ACT3
ACT3
1
暦が七月に入ると、晴れた青空が広がる日々が多くなった。関西圏の梅雨明けの宣言も行われた。肌を焦がすきつい陽射しが、夏の本格的な到来を告げている。
朝子が運ばれてきたハーブティーのポットを手にした。晴菜はアップルティーで甘い香りが漂っている。
高校とは違った、大学のゆったりとした時間割は自由で、朝子と晴菜は空き時間に大学を出てきた。学生に人気のある紅茶の店が、近くにあるのだ。
木製のテーブルと椅子が温かみのある雰囲気で、落ち着くには絶好の造りだった。
店内を見回すと、見覚えのある学生達がちらほらと雑談している。
「あの二人って、やっぱり付き合ってるんだ」
晴菜は変わらず、他人の恋路に関する情報に長けていて、目ざとく何かを発見する。朝子も視線を走らせるが、見たことのある顔だなという印象しかない。
「晴菜の知り合い?」
「知り合いっていうか」
紅茶のカップを手にしてから、晴菜が続けた。
「サークルの勧誘を受けたことがある。それからは、会えば挨拶とかする位」
「何のサークル?」
「旅を楽しもうっていうサークル」
朝子が目を丸くした。
「それって……」
「そう。晶さん達もいたらしい所」
「幽霊部員の巣窟じゃなかったんだ。本当に活動してるんだね。お兄ちゃんは、気の合う者同士で、どこか行く程度だとか言ってたのに」
「うん。それはそうみたいだよ。あの人も同じ様なこと言ってた。部員同士でも知らない人たくさんいるんだって」
「それ、サークルの意味あるの?」
「さぁ。知り合いを増やしたいと思ったら、それを建前に声かけたりするんじゃないのかな」
あっさりと断定して、晴菜がアップルティーを口にする。「美味しい」と言って、幸せそうな顔をした。
「だけど、あの旅サークル。一応顧問の先生みたいなのがいるよ。誰だと思う?」
いきなり投げられた謎かけに、朝子が首をかしげた。全く思いつかない。
「私達の知ってる教授?」
「うん。ヒント。講師の先生です」
即座に頭に浮かんだ人物があった。まさかと思いながら、おそるおそる答えを言う。
「羽柴、先生?」
「当たり。遺跡を飛び回っていた経歴が、旅で各地を回るのと似てるっていう、ただそけだけの理由。顧問って言っても、幽霊部員の巣窟じゃ、名前だけ貸してるって程度のもんだよ」
「いろんな事知ってるね、晴菜」
「私、わりと羽柴先生と話するもん。朝子は避けてるけど」
指摘されて、朝子が顔を伏せた。
「やっぱり、ばれてたんだ」
「そりゃ分かるよ。無理もないけど。あれから別に晶さんのこと何も言ってこないし。普通にしてたら?」
「うん。そうなんだけど」
簡単に払拭できない恐れが、朝子の中にはあった。羽柴洋一自身が悪い人でないだろうことは、見ていても明らかであるが。「吹藤」を語ったことだけが、引っ掛かってしまう。
ティーカップを掌で包み込んであそばせていると、ふっと視界が陰った。誰かが二人のテーブルの前に立ったのだ。
「先生」と言う晴菜の台詞と同時に、朝子は顔を上げた。
羽柴洋一が立っていた。
噂をすれば影とは、よく言ったものだ。
「僕の話をしてなかった?」
羽柴洋一はきさくな笑みを絶やさず、二人に話し掛けた。深刻さを何も匂わせず、そのままの調子で朝子の前に小さな包みを置く。
大き目の茶封筒の中味は、見ているだけではわからない。感じからすると、本が入っているようだ。
「これを君の兄さんに渡してくれないかな」
朝子に走った緊張が、晴菜と洋一にも伝わってくる。洋一は困ったなという風情で、苦笑を浮かべた。
「本当は結城さんから、いろいろ聞きたかったけど。その、僕のこと、避けているみたいだったから」
「――あの、先生。兄は先生のこと知らないって。先生と兄はどういう知り合いなんですか」
この前のように動揺して逃げ出すことがないように。朝子はできるだけ落ち着いて、彼と向かい合うことに決めた。晴菜が洋一に隣の空いている椅子をすすめる。
洋一が席につくと、店員がオーダーをとりにやってくる。会話が一時中断されたが、おかげで朝子は落ち着きを取り戻した。
洋一も雑談を話すような気軽さで、朝子の問いに答える。
「僕と君のお兄さんは、知り合いでも何でもないよ。会ったことも話したこともない、赤の他人。だから、彼が僕のことを知らないのは当然」
「じゃあ、どうして先生は晶さんのこと知ってるんですか」
晴菜の問いは、この大学にいる人間にとっては愚問でもある。一方的に結城晶の名を知るものは多くいるからだ。羽柴がその類の知識だけで、晶を追いかけていないことは、明白だった。好奇心旺盛な晴菜の態度が可笑しくて、朝子は笑みが浮かんだ。
「僕の姉が、知人だった」
思いも寄らない展開で、朝子はすぐに反応できなかった。晴菜は女の影が出てきたことにますます興味を持ったらしく、朝子をそっちのけで会話を進めていく。
「先生のお姉さん?それって――」
付き合ってたのかどうか確かめるのは、さすがに晴菜も臆したようだ。そこまで踏み込んでいいのかわからないが、反面、知りたくてうずうずしている。
朝子は晴菜の心持ちが手にとるように分かった。
「先生のお姉さんとお兄ちゃんは、どういう関係だったんですか」
初めより打ち解けた様子で、朝子が聞いた。羽柴は歩み寄ってくれた朝子に優しい顔を向ける。
「姉は、吹藤の組織の中で仕事をしていた。どういう立場だったのかは、詳しくわからない。それなりに出来る人だったとは思うけど」
洋一が手にした彼女の日記には、現実的な詳細はあまり記されていない。第三者には理解できない抽象的な書き方。時折、胸の内に抱え込んだ想いだけが綴られていると言ってもいい。
「晶」という名前も、最後に一度だけ記されているだけだ。それが、永く描かれた想いの在処を明かした。優秀でありながら、非力だった独りの女。
洋一の知らない姉の姿があった。
「姉は、彼を愛していた。届くことはなかったのだろうけれど。……それだけなんだよ」
洋一が朝子を見て、照れたように笑う。
「姉が好きだった人が、どういう人だったのか知りたいだけなんだ。会って話ができれば嬉しいけど、彼には迷惑な話だね。だから、せめて彼にこれを渡してくれないかな」
洋一が始めに差し出した包みをさした。朝子が考えてから口にする。
「先生のお姉さんは、今どうしているんですか」
「うん。多分、幸せだと思うよ」
幸せであってほしかった。それは、彼の幸せと共にあるはずなのだ。
「どうして、今更お兄ちゃんの事を?」
「姉は彼の幸せを願っていたから。だからそれを確かめたいだけ」
「お兄ちゃんの幸せを?じゃあ、恨んでいるとか、そういうことじゃないんですね」
失礼な発言かとも思ったが、朝子はそれだけは確かめておきたかった。兄を傷つけるものなら受け取れないし、許さない。
「恨みも妬みもないよ。姉は、もうこの世の人ではないから」
朝子の動作が静止する。言葉が見つからなくて「ごめんなさい」と頭を下げた。
洋一は「いいよ」と言って笑う。晴菜が「やっぱり女の人がからんでいたね」と朝子をからかった。
「その包み、何が入っているんですか」
晴菜の問いに、洋一は簡単に答えた。
「姉の日記」
「どうして晶さんに?」
「それは、知っていてほしかったから。姉のことを」
洋一の口調はきさくだったが、言っていることは切実で、姉に対する思いがこもっていた。朝子はまどかの立場を思い出す。過去に兄に想いを寄せた女性の日記を、彼女が歓迎するはずはない。けれど、もう死んでしまった女性の思いを、まどかは否定するだろうか。
自分とは違って、彼女は圧倒的に周りを大切に思い気遣う人だ。絆の頂点に立ち、一番に大切なのは晶だが、二番目にまどか自身がいるかと言うと、決してそうではないような気がする。
「朝子。まどかさんのことを考えてるの?」
「うん。まどかさんには、気分のいい話じゃないと思う。お兄ちゃんにとっても、どうだろうって」
洋一も二人の迷いをすぐに察した。
「そうか。相手がいるわけだ。当たり前か。それなら、これは渡すだけでも迷惑かな。僕が何もなかったことにして、忘れるのが一番いいのかもしれない」
潔い洋一の態度に、朝子は彼が周りを思いやれる人間であることを悟った。
水面に投げた小石が、波紋を描くことを知っているのだ。
「私、兄に渡すだけ、渡してみます。先生から聞いた、今の話をしてみて。それで受けとるかどうかは分からないけど。それでもいいですか」
「――もちろん。ありがとう」
洋一が頭を下げた。朝子がずっしりと重みのある包みを手にした。
2
斎藤が携えてきた書類の整理に追われている。晶は日本に帰国してからも、結局ゆっくりとした時間を持つことがない。
一段落がついて書斎の柱時計を見ると、三時を少し回ったところだった。一息しようと思い立ち、書斎を出る。
風巳も自室に引きこもって、受験に備えているようだ。
数日前までヘンリーや斎藤が滞在していた結城邸は、今は特別な客もなくひっそりとしていた。リビングの扉を開けても、人の動く気配がない。
この時間帯なら、まどかが風巳や自分にティータイムを提供するために、キッチンで動いていることが多いが、そんな気配もなかった。
一歩リビングへ踏み込むと、手前の三人掛けのソファでまどかが眠っていた。ソファの背もたれに頬を預けて瞳を閉じている。うたた寝をしている彼女が珍しくて、晶は足音をたてないようにして傍へ寄った。
塵ひとつない結城邸は、まどかが常に綺麗に保ってくれている。
様々なことに時間をとられて、二人きりで過ごすことが少ない。今回の帰国は春からの英国との行き来を思えば長いが、振り返ると彼女は斎藤やヘンリーの世話に回っていた。
学生を演じていた頃の方が、時間的にはずっと自由だったかもしれない。その代わりに拘束されていた想いは、計り知れない苦痛を伴っていた。
まどかを失わずにすむ立場に焦がれつづけていた日々。
今は手に入れた。
無垢な寝顔が愛しく思えて、起こすのがためらわれた。
音をさせず、晶はリビングとダイニングを横切り、キッチンへ入る。メーカーを準備してコーヒーを入れていると、わずかな物音でまどかが目を覚ましたようだった。
ゆっくりと身を起こすと、ぼんやりとダイニングに立っている晶を見た。
彼女は一気に目覚めて、すばやく傍へやってくる。
「ごめんなさい、晶」
「何が?」
「だって、それ。起こしてくれれば、あたしが用意するのに」
「いいよ。おまえを起こさないように気をつけていたのにな。悪かった。――おまえも飲む?」
「あたしはいいわ」
晶がリビングのソファへ戻る。まどかも向かいのソファに掛けようとして、風巳のことを思い出した。
「せっかくだから、風巳君にもコーヒーを……」
思い立ってソファを離れようとすると、腕を掴まれた。
強く引き寄せられた反動で、重心が傾く。倒れこむように彼の隣におさまった。
「こういう時くらい、傍にいてほしいね」
「え?」
「それでなくとも、誰かさんは、毎晩、寝室にもがっちりと鍵をかけておられるし。一体、誰を警戒しているのか」
「え?いけないことなの?独りの時には鍵をかけろって」
「――――……」
晶が言葉を失った。冷ややかな眼差しが突き刺さって、まどかが身をすくめる。
「――なるほどね」
低く、彼が口を開く。
「俺の寝室のベッドを、ダブルに変えようか」
「どうして?」
問い掛けるまどかに、晶は悪戯っぽく笑っただけだ。
「――鍵をかけるなってこと?」
晶が首を横に振る。
これまで一族の束縛に恐れて、彼女との間に境界を作り、距離をおいていたのは自分の方だ。その曖昧な関係が、まどかに与えた後遺症は大きいだろう。
彼女が自分を求めてくることはない。傍にいてほしいという言葉を聞いたのは、数えるほどだ。これまでの成り行きが、まどかに相手を縛る言葉を飲み込むように教えてしまったのかもしれない。
「違うの?」
「――違わない。もう少し二人の時間が持ちたいということだよ」
素直に告げると、彼女は、はにかんだ笑みを浮かべた。晶が愛しいと思う仕草の一つだ。
まどかが、そっと彼の肩に寄りかかる。晶がコーヒーカップを持ち上げて、口をつけた。
言葉もなく、二人で寄り添う時間。こんなふうに満ち足りた一時が、幸せだった。
心地よい静寂を破るように、電話が鳴る。立ち上がることもなく、晶がソファから腕を伸ばして受話器をとった。
まどかが彼から離れて、様子をうかがっている。
「――晶様。お久しぶりです。榊深之です」
聞きなれた声が名乗る。晶が「何かあったのか」と尋ねた。
「斎藤から、気になることを聞いたので」
「斎藤から?」
「はい。――羽柴洋一という人物の件ですが」
すぐに誰の名前だったか思いつかないほど、晶には関心のない事柄だった。こんなふうに榊が連絡をしてくるところを思えば、やはり一族に関係のある人間だったのかと、思い直す。さすがに警戒して、晶が問い返した。
「それが、どうかしたのか。その様子だと、榊は知っているんだな」
「はい。晶様のお耳に入れるのは、心苦しい面もあります」
「どういうことだ」
受話器の向こうで、榊はわずかに迷っているのか、反応が一呼吸遅い。もう一度問い返そうとした頃、ゆっくりと語り始めた。
「晶様が覚えておられるかどうか分かりませんが、亡き総帥に仕えていた三浦葉子という女秘書を覚えておられますか」
懐かしい名前を聞いて、晶が「覚えているよ」と即座に答えた。
「それでしたら、話は早い。羽柴洋一は彼女の弟です」
「三浦の弟が。一体、何のために俺に会いに?」
「それは私にも分かりかねますが」
「三浦本人は今どうしてる?俺が傀儡を勤めていたころも、顔を見たことがない」
「ええ。そうでしょうね」
再び、受話器越しの榊の言葉が、歯切れの悪い調子になった。
「何か知っているのか、榊」
「三浦葉子は亡くなりました。私は最後を見届けました」
「死んだ?彼女が?」
にわかには信じられなくて、問い返す。彼女に最後に会ったのはいつだったのか。
人形を演じていた頃の自分は、彼女に対してもひどく突き放した態度で接していたはずだ。別れの時、三浦ははっきりと最後を口にした。
もう二度と会うことはないかもしれない。そう言っていた気がする。
今聞かされた彼女の死を予告していたのかは、わからない。
「それはいつの話になる?」
「もう数年は経ちます」
「原因は?」
「……事故です」
何かを噛みしめるように、榊が答える。晶の中に一つの推測が生まれた。
「――それは、本家の犠牲になったということか」
榊はすぐに答えなかった。晶が重苦しい沈黙に耐えて、言葉を待っている。すうっと表情のなくなっていく晶の様子を間近に見ていたまどかが、眉を潜めた。
嫌な予感がする。
「晶様。彼女は自ら命を絶ちました。自殺です。結城のご両親のように、本家が仕掛けたわけではありません」
「では、なぜ事故だと嘘をついた?」
「申し訳ありません」
「俺は理由を聞いているんだ」
問いには答えず、榊は質問を返した。
「――羽柴洋一にお会いになるのですか」
「わからない。榊、三浦はなぜ……」
「過去はともかく、もしお会いになるなら、私も参ります。必ず、連絡して下さい」
「榊。質問に答えていない」
「今は時間がありませんので、失礼いたします」
「榊!」
通話は一方的に切れた。逃げるように、強引に途切れた会話。
晶が力なく受話器を戻した。まどかの不安な陰りが現れた瞳に出会う。
「何の電話?榊さんから?」
晶の中には、真実を知らされないもどかしさが残っていた。
そこに苛立ちが忍び込み、胸の内を苛む。
「嫌な話?」
続けて、まどかが問い掛けてくる。
隣で会話を聞かれていたのだ。下手にごまかすことは逆効果だろう。
冷めはじめたコーヒーを一口ふくむ。三浦の死に繋がる出来事を想像すると、気持ちが塞いだ。動揺を知られないように、落ち着こうとつとめる。
一息ついてから、今の会話をそのまま伝えた。
「どういうことかしら。そんな人が晶に会っても――」
「そうだな。意図がつかめない。一度、会ってみてもいいかもしれないな」
「晶に、何か仕掛けてきたりしない?」
まどかの不安をできるだけ刈り取るために、晶は「考えすぎ」と笑った。
「いくらなんでも、それはないだろ。俺はそんなに悪人に見える?」
「そうじゃないけど」
自分の内に芽生えた憶測を、まどかに知られるわけにはいかない。過ぎたことで彼女に負担をかけるのは、自分が許さない。何を知ろうとも、今からでは、既に終わってしまったことなのだ。決して三浦はかえらない。打つ手もなければ、手立てもない。
「朝子に、どういう人物か聞いてみよう」
「そうね」
問いたいことを飲み込んで、まどかはそれだけを答えた。
彼の全てを求めるのは間違っている。言い聞かせても、嫉妬に似た想いが濁流のように流れて、胸の内に溜まった。
今、ここに。
傍にいる。
自分を選んでくれた彼だけを、信じていられればいい。
想いが届かないと思い込んでいた頃は、こんなふうに彼を占めようとする醜い思いにわずらわされることはなかった。
手に入れると、人は次を求めてしまうのだろうか。そんな醜い独占欲はいらないのに。
まどかが、晶の顔から視線を逸らした。
3
疲労を感じて、集中を解く。
風巳は参考書と解き明かしたノートの数式から視線をあげた。我にかえると、空腹感を覚えた。
時計を見ると、そろそろ夕食に呼ばれてもいい時刻になっている。椅子にかけたままぐっと腕をあげて体をほぐしていると、扉をノックされた。
夕食の催促かと思い、返事をすると、朝子が入ってくる。
「ごめんね、風巳。勉強中なのに」
「ううん。そろそろご飯だし。ちょうど一段落ついたとこ。どうしたの?」
彼女の腕の中に、小さな包みが抱かれている。見る限りでは、本が入っているような印象だった。
「ちょっと相談したいことがあって」
言いながら、朝子がベッドの隅に腰を落とす。風巳も椅子から移動して、隣に座った。
「これのことなんだけど」
「何、それ」
示された包みを見て、風巳が聞いた。朝子が一連の成り行きを語る。
「うーん。亡くなった人の日記か。晶とは具体的にどういう関係だったんだろうね。朝子はそれ読んでみた?」
「まさか。勝手に見るのは失礼だもん。――本当は、すごく気になるけど」
風巳が朝子に優しく笑いかけた。覗き見ることを許さない朝子の真っ直ぐさが、可愛い。
「これ、本当にお兄ちゃんに渡してもいいと思う?まどかさんに失礼じゃないかな」
「うん。だけど俺達はその日記を読むことはできない。二人の関係も知らない。俺達が迷っても、結局、それを読むかどうか決めることができるのは、晶だけだよ。彼が、今までの経緯を振り返って、読んでもいいものか。そうでないのかを決める。もし、まどかさんに対して嫌な事柄でも、対処できるのは晶だけだ。それを渡さずにいて、朝子はその講師の人に、平気な顔して兄が受け取ってくれなかったと嘘をつける?」
内面を簡単に見透かして、風巳は柔らかく指摘した。
朝子が「平気じゃない」と呟く。
「だけどね、お兄ちゃんとまどかさんが嫌な思いをするのは、避けたい」
風巳が一つ吐息をついた。腕を上げて朝子の肩を抱く。力をこめて自分の方へ引き寄せると、コツンと頭をぶつける。
「朝子は本当に晶が好きだから。たまに複雑」
冗談めかした本音に、朝子は意外な告白をした。
「私、お兄ちゃんよりは、まどかさんの味方だもん。まどかさんが嫌な思いするのは絶対許せないの」
「晶より?」
「そう。まどかさん。――でも、一番は風巳だよ」
簡単に、何でもないことのように朝子が告げた。直後、顔を真っ赤にして隣でうつむいてしまう。風巳はあまりに期待通りの成り行きで、すぐに反応できなかった。言葉の意味に辿り着いて、同じ様に真っ赤になる。
二人が顔を見合わせて笑った。
「だって、まどかさんの想いは理想だもん」
「理想?」
「うん。私もあんなふうに信じていたいって思う」
「何を?」
「それは教えない」
最後のところで意地を張る。風巳が女心に振り回されていると、朝子が話を戻した。
「これ、渡してもいいものかな」
「いいんじゃない?朝子が悩むことじゃないよ、多分だけど。もともと、晶を探している人がいて。晶にふりかかってきた。遅かれ早かれ、同じ様なことになったよ。――確かに、本家が関わっているなら、簡単な経緯じゃない可能性もあるけど。晶は、もう過去に捕われて、立ち止まる人じゃないだろ?俺にとっては、あの曾祖父に負けなかった以上のことなんて、考えられない。だから、大丈夫だよ。そんな晶だから、まどかさんを守ってくれるはずだし」
過大評価ではなく、風巳にとって、晶は尊敬すべき生き様を歩んだ人なのだ。本家に立ち向かった彼の強さが、風巳の中には大きく刻まれている。
朝子がまどかを慕うのと似ているのかも知れない。
「俺の言いたいこと、わかる?」
「うん」
朝子が羽柴洋一に出会ったのは偶然でしかない。羽柴洋一は晶の手がかりを探していた。
いずれは朝子を介さずとも、晶まで辿り着いただろう。
その先のことは、晶の問題だ。自分達が迷っても、意味はない。
他の何かの因果で、この日記はいずれ彼まで届くのだろう。
それなら、自分が渡してしまった方がいいかもしれない。時間を経ると、ややこしくなる事柄もある。
「そうだね。風巳の言う通りかもしれない」
朝子がふっきるように、ふうっと大きな息をついた。風巳の方を向いて「ありがとう」と笑う。風巳は笑みを絶やさず、ただ朝子を少し引き寄せた。
触れる程度に、唇が重なった。
一瞬の口づけだったが、そのまま自分を引き寄せている風巳の体温が熱くて、朝子は戸惑ってしまう。でも、ふりほどくことはしたくない。
早鐘のような鼓動が、彼に響いている。恥ずかしい気もしたが、じっと身をまかせていた。
梅雨が明けて、本格的にやってきた夏。風巳が旅立つ日も近い。
考えたくてなくて、両腕を風巳の背中にまわした。こんな温もりを感じる日を、簡単に手に入れられなくなる日々。予想もつかなくて、朝子は瞳を閉じた。
4
書斎のデスクに、使い古された日記帳がある。カバーの装丁が革で出来ているらしく、丈夫な造りになっている。
ページを開くことに躊躇いを覚えて、晶はただ日記の表紙を見つめたまま静止していた。
夕食時の晶の質問に、朝子は他愛無く返答した。
羽柴洋一。彼自身を見ていて、不自然なことはないと言う。三浦葉子へと繋がるような手掛かりを、晶は妹から聞くことはなかった。
けれど、食事を終えて書斎へ戻ると、朝子が自分の部屋へ戻るようなふりをして、後ろをついてきた。大学での一連の成り行きを、簡単に教えてくれる。
洋一の姉の関わりを知ってしまったためか、朝子はまどかを気遣って、夕食の場で打ち明けることを避けたようだ。
妹の配慮は正しい。この一件にまどかを巻き込むかどうか、選択権が与えられたことになる。
今日、はじめて耳にした、三浦葉子の死。
その衝撃の余韻は、まだ消え去っていない。日記に目を通せば、彼女が命を絶った経緯もわかるだろう。
今更、そんなことに意味があるとも思えない。
過ぎてしまったことだ。原因が、自分を含めた一族にあったとしても、振り返って呵責を背負う必要があるだろうか。
日記の存在に反発を覚えながらも、晶の中には目を逸らせない思いがある。
彼女と過ごした時間は、互いに築いた壁の向こう側から、相手を見ていた。直接的な感情は、境界を越えることはない。曾祖父の秘書と、曾祖父を恐れる操り人形の少年。
意思の疎通は、その関係を元に行われていた。
彼女と自分の希薄な関係。
ずっと、そう思い続けてきた。
「―――――……」
晶の顔が自然と険しくなる。振り返れば、彼女の一挙一動が、ある一つのことに結びつく。
可能性を捨てきれない。
自分の傍から姿を消した理由。彼女の弟が、自分に日記を託す理由。
一族の罪よりも、晶には今生まれた一つの可能性が、恐ろしかった。
目を通すべきではないかもしれない。
そんな想いは、知らなくていいのかもしれない。
日記の表紙を凝視したまま、ただ沈黙する。虹彩の蒼さが美しい紺青の瞳を、閉じた。やがて、ゆっくりと開く。
長い指が、日記に触れる。ゆっくりと表紙を開き、パラリと頁を繰った。
まどかが空になったトレイを手に、自分の寝室へ入る。ベッドの隣にある鏡台にトレイを置いた。さっきまで、その上にはコーヒーカップがのっていた。カップの中では漆黒の水面が揺れ、ゆらゆらと湯気が立ち昇っていた。
晶のために入れたコーヒーがあったのだ。
ここ数日、晶は夜遅くまで、書類の整理で書斎にいる。本日も例外ではなく、まどかはいつものように、眠気覚ましのコーヒーをいれた。
書斎の扉をノックしたが、返事がなかった。どうしようか迷った挙句、中を覗いてみる。書斎で眠っていては風邪をひくかもしれないという、簡単な配慮から出た行動だった。
「―――……」
書斎の扉に手をかけて、開く。
そっと顔を出して、まどかはすぐに身をひいた。狼狽を何とか殺して、音をたてないように扉を閉めた。すぐには、その場から動けなかった。
彼は、泣いていた。
机に向かう後ろ姿を見ただけなので、はっきりとは断定できない。
自分が、そう感じただけかもしれない。
閉ざした扉を振り返る。何事もなかったように部屋へ入り、確かめたら、違うかもしれない。本当に涙を見せたなら、理由を聞いた方がいいかもしれない。
ぐるぐると様々な展開を考えていると、何の前触れもなく書斎の扉が開いた。
驚いて、まどかは思わず声をあげそうになった。
「やっぱり、気配がしたから。――こんな所で何をぼうっとしているの?」
顔を出した晶は、いつも通りだ。涙の形跡はどこにもない。
見間違いだったのか。
さっきの後ろ姿につながる気配を探そうと、まどかは彼の綺麗な顔をじっと見あげた。
「その顔は、俺に何を訴えているのかな」
晶のからかうような眼差しに、まどかが誤解だったと思い直した。
「コーヒーを入れてきたの。――はい」
トレイを心持ち上に差し出すと、晶が乗っていたカップを受け取る。
「あんまり無理しないで。……ちゃんと眠ってるの?」
いつもの自分を取り戻して言うと、晶がふっと笑った。かすかな違和感がまどかを占める。問いただす前に、彼が口を開いた。
「さっき、書斎へ入ろうとしてやめただろ」
突然、言い当てられて、まどかはすぐに誤魔化すことができなかった。答えることができない。うつむいても、彼の眼差しが自分に向かっているのが伝わってきた。
「あの、――あなたが、泣いているように見えたから……」
素直に打ち明ける。ゆっくり顔をあげると、彼は優しく笑っていた。
「泣いてはいないけど、……それは、間違えてもいない」
「どういうこと?」
「おまえは、人のことには敏いからな」
問いには答えず、彼は再びまどかをじっと見る。
透けた群青の空のような瞳。
全てを見透かされているような恐れが生まれる。その眼差しに引け目を感じて、まどかが視線を床に落とした。
「――おまえが、自分に自信を持っているなら、後で話すよ」
言葉は抽象的で、まどかには何の事を言われているのか検討もつかない。
「何の自信?」
聞いても、晶は教えてくれなかった。
「楽しい話じゃない。聞くかどうかは、おまえが決めればいい。――それでも、聞きたい?」
まるでからかうような調子で、彼が問い掛ける。まどかは少し躊躇ってから、頷いた。頷いてからも、それで良かったのか、自信がなかった。
もし彼が秘めていたいことなら、それを暴くようなことはしたくない。反面、彼を誰よりも理解していたい。せめぎあう二つの思いが通り過ぎる。
「じゃあ、後でおまえの部屋へ行く。……鍵をかけないように」
面白そうに付け加えて、彼は書斎へ戻る。
まどかは、キッチンやリビングへ戻らず、そのまま自分の寝室へ戻った。
謎掛けのような言葉。
彼の言いたいことはわからない。
違う。わからないふりをしている自分。
彼から打ち明けられる、想像もつかないこと。
この平穏な日々を手に入れたから知った、臆病な自分。
「―――……」
深い溜息をつく。自分の弱さが疎ましい。
自信を持っていなければ、また繰り返してしまう。
彼の秘め事を聞けずに、うまれた距離間、境界を知っている。
自分の想いが届かないことを呪った日々。繰り返したくはない。
彼は間違いなく、自分の手を取ってくれたはずだから。
今はもう、想いが届いているはずだから。
それなのに、この不安はどこから生まれてくるのだろう。
何も知らなかった頃に与えられた絶望が、後遺症となって、胸に宿っているのかのように。
彼の全てを望みながら、彼の全てに触れることを恐れている。
与えられても、与えられても、愛していたら、更に求め続けてしまう。
一族の束縛が彼を苦しめたように、自分が彼を縛ってしまう事が怖い。
きっと、彼は誰よりも、自由でいたい人なのだから。
自分が彼の枷になってしまうことが、嫌なのだ。
まどかが立ち上がる。考えることを放棄して、寝室の扉に触れる。
彼は、自分の中にある弱さに気づき始めている。だから、聞いたのだ。
自分に自信があれば、と。
カチャリと金属の噛みあう音がした。まどかは、ゆっくりといつものように鍵をかけた。




