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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第一話:夢に眠る
5/67

4:過去の傷跡

1

 コツコツと速足に廊下を歩く足音がする。部屋の前で止まると、穏やかに扉が叩かれた。吹藤和彦(フトウ カズヒコ)はソファに深く腰かけたまま、入室を許可する。

「失礼します」

 凛とした声が響き、部屋へ長身の人影が入ってくる。彼がそのまま一礼すると、眼鏡のレンズがわずかに光を反射した。

斎藤(サイトウ)か。とりあえずかけなさい」

 部屋の主の言葉に従うと、今度は斎藤が口を開く。

「お話は終わったんですか。総帥は何とおっしゃっておられましたか」

「結論から先に話すと、このままでは駄目だと言うことだ」

 重い口調で、和彦はそれだけ告げると、しばらく黙っていた。

 日本の財界を背負って立つ、巨大組織。名を吹藤という。国内の企業、海外の財団が常に動向を探り、あらゆる市場において、国際的に立場を確立していた。

 風巳の父である吹藤和彦は、その巨大企業の内で社長の地位に就いている。

 いっぽう第三秘書にあり、後継者である風巳の世話を一手に担った斎藤が沈黙を破る。

「それは、風巳様を連れ戻すということですか」

「そうは言っていない」

 和彦の否定に、斎藤は吐息をついた。

「もう、そんな範囲の話ですむことではないんだよ、斎藤」

「社長?」

「このままでは、吹藤の企業としての組織体系も危ない。現在は祖父、父、私がそれぞれ違う分野で上から企業としての吹藤を見ている。風巳は言わば、いずれ祖父の後継者候補となる筈だった」

「知っています。総帥のご老体では、吹藤を指揮することは辛い筈ですから」

 また、しばらく沈黙があった。重苦しい空気を破って和彦が言った。

「私はね、祖父の持つ部門を変えなければならないと思っている。斎藤も知っているように、総帥は開発に吹藤の血統を重んじる傾向がある。正気の沙汰ではない」

「本家の血筋ですか。常識を逸脱した力の源を持つ」

「風巳を見ていて分かるように、そんな力はもうなきに等しい。研究を進めて見たところで、何の利益も産まれない。けれど、祖父を初めとして本家の者はほとんどそれを理解しない」

 和彦はソファから立ち上がり、デスクの上の封書を手にとる。艶やかなマホガニー調の木目に影が落ちた。

「斎藤。私はこれを受け取るわけにはいかない」

 辞表としたためられた、白い封書を前に斎藤が目をみはる。

「しかし、社長。風巳様が去られて、私の役割は終わったはずです。風巳様はもう本家から解放されたも同然」

「甘いな、おまえは」

 苦い笑い方をして、和彦が首を振った。

「風巳が血を引く限り、本家は諦めない。風巳が解放される手段は一つ。一族の古い慣習を打ち破るしかない。風巳がここを飛び出しのは、ただの始まりに過ぎないんだ。分かるか、斎藤。私は又、賭けを始めたんだ。風巳がこれから戦力になるかどうかは分からない。私には味方が少ない。そこでおまえにまで去られては、結果は見えている」

「風巳様も駒にすぎないわけですか。彼の時と同じように。それで、また失敗に終わればどうなさるつもりですか」

 斎藤の言葉を正面から受けて、和彦が答える。

「それでも、何もしないよりはいい。このまま放っておけば一族には破局しかない。――それに、私は償いたい」

 最後の言葉の意味を理解して、斎藤が思わず吐き捨てた。

「償う?一体誰にですか。彼に?それとも彼女に?」

「斎藤」

 和彦の呼びかけで我に返り、彼が口を押さえ頭を下げた。

「すいません、失言でした。あれは、和彦社長のせいではなかったのに」

「いい。でも、このままでは私にも彼にも大きな傷が残ったままだ。一生報われない。何とかしたいんだよ」

「ですが、私は彼を許すことはできません。逃げたんです、あの方は。彼がもっと強ければ、逃げなければ、幸せになれた人もいたんです」

「それは彼にも痛いほど分かっていただろう。何の解決にもならないことは。でも、望んでいたわけではない。本家の犠牲になっただけだ」

「……分かっています」

 あまりにも、卑劣に。あまりにも、実験的に。

 ただ、血に受け継がれる力を絶やさないために。

 一族には人の命も、思いも、心も、何もかも道具に過ぎなかった。

 彼も犠牲であったことは知っている。

 一つの事故があった。どこまでも仕組まれた罠のような。

 彼は事故ではないと言うだろう。本家が仕向けたのだと。

 斎藤は今でも鮮明に覚えている。

『父と母を犠牲にしたのは、一体誰だ。――それを許せと?』

 あの時、美しすぎる冷笑の上を、涙が伝い落ちた。

 漆黒の髪、闇色の瞳。魔を呼び込みそうな美貌をもって、凛と真実を見据えて。

『――それでも、斎藤。俺は活きたかったし、休みたかった』

 自分だけの幸福は罪。痛いほど分かっていながら、彼は選んでしまった。

『あなただけが幸せになることはできない。それは罪です』

 鋭く責めてみても、返ってきたのは弱い笑みだけで。

『……分かってる』

 哀しい笑い方で。幾筋も涙の線を描いて。

 彼は宿り木をみつけたと言った。宿り木。

 一生をそこで過ごすことはできない、少し休むための場所を。

 疲れ切った心と体のために。

『それでも、ここであの(ひと)を選ぶなら、私はあなたを一生許せません』

 一瞬の安らぎを求めた彼を責め立てた自分。理解できても、許せはしない。

「斎藤」

 考えに沈む彼を、和彦の声が呼び戻した。弾かれたように顔を上げて、斎藤がうなずく。

「確かに社長のおっしゃるとおり、今のままでは誰も幸せにはなれません」

「だから、これからも私に協力してくれないか」

「……できません」

「なぜ」

「私には成すべきことがあります。風巳様がいらっしゃったから、先送りにしていただけで。ずっと思い続けていたことがあります。それを遂行するためには、自分の時間が必要です。察してください」

 不幸なのは、風巳や彼や吹藤だけではない。

 偏った価値観しか持たない彼女が、一番不幸なのだ。

 聡明で怜利で、脆すぎる女性。

『あの人を愛しているの』

 本当の恋愛を知らない。学習によって作り上げられた恋心を語る。

 彼が自分を愛さなければ、死んだ方がマシだと。

 斎藤も彼も分かっていたのだ。あの時、彼女に告げてはならない言葉があったことを。

 なのに、彼はそれを口にした。『愛していない』と。

 その先がどうなるか、分かっていたのに。

 彼女の価値観は、裏切られてはならない絶対的な条件。

 それを裏切り、自分の安らぎのために、全てを置き去りにした彼を許すことはできない。

「彼を憎むのは間違っているんだ。それに斎藤。本当はおまえも憎みきれずに、悔いている」

 苦い表情で和彦が言うと、斎藤はうなずく。

「はい。けれど――」

「では、おまえは何を一番に望むんだ?」

 斎藤が顔を上げた。望むことは。

「もう誰も、犠牲にならないことです」

 和彦の表情が緩んだ。

「ならば、最終的におまえと私が望んでいることは同じだ」

「……はい」



 吹藤の一族を統括する老人が、無表情に机の上の灰皿を眺めている。顔に刻まれたシワの数と、真っ白に染まった髪が生きた年月を物語っていた。誰からも総帥と呼ばれ、今では名を知っているものの方が少ない。

「あれで、よろしいのか」

 都心の敷地を広く使った高層建築の一室で、二人の老人が向かい合っている。たったいま、吹藤和彦が部屋を出て行ったばかりだ。

 会長の座にいる、もう一人の老人が問うと、彼はふっと灰皿から視線を外し、うなずく。

「あれでよい」

 しわがれることのない凛と重い声が返ってきた。着物の袖から細い腕がのぞいている。ゆっくりと手を組み替え、彼が続けた。

「アレには、まだ人生を決めることは無理だ。若いのだから、当然のこと」

「しかし、もう十六ですぞ。縁談を嫌って家を飛び出すなど、分別がなさすぎる。和彦も監督が甘い。風巳の教育を間違えたのか」

「久方との縁談は、私も考え直していたところだ。かまわん」

「本当に放っておかれるのか。仮にもいずれ後継者と決めた者を。あのような単独行動を、他の者が黙っていまい」

「単独行動ではない。私が認めている」

 くっくっと喉の奥で笑い、総帥と呼ばれる老人が言い切った。この場において、本家において、彼の意見は絶対である。

 シワに埋もれた細い瞳は、高齢を思わせぬほど、はっきりと像をとらえていた。

「アレが何をしでかしてくれるか、楽しみだぞ」

「そんな戯れを」

「ちゃんと考えがあってのことだ。案ずるな。……仮に失っても、私には、私の意志をつぐ者達がたくさんある。アレが今どこにいるか、知っているか」

 笑みを湛えた瞳には、鋭さが含まれていた。何の余興もなく、我がままを野放しにはしないと。

 吹藤が企業としてこの先も躍進を遂げるために、この血脈が存在する。彼はそう信じて疑わない。

 不可思議な力を身に秘めた者が集う。

 その力を技術として開発し応用できたなら、吹藤の飛躍は誰にも、いかなる企業にも止められはしない。二度と、誰にも、この不可思議な力を秘めた血統を、忌わしいなどとは言わせない。

 寿命が尽きるまでには、まだ大きな仕事がある。継ぐ者を育てること。足場を設けることだ。

「本当に、よい一興になる。やはり、血は引かれあうものであるかもしれんな」

 くっくっと喉が動く。会長の座にある老人は、ただ訝しげに彼の様子を眺めていた。


2


 仲谷沙輝と別れて、風巳(カザミ)がマンションへ帰って来ると、一階のホールですぐに飛び込んできた人影があった。

 灰色が基調のセーラー服は、貴子葉学園の制服だ。

 相手も風巳の存在に気付くと、壁に寄せていた身を起こした。

結城(ユウキ)さん。どうしたの?」

 慌てて側に駆け寄ると、朝子が軽く風巳を睨む。

「学校休んでどこ行ってたの?ズル休みなんて最低」

「え?それは、ちょっと用事があって。……で、どうしたの?」

「どうしたのって言われると困るけど。とりあえず、今日のノートとプリント類を渡しておくね。はい」

「こんなの明日でいいのに。わざわざありがとう」

 素直に感動すると、朝子がちょっと困った顔をして見せた。

「そんなに感謝されると気がとがめちゃうな。風巳がどんなところに住んでるのかなって好奇心で来ただけだから。ごめんね」

「別に謝らなくても」

 広いホールで二人が立ち尽くす。お互いに何か言いたいのに、適当な言葉が見つからない。隅に飾られた観葉植物の大きな葉が、自動ドアが開く度に揺れた。

「結城さん。体調の方は大丈夫?」

「あ、あれはたいしたことないの。本当にごめんね、あの時は心配かけて」

「それなら、いいけど」

 言いながら、風巳はまた、晶の言葉が蘇って来た。彼に言われなくても、自分は他人に深入りはできない。

 自身に付き纏う吹藤という一族が、大きな枷になってしまう。

「今日ね、席替えしたの。風巳の席は私の前になったよ。窓際の後ろ」

「そうなんだ」

「うん。みんな寂しがってた。病気じゃなくて良かったけど。じゃあ、私これで」

 彼女の背中を見た時、突き抜けたものがあった。胸をつくゆるい痛みの原因が、分からない。

「待って」

 身をひるがえした朝子を咄嗟に呼び止める。深入りしてはいけないと分かっていても、どうにもできなかった。

 彼女が振り返って、不思議そうにこちらを見ている。

「……名前」

「え?」

「あの……、俺も、朝子って呼んでいいかな」

 感情を何とかせき止めて、風巳はそれだけを口にした。いくら偽ってみても、装ってみても、気持ちは正直だ。

 それでも、これ以上口にすることだけはできない。名を呼ぶことが最大限の譲歩。

 朝子の頬が、赤くなった。それを隠すように俯いて、微かに頷いた。

「……そうだよね。私、風巳のこと名前で呼んでるし。ごめんね、気付かなくて」

「そういう意味じゃないけど。――朝子の兄さん、俺のこと何か言ってなかった?」

「お兄ちゃん?別に何も」

「そっか。今日はありがとう」

「うん、また明日学校でね」

 朝子の姿がマンションのロビーから消えた。風巳の拳に握った手に力がこもる。

 恋心も許されない。

 いつまで、こんなふうに我慢しなければならないのだろう。


3


 父と母を責めてみても、何の解決にもならない。誰を責めても、彼女が戻って来るわけではない。けれど、この行き場のない思いは、どうすればいい。

 翠から届いた、最後の手紙。

 上着のポケットの中で強く握り締めて、沙輝が帰路へついた。

 転入生と称する吹藤風巳と別れてから、今日も原田翠の父が勤務するビルへ足を向けた。一度でいいから、会って話を聞いてほしいのだ。一言でいいから、謝罪してもらいたい。

 それで解決するわけではなかったけれど、翠の思いが少しでも報われるなら。

 けれど、翠の父は姿を見せはしなかった。いつでもロビーの受付で断られてしまう。自宅を訪れても、誰も出て来ない。留守なのかどうかも分からなかった。もう何日もそんなことばかり続けている。

 都心の大通りから、地下へ入って電車に乗る。家に帰っても、どうせ父と母は自分に何も言えない。

 おかしいと思っていた。理由もなく翠との交際を反対し続ける彼らを。

 彼女に会いたいと思う。自分一人では、あまりにも問題が重すぎて。どうにもならないことも分かっていて。

「――翠」

 呟いた声は、地下鉄の騒音にかき消される。目的地へ着くと電車を降り、再び地上に出た。既に陽は落ちて、見慣れた町並みは夕闇に沈んでいる。

 萎えた気力でノロノロと自宅への道を歩き出す。

 ただひたすら、疲れていた。気分転換のために学校へ行くのもいいかもしれない。けれど、そこで翠の不在を確かめるのは怖かった。

 しばらく歩いてから、沙輝は気配を感じて振り返る。

 暗がりには誰もいない。

「気のせいか」

 ガツガツと手首で頭を小突いて、再び歩き出す。背後で重なる足音があった。誰かがつけている。

 沙輝が走り出すと、その足音は追って来た。

「君、待ちなさい。仲谷君だろう」

 野太い声に呼ばれて、沙輝が足を止めて振り返る。背広を着た小太りな男が、息を乱して駆け寄ってきた。

「原田常務から、これを」

 脂ぎった顔をハンカチで拭いながら、彼は封筒を差し出した。無理矢理沙輝の手に握らせると、一礼して行ってしまう。

「ちょっと待ってください」

 我に返って呼びかけた時には、男の姿は闇に呑まれて見えなくなっていた。わけが分からず、水銀灯の明かりが届く所まで行って封を切る。

 原田からだと、男は言った。翠の父親からだと。

 中には一枚の手紙と小切手が入っていた。手紙は急いで書かれたものらしく、文字が続いて流れている。

 目を通して、沙輝は愕然とした。カッと血が逆流する。

 ガッと近くのコンクリート塀を殴っていた。

 何度も何度も、素手で。血が流れ出すのも構わずに。

「ちきしょ……」

 熱いものが頬を滑って地面へ落ちる。今までせき止めていたものが一気に溢れ出した。そのまま力が抜けたように、その場に膝をつく。

 コンクリートの赤黒い染みが、夕闇の中でひときわ黒く見えた。


4


 午後の講義を放りだしてから、結局夕刻になるまで晶はまどかと時間を過ごしていた。

 昼を済ませてから洋画に一本つきあうと、それで一日は暮れる。映画館から出ると、ビルの谷間に覗く空の色が茜に染まっていた。

「どうせなら、夜も食べて行こうか」

「駄目。この時間なら、朝子ちゃんはもう用意を始めてると思うの」

「よくご存じで」

「だから早く帰ってあげないと。今日はありがとう、晶」

 変わらないなと思う。付き合って一年も経てば、女は素直でいられなくなると思っていた。

 いつか嫌な部分だけが見えてきて、自然に疎ましくなるのだと。そんな気持ちの変化を期待していたのに。

 まどかは違う。それは彼にとって大きな誤算だった。

「じゃあ高速とばして帰ろうか。妹のために」

「そうよ。いいお兄ちゃんでいてあげないと。一人の食卓って寂しいから」

 賑やかな筋を抜けて、駐車場へ向かう。車に乗り込むと大通りへ出て、高速へ入った。半時間も上を走れば、目的地に道路がおりる。

 茜の空は、いつのまにか紫の闇に変わっていた。遠くの山並みの向こう側が、わずかに朱をとどめている。

 黒い車体はまどかを助手席に乗せたまま、迷わず晶の自宅へと走っていた。見慣れた街路樹が行き過ぎる。

「ねぇ、一つ聞いてもいい?」

 信号にかかったところで、まどかか声をかけた。赤い信号を見据えたまま、晶が

「何を?」と答える。街灯の光を浴びた彼の横顔には、表情がなかった。何か別のことを考えているように。

「晶はどうして、髪を伸ばしてるの?」

 ゆっくりと彼が振り向いた。底まで透ける、不思議な黒を宿した瞳がまっすぐ彼女をとらえる。

「見ていて、うっとおしい?切ろうか?」

「そういう意味じゃなくて。些細な疑問よ」

「――願かけ、とでも言っておこうかな」

「何をかけてるの?」

「さぁ」

 不敵に笑って、彼がハンドルを握り直す。車は青に変わった信号の交差点を左折した。



 住宅街へ続く道をしばらく走ると、まどかが声を上げた。

「晶、あそこ見て。街灯の近く」

 車のヘッドライトが人影を照らし出す。側まで寄せてから車を止めると、まどかがすぐに外へ飛び出した。晶も続いて、車を降りる。

「大丈夫?どうしたの?」

 コンクリート塀を背にして座り込んでいた青年が、まどかの声で顔を上げた。両手が共に赤く染まり、固まった血が赤黒くこびりついている。

 晶が塀を見ると、黒い染みが視界に入って来た。素手で殴った跡であることはすぐに理解できた。

「ひどい怪我だな」

 近づいて声をかけても、彼は何も言わず顔を伏せてしまう。涙の跡を見つけて、まどかが困ったように晶を見た。足元に落ちていた封書を手にすると、青年がすごい勢いでそれを奪う。

「あ、ごめんなさい」

「すいませんけど、放っておいて下さい」

「でも、怪我をしてるし」

 まどかを制して、晶が彼の前に膝をついた。

「おまえ、名前は?」

 返事はない。両手の怪我の具合に視線を走らせてから、彼が再び問いかける。

「家はこの近くか?良かったら送ってやる。……右手の骨が砕けてるんだ、放っておいたら大変なことになる」

「……家には、帰りたくないんです。いいから、放っておいて下さい」

 震えた声が返って来た。晶が吐息をついて、強引に彼の手を取る。青年が痛みに顔をしかめても無視して、ハンカチで縛り上げた。

「ほら、立て。悪いけど俺は人の気持ちを思いやるほど人間ができていないんでね。一人にしてくれと言われても出来ないんだよ」

 力に任せて彼の腕を取り、有無を言わせず車へほうり込んだ。

 そんな気はなくても、ほとんど誘拐である。まどかが後部座席で呆然としている青年に苦笑を向けた。

「大丈夫よ、悪いようにはしないから。とにかくその怪我の手当が先よ」

 車は帰路から外れ、病院を目指して走り出した。



「落ち着いた?」

 ソファに座っていると、自分を拾った美人がお茶を出してくれた。

「あの、本当にすいませんでした」

 すっかり理性を取り戻し、仲谷沙輝は深く頭を下げる。右手の包帯の白さが恥ずかしさを助長した。

 あれから、診療時間の終わるギリギリで病院へ滑り込んで、沙輝は無理やり診察を受けさせられたのだ。何が何だかわからないうちに治療が済むと、再び車へほうり込まれ、ここへ連れて来られた。

 住宅街の一角に、かなりの敷地を使った一軒の邸宅。入る時に表札を確かめると結城とあった。

「ごめんなさいね、おせっかいで」

 美人と一緒にいた男は、ここに着いてからまだ顔を見せない。夜目にも端正な顔立ちをしていたことは覚えている。後はえらく強引に事を進めたことが印象的だった。

 ふいに、部屋の扉が勢いよく開いた。

「まどかさん。お客様がいるって本当?」

 片手にフライ返しを持って、見たことのある顔が覗いた。沙輝が絶句する。入って来た朝子も唖然として動きが止まってしまった。

「仲谷君!」

「結城?」

 二人で同時に声を上げた。まどかが

「知り合い?」と呟いて様子を見守っている。

「どうして仲谷君がここにいるの。学校にも来てない人が。みんな心配してるのに。A組なんてどうやったら連絡とれるかってすごいことになってるよ」

「まぁ、いろいろ事情があって。そんなに心配することないって、みんなに言っといてよ」

「なんか釈然としないけど。……とにかくご飯にしよう。仲谷君も食べて行くよね。話はそれからそれから」

「え、でも」

 沙輝の返事も聞かず、朝子は颯爽とキッチンへ戻ろうとする。

「朝子ちゃん、晶は?」

「え?自分の部屋じゃないかな。とにかくご飯できたからダイニングに来てね」

「―――……」

 こんな偶然ってあるのか。

 ソファに深くもたれて、沙輝が溜め息をついた。


5


 突手に長い指がかかる。軽い音がして書斎の扉が開いた。

「入って」

 艶のあるアルトが耳に届いた。暗闇に沈む室内が蛍光灯に照らされる。沙輝が部屋に入ると、彼が後へ続く。他人の書斎に戸惑う沙輝をソファに促しておいて、晶は後ろ手に扉を閉めた。

 壁を背にして並んだ本棚が、広い部屋を取り囲んでいる。木目の美しいデスクの上は整頓されていた。

 西洋的な風格を持つ内装に圧倒されて、沙輝は思わず息をついた。

「食べ過ぎて苦しいのか」

 彼の吐息に気付いて、晶が茶化す。沙輝は言葉を返さずただ首を振った。その様子に、今度は晶が息をつく。

「あのな、面接試験じゃないんだから。もっとくつろいでくれない?」

「え?あ、はい。……あの、今日は本当にいろいろ迷惑かけてすいませんでした。病院で医師に言われたんです。処置が早くて良かったって」

「言ったとおり、かなりひどく骨が砕けただろ?」

「はい。どうして分かったんですか。複雑骨折だって」

「まぁ、ちょっといらない知識を持ってただけのことだな。壁の血の跡もすごかったし」

 そこで言葉を切って、晶は苦笑を向ける。決して、なぜそんな怪我を負うほどの行為に走ったかは問おうとしない。

「ほんとに、迷惑かけました。おまけに夕食までごちそうになって」

 言いながら、沙輝は頬に熱がたまるのを感じていた。俯いて右手の包帯を見ると、余計に顔が紅潮する。

「朝子と同級生なんだろ?」

 話題を変えると、沙輝が即座に頷いた。

「はい。でも、彼女って料理うまいんですね。ちょっとびっくりした」

「ああ、師匠がいいから」

「それって、ひょっとして……まどかさんですか」

 晶が笑みを含んだ顔でうなずく。沙輝を交えての食卓はやけに賑やかだった。朝子とまどかが、辟易するほどの質問攻めで沙輝を歓迎したからだ。

「ところで、あの、話って……」

 彼の言葉に、晶がすっと笑みを潜める。どこか憂いを含んだ眼差しが、静かに沙輝を見た。

 夕食後の雑談もそこそこに、話があると書斎へ連れて来られたのだ。

「あの――?」

 まるで言葉を選んでいるかのような沈黙が訪れる。晶がわずかに視線を伏せた。軽い吐息が漏れるのが、沙輝には分かった。

 張り詰めた空気の中で彼の一挙一動に目を凝らすと、沙輝はなぜか完成された絵画を連想する。端正な顔に似合った動きや仕草のためだ。

 まるで誰かに調教されたように、彼の動きは洗練されている。

「さっき、おまえの自宅へ電話をいれておいた」

「!」

 一瞬、鋭い視線が晶に向けられた。けれどすぐに我に返って、沙輝はどこか自嘲的に笑う。

「何か言ってましたか。迎えに来るとでも?」

 声が厳しくなっているのが自分でも分かった。晶は穏やかに視線を注いでくる。冷ややかな雰囲気の容貌とは裏腹に、眼差しは穏やかで深い。

「逆だな。両親はこう言ってた。おまえの気がすむまで預かってくれないかと」

「え?」

 虚をつかれて、沙輝はふぬけな声を漏らしてしまう。

「で、俺はこう答えたわけだ。分かりました、とね。責任を持って預かりますと言っておいた」

「そんな。結城さんに迷惑ですよ、そんな勝手な」

「でも、おまえは家に帰りたくないって言ってただろ。うちは部屋が余ってるし、構わない。ただ、一つ条件がある。ちゃんと学校へ行くことが交換条件だ。朝子から聞いたぞ、この不良」

「でも、結城が、……妹さんが嫌がるんじゃないんですか」

「朝子はそんなに心の狭い奴じゃないから」

 ぴしゃりと晶が言い切る。沙輝は二の句がつげなくなった。

「それに俺はね、なぜおまえが家に帰りたくないか、学校へ行きたくないか、その理由を少し知ってる」

「両親がしゃべったんですか?」

 言ったあとで声の大きさに驚いて、口をつぐむ。晶は軽く首を横に振った。言えるわけがなかったと、沙輝が思い直す。両親が他人に理由など言えるわけがない。言ってはならないことだ。

「『翠』が原因だろう?」

 いきなり核心をつかれて声も出なかった。ただ目を見開くだけだ。

「やっぱり、あの『沙輝』はおまえなんだな」

「え?」

「いや。……翠とはちょっとした知人でね。沙輝に伝言を頼まれた」

「彼女に会ったんですか。どこで?結城さん、教えてください。あいつ、生きてるんですか」

「――さぁ」

「結城さん!」

「彼女から手紙が届いただろう?」

「手紙?」

 今も上着のポケットに持っている、最後の手紙。

「翠は生きてるんですか」

「知らない。俺が知ってるのはこれだけだ。彼女は手紙を出したことを後悔していた。なぜなら、おまえが幸せになることを一番望んだからだ。それだけが、望みだと言っていた」

 自分が幸せになることだけが、望み。翠らしい言葉だ。否定しても否定しても沸き上がってくる哀しみは、呑みこみようがない。

「教えてください、本当に。あいつ、生きてるんですか」

 声が震えて、はっきり通らない。こんなところで彼女の言葉を聞こうとは思いもしなかった。姿を消してから、どの位経っただろう。

 どこでの別れが最後だったか思い出せない。

 手紙が届いてはじめて、翠が別れを望んだことに気付いた。

「彼女が生きてるのかどうか、それはおまえが一番よく知ってるはずだ」

「俺が……」

 静かな言葉を受けて、堪えていた涙が一気に溢れ出した。組んだ手にポタポタと滴が落ちる。

 知ってはいても、認めたくないことがあって。自分の知らないところで去られても、追いかけてしまう。それが永い別れであっても、探し続けてしまう。

「結城、さん」

 絞り出した声は、晶に呼びかけただけで途切れた。タイミング良く、ハンカチを差し出される。

「晶でいい。……しばらく一緒にいるしな」

「はい。……あいつ、俺のために、ここからいなくなるって」

「ここから?」

「それが、罪を犯した者への罰になるから。……でも、晶さん。一番罰を受けたのは俺なんだ。あいつがいなくなって、一番痛いのは、俺だよ」

 震えた声が、嗚咽に変わった。

 残された者の哀しみを、『翠』は知らない。あるいは、知っていてもどうにもならなかったのかもしれない。彼女はこれが最良の策だと思ったのだ。

 声を殺して泣く沙輝の姿が、晶の記憶を呼び覚ます。

『死んだ方が、マシね』

 高く澄んだ、早口の英語。

『どこにも行かないで。――ここにいて』

 彼女は、どんな思いをしただろう。けれど、あの時はたしかに去る以外、術がなかった。

 愛していない、愛せない女。

『知らなかったんですか』

 知っていたなら、あんな間違いを犯しはしなかったのに。思い返すだけで、気分が悪くなる。

 その罪の深淵から連れ出してくれたのは、華奢な体と細い腕。慈しむ眼差しが全てを癒す。

『それは、あなたのせいじゃない』

 悪いのは、あなたではないと。

 深い闇に光が差したような気がした。許されなかった自分を、癒した者がいる。

『ここであの女を選ぶなら、私はあなたを一生許せません』

 どんな責めを受けても、あの時は彼女の手を取るしかなかった。その安らぎが永遠のものでないことは、知っている。

 宿り木だから。彼女は、宿り木であるから。

 どれほど焦がれても、愛しても、一生そこにとどまることは許されない。

 それでも――、まだ、ここにいる自分。

『それは、弱さか』

 夢の中で、翠は問いに答えはしなかった。

 まどかと共にいることの裏には、他の女の不幸が潜んでいる。幸せになれるわけがない。そんな罪の上で、平穏な恋愛は許されない。

 自分もまた、翠と同じ選択を続けなければならないだろう。

「沙輝」

 そっと晶が呼びかけた。彼が濡れた瞳を上げる。

「一つだけ、教えてやれることがある。明日から登校すると約束できるなら、言ってもいい」

「何ですか?翠のことで?」

 肯定が返って来た。沙輝が身を乗り出す。

「教えてください。学校にはちゃんと行きます」

「関西の病院を、白みつぶしに当たってみればいいかもしれない」

「どうして病院を。まさか」

「そう。翠に会えるかもしれない。ただ、かなりの覚悟を必要とする再会になるとは言っておく」

「……生きてるんですか」

「さぁ」

「晶さん?」

 それ以上、彼は何も語らなかった。

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