彼女の癒しをもってしても晶の脳波は戻りはしませんが。体力的な消耗は回避できます。試してみますか」
命を削るほどの体力の消耗。
制御のきかない夢の流入。
幼い頃は食い止める術を、どれほど欲したか判らない。まどかに出会って、手に入れた癒しの波動。一族の束縛もなく、今は彼女といられる時間は自在に作ることが出来る。
彼女がいてくれれば、昔ほど不調を治す術を求める必要もない。
癒しを必要としなくても、生きてゆける身体。
やはりそれは必要なのだろう。
まどかは自分の持つ癒しの血脈が、晶に対して束縛になっていないかと恐れている。
いつでも、彼女はそんな負い目を感じているのだ。
呪縛は解きたかった。アルバートは、その方法を提示してくれたのだ。
けれど、いざ手に入れられるとなると、なぜか素直に喜ぷことができない。
彼女の想いを縛り付けてもいたいのかもしれない。
常に傍にあるべき関係。失っては生きてゆけない身体。
彼女との束縛を断つことを、恐れてしまう。
矛盾した考えが重なり合い、行き過ぎ、答えにならない。
彼女を愛している。それは真実であり、何ものにも替え難い気持ちであるのに。
あるからこそ。
「どうしますか?晶」
アルバートの問いかけに、晶はすぐ返答できずにいた。
常に胸の底にあるのは、彼女に同じだけの覚悟があるのかということ。
自信がないのは彼女ではなく、本当は自分の方かもしれなかった。
想いを疑うわけではない。
それを形にした時の行動が問題なのだ。
他の全てを犠牲にしても、引き換えにしても、唯独りを選ぶ覚悟があるのかということ。
彼女は自分の想いだけを優先できるだろうか。周りとの関わりや、そこから派生する不運な結末よりも、晶を選べるのだろうか。
不安はそこから根をはっている
夢の深淵で示唆されている、何らかの出来事。
そんな選択を迫られる日が、もし遠くない未来にあるならば。
考えすぎなのかもしれない。
それでも、これほどに恐れてしまうならば。
「アルバート博士。今は、必要ありません」
「なぜです?」
意外な答えだったのか、権威ある博士は少し目を見開いた。
「私には、まだ彼女自身が必要です」
恐れが胸を占めて、晶には今の関係を断つことが出来なかった。
アルバートはしばらく晶の顔を眺めていたが、フッと吐息をついた。
彼なりに晶の胸の内をくみ取ったのだろう。
「失うことの出来ない関係ですか。一見、繋がれた鎖のようにも思えますが、ロマンティックでもありますね」
「博士」
「とりあえず、いつでも外すことのできる鎖です。必要になったら言って下さい」
責めることもなく、アルバートは晶の弱さを受けて入れてくれた。
「ありがとうございます、博士」
「どういたしまして」
深い詮索はせず、彼はいつでもそっと力を貸してくれる。晶がほっと気持ちを緩めた。アルバートが席を立ち、再びカウンターでコーヒーをオーダーする。
晶も眠気を覚まそうと、手元のカップに口をつけた。
二杯目のコーヒーを飲み干して、二人で研究の問題点をぼんやりと模索する。
コーヒーだけでは徹夜のけだるさは拭えないのか、語り合うほどの口数にならない。
気だるげな沈黙を繰り返していると。
背後でカツカツと小気味よいヒールの音が聞こえて来た。
声をかけられる前に、晶が振り向く。予想通りの人影があった。
「二人ともお疲れ気味ね。どうしたの?」
やって来たソフィア=サッフォークの口調は変わらず明るい。よく通って二人のけだるさを、わずかに拭った。
「医院の外来?」
彼女は時折、施設の担う医院で外来を担当することがある。首から聴診器がぶら下がっていた。
晶の問いにソフィアはうなずく。
「そうよ。今終わったところ」
彼女はカウンターへ向かい、同じようにコーヒーをオーダーして戻ってくる。
木製を模したトレイをテーブルへ置いて、アルバートの隣にかけた。
「もしかして、二人とも昨夜も泊り込んだの?」
「ええ。晶がこちらにいられる時間はまだ限られていますからね」
ソフィアが「そうね」と答えながら、向かい側の晶の顔を見た。少年の頃から見てきたが、美貌は損なわれることなく今に至る。
こんなふうに落ち着いて、研究者同士の会話ができるようになった。彼を取り巻きながら変わってきた体制のあり方を、こんな時に噛みしめてしまう。
経緯を振り返っては、ここまでたどり着いた関係に安堵する。
「そう言えばおめでとう。晶」
突然の祝辞に、晶が伏せていた眼差しをソフィアへ向けた。
「何が?」
「今朝、家に招待状が届いていたわ」
彼女の中では、それで充分意味が通じると思っているのだろう。晶は把握できず、もう一度「何の招待状?」と聞いた。
ソフィアが不思議そうに首をかしげる。
「当の本人がおかしな反応ね。婚約発表するのでしょう?」
晶には全く覚えのないことである。色々な状況が脳裏をよぎった。思い当たる原因は幾つかあるが、成り行きが早すぎる。
自分の知らない所で話が進んでいたのだろう。今後の展開が想像できて黙り込んでいると、アルバートが可笑しそうに笑った。
「その様子では晶は知らなかったのですね。私も初耳ですが。フィアンセはまどかでしょう。喜ばしいことです」
「アルバートも家へ帰れば、招待状が届いていると思うわよ」
「ええ。帰ってから拝見します」
和やかに祝ってくれる二人とは裏腹に、晶は吐息をついた。自分はともかくとして、まどかにとっては気を遣う儀式にほかならない。
「だけど、何の心当たりもなく婚約発表が決まったの?」
晶の不本意な表情をどう受け止めたのか、ソフィアが聞いた。
「心当たりというか、彼女に対しては形にしておく必要があると思っていたから。あちらの両親には、きちんと挨拶へ行ったよ」
「まどかの両親に?」
「そう。向こうも事情を知っているから、今更だったけど」
「へぇ」と相槌を打ちながら、ソフィアは嬉しげに微笑んでいる。数年前までは、決して叶わない夢だと思っていたのだ。
こんなふうに現実的に形になると、見守ってきた彼の幸せの在処を知ることが出来る。
「だけど、向こうの両親としては嬉しいでしょうね。早川も喜んでいたでしょう?」
「まぁ、それなりに」
早川家の両親とはこれまでにも面識があったが、それほど語り合うことはなかった。
早川の家に居場所を持たない娘。
まどかの立場が微妙であることは、出会ってからの彼女の経緯で知っていただけだ。
初めて正式に訪問すると、思い描いていた彼らの関係は覆された。
まどかは両親に対して自然に微笑んでいた。躊躇うこともなく自分の思いを話した。
両親は突き放すことなく娘を見守っている。彼女の話を聞いたうえで、自分達の意見も迷わず伝えた。
血縁的に親子になりえない父親とまどかの関係は、晶と朝子の関係に似ているかもしれない。父の娘に対する態度は、当たり前の照れ隠しとわずかな威厳に満ちていて、根底には愛情があった。晶にはよく判ってしまう。
今ならまどかにも伝わっているだろう。
両親は晶の存在について肯定的で、彼が現れてから娘の動向がどれほど変化したのかを教えてくれた。そんなことを知らされるのは初めてで、まどか本人も気づいていなかったに違いない。
両親の話を聞いていると、晶は出会った時に彼女が与えてくれた言葉を思い出した。
自身のよりどころ。
自分と出会って見つけたと彼女は打ち明けた。
複雑な経緯、多くの道筋を描きながら、本当はあの時から全てが示唆されていたのかもしれない。
失ってしまった、還るべき場所。
胸に描いた故郷。刻まれた至福。
二人ともそれが欲しくて、手に入れたくてたまらなかった。
ずっと、見つけることが出来なかった。
手の届かない理想郷のように思っていたのだ。
お互いが出会うまでは。
残酷なはじまりに過ぎなかった。出会いを後悔して、苦痛が胸を占めたけれど。
彷徨いながら、諦めず求め続けた。
両親を前に彼女を欲しいと告げることのできる立場。
早川の邸宅で姿勢正しく座しながら、晶はここまで辿り着いた幸運を噛みしめる。
殊にまどかの母親は、過去を遡れば戴家の総帥とも通じている。晶が覚悟を決めて挑んだ、その成り行きの全てを知っていたのだろう。
心から「ありがとう」と、涙を流した。まどかを取り巻く両親との絆は、失われていない。それを感じることが出来て、少しずつ優しい気持ちが込み上げてきた。
彼らと話せる機会を作って良かったと、素直に思えた。
場面を振り返っていた晶に、ソフィアが続ける。
「私も彼女に直接お祝いを言いたいわ。また、こっちに連れてきなさいよ」
「そうですね。機会があれば、ぜひ」
「とりあえず、婚約発表で会えるのが楽しみね」
ソフィアがあまりにも楽しそうに話すので、晶の顔にも笑みが浮かんだ。
事が大袈裟なるのは煩わしい。反面、そんなふうに祝ってもらえるのならば、悪くない気がした。
「婚約発表でこれなら、結婚なんて大変ね」
からかうようにソフィアが付け加える。
斜め向かいで笑うアルバートを見ながら、晶が苦笑した。
4
朱塗りの艶を帯びた柱が、回廊を囲むように並んでいた。古びても美しい外観の古城である。作られた年代を思えば奇跡的な保存状態と言ってもいい。戴家の発祥する長い歴史を物語っていた。
香港や上海といった大都市とは違い、その建造物は今では辺境とも言える地にある。
遠い過去には、ここで栄えた国や文明もあったに違いない。
遺跡として残るほとんどの建造物は、世界的な遺産となっていた。それでも戴家が決して何ものにも譲らず守り続ける城が存在した。
戴家の歴史を書き記した古書も、この城で発見された。
記された記録を解き明かすために、古書は持ち出されて既に跡形もない。管理のできる場所で保管されている。
古の城から持ち出されたのは、古書だけではない。記録と同じ、あるいはそれ以上の価値を持って保管されている宝珠があった。
華僑を制する戴家の若き総帥は、香港のビルディングでその品が手元へ届くのを待っていた。最上階に据えられた自身のプライベートルームで寛ぎながら、腕時計を見た。
大きく作られた窓から、澄明な硝子越しに賑やかで近代的な街並みが広がっている。
約束の時間に違わず、絶対の信頼を置く李杏沙が参上した。
手には大蓮が望んだ宝珠の包みを携えている。
布の包みを外すと、艶を陰らせた漆塗りの箱が現れる。かつての表面のしなやかさは失われているが、精巧に作られているのは瞭然だった。
カタリと厚く閉ざされた蓋を外す。
真鍮の中心に直径五センチにも満たない白珠が煌いている。真珠のような光沢を持ちながら、翡翠のように透けている。
世界に二つと存在しない。
戴家の古書が記す、はじまりの宝珠。
大蓮が手にとると、薄ぼんやりと燐光を放つ。戴家の血に反応するかのように、ぽうと灯るのだ。杏沙が手で触れても、そんなふうな変化は見られない。
戴家の古書に記されたはじまりの一説に、この宝珠は登場する。その記録が嘘か誠かは、今となってはわからない。冒頭部分は伝承であると考えるのが、現在の一般論だ。
神獣が宝珠を携えて現れ、はじまりを告げたとされている。
この珠を手にし、光を灯す者、禍をのむ者。
来たる時を待て。
絶えることのない陰陽の理
神獣が語ったとされる禍が、何を意味するのかわかっていない。捉え方は常に主君の勝手で、時代によっても異なる。昨今は歴史書として、差し障りのない冒頭部分の複製が訳されて出回っているが、禍の見解は多岐にわたる。
「大蓮様。この宝珠を持ち出し、いかがされるのですか」
問いながらも、杏沙は何となく推測していた。大蓮が宝珠を箱の中へ戻して、杏沙を見る。面白そうに微笑んだ。
「私はね、蓮花の婚約祝いにこれを贈りたい」
杏沙がやはりという顔をした。まどかを思う大蓮の気持ちはよくわかるが、とりあえず一族の一般論を語る。
「しかし、戴家の宝珠は門外不出の品。持ち出すことは禁じられております」
「口実はいかようにも作れよう。例えば、麒麟の舞姫にこれを託す。神獣に還すという意味をこめてみせる。どうだい?杏沙」
たやすく言ってのけて、大蓮は浅く笑った。
「古の教訓は大切なことだが。捕われているのも良くない。それにね、一族の結束が固い今の時代に、私はこのような権力の象徴は破棄したいのだ。古書にもこれを失ったからと言って、一族が滅びるとは書いていない。蓮花は一族の血に連なる者であるのだし」
あらゆる局面から大蓮は口実を作り上げている。確かに彼の言うことが間違っているとは言えない。
一族の総帥としての彼の立場は既に揺ぎ無い。権力の徴を好まない主君の在り方に、杏沙は大蓮らしさを見出した。
彼が一族に宝珠を必要としないなら、手放してしまえばいいだろう。
納得してみても、杏沙は思わず笑みがもれてしまう。
「何が可笑しい?杏沙」
「大蓮様。どうしても彼女に贈りたいのですね」
クスクスと笑うと、大蓮も同じように笑った。
「そなたには口実は必要なかったね、杏沙」
柔らかく言い置いて、大蓮が箱に蓋をした。
「杏沙。これを婚約発表に間に合うよう、細工させてほしい。身につけやすい装飾品となるように」
「わかりました」
素直に承諾して、杏沙が再び箱に布をかけた。




