ACT1
ACT2
1
六月下旬に、関西圏も梅雨入りを果たした。間断なく降る雨が、繁りすぎた木々の緑を打った。広い敷地を持つ大学も、注がれる雨を受けて、校舎の色調がわずかに暗くなる。
史学科の講師として、春からこの学院に通っている羽柴洋一が、外の雨模様を眺めた。彼は昨年まで、古代遺跡を追って砂漠地帯に滞在していた。日中は燦々と照りつける陽光が厳しいほどの土地だ。
日本とは気候の違いが激しい。毎日のように続く雨があまりに静穏で、眩しすぎた砂漠の生活が懐かしくさえある。
日に焼けた肌が、この時期には似つかわしくないほど黒い。
大学から与えられた教授室は、講師の洋一には余るほど立派であったが、個室は雄大な遺跡に比べると、あまりに狭い。
胸に抱えたわだかまりがなければ、洋一は講師など引き受けなかった。この大学に在学していた彼のことがなければ、今も発掘の現場にいたはずなのだ。
遺跡への興味を凌駕して、洋一はこの大学で知りたいことがあった。
窓の外から室内へ視線を戻し、デスクの上に置いてある一冊の日記を見つめる。
使い込まれた日記の表紙を、洋一はザラリと手で撫でた。
今は亡き者の形見。
全ての真実が、そこには記されていた。
恨むわけではない。哀しいわけでもない。ただ、知りたかった。
書き連ねた想いが、少しでも届くことがあったのか。
その情熱がどこへ辿り着いて、何を残したのか。洋一は替わりに見届けようと思ったのだ。
「先生、失礼します」
軽く二度のノックがあり、学生が教授室へ顔を出した。赴任して間もない洋一には、学生が自分の部屋を訪れてくるのは、初めてのことだった。
「事務所から、先生の授業の課題を預かってきました」
腕に学院専用の原稿用紙を抱えて、女子学生が二人で入ってきた。自分の授業に参加している生徒なのか分からない。
「どうも、ありがとう。でも、なぜ君達がこれを?」
全ての課題の提出は、一階の事務所が受け持っている。期日が過ぎると、事務職員が学科の教授達のところへ運ぶことになっていた。
「文学科で、今日が期限のレポートがあって。私達が最後だったから、職員さんが教授に届けてくれって。そしたら、教授棟に行くついでならこれもって。史学科の課題も渡されたんです」
「そうなんだ。悪かったね」
受け取って礼を言うと、「どういたしまして」と原稿用紙を抱えて来た学生が笑った。
物怖じしない性格なのか、彼女は真っ直ぐ洋一の目を見る。講師でありながら、洋一の方が戸惑ってしまうほどだ。
「先生、その様子だと自分の講義に出てる学生の顔、まだ全然覚えてないですね」
「え?」
「私達、一般教養の「考古学」とってるのに。遺跡発掘現場の話が聞けるって、面白そうだったから」
「そうなの?」
ハキハキした物言いにつられて、洋一も素の台詞を返してしまう。まるで、友人と話している時と同じ調子になってしまった。講師と学生とは言え、年にすれば、十も違わない。
栗色の髪にパーマをかけた、もう一人の学生が、背後でクスクスと笑っている。
彼女は、よくしゃべる相方とは対照的に口を開かない。ただ、微笑んで二人のやりとりを見ているだけだ。大人しそうな印象は受けないが、こういう場面は相方に任せているという感じだった。
「私、室沢って言います。まだ新入生ですけど。きっと先生の「考古学」の学生名簿に名前は載ってるはず」
「ごめん。人の顔とか名前を覚えるのは苦手なんだよ。何せずっと遺跡の相手をしてきたから」
洋一が頭を掻いて笑うと、二人とも明るく笑った。大学生の溌剌さが、ここに来たばかりの洋一には、少しばかり礼儀知らずにも見えたが、この二人を見ているとそうでもなかったらしい。
ひたすら明るくて、元気だ。砂漠に照りつける陽光を思い出した。
「室沢さんと、君は?――ちゃんと名前、覚えるようにするから」
またクスクスと笑ってから、彼女が名乗る。
「結城です」
「結城さんか」と繰り返しながら、洋一はその名にドキリとした。それほど珍しい名字でもないから、単なる偶然に過ぎないのはわかっているのに。
洋一の求める彼の素性は、日記には詳しく記されていない。彼が本来は「結城」を名乗ることも、この大学を突き止めて初めて知った。
出来れば彼の在学中に訪れたかったが、日記が洋一の手に渡った頃に、彼はちょうど大学を辞めたらしい。
それでも、彼の学院における知名度は損なわれることなく、在学生の中には噂を知るものが多くいた。この学院の中で耳にする話から、洋一は自分の求める答えを模索している。
世界に名を馳せる四大富豪の一つ。吹藤。
日常には相応しくない一族。
平凡な学生が行き来する、このキャンパスに、彼は在学していた。ここを去ってからは、一族のあるべき世界で活躍していた時期もあった。
常に遺跡と共にあった洋一は、そんな姿もあまり知らない。
彼についての知識は、全て人から見聞きしたものでしかなかった。
「先生は一年契約の講師って、講義で言ってましたけど、一年後はまた遺跡の発掘に戻るんですか」
人見知りを知らない調子で、室沢晴菜が問う。洋一は「そうだよ」と即答した。
「本当は、すぐにでも戻りたい位なんだけど」
「じゃあ、この大学に来たのは、もしかして、いやいや?」
的を射た発言だったが、洋一はすぐに頭を振った。
「違うよ。ある知り合いのことが知りたくて。この大学に手がかりがあったから」
洋一の答えに、室沢晴菜は一瞬、口を閉ざす。これ以上の詮索を迷ったようだったが、次の瞬間には好奇心が口を開かせたようだ。
「それって、この大学の卒業生とかですか。それとも、先生の彼女の母校とか」
隣で晴菜の様子を見ていた結城朝子が、「晴菜」と諌めるように呼びかけた。
「そこまで聞くのは、どうかと思うよ」
洋一には、二人の女子学生のバランスが何となく理解できた。
「二人は、この大学に来てから知り合った?」
朝子が講師の問いに「違います」と答えた。洋一が「そんな感じする」と笑った。
「いいコンビだね」
「晴菜と私、幼馴染みなんです」
「腐れ縁って感じ。幼稚園から一緒だもんね。先生、知り合いの手がかり、朝子なら少し役に立てるかもですよ」
「ちょっと、晴菜」
洋一は朝子が案じるようには、気を悪くしていない。学生と打ち解けていた方が、情報が手に入れやすいことも確かだ。
「どういうこと?」
会話の流れを厭うことなく問う。晴菜が待ってましたと言わんばかりに説明してくれた。
「彼女の知り合いに、今春卒業した人がいるんです」
今は結城邸で朝子と一緒に住んでいる早川まどかのことだ。彼女は朝子の幼馴染みの晴菜とも打ち解けて、いつの間にか仲良しになっている。
「もう、晴菜」
彼女のこういう性格は見慣れているし、朝子も嫌いではない。羨ましい位だ。 それでも、強引すぎやしないかと憂慮する朝子に向かって、晴菜は続けた。
「それに、晶さんだって、二年位は通ってたじゃん」
「お兄ちゃん?」
「そうそう。二人とも一応、母校には変わりないわけでしょ」
続いていく二人の会話は、もはや洋一には届いていなかった。
彼女達は、今、誰の名を語ったのだろう。
間違いなく、聞いた。
ただの偶然かと思い直すが、頭を通り過ぎていく二人の言葉は、全ての符号を合わせていく。
こんなところで、絶好の機会を手に入れた。
それが、疑うことのない幸運なのかはわからない。けれど、洋一の示唆するものに違いなかった。
結城晶。
洋一が見届けに来たのは、彼の心の在処だ。
形見の日記が執拗なほどに願った、彼の生きた想い。人として、焦がれ、望み、諦めないこと。欺瞞で作り上げられた檻を、壊すことが出来たのか。
微笑みを取りもどしたのか。彼女の死が、無駄ではなかったのか。
脳裏に交錯した考えが、渦を巻いて、洋一の中に嵐を引き起こす。
ここに辿り着いたことを、歓喜しているのか、亡くした者を振り返って、やはり怒りが込み上げたのか、わからなかった。
黙りこんでしまった洋一に気づいて、晴菜が「先生?」と呼びかけた。
直ぐに我に返って、洋一は何とか微笑もうと努める。胸に込み上げた感情の渦が激しくて、うまくいかなかった。
朝子に向き直って、正直に告げる。
隠すことのできない胸に押し寄せた波を、そこから生まれた焦燥を不審に思われるより、素直に語った方がいいと思ったのだ。
「結城さん。僕が探していたのは、多分、君のお兄さんだ」
「え?」
朝子が心底驚いたように、大きな瞳をいっそう大きくする。晴菜もけしかけた事態が思いも寄らない結果を招いて、言葉が出てこなかった。
「結城晶。あるいは、吹藤晶。――君のお兄さんに、間違いないんだね」
吹藤の名を出されて、朝子はすぐに危ういものを感じる。
兄を縛り続けてきたその名は、朝子にも心地よいものではない。取り繕う事も叶わず、朝子の面差しに警戒の色が浮かんだ。
洋一が、その兆しに気づいて苦笑する。
「そんな顔しないで、結城さん。ただ、一つだけ頼みたいことがある」
「――頼みたいこと?」
洋一が頷いた。警戒心を解かない朝子に、直入に述べる。
「一度でいいから、彼に会ってみたい」
晴菜が朝子の横顔を見た。色白の頬は緩むことなく、緊張したまま動かない。
朝子には、すぐに答えられなかった。
2
結城邸のキッチンで、まどかが夕食の準備を始めていた。
梅雨に入ってから続く雨模様は今日も顕在だ。今朝の飛行機で英国から関西についた晶は、時差の違いを克服できずに、寝室で眠っている。 久しぶりに帰ってきた邸宅の主のために、まどかは献立に気合を入れる。
風巳が二階の部屋から、のろのろとリビングへやって来た。
まどかの食事の準備を邪魔しないように、コーヒーを煎れようとキッチンの片隅で動く。
「あら、いいわよ。あたしが煎れるわ」
まどかがすぐに気づいて、メーカーでコーヒーを作ってくれた。
「ごめん、まどかさん。食事の用意してるのに」
「どういたしまして。受験生には優しくしてあげる」
受験生でなくても、絶対にまどかは優しい。そんなことを思いながら、風巳は食卓について、煎れたてのコーヒーを口にする。窓から雨に濡れた桜を見ていると、緑の葉が疲れた目を癒してくれるようだった。
大学へ入るための勉強と共に、風巳はその資金の調達も自身で行わなければならない。主にネット関係のバイトで稼ぎ、春先からは株などにも手を出している。
多くのことを学ばなければならず、睡眠時間がほとんどとれないような状態なのだ。
「あんまり無理しちゃ駄目よ」
コーヒーを飲んでも、欠伸をしている風巳にまどかが労わりの目を向ける。眠気を引きずったまま、それでも生活に充実を感じている眼差しで、風巳は笑った。
「平気。今無理しとけば、後が楽だから」
風巳は大学の課程に四年も費やすつもりはない。初めの二年位で過程を終了させて、あとの二年は学生の肩書きを得たまま、その先のために違うことを勉強するつもりでいる。
そのため、在学中の時間ができるだけ潰されないように、今は限界まで金儲けを企てて、勉強と両立させていた。
はたから見ていると、過労死しそうな勢いでもある。
こんなふうに、思うまま奔放に振舞っていられるのも、朝子が不満を表に出さないからだ。彼女は風巳を案じながらも、彼がやり遂げようとしていることを反対しない。
あまりの過酷さに、体のことを厳しく心配することは多々ある。
それでも、風巳に負担をかけないように、縛ってしまわないように、配慮されているのがわかっていた。
風巳が普通に大学へ通っていたら、二人で出掛けたりして、楽しく過ごす時期であるはずだ。朝子は、ふつう彼女という立場が得るはずの、当然の権利も我慢しているに違いない。笑って傍にいてくれる、その影で、どれほどのことを堪えているかを考えると、風巳も
「辛い」なんて、甘えたことは言えない。
「ところで、風巳君」
まどかがふいに問い掛けてくる。風巳がゆっくりと対面キッチンにいるまどかを仰いだ。
「何?まどかさん」
少し迷ってから、彼女が思い切って口にした。
「五月のゴールデンウィークに、朝子ちゃんと二人きりだったでしょ」
「二人が、英国に行ってた時?」
「そう。その時に、晶の期待には添えた?」
「え?」
言われていることが理解できないまま、風巳がコーヒーを口にする。まどかが言葉を選びながら続けた。
「だから、その――朝子ちゃんとは何もなかったの?」
「っ!」
瞬間、ゲホッとものすごい勢いで、風巳が咳き込んだ。そのまま、苦しげにゲホゲホと繰り返している。むせた苦しさで、若干涙目になった風巳の様子を見て、まどかが慌ててキッチンから出てきた。
「ご、ごめんなさい。大丈夫?」
背中をさすると、しばらくして彼が「大丈夫」と言って大きく息をついた。
「まさか、まどかさんにそんなこと聞かれるなんて思わなかったから」
「だってね、晶がそんなようなこと言ってたから。どうだったのかしらと思って」
じっと風巳の顔を見ていると、がっくりとうな垂れて首を横に振った。
「朝子には、何もしてない」
「え?そうなの?」
なぜか不思議そうなまどかの素振りに、風巳は苦笑した。
「考えると、怖くて……」
「怖い?」
風巳が頷く。
「朝子の傍を、離れられなくなるかもしれない――とか。朝子が余計に淋しくなるんじゃないか、とか。……まどかさんは、どう思います?」
風巳のひたむきな気持ちが、まどかにも届く。ただの欲望だけで行動しない彼が、抱えている想いの深さを物語っているようで、少し感動した。
「朝子ちゃんが、大切なのね」
しみじみと言うと、風巳の顔が一気にのぼせ上がる。首まで赤くなった様子に、まどかが笑った。風巳がガシガシと頭を掻く。高校に在学していた頃よりも伸びた髪が、ふわふわと乱れた。細い髪質は、まるで染めたように綺麗な褐色をしている。
「だけど、四年間ずっと会えないわけじゃないのに」
「うん、そうなんだけど――」
少しだけ沈黙が訪れた。風巳の中に、なぜまどかを相手に一線を超えるかどうかの悩みを語っているのだろうという、疑問が浮かんできた。
こういう話題は、沙輝にするべきことで、まどかに打ち明けることではないはずだ。ますます恥ずかしくなって、風巳はまともに顔を上げられない。
自分が情けなくなってきた。
まどかが空になっているコーヒーカップに、おかわりを注ぐ。ゆらゆらと湯気が浮かび、渦を巻いて、消えて行く。
「あたしは、そういう絆も大切だと思うのよね」
何でもないことのように、まどかまで風巳の背中を押す。そっと顔をあげると、優しげな笑みに出会った。彼女は、誰が見ても間違いなく綺麗な女性だ。
晶が初めて彼女に触れた時、怖くはなかっただろうか、と思う。
今のような穏やかな日々ではなかったはずなのだ。全てが一族の束縛の中で、それでも彼女の傍を選んだ。
行く末の暗さを前にしながら、彼女と触れ合うことに、戸惑いや後悔はなかったのだろうか。
全てを凌駕して、彼女を欲したのだろうか。
自分勝手で、我儘な想い。けれど、従ってしまう本能も理解できた。
最終的には、どんな理屈も太刀打ちできない。彼女の全てが欲しくてたまらなくなるのだろう。
自分の欲望で無理強いはしたくない。反面、そんな恐れをこえて手に入れたいという衝動を、堪えていることも事実なのだ。
「確かに、そろそろ我慢も限界かも……」
思わず呟くと、まどかが「やっぱり男の子ね」と笑った。
3
澄明な闇が、眼前に広がっている。
静寂の中に佇んでいると、何か大きな存在が過ぎ去り、どこかへ行き着いた気配がした。
黎明を告げるかのように、強い衝撃があった。
蒼い闇の彼方に、目を凝らす。
何も見えない。
空間が無限に続いて行くのが分かるのに、先途は闇に紛れて見えない。
深淵の暗さと沈黙の中にあるはずの安寧。その安らぎに不穏なものが混じりあい、胸騒ぎがした。
理由も、理屈も存在しない。
全ては感覚が訴えるだけの、予感。
ひどく気持ちが悪いのだ。額をすべり落ちる汗が冷たい。
脈打つ触感がやけにリアルで、速く、その音だけが耳につく。
もう二度と、垣間見ることはないと思っていた深い闇。そこに至った自分が信じられない。
「今更――」
晶が一歩足を踏み出し、無駄を悟る。逃れる術はない。
目覚めることでしか、解き放たれない闇なのだ。
絶望を胸に抱えて落ちていった自分を思い出すが、今はそんな場所には立っていない筈だった。
彼女の癒しを持ってしても、深淵と自らの夢は陸続きの次元に在る。
胸に迫る圧迫感がますますひどくなり、晶は無意識に胸元をつかんでいた。喉に何かが詰まったように、息が苦しい。
見通しのきかない闇の向こう側に、小さな煌きを見つけた。確かに先程まで、何も見つけることのなかった空間に。
光は少しずつ近づき、やがて人型となる。
長い金色の髪が、反射を必要とせず光を集めていた。燐光を放ち、幻のように、彼は晶の前に立った。
「君の想いは、見届けた」
彼を取り巻く者たちから「長」と呼ばれる青年は、美しい顔に微笑みを宿らせている。
「彼らの気配を感じたかい?」
何も見通すことの叶わない闇を、遥か向こうへ見透かし、彼は問うた。
「彼ら?」
問い返すと、彼は再び笑みを向ける。闇の向こうを指差した。
「君達の生きる地に、決して立ってはならぬ者達」
晶が首を横に振る。意味がわからない。
「来る時が訪れた。いずれ、君は出会うことになる」
短い答えは、問いを解き明かすことはない。
「そして、闘わなければならない」
「何のために?」
「君達の世界を作り上げるために」
青年は晶の苦しげな息遣いに気づいて、綺麗な眉をひそめた。
「……苦しいんだね。彼らの理を破った、歪んだ波動が、ここには届いてしまう。君の眠りを侵している」
白く長い指が、晶の額に触れた。温度を感じない。
「私の護りを君に与える。時がくれば全てがわかる。だから、覚えていてほしい。どんな真実が行く手を阻んでも、君の想いは間違いではない。私の罪も、君の受け継ぐ血統も、君達の世界では正しい」
青年の眼差しには、凛とした光が宿っていた。彼の犯した古の罪も、今となっては、正しい。今更、なかったことにはできない過ちだと。
「覚えていて。君達の生きる世界では、それは必然だから」
世界を構成する、欠くことのできない因子。
「だから、失ってはいけない。……必ず」
守り抜かなければならない。手を離してはいけない。
「君が失うということは」
崩壊を意味する。全てがなかったことになる。この身が犯した罪さえも。
「何も残らないということ。何もかもが、はじめからなかったことに……」
闇の密度が、少しずつ失われていく。
どこからともなく光が溢れ、闇を包む。暗さが払拭されて、同時に、胸を圧迫する気配も少しずつとけ始めた。
抑止することも叶わず、光が――、目覚めが青年の美しい姿をかき消していく。
まだ問いたいことは、数多く残されているのに、目覚めが訪れてしまう。
正視でないほどの光につつまれて、青年は静かに微笑む。
「君は、彼らに出会う。私の罪を許せなかった者達に」
何かを問うたが、自分の声を聞くこともできなかった。あふれる光にのまれて、目覚めが全てを乖離させる。
―――君は、我らの罪を贖う者。そして、あるべき場所へ、導いて欲しい。
眠りに木霊した、最後の声。
「―――……」
ふうっと、晶の紺青の瞳が開かれる。彼方へ遠ざかった闇は、もう追う事もできない。
胸に入り込んだ気持ちの悪い波動も、跡形もなかった。
ゆっくりと視線を動かすと、見慣れた寝室の天井が視野を占めた。
薄いカーテンを透かして、雨の気配がする。
現実に引き戻されながら、晶はベッドに身を起こした。
夢の名残りで、額を冷たい汗が滑り落ちた。体中が汗に濡れている。動悸は静まりつつあるが、まだ幾分、激しかった。
深く吐息をつく。何かが始まったのだ。
闇の遥か向こうで、何かがどこかへ行き着いた。
決して、辿り着いてはいけないモノが、この地のどこかに。
胸に迫った衝撃の激しさと、不快感。
――いずれ、君は出会うことになる。
青年の言葉を、反芻する。きっと、そこから何かが、あるいは既に、始まっているのかもしれない。
「……何があるっていうんだ」
彼の告げることは、具体的なことを示唆しない。教えられたからといって、状況が変わるわけでもないのだろうが。
もう一度、深く息をついた。
考え込んでもどうにもならない。開き直って、晶がベッドを出る。
汗に濡れたシャツを脱ぎ捨てて、そのままシャワーを浴びるために一階へ下りた。
4
ふいに、廊下へ続くリビングの扉が開いて、風巳が振り返った。
晶がタオルを片手にシャツを羽織るような簡単な格好で入ってくる。
髪が濡れているところを見ると、シャワーを浴びてからやって来た様子だ。
まどかも笑みを見せて、彼に声をかけた。
「晶、起きたの?」
「ああ。一眠りしたよ」
夢の内容を思って、晶は複雑な心境だった。まどかに打ち明けることも考えたが、とりあえず普段通り振舞うことにした。自分の中でも、全く整理されていないのだ。語りようもない。彼女には、既にそれなりに予告はしてある。 何の出来事も起きていないうちから、周りを心配させる必要もないという配慮だ。
「どうしたんだ、おまえ」
現れた晶を見て、何をうろたえたのか、風巳の様子が不自然すぎた。
「いや、別に……」
言いながら、視線を伏せた風巳には、近くにやって来た晶の、黒いズボンの裾から出ている素足が見えた。
「何でもないけど、さっきの会話、廊下で聞いてたりしなかったよね?」
ゴールデイウィークに朝子と進展はあったのかという、まどかとの会話のことである。
自分で墓穴を掘っている質問であることに、風巳は気づかない。
彼の抱いた危惧を察して、まどかが可笑しそうに笑った。
「さっきの会話?」
彼の冴えた美貌にはよく似合う、特有の、少し人を見下すような眼差しが風巳に突き刺さった。美事なほどに嫌味な笑みを浮かべて、口を開く。
「おまえ、その質問。俺に探りを入れられたいのか、そうでないのか、どっちなんだ?」
「え?いや。だから、聞いてなかったら、それでいいんだけど」
「へぇー」
ますます狼狽する風巳に、晶が一歩近づいた。それから、傍らに立っているまどかに視線を送る。どちらの味方につくか逡巡したあと、まどかは結果的に深刻な事態に展開はしないと思い至る。あっさりと、晶に内容を伝えた。
「ま、まどかさん。裏切り者」
咄嗟に風巳が咆えたが、まどかは「晶に相談するのも悪くないでしょ」と、他人事のようだ。笑いながらキッチンへ姿を消すと、夕食の準備をはじめた。
風巳がいたたまれない気持ちで、食卓に座っている。晶が面白そうに笑いながら、風巳の隣に腰掛けた。
「ゴールデンウィークに朝子と何もなかったって。そんなこと、お前達見てたら分かるけど。おまえ、奥手というか、臆病というか」
「情けないな」とからかうと、風巳が開き直って、言い返す。
「あのね、晶と一緒にしないでよ。いろいろ考えるわけ、俺も」
「いろいろねぇ。踏み出せない言い訳を?」
「違うっての」
強気な口調も、顔が紅潮していては迫力がない。妹の相手に奥手だと進言するなど、本当に彼は朝子の保護者なのか?と疑いたくなる。晶の追撃を阻むために、風巳は間をおかずに聞きかえす。
「じゃあ、晶はどうだったの?」
「何が?」
「まどかさんに対して。迷ったりしなかった?」
少なからず興味のある話なので、風巳は真っ直ぐに晶を見る。整いすぎて魔的にも見える美貌が、嫌な笑みを浮かべた。
「迷ったかどうかはおいといて、俺はおまえのようなヘマはしない」
知りたかった事にわざと答えないのか、答えたくないのか、晶は嘲るように風巳に言い放つ。
「まだ何も失敗なんかしてない」
「絶好の機会を逃すことは、失敗じゃないのか」
「だって、あの連休は沙輝も帰ってきてて、別に二人きりじゃなかったしさ」
「醜い言い訳だな、それ」
「あのねー」
ますます悪戯っぽく笑うと、晶は痛く釘を指すような事を風巳に教える。
「ああ、でも朝子の場合。祖母と二人で過ごした時間も長いから、なかなか考えが古風なとこあるかもな」
「古風って?」
「例えば、結婚するまで貞操を守るとか」
「――――」
風巳が言葉を失う。背中を押しているのか、行く手を阻んでいるのかわからない。単にからかって、遊ばれているだけのような気がする。
「それって、俺にどうしろって言いたいの?」
「べつに」
風巳がぐったりと頭を垂れた。邪気だらけの心根とは裏腹に、晶は悪戯が成功した子供のように、無邪気な様子で笑っている。深く息を吐き出して、風巳はちらりと上目遣いに彼を見た。
お互いに、これほど無防備な関係になれるとは、出会った頃は思いもしなかった。
風巳は晶を恐れ、警戒していたし、晶は風巳を疎み、傍に近寄らずにいて欲しいと願っていたのだ。
一族の大きなからくりが、二人の出会いを招いた。けれど、築かれた関係は、一族の因果とは無縁のところにある。
同じ父から生まれた、兄弟。
彼との血統のつながりを聞かされた時は、素直に喜べなかった。あれから、それほど時を経たわけではないのに、今は違う。
兄弟の繋がりを感じることはないが、それも悪くないなと、風巳は素直に受け入れられるようになっていた。
彼に対しては、朝子の兄であるという観念が、全てではある。
出会った経緯による印象と、晶の朝子に対する思いが良く分かるからだ。血縁のある風巳よりも、彼は血縁のない朝子を最後の肉親として慈しむ。
最愛のまどかへの想いと同じ位に、妹としての朝子を想う。
両親を奪った贖罪。
妹への罪悪感。
朝子を思えば思うほど、彼は呵責を背負う。全ての罰を受け止めて、最後まで見捨てることはない。負い目ではなく、朝子が本当に妹だからだ。
理屈はない。
兄弟がない風巳には、羨ましいほど美しい絆に見えた。
「でも、やっぱり晶は変わったな」
脈絡もなく風巳が口にした。晶が怪訝な目を向ける。
「格好良くなった」
頬杖をついて、斜めに晶を見あげた。一族に翻弄されない立場を築いたことが、彼の糧になっている。大きな自信を手にした。彼は二度と過ちを犯さない。
過去を振り返らない。自らの幸せの在処を見失ったりしないのだろう。
「――気持ち悪い」
万感の思いをこめていたのに、風巳の素直な感想は、一言で一蹴された。
「人が褒めてるのに、気持ち悪いって、何それ」
「褒められても、何もでないし、協力もしない」
「うわ。すっごい打算的な物の見方。純粋な感想なのに」
「今の会話の流れで、素直に受け止めろって方が無理だろ」
意志の疎通が疑わしい会話を続けていると、リビングの扉が開いた。
「ただいま……」
帰宅した朝子が入ってくる。今まで晶との不毛なやりとりで、膨れっ面になっていた風巳の顔が、パッと笑顔に変わった。
「おかえり、朝子」
晶も帰国してから初めて会う妹に「おかえり」と笑った。
「お兄ちゃん、帰ってたんだ」
いつもと違い、何かを憂慮するような気配で、朝子はそんなことを言った。帰国を喜ぶよりは、戸惑っていると言った方が正しい。
食卓の二人はすぐに変化に気づく。風巳が口を開こうとすると、対面キッチンにいるまどかが、朝子の帰宅に気づいた。
「あら、おかえりなさい。朝子ちゃん」
「ただいま、まどかさん。鞄、部屋においてくる。すぐに手伝うね」
朝子はそのままバタバタとリビングを出て行った。
風巳が晶を振り返る。
「おまえの出番」
唐突に、彼から指令が出た。
「出番って?」
「おまえもおかしいって思ったんだろ?」
「――うん」
朝子が晶を慕っているのは、これまで一緒に過ごしてきて、よく知っていた。彼の帰国を喜べない影には、必ず理由が在るはずなのだ。
風巳が椅子から立ち上がる。素早い動作で、すぐにリビングから姿を消した。
朝子は部屋に鞄を置いてすぐに部屋を出た。階段を下りていると、上がってくる風巳と出会う。
「風巳、今から勉強?」
朝子の言葉が、いかに受験や留学のためにしか時間を割いていないか思い知らされるようで、風巳は苦笑した。
「ごめん」という言葉が出そうになって、思いとどまる。
謝るのも、朝子に対して失礼な気がした。
勝手を貫く罰として、自分の中にある負い目は抱えていなければならない。謝罪を言葉にしても、朝子には不快なだけだ。
「ちょっと息抜き。ね、朝子。俺の部屋に来てよ」
「え?だけど、私、まどかさんを手伝わなきゃ……」
「いいから、いいから」
背中を押して、風巳は二階に作られた自分の部屋へ朝子を招いた。まどかが結城邸に越してきてからは、風巳もほぼこの家に住んでいる。
女二人だけの生活は危険だからと、朝子とまどかに声をそろえて言われたからだ。とってつけた理由であることは、風巳も知っている。本当は、留学のために限界まで厳しい生活を送っている風巳を案じての提案なのだ。
父が用意した部屋は、マンション自体が吹藤の持ち物である。部屋の数少ない家具などを片付ければ、すぐに立ち退きは完了するのだが。
とりあえずアメリカに発つまではと、マンションの部屋はそのまま放置されていた。
結城邸の風巳の部屋は、やはり人の家であるために、風巳自身が勝手に模様替えをすることはない。物を増やすこともないので、シンプルだ。
デスクの上に広がった参考書や、傍らのパソコンが、彼の生活を物語っていた。
朝子が足を踏み入れるのは、久しぶりのことだ。
「風巳、まるで経済学者みたいだね」
マネーや金融、株に関する分厚い書籍が、小さな本棚に入っている。投資のために、晶に協力を仰ぐことも少なくない。二十歳にも満たない若者のすることではないが、短期間でそれなりの資金を稼ぐためには、仕方がなかった。
「イチかバチか、みたいなところあるけどね。賭けだから」
「でも、やることが違うね、沙輝の言うとおりだよ。ほんとに」
朝子が関心しながら、デスクの椅子にかけた。風巳はベッドの上に腰をおとす。
「でも無理のしすぎで体を壊してたら、意味ないよ。気をつけてね」
「若いから、平気」
明るく答えると、朝子も笑った。風巳が自分の隣をポンポンと手で叩く。
「こっちおいでよ、朝子」
無邪気な笑顔で呼ばれて何のためらいも感じず、朝子は風巳の隣に座りなおした。
琥珀色の瞳が宿す、素直な想いは変わらない。風巳の顔を見ていると、朝子はそれだけで安心する。ゆっくりと風巳の肩にもたれかかった。
誰かに対して甘えることが不器用な朝子には、珍しい仕草だ。彼女が帰宅した時に感じた戸惑いは錯覚ではなかった。
「何かあった?」
問いかけにすぐに応じず、朝子はもたれかかったまま、部屋の扉をぼんやりと見ている。風巳に告げることさえ、迷っている。
講師の羽柴洋一が、「吹藤」の名を口にしたからだ。どういう繋がりなのか聞くこともせず、朝子は洋一に兄の不在だけを伝えた。
突然のことで動転していたが、思い返せば、どういう関係なのか聞いてもおかしくはなかったのに。
洋一の存在が、兄を苦しめるものなのか、単なる知人なのか、朝子にはわからない。わからないから、晶に聞くこともできないのだ。
「……朝子?」
「お兄ちゃんて、人に恨みかうようなことしてないよね」
重い口を開いて、朝子が意外なことを言う。風巳が眉をひそめた。
晶が、というよりは、吹藤の一族が、と連想させる言い方だった。一族についてなら、風巳も否定はできない。
「どういうこと?」
体を立て直して、朝子が風巳を見た。彼を困らせることが分かっていても、朝子は今までのように黙っていることができそうになかった。
何かあるたびに、恐れることがある。ずっと胸に抱いてきた、わだかまりだ。
「どうして、お兄ちゃんも風巳も、吹藤の人なの?」
思いも寄らない台詞で、風巳はすぐに言葉が出てこなかった。朝子の抱く不安は、そんなところにもあった。見落としている彼女の心根が、どれほど悲鳴をあげていたのか、風巳は思い知らされる。
風巳の表情に、微妙に陰りが現れて、朝子はハッと我に返った。
「ごめん、風巳。今のは、なんでもない」
慌てて取り繕っても、既に遅かった。風巳の顔からは、笑みが消えている。
「なんでもないじゃないだろ。それ」
決して、口にしてはいけないことを口にした。朝子は自分の犯した過ちに唇をかむ。
「ずっと、そんなことを不安に思ってきたんだ」
「違うよ、今のは、はずみで……」
「違わない。そういうことは、ちゃんと言わなきゃ。俺にも晶にもわからないよ。朝子は、もっと人に甘えていい」
彼女に甘えている自分に、風巳は苛立ちが湧き上がってきた。不器用な彼女を知っていたのに、自分の世界で手が一杯で放っていたのだ。風巳の怒りに気づいて、朝子は戸惑う一方だ。
「ごめんね」
朝子がもう一度、口にする。
彼女は、周りが思うほど、強いわけではない。両親を失った環境が、彼女にそれを強いただけだ。
朝子は努力して振る舞っているだけなのだ。
傍にいて知っていたのに。
やりきれなくて、思わず朝子に腕を伸ばす。強く抱きしめると、小さな女の子でしかない。
「朝子が謝ることなんかない」
「だって……」
「本当のことを言って。我慢せずに。辛くて仕方ないんだろう?俺の勝手が、傍を離れることが、朝子を傷つけてる。吹藤の名が、不安にさせてる。違う?」
「違う」
「朝子」
本音を語らない彼女を、叱るように呼ぶ。朝子が、風巳の上着をぎゅっと握りしめた。
「それを聞いても、風巳は困らないの?」
くぐもった声が、微かに震えていた。彼女を捕まえている腕の力を緩めずに頷く。
「たまには、俺に甘えてよ」
「――本当は、嫌だよ。風巳がいなくなること、すごく怖い。お兄ちゃんに、吹藤の名前が着いて回ることも。――怖いよ」
晶が戻ってきて。まどかが傍にいてくれる。風巳も。
そんな幸せが続くほど、それを失う日の事が怖くてたまらない。
兄である晶の周りに築かれた大きな世界は、朝子には見ていることしかできない世界だ。
大切な二人が、いつか去ってしまうという疑惑。
それが、消えない。二人が大切に思ってくれているのが分かっていても、消せないのだ。
自分の弱さを、朝子は認めている。気をつけていないと、必要以上に我儘になってしまう。人に素直に甘えられないのも、弱い自分を隠していたいから。
知られたくなかったからだ。
初めて言葉にすると、意味もなく涙が溢れてきた。どこかに引っ掛かっていた塊が溶けていく。けれど、風巳を縛ってしまうことを思うと、苦しかった。
「絶対、朝子のところに帰ってくる。アメリカへ言っても、休暇は戻ってくるようにするし」
アメリカへ行くことをやめるとは、風巳は言わなかった。朝子が新たに抱いた苦痛が、和らぐ。相容れない二つの思いを、風巳は分かってくれた。
離れているのは辛い。それを言葉にしながらも。
朝子は自分の弱さを知っている。それが風巳を引き止めてしまうことを強く恐れている。
「ありがとう、風巳。――怖いけど。それでも、風巳には前に進んで欲しい。本当だよ」
「うん、知ってる。だから、頑張るよ」
彼の胸から顔を上げて、朝子はそのまま笑ってみた。風巳も笑うと、コツンと、かるく額をぶつけてきた。
「それで、そういうことを一気に思い返すほど、今日、何かあったの?」
少しだけ、風巳に対して甘えてみようという気持ちが生まれる。
「私、お兄ちゃんのこと、すごく好きなの」
臆面もなく告白されて、風巳は複雑な心境になった。知ってはいたが、言葉にされると少し妬けることも事実だ。
「だから、言いづらいこと?」
「……うん」
朝子が大学の講師である羽柴洋一とのことを、風巳に話した。
「羽柴、洋一か。俺は全く知らないけど。誰かな。それとなく聞いてみようか」
「うん、そうだね」
打ち明けて、朝子は少しホッとする。風巳がポンと朝子の頭に手をおいた。
「甘えるのって、気分よくない?」
「え?」
朝子が聞き返すと、まどかの呼ぶ声がした。どうやら夕食が出来上がったみたいだ。
「あ。私、何も手伝ってない」
風巳とのラブラブな雰囲気をすぐ横にどけて、朝子が立ち上がった。
「まどかさん、ごめん」と言って、階段を駆け下りていく。
残された風巳が、大きな溜息をついた。




