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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第五話:罪を贖う者

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ACT5

 ACT5


   1


 久しぶりに訪れたマンションの部屋は、予想通り閑散としたものだ。必要最低限の家具や電化製品。荷物の整理のために訪れたが、持ちだす物はほとんどない。この部屋の主だった吹藤風巳が、ベッドに座って高校時代の教科書に目を通していた。

 必要はないのだが、何となく思い出があって、数冊とっておいたのだ。

「もう、いらないかな」

 呟いて教科書を閉じたとき、インターホンが鳴った。マンション一階の入り口モニターに人影はない。風巳は腕の時計を見た。三時前だった。

 朝子との約束を思いながら、玄関へ走っていく。扉を開けると、朝子が立っていた。

「もう教授との質問会は終わったの?」

 約束より一時間早く、彼女が訪れた。朝子が「うん」と頷く。

「差し入れ、買ってきたの。飲み物とケーキ。部屋の片付けは?はかどってる?」

「ていうか、ほとんど片付いてるからね」

 二人が部屋のリビングへ入った。朝子が買って来た缶ジュースをテーブルに並べる。

「コップとか、食器使ってもいい?」

「いいよ。この部屋は斎藤や榊の簡易宿泊施設になる予定だから」

「そうなんだ」

「そうそう。結城邸にも近いし。色々と便利なんだって」

 風巳は斎藤の話を思い出して可笑しくなった。父親である和彦は、理由をつけては、榊や斎藤をこちらへ寄越すのだ。仕事の要素も含まれているが、父親の子供を見守ろうとする思いが強く働いているらしい。

 棚から出してきた皿にケーキを出しながら、朝子が大学で榊深之と会ったことを話した。

「それって」

「そう。お兄ちゃん、羽柴先生の所を訪れたみたい」

 急展開だと目を丸くする風巳に、朝子がその場の様子を話した。険悪な雰囲気もなく、取り越し苦労たったと伝える。風巳も安堵して「良かったじゃん」と笑った。

「うん。ほっとした。――まどかさんは知ってるのかな」

「どうだろうね」

「だけど、つくづくお兄ちゃんの相手は大変だと思うな。叩けば、幾らでも埃が出そうだもん。その度に心配するなんて耐えられない」

 朝子がケーキを乗せた皿を風巳に差し出した。

「だけど、朝子も心配してたじゃん。晶の妹でいるのも大変って?」

 皿を受け取りながら、風巳が冗談を言う。ケーキを一口頬張って、「美味しい」と笑った。

 朝子が自分のケーキを突き崩しながら、「私はお兄ちゃんが一番じゃないから、全然余裕な所にいるんだよ」と言った。

「余裕な所?」

「うん。だから、その」

 少し言葉を躊躇う。妙な沈黙のあとで、朝子が顔を赤くして宣言した。

「一番は風巳って、前にも言ったけど。気にするのは風巳のことだと思うもん。お兄ちゃんのことは、まどかさんに任せていて安心って感じ。だから、昔みたいにお兄ちゃんだけに依存してないの」

 恥ずかしいのか、朝子が心持ち早口になっていた。風巳が嬉しそうに、彼女の言葉を聞いている。

「その点、まどかさんはお兄ちゃんが一番だから。何かある度に、直接胸が痛むと思う。 考えただけで、苦しそう。まどかさんって、やっぱりすごい」

 結論は、まどかの素晴らしさに行き着いた。本当に彼女のことを慕っているんだなと、風巳も微笑ましい気持ちになった。

「朝子だって、すごいよ」

 ふいに褒められて、朝子が「何が?」という視線を向ける。彼の優しい微笑みに出会って、再び頬が火照った。少し伸びすぎた前髪のせいだけでなく、風巳は出会った頃より、はるかに大人びて見えた。兄弟でありながら、彼は晶と容姿が類似するところはない。

 無邪気な笑顔はそのままのはずなのに。最近は、穏やかな微笑みを浮かべるようになった。端整な仕草の一つ一つが、時折、晶に似ている。

 吹藤という一族で強いられた作法の成果なのかは、わからない。

「俺のこと、認めてくれるもん。……俺を取り巻く環境を知っても、好きになってくれたし。今だって、アメリカに行く俺の我がままを、受け入れてくれる」

「それは、でも。普通のことだよ」

「そうかな」

「そうだよ。高校でも風巳のこと好きな女の子はたくさんいたし。それに本人がやりたいって思うこと、反対する彼女なんていないと思う。風巳の人生は、風巳のものだし」

 突き放した意味ではなく、相手を想う気持ちから生まれた解放だ。想いあっていれば、どこまでも束縛したくなるけれど、想っているから、自由でいてほしいとも思う。

 彼女が大切に思ってくれるから、風巳は自分のことを好きでいられる。吹藤という、特別な檻の中で育った自分にも、人並みに夢を語り、誰かを好きになる資格があった。

 それは責められることではなかったのだと。朝子が認めてくれたから、知ることができたのだ。

 朝子の言いたいことは、風巳にもわかる。自分が同じ立場でも、きっと朝子のやりたいことに、反対などできないだろう。

 それでも、正論と感情は別のところにあるはずだった。正しさを盾にして、朝子が頑なに耐えている気持ちが、風巳には気がかりだ。

「朝子は何を知っても、俺のこと好きでいてくれた。……今でも、奇跡みたいに思ってるよ。本当にありがとう」

 屈託のない笑顔で、風巳が気持ちを届けてくれる。朝子がフォークでケーキを弄ぶ。恥ずかしくて、彼の顔を見ていられなかった。

「そんなの、――風巳も、私を好きになってくれたから」

「だって、朝子は可愛いもん」

 無邪気に公言して、風巳がケーキを口に頬張る。空になった皿をテーブルに置いて、ジュースを飲み干した。

 大きな息を吐き出して、覚悟を決めたように、再び口を開く。

「俺さ、八月になったら、アメリカへ発つよ」

 朝子がゆっくりと顔をあげる。漠然と秋になったらアメリカへ行くとしか聞いていなかった。八月までは、もう二週間もない。

「MITの試験は、九月だけど。それまでに、いろいろと慣れておきたいし。まぁ、合格しなかったら、戻ってくるけど」

「風巳は、絶対に合格するよ」

 知らされた出発の日程に動揺しながら、朝子は笑った。沸きあがった感情を、なんとかしまい込む。

 朝子が大学の推薦入試を終えるまで、風巳はただ見守ってくれたのだ。今は逆の立場にある。自分が彼の逆風になるようなことは、絶対に避けたい。

「……朝子」

 彼は、じっとこちらを見ている。

「傍にいてほしいって、言って」

「え?」

 意外な台詞だった。風巳が繰り返す。

「傍にいてほしいって。行かないでって。――俺に言ってみてよ」

「い、嫌だよ。そんなの」

「いいから」

「嫌。絶対に嫌」

 とりつくしまもなく拒絶される。風巳が困ったように苦笑した。朝子は、なぜ彼がそんな顔をするのかわからない。

「だってさ、少しくらいは惜しまれてないと、淋しいじゃん」

 子供っぽく茶化した言葉に、朝子が「馬鹿」と返す。

「風巳ってば、すっごい我がまま」

「いいもん、別に。朝子に甘えるって決めたから。だから、朝子も俺に甘えてよ。ほら、遠慮なく」

 簡単なことのように。

 些細なことのように。

 いつもの明るい調子で、風巳は大切なことを伝えようとしている。

「ね、言ってみて。行かないでって。傍にいてって。……朝子が隠してる気持ちも、ちゃんと知っておきたいから」

 どこか大人びた、落ち着いた眼差し。綺麗な琥珀色は変わらないのに。そこに映し出される想いに、幼い面影がない。堅く閉ざした蓋を、簡単に開けて。

 風巳は全てを見透かしている。

「――いや、だよ」

 耐えていたのに、どうしようもなかった。風巳の優しさが、想いが、気持ちが、閉じ込めた哀しみを解き放つ。

「そんなこと、……言えない」

 硝子の破片のように、中空で何かが光る。涙だった。頬を伝って、ボロボロと零れ落ちる。風巳の腕が伸びてきて、顔を胸に押し当てるように力がこめられる。

「泣いてもいいよ。朝子に泣かれるの、嬉しいから。ごめんね。俺、どこまでも我がままだから」

 声を殺して、時折しゃくりあげる朝子を、風巳は抱きしめる。

 我がままのように振舞っているけれど、決してそうではないことが、朝子には分かっていた。わざとだ。

 朝子の中にある、純粋な想い。そこから生まれ出る、歪みのない我がまま。

 ただ、傍にいてほしい。

 風巳は、優しいから、自分を困らせる言葉も、哀しみも、受けとめてくれようとする。この涙は、彼の中で、棘として突き刺さるに違いないのに。

 随分、長い時間をかけて彼の胸で泣いた。押し寄せる哀しみが緩むと、朝子はゆっくりと顔をあげる。泣きはらした目が、風巳には愛しくうつった。

「行かないでって、言ってみな」

「いや」

 朝子の顔に、自然に笑みが浮かぶ。風巳の与えてくれた優しさにも流されず、意地を張った。

「それだけは、絶対に言わない。だって、私、本当に風巳のこと応援してるからね」

「意地っ張り」

 コツンと額がぶつかる。二人がクスクスと笑いあった。やがて、どちらからともなく、ゆっくりと唇が重なる。今までのキスより、幾分激しさが増す。

 朝子は思わず、彼の上着を引っ張って、握る掌に力がこもった。鼓動が早くなる。緊張が伝わったのか、風巳がゆっくりとキスを解く。

「朝子」

 囁くような声が届く。変わることのない、薄い色素に彩られた風巳の瞳。出会った頃の無垢な面影を潜めて、彼は思いつめた表情をする。

 自分を支えるように触れている彼の腕を、突然意識した。伝わる体温の熱さと、自分にはない逞しさ。今まで気づかなかったのが不思議な位、風巳の中の少年は姿を消していた。

「怖がるかもしれないと思って、今まで言えなかったけど。――いつでも、朝子のこと、すごく欲しいと思ってる」

 言ってから、少し身を離して風巳は照れたように、顔を伏せた。

「別に、今すぐとか、そういうことじゃないから。ただ、朝子がどうしようもなく好きだから。そんな俺のことも知っていてほしいだけで」

「―――あ、……うん」

 朝子は混乱したまま、ただ頷く。戸惑いはあるが、嫌悪はないと思えた。相手は、風巳しか考えられないけれど。それを願いながら恐れてもいる。

 こんな曖昧な気持ちを、どう言葉にすればいいのかわからなかった。

「そろそろ、結城の家に戻ろう」

 まだ赤い顔のまま、風巳が立ち上がった。



   2


 

 大学の夏休みを利用して、仲谷沙輝が実家に帰省していた。両親や妹との団欒が一段落すると、早速、結城邸に向かった。オートバイをガレージに止めて、邸宅の門扉を抜ける。玄関の扉が開いていたので、そのまま何のためらいもなく中へ入った。

「お邪魔します」

 誰も聞いていないのに、意味もなく口にする。廊下を進んでも、何の物音もしない。一瞬、誰もいないのかと思いかけたが、鍵もかけずに外出する筈がない。

 リビングのドアを開けて中を覗くが、人の気配がない。

「おかしいな」

 呟きながら、春から結城邸で受験生をしている風巳のことを思い出す。二階へ行ってみようと、階段へ向かうと、背後で奥の部屋の扉が開く音がした。

「あ、晶さん。お久しぶりです」

 振り向いて、出てきた人影を見ると、沙輝が「良かった、今度は会えた」と嬉しそうに言った。

「沙輝。どうしたんだ、おまえ」

 歩み寄ってくる邸宅の主は、相変わらず非の打ち所がない容姿をしている。久しぶりに見る沙輝には、鮮烈だ。

「夏休みだから、戻って来たんですよ」

 リビングへ戻りながら、沙輝が彼の出てきた部屋を振り返った。一階の一番奥。晶の寝室だった。英国と日本を行き来する晶の立場は知っている。時差を克服するために休んでいたのかと、思い至る。

「寝てたんですか?」

「――いや、違うよ」

 リビングに入って寛ぐ姿勢で腰を下ろす。晶はそのままダイニングを抜けて、奥のキッチンへ入った。

「何か飲むか」

 対面キッチンの向こうから聞かれて、沙輝が「じゃあ、コーヒーを」と遠慮なく注文した。意外に慣れた手つきで、晶がコーヒーを煎れた。結城邸で過ごした日々は長いが、晶の煎れたコーヒーを飲むのは初めてかもしれない。

 まどかや朝子がいると、彼や自分がキッチンに立つ機会が少ないのだ。

「まどかさんは?」

「……眠ってる」

 珍しいこともあるものだと、沙輝は思った。自分が過ごした日々を振り返っても、彼女が夕刻に休んでいることはなかった。

「どこか具合が……」

 言いかけてから、何となく気付いてしまう。彼が寝室から出てきた。それが答えだ。おそらく間違いないだろう。

 不自然に言葉を飲み込むと、何か勘付いたのか、晶が嘲うような笑みを浮かべてキッチンを出てくる。

「今、何か想像しなかった?」

「いえ、あの、別に……」

 普通に振舞おうとするほど、顔が赤くなる。彼の煎れてくれたコーヒーを受け取りながら、沙輝は言葉に詰まった。晶が前のソファに座るのを見ながら、照れていても仕方ないと開き直る。

「俺、来るタイミング悪かったですか」

 素直な問いに、晶が声をたてて笑った。受け狙いではなかったが、沙輝は何となくほっとした。興味本位にいろいろと聞いてみる。

 男同士はこんなとき、気さくでいい。面白半分で、二人が卑猥な話も含めて語りあう。

 近況も含み、話題が次々と展開した。沙輝が唐突に後の二人のことを思い出す。

「そういえば、風巳と朝子は?」

「あいつのマンションへ行ってるよ。八月になったら発つらしいからな。色々と整理してるんだろう」

「そうか。ほんとに、もうすぐですね。合格するといいけど、朝子は平気なのかな」

「どうだろうな。とりあえず、落ちた時は思い切り指さして笑ってやるけど」

「下手に慰めるよりは、いいかもしれませんね。風巳は落ちても諦めないだろうし」

 親友が胸に抱え込んでいることを、沙輝は知っている。五月の連休に打明けられた思い。

 何よりも大切な彼女と、見つけてしまった将来の夢。

 瀬戸際の微妙なバランス。気が狂いそうだと風巳は言った。平気ではないと、苦しいと。

 どちらも求めて、諦められない。

 諦める必要がないことを、風巳はわかっているのだろう。弱音を吐いても、前向きな姿勢を覆すことはなかった。

 素直に、彼の夢も、二人のことも、沙輝は応援していたかった。

 共に過ごす晶は、そんな風巳の胸の内を知っているのだろうか。ふと疑問がよぎり、聞いてみる。

「風巳は、晶さんに弱音を吐いてますか?」

「弱音?何について?」

「朝子とのこととか」

 晶が吐息をついた。

「弱音だけでもなかったけど、一度だけあるな。俺は簡単に背中を押してしまったけど。それからは、ない」

 朝子の兄であり、保護者でもある。父親のような立場も兼ねている相手に、相談するのはルール違反だと思っているのか。

 あるいは朝子とのことを、徒にからかいすぎた結果なのかは、よくわからない。

 風巳の決意が揺ぎ無いことだけは、明らかだ。

「風巳が抱えている葛藤は知っているし、想像もつく。――それでも、俺はあえて何も言わない。あいつは朝子とのことで、俺の助けを求めてない。見ていれば判るからな」

「そうかもしれませんね。晶さんは朝子の兄さんだし」

「だろ?――そういうことは、俺よりおまえに聞くはずだ。俺は見守るだけ」

 優しい表情だ。沙輝は安心した。

 彼は全てを知っている。決して表には出さず、何も告げることはないのだろうけれど。 どれほど心配していても、二人の絆を信じて見守るのだ。

 風巳の抱える憂慮と同じ位、沙輝は二人の絆を案じていた。それが間違いなのだ。自分は疑うことなく、信じていなければ。

 風巳が成し遂げることを。二人がこの先も想いあっていられることを。

 自分が信じていなければ、風巳を支えることなんてできない。資格がないと言ってもいい位だ。

 胸のモヤが晴れたような気がした。風巳の親友として、向かい合っていられる条件を手に入れた。

 晶と話していると、沙輝は優しさに触れている気がすることがある。それは落ち着きを与えくれる。癒されているのかもしれない。

 出会った頃からそうだった。久しぶりに心地よい感覚を思い出した。

「やっぱり、ここは落ち着きますね」

「なんだ、いきなり」

 沙輝が照れ隠しに笑ってごまかす。

 深く探りを入れられないように、話題を変えた。

「アメリカ行きもすぐだし。あの二人って、進展はありました?」

 今に始まったことではない話だ。

 時折、風巳のいない場で、二人の関係を推し量って楽しんでいる。

「駄目だな。全然駄目。奥手というよりお子様」

「え?ほんとですか。何をもたもたやってるんだろ、風巳」

「あいつ、お前には何て言ってるんだ?」

「我慢の限界」

 沙輝の言葉に、晶が吹き出した。涙を浮かべて大笑いしている。

「晶さん、それ、笑いすぎ。風巳は考えすぎなんだろうなぁ」

 腕を組んで真剣に親友を案じる沙輝の前で、晶はひとしきり笑い続ける。

 沙輝が思いついたように呟いた。

「だけど、今はマンションに二人きりでしょ。久々のシュチエイション。これはチャンスですよ」

「それはどうだろうな。――賭けてみるか?」

 何とかこみ上げる可笑しさを噛み殺して、晶が提案する。沙輝が「その賭け、のります」と風巳の味方をする。何を賭けるか論じていると、リビングの扉が開いた。

 朝子が顔を見せる。

「ただいま。あ、やっぱり沙輝だ。おかえりー、久しぶりだね」

 続いて風巳も入ってくる。玄関のスニーカーを見て、帰宅した二人には、沙輝の帰省が予想できたらしい。風巳が沙輝に近づいて「久しぶり」と声をかけた。そのまま、彼の隣に無造作に座る。朝子は少し迷ってから、久しぶりに再会した沙輝との会話を堪えた。

「私、課題のレポート少しまとめておきたいから、ちょっと外すね」

 今なら、教授の質問会で得た知識が、溢れるほど記憶されている。彼女がリビングを出ると、風巳が晶の顔を見た。

「なんか、二人で楽しそうだったけど。何の話?」

 晶が綺麗な顔で、嫌な笑みを浮かべる。風巳はその瞬間、何を言われるのか想像がついた。沙輝がポンポンと肩を叩いて、「俺、お前の味方だから」と言う。

 会話を逸らすことも出来ず、晶が口を開いた。

「久しぶりにマンションで二人きりの場面だったよな。どうだった?」

 からかうように聞かれて、風巳は朝子に言ってしまったことを思い出す。恥ずかしい台詞だったと、顔も耳も、首まで赤くなった。その様子に違和感を覚えて、晶が笑みを潜めた。

「おまえ、ついに一線を超えたのか」

「ち、違うよ」

 否定しても、疑わしそうな眼差しが突き刺さる。沙輝が「賭けは俺の勝ちですか?」と嬉しそうに身を乗り出した。風巳が声を高くする。

「二人で人を肴に何の賭けしてるんだよ。ほんとに何もないって」

「だけど、おまえ。すげー顔が真っ赤だぜ」

 沙輝に指摘されると、ますますのぼせた。二人が「隠すことないのに」と口を揃える。風巳には嫌な雰囲気だ。否定だけでは誤解がとけない。どうしようもなくなって、思わずマンションでの出来事を口走った。

 すぐに我に返って二人の大爆笑を待つが、訪れなかった。

 沙輝が隣で呟く。

「あと、一息だ」

 呟きに晶が頷いた。手を伸ばして、向かいの風巳の肩を叩く。

「余計なことを考えず、突き進め」

「あのねぇ」

 当人を置き去りにして、二人が頷きあっている。どこか馬鹿にされているような気がして、風巳が「いい加減にしてよ」と咆えた。



   3


 

 久しぶりに結城邸で五人が揃って夕食をとった。いつもより長い時間をかけた賑やかな食事だ。長々と五人で会話して、晩餐が終わると沙輝と風巳は二階の部屋へ行く。男同士で積もる話があるのだろう。晶も書類の決裁のため、書斎へ引きこもる。

 まどかと片付けを終わらせると、朝子はレポートを仕上げるために部屋へ戻った。

 深夜になると、沙輝は泊まる事はせず実家へ帰る。久しぶりの帰省なので、実家の両親にとっても、息子と過ごす時間は貴重なのだ。

 沙輝が帰宅すると、一緒に部屋から出てきた風巳が欠伸をしながら風呂へ入った。

 その後に、また一勉強するらしい。

 沙輝の帰宅の気配を感じた頃、朝子はレポートが完成した。部屋を出て階下へおりる。

 何か飲もうとリビングへ入ると、まどかが一続きのダイニングの食卓で座っていた。片手にティーカップを持って、本を開いている。

「良い匂いがする。私も紅茶飲もう」

 朝子が食卓へ近づくと、まどかが「ちょうど良かった」と立ち上がった。新しいカップを持ってきて、ポットの紅茶を注いでくれる。

「今、持っていこうか迷ってたの。――どうぞ」

「ありがとう、まどかさん」

 対面キッチンから一続きのダイニングで、朝子とまどかは二人きりになった。食卓にかけたまま、朝子が向かいに座っているまどかを見た。

「今、沙輝が帰ったんだね。泊まるかと思ってたのに」

「そうね。だけど両親に会うのも久しぶりだから。……彼を見送ってから、何となく紅茶が飲みたくて入れたの。朝子ちゃんが来てくれて良かった」

 優しくて、綺麗な微笑み。彼女の周りに作られる、穏やかな空間。朝子も大好きだった。彼女を求めた兄の気持ちが、素直にわかる。

「まどかさん、部屋のことで何か手伝うことある?」

「部屋のこと?」

 不思議そうに聞き返されて、朝子は彼女の左手を見た。

「だって、お兄ちゃんと一緒に寝室を使うんじゃないの?」

 夕食の時、行き交う会話の中で、まどかの左手の指輪も話題になった。昨日までは見たこともない指輪だ。透明な煌きを宿す石。美しい神聖な輝き。

 何を意味するのは、誰の目にも明らかである。

 婚約という曖昧な立場が、少しだけ形になって現れた。朝子にとっては、まどかが家族になる日も近い証だ。嬉しくて仕方がなかった。

「婚約者なんだから。今更気を使う必要もないし。お兄ちゃんも考えておけって、夕食の時に言ってたよね」

 まどかの部屋割りについて、朝子はずっと疑問に思っていたのだ。なぜ、ここまでお互いの立場を認めていて、他人行儀に居候のフリをするのだろうと。

 世間体のためなのか、二人で決めたけじめなのか。

 いろんなことを思ったが、どれもしっくり来ない。

「部屋はまどかさんの個室として置いとくとしても、ベッドは移動させなきゃいけないよね。その方がまどかさんの部屋も広くなるし。あ、だけど、ダブルベッドとか買うのかな」

 臆面もなく朝子が言う。まどかが驚いて横に首を振った。

「そんな。まだ、結婚したわけじゃないのに。そんなのって、朝子ちゃんも嫌じゃない?自分のお兄さんの寝室から、あたしが出てきたら嫌でしょ?」

「嫌って、何が?」

「奥さんでもないのに不自然よ。家族でもない人が、当たり前のように主の部屋にいるなんて。何だか、ちょっと、やらしくない?」

 朝子が予想もしなかった考え方だ。唖然とした。

「あのね、まどかさん。二人が結婚しないのって、周りとの折り合いがあるからだよね?吹藤の家や、戴家との関係がややこしいから。戸籍とか、法律的なことは、こんなふうに後回しになるけど。でも、現実的にはお兄ちゃんとまどかさんって、もう結婚してるようなものだと思うんだけど」

「――そうなのかしら。朝子ちゃんにそう言ってもらえると、すごく嬉しいけれど。でもね、仮に奥さんだとしても、何だか気恥ずかしい気がするのよ」

 照れて俯くまどかが年上とは思えず、朝子は顔がほころんだ。

「えー?だけど、お兄ちゃんとまどかさんなんて今更だよ。二人が別々の寝室使ってる方がおかしいと思う。なんかね、私に気を使ってるみたいに思えて、逆に嫌かな。二人には、仲良しさんでいてほしいもん」

 無邪気な台詞だが、朝子の気持ちがよくわかった。こんなことを簡単に言い合える関係なのがお互いに嬉しい。

「まどかさんにはね、お兄ちゃんをうまく操縦してほしいな」

「それは無理よ。だって、晶の方が何枚も上手だから」

「そんなことないよ。喧嘩することあったら一度ずっと意地張ってみて。絶対にお兄ちゃんが折れるから」

「それが無理なのよね。あたし、すぐ謝ってしまうもの。あの顔に気圧されてしまうのよ」

「あー、わかる気がする。卑怯な武器だよね」

 当人がいないと思って、女同士で言いたい放題だ。いつも以上に話が盛り上がっている。婚約指輪のせいかと思ったが、しばらくして、まどかはそうではないことに気づいた。

 二人の少しだけ形になった関係を祝ってくれているのは間違いない。

 妹の立場で、祝福している気持ちを、素直に告げておきたかったのだろう。

 けれど、朝子は何か別のことも聞きたいのではないかと言う気がした。

 彼女がなかなか言い出せずにいること。

 すぐに予想がついて、まどかが口に出す。

「朝子ちゃん。風巳君に何か言われたの?」

 まどかと晶のことなら、朝子は臆することなく踏み込んでくるのに。

 自分と風巳のことになると、恥ずかしいのか躊躇ってしまうのだった。ずっと近くに居ると、まどかにもそんな朝子の性格が少しのぞけた。

 八月になれば、風巳がアメリカへ発つ。今は微妙な時期で、朝子にも思うことがたくさんあるはずだ。

 触れ合ったことのない関係を、どうすればいいのか。傍にいられなくなる日々を前にして、風巳も悩んでいた。朝子も考えているだろう。

 晶と二人で見守っているが、二人のこれからに力になれるなら、まどかは嬉しい。

 問い掛けに、朝子は大きく息をつく。恥ずかしがっていては、前に進まない。覚悟を決めて「まどかさんはやっぱり鋭いね」と認めた。

「じゃあ、ついに迫られちゃったの?」

 嬉しそうに聞くまどかの視線に照れて、朝子は赤くなった頬を手でおさえた。

「そうじゃないけど。……そんなようなこと言われて。私、どうしたらいいのか、わからなくて」

 朝子の迷いは理解できた。まどかは以前に少しだけ聞いた風巳の吐露を思い出した。

 相手を想っているから、軽率に行動できない。晶に言わせると「情けない」の一言で片づいてしまうが。

 まどかは少なからず感動した。貞操観念が希薄な世代。彼のそんな一面は真摯で、得難い大切な気持ちだ。胸の内に巣食う、たった一人への想い。それに振り回されて、恐れる気持ち。満たされる気持ち。まどかもよく知っている。

「風巳がいなくなることを思うと、辛いし……」

「いろいろと怖いのね。……風巳君も、同じようなこと言ってたわ」

 彼の言っていたことを、まどかは朝子に伝えてみた。

「風巳が、そんなことを」

「朝子ちゃんが抱えてる迷いは、風巳君にもあるのよ、きっと。だけど好きなら、そういう絆も大切だと思うけど」

「――そうかな」

「そうよ。とても相手を愛しく思う瞬間だもの。それで寂しさが増しても、それ以上の繋がりになるわ、絶対に」

 風巳の中にも、自分と同じような恐れがある。彼が大切に想ってくれるなら、朝子はそれに応えたい。

 いつでも辛いとき、風巳は傍にいて支えてくれた。兄の不在、独りの不安。ギリギリまで耐えて立っていることを、彼はわかってくれたから。

 こうして笑っていられる。

 風巳の不在を不安に思っても、淋しくても、彼に出会って、与えられた多くのものには適わないのだ。彼を想う、抱えきれないほどの気持ち。それ以上に、風巳が大切にしてくれる気持ち。

「ちゃんと自分の気持ちを伝えた方がいいわ。淋しい事や、彼を想っていること。恐れていること、全部。その方が、朝子ちゃんも後悔しないと思うな。たくさん我がまま言っても、彼は受け止めてくれる人よ」

「うん」

 風巳は向かい合って話を聞いてくれるだろう。自分には耐え難いことでも、受け止めてくれる。いつでも、目を逸らすことなく自分を見てくれる。そういう人だ。

 真っ直ぐな気性で、優しいから。

「勇気出してね、朝子ちゃん」

 まどかが背中を押してくれる。

 頷いてみるけれど、具体的にどうすればいいのかわからない。

 風巳がアメリカへ発つまで、二週間もない。それは辛いし哀しいけれど、彼のことで思い悩むなら、悪くはない。

 彼のことで胸が一杯ならば、幸せなことかもしれない。

 いつのまに、こんなに彼を好きになってしまったのだろう。

 朝子にはもう思い出せない。いつでも蘇るのは、彼の笑顔だけなのだ。



 湯気が忙しなく立ち昇って行く。モヤが浴室にこもり、浴槽につかっている風巳は霧の中に沈んでいるようだった。

 ぬるめの湯に凝り固まった身体を癒されながら、親友の言葉を思い返す。

 出会ってから、それほど長い月日を経たわけではないのに。沙輝は風巳にとって一番身近に気持ちを理解してくれる。同級生だったことや、出会う経緯もあるのだろうが。

 友人として沙輝は包み隠さず、真正面から自分に接してくれるのだ。

 家柄のことを知っても、夢を垣間見る力を知っても、変わることはなかった。朝子と同じ位、当たり前のように傍にいてくれた。

 お互いに弱音を吐くことが容易だったし、ちょっとした秘め事も話すことができる。

 夕食が終わった後、風巳は部屋へこもって、いろんなことを打ち明けた。

 アメリカへ発つことを目前して、胸に秘めている様々な葛藤。

 MITの合否。向こうで始まる新しい生活。

 そして、朝子を失ってしまう日々。

 関東で新生活を体験している沙輝は、変わってしまう生活にはすぐに慣れると豪語した。自分が経験しているだけに、語ることに説得力がある。

 結局、不安の根源が朝子へ行き着くことも、沙輝は承知していたのだろう。

「お前は自分を信じていないのか?」

 不安を吐き出した風巳に、沙輝はそう聞いた。

 傍にいられなくなる。

 簡単に会えなくなる。

 そんなこれからを思って、一歩、朝子と距離を置いてしまう自分。

「自分で、自分のこと信じてるか?」

 すぐに答えられない風巳に、沙輝は繰り返した。

 風巳の迷いをあるべき場所へ辿り着かせるための、大切な問い掛けだった。

「俺もお前らのことちょっと心配してた。これから、どうなっていくだろう。どんなふうに変わっていくだろうって」

「……沙輝」

「だけど、そんなのやめた。考えるだけ無駄だから。俺は決めたぜ。二人を信じるって」

 自信満々で、沙輝は言い切った。何の根拠もないのに、まるでそう考えるのが当然のように。

「朝子のことももちろん信じていなきゃならないけど。風巳はまず自分を信じないと駄目だろ。少し会えない位で、彼女への気持ち、どこかへ消えてしまうのか?」

「そんなことはないけど」

 すぐに否定すると、沙輝は闊達な顔で笑った。

「だろ?だったら、それでいいんじゃないの?」

 簡単に。本当に簡単に、沙輝は結論を出してくれた。難しいことを言われるよりも、すうっと風巳の胸に染み込んだ。

 それは考えるほど難しいけれど。本当は簡単なことだから。

 自分の気持ちに、全ての答えが隠されているから、これからが託されているから。

 朝子を想う気持ち。何があっても見失うことはない。出会ってから今まで、二人で築いてきた絆は、きちんとここにある。胸の中にある。

 先の見えない未来に思い悩むより、手にしている真実を信じていればいい。

 いつでもそこから、これからが出来上がっていくのだ。

「たから、我慢は体に毒だぜ」

 茶目っ気たっぷりに付け加えて、沙輝がからかう。風巳は笑った。

 自分を信じてくれると断言した彼。そんな親友がいる自分を、とても誇りに思う。沙輝に感じる信頼は、斎藤や晶に感じる尊敬の混ざったものとは違っていた。

 尊敬より親近感が勝って、遥かに身近だ。考え方が、同じ目線から、同じ道筋を辿っていくのがわかる。

「朝子を欲しいって思うなら、理屈は必要ないよ。それにさ、単に踏み切れない理由になってるような気もする。俺に小心者と思われてアメリカへ行くの、癪にさわるだろ」

「――沙輝、言ってることが晶みたい」

「そりゃ、純粋に興味もあるから」

 余興を語るように言って、沙輝が笑う。同じように風巳も笑った。ひとしきり二人で笑ってから、風巳が「ありがとう」と呟いた。

「今まで、ぐるぐる考えてたことが馬鹿みたい。理屈抜きで考えるよ」

 それだけで沙輝は察したのか、ただ頷いてくれた。

 自分の気持ちを信じている。たったそれだけの、大切なこと。

 「自分を信じているのか」と、大切な問い掛けをしてくれた親友。

 これから先、なにか不安なことがあったら、沙輝のくれた言葉を思いだそう。それを自身に問い掛けてみよう。いつでも、きっとそこから答えを見つけられる気がするから。

 風巳が回想を打ち切って、ザバリと波を立てて浴槽を出た。

 身体中から雫を滴らせて、浴室を出る。

 アメリカへ発つまでに、朝子に全てを打ち明けよう。

 これからどうしたいのか、これからをどう思っているのか。

 何を望むのかを、全て――。

 彼女が受け入れてくれるかはわからない。それでも、悔いることはしたくない。

 もう、誤魔化すことはできないのだから。

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