ACT0(序章)
嵐にも似た激情が 静謐な闇に潜む
1
断崖と言ってもいい丘から、彼は遥か彼方に広がる稜線を眺めていた。緑の上に横たわる深い霧が、視界に霞をかける。視線を動かすと、緩やかに噴煙を上げる山並みもあった。
彼は、許されぬ理の上に、この地に降り立った。
語り合う者がいないこの地は、何者にも侵されない自然を従えて在る。大気は澄み渡り、見上げる空の青さが、庭園の光り溢れる世界を思わせた。
地上に降り注ぐ陽光が、彼の金色の髪を輝かせる。禁忌を犯してすぐの頃、彼は長く美しい金髪を、躊躇うことなく切り捨てた。
彼が治める闇深き世界に、その輝きは罪に等しい。
眷属の者が抱く不信を、彼は永く感じていた。
身に光を纏う意味。
理が生む羨望の欠如。
闇を纏う眷属の者達は、憧憬する光の在処を、彼に認めなかった。彼がどれほど説き伏せても、言葉にしても、かの美姫に愛を寄せても、想いを馳せても、決して届かない。
光を手にした彼への、同族の嫉妬なのか、もはやわからなくなっていた。
それでも、彼が手にする闇の力は、誰にも凌駕できない絶対のものがあった。彼を破ることが出来るのは、同じ庭園に生きる、光の長。あの美しい姫だけが手にしている。
不信を胸に抱いても、彼に反旗を翻す力は同族の内にはなかった。
全ての闇も、影も、哀しいほどに、光を纏う彼に従う。闇を統べることは、彼にだけ許されていた。
行き場のない思い。いつでも独り。
誰にも理解されない、光への憧憬。
ひたすら、庭園の外へ出たかった。その決意の果てに、彼は禁忌を犯した。
生きとし生けるものの、はじまりと終わり制する庭園には、順序があった。庭園の外を構成する、全ての命。星であり、大気であり、海原であり、草花でもある。
庭園に生きる者達は、闇と光が一対のつがいとなり、外の世界で生を歩む。
彼は、闇だけを携えて、理も順序も破って、ここへ降りた。
地球が新世紀を歩み始めて、かなりの年月が過ぎた。
太陽系の第三惑星は、その星が生んだ人類の手によって、死の星と化す。同時に西暦年代が終焉した。
数世紀を経て、地球は再び人類の手によって再興される。できあがった新たな世界が、地球暦を刻み始めた。
その新世紀の初頭に、人類は空間の理を解き明かし、他銀河への長距離移動を可能にする。地球を拠点として、彼方の惑星への移住がはじまったのだ。
天賦の才を持つ科学者のサクラは、いつもと同じ様に朝を迎えた。新天地として移住の始まっていた第六星系の惑星にある隠れ家だ。
有史以来の奇跡と言われたサクラは、全ての名声を捨てて、この星へ来た。世を捨てるにはあまりに若い。成人してから、まだ数年と経ていない年齢なのだ。
出来る限り母星を復元した星を、サクラはそれなりに気に入っていた。
「博士。お目覚めですか」
愛しい子供であるリーフが、優しい微笑みを浮かべて入ってくる。サクラが母星を去ってから、一年以上の月日が流れていた。
「リーフ、おはよう。私は決めたわよ」
サクラの携わった研究は数え切れない。
手がけたあらゆる分野の一つに人工生体の開発があった。
その最高傑作が、このリーフである。
美しい青年を模した彼の動きは、人と比べてもどこにも遜色はなかった。出生率の低下している
この惑星では、母星の地球と比べると、人工生体の密度が高い。
出生率の阻害要因は明らかではない。
あやふやな根拠で、人工生体の存在が出産率を下げていると言う団体もあった。
子供を一人生むより、人工生体を傍に置く方が遥かに楽であるからだ。
それでも、サクラにはよくわからない。何が理由であれ、人類は武力の脅威を味わった後には、種としての存続ができないことが問題になるのかと思っていた。
「――博士」
サクラの決意を察して、リーフは哀しそうな顔をした。
「そんな顔しないで。私は母星で、できるだけのことはしたつもり。思い残すことはないの」
天才科学者としての異名は間違いではなく、サクラは研究の最先端を退いてから、兼ねてから興味を抱いていた時間軸の数式を、たった一人で解き明かした。
「私は、美しい地球を一目見たい」
復興された母星は栄えていたが、西暦年代の自然は跡形もなかった。
サクラはいつか資料で見たことのある、美しい大陸に触れたかった。
「ごめんね、リーフ」
人はどこへ行くのだろう。何を求めているのだろう。
サクラの抱える答えのない問い。
自身が内包している孤独に気づくゆとりもなく、サクラは研究に努めた。今も胸にある問いがどこへ行きつき、何を求めているのか分からない。
人と接するより、人工生体と接する方が長い生活を送った。
大昔、母星に培われていた自然に焦がれながら、サクラはそれを手にするのが不可能な時代に生まれた。
淋しいのだと、サクラは気づいていなかった。
何かを生み出しているようで、本当は何も生み出していない。自分が望む安らぎは、この世界にはなかった。
閉じ込められた檻の外を、見たかった。
「――無事に帰って来れるの?」
リーフの問いに、サクラは横に首を振る。
「わからない。自分の答えが正しいのかも、行って見なければわからない。リーフ、私が作り上げた装置は、私が消えた後、あなたが始末してちょうだい」
「どうして、博士」
「この時間、この場所に帰れる可能性はないの。だから怖くて、ずっと悩んでいた。だけど、決めたわ。私はあの美しい星に触れたい」
「過去に?」
「そうよ。癒される気がする」
「だけど、せっかくの研究の成果を」
「リーフ。私は、自分の手が未来を変えるような大きな出来事を生み出すことが怖い。あなた達を作って、思ったの。人には、犯してはいけない領域があるのではないかって。私の研究が明るみに出なくても、いつか、人々は時間の理を超えるでしょう。だけど、私の手がその理を破るきっかけになるのは、避けたいの。わかってちょうだい」
リーフには何も言えない。サクラの傍にいて、彼女がいつも見えない何かと戦っていたのが、わかっていた。ただ、静かにうなずいた。
「約束します、博士」
「ありがとう、リーフ」
それが、サクラの微笑みを見る最後になった。
伸ばされた緑条に、細い蔓が巻きついていた。彼はありえないモノが横たわっているのを目にして、歩みをとめた。一瞬、自分にかかった庭園からの追手なのかと思い警戒する。
黒い髪に、細い手足。だが同族の者が、姿を闇に同化させるために纏う黒衣を着ていなかった。横たわる彼女が身につけているのは、真っ白な衣装。
眷属の者ではありえない。
けれど、この地の生き物にこれほど洗練された容貌を持つものを、彼は目にしたことがなかった。この時代、人は進化の過程にある。
人型を取り、二足歩行をするものはあるが、彼女はそういう者とは違っていた。
彼は人の起原や、この星の未来は知らない。庭園に流れる時間は、外の世界に流れる時間と等しい。過去を語れても、未来を窺い知ることはない。
それでも、横たわっている彼女の存在が、おかしいことには気づいた。
追手の可能性がなくても、警戒をゆるめない。ゆっくりと近づいて顔を覗き込む。
白い肌に、漆黒の長い髪。
理由もないのに、彼はそこに想い寄せる美姫の面影を見た。
闇に属する自分には持ち得ない、光の波動がある。間違いなかったが、同時に、彼女からは闇の波動も感じられた。それは彼女の中で互いに打ち消しあっているが、彼には感じ取ることができた。
抱き起こすと、体から温もりが伝わった。ほどなく、彼女が目を覚ます。
磨き抜かれた黒い硝子が濡れたような、美しい瞳。光の加減で、群青にも、紫紺にも見えた。
はじめは事態を把握していなかったが、意識がはっきりしてくると彼女は辺りを見回してから、彼に「あなたは誰?」と聞いた。
投げられた言葉を察することはできたが、彼は逆に彼女に問い返した。
「君は誰?」
言葉というより、直接思いを送り込んだと言った方が正しい。彼女は脳裏に響いた声に、答えた。
「私は、サクラ」
「サクラ?」
「そうよ。ユウキ・サクラ。この世の法則を破って、ここへ来たわ」
彼は少し驚いて彼女を見た。共に許されぬ行動の果てに、この出会いが成った。
「あなたは誰?」
「私は、――」
彼には名はない。けれど、自らが好む発音があった。
「私は、ルシファー」
「ルシファー?それは、堕天使の名前と同じね」
堕天使の名を語る青年。サクラには、何を意味するのかわからない。
「堕天使?」
青年が名の意味を知ることはない。
未来で作り上げられてゆく、天界という架空の創造物。
「大きな力を持つ者が、それに自惚れ、神に嫉妬し、裏切るの。堕落した者の名前よ。 あなたには、相応しくないんじゃないかしら」
横たわるサクラを気遣う、青年の穏やかな眼差し。彼はサクラの言葉を受け止めて、 自嘲的に笑った。
「私には、相応しい名だ」
自分が好む呼び名に、そんな意味があった。どのような因果なのかは、わからない。
けれど、あるべき世界からの堕落者。裏切り者の名は、誰よりも自分に相応しい。
彼女は「ルシファー」と繰り返して呟いた。
淋しげな顔をした青年の美しい顔。頬にそっと触れた。
「サクラ」
この出会いが、ある一つの未来を作り上げてしまうことを、彼らはまだ知らない。
時間軸への干渉と、外の世界への干渉。それだけでも大きな罪であるのに。
それが、どれほど犯してはいけないことだったのか知りながら。
彼らは生み出す。
その許されない罪の上に、自らの血統を継ぐ者を――。
2
入学式を終えて、大学のカリキュラムの組み方に頭を悩ませる時期も過ぎた。結城朝子は、大学生の自分にわずかの違和感だけを抱えて、五月の大型連休を迎えた。
四月後半の二連休は、学科ごとの小旅行があり、大学の知り合いを増やすいい機会だった。入学してから慌しく一ヶ月が過ぎて、このゴールデンウィークにやっと落ち着いた時間を持った。
「風巳。お昼にしよう」
キッチンからダイニングを越えて、一続きのリビングまで、美味しそうな匂いが漂ってくる。自家製のカレーを盛った皿を手に、朝子がリビングまでやって来た。
「いいよ、朝子。俺、そっちに行く」
ほとんどこの邸宅の居候と化している吹藤風巳が、片手に持っていた参考書をリビングのソファに置き去りにしたまま、ダイニングの食卓へ移動する。
「ここで二人だけでご飯食べるなんて、すごく久しぶり」
早速カレーを頬張りながら風巳が言うと、朝子もしばらく考えてから「そう言えばそうだね」と言った。
「なんかさ、これって」
「何?」
「新婚さんっぽくない?」
高校を卒業してからも、まだ一人だけ受験を抱えているのに、風巳は変わらず陽気だった。いつもの顔が揃わない二人だけの空間も、淋しいという感想の前に、そうなってしまう。
朝子が顔を紅くして「私はお兄ちゃんとまどかさんがいなくて淋しいよ」と言った。
「それに沙輝は東京に行っちゃったし。どうしてるかな」
「まだまだ忙しいだろうな。たまにメールでやりとりしてるけど。まず、土地に慣れる必要があるし」
二人で噂をしていると、玄関のインターホンが鳴った。朝子が出ようとすると、廊下からドカドカと足音が聞こえて、警戒する間もなく、仲谷沙輝が顔を出した。
「よぅ。玄関のドア鍵かかってなかったから、入ったぜ」
以前と変わらず、結城邸を我が物顔で訪れて、土産の詰まった袋をガサッと差し出す。
「沙輝!」
朝子が歓声をあげてから「どうしたの?」と言った。
「ゴールデンウィークだから、こっち戻ってみた。いろいろ実家の部屋から持ち出す物あるし」
「今、沙輝の話してたとこだよ。どうしてるかなって」
「いろいろ大変だけど、―――ところで、今ランチタイム?とりあえず俺にも飯食わして」
ガタガタと食卓についた沙輝に、風巳が呆れた目を向けた。
「おまえ、実家寄ってこなかったの?」
「一応、顔出してきたけど。うちの両親、午後から旅行に出るんだよ。だから慌しくて」
「なるほどね」
二人で競い合うかのように、カレーを平らげてから、リビングへ移動する。朝子が紅茶を入れて後から入ってくる。
ソファの上の参考書を目にして、沙輝が取り上げた。全て英語の問題集だ。
「これがMITの過去問の参考書?勉強、すすんでるのか?」
「まぁまぁね」
「おまえも晶さんも、やることの規模が違うよな。そういう家系なのか」
「そういうのに、遺伝って関係ある?」
他愛無いことを続々と話しながら、ふと沙輝が辺りを見回す素振りをした。
「ところで、晶さんとまどかさんは?」
「お兄ちゃん達、英国に行ってる」
「え?二人で?それって新婚旅行か?」
一気に話題が飛躍する沙輝を、風巳が肘でつついて否定した。
「そんなわけないだろ」
「だって、晶さん、春からこっち、単身で向こうと日本行き来してたんだろ?」
「それはそうだけど」
「だから、まどかさんがここに越してきて、朝子と二人でいられるようにしてるし。別にいつ結婚しても不思議じゃないだろ?」
「だからって、俺達に何の報告もなく、ある日いきなり結婚しましたってことにはならないだろ」
「それもそうか」
朝子が笑いながら教えてくれた。
「なんかね、お兄ちゃんが以前に住んでた処と同じ部屋を借りることできたみたい。それで、まどかさんが久しぶりに見てみたいって」
「へぇ。じゃあ、あの二人は不在なわけ。せっかく戻ってきたのに、会いたかったな」
「そうだね、残念だね」
「つまんねー」
沙輝がソファの背もたれに思いきりのしかかった。
リビングから臨める庭に植えられた桜が、とっくに花を落とし、鮮やかな新緑が芽吹いて繁っている。
沙輝が久しぶりに顔を合わせた、風巳と朝子を交互に見た。高校時代、彼らの絆は卒業が間近の頃には、学園内で知らない者がいないほど知れ渡っていた。
それはクラスメートの協力なども大きかった。高校という同じ枠組みを持たなくなって、これから二人の関係はどのように変わっていくだろうと考えることがある。
殊に風巳は、普通の同年代の男達よりは、どこか奔放な面があった。 吹藤という大きな家の束縛があった頃は、見ていて苛々するほど周囲と距離をとって、自身の気持ちを閉じ込めていた。けれど、今は違う。
朝子の兄である晶が変わったように、風巳も変わったと沙輝は感じていた。
家の束縛をふりほどき、彼自身、今は、もうその力に甘えることもない。
手にした自由を最大に生かして、彼は秋からアメリカへ発つ。
高校という同じ空間を失うだけではなく、風巳と朝子は、この結城邸で過ごす時間も失ってしまうのだ。
二人の絆を信じていないわけではない。それでも二人が決断した成り行きを思うと、わずかに心配になる。
朝子が食器を片付けるためにキッチンへ姿を消すと、沙輝は思い切って風巳に聞いた。
「おまえら、ほんとに平気なの?」
「何が?」
参考書から目を上げて、風巳が聞き返すが、沙輝の質問の意味はわかっているという顔をしていた。沙輝がじっと様子を見ていると、彼はふぅっと吐息をつく。
「正直に言って、一緒に連れて行きたい位、傍にいてほしいって思ってるよ。晶達より先に俺が朝子と結婚したい位だよ」
「おまえ言ってること滅茶苦茶」
風巳の本音を聞いて、沙輝はなぜか少しほっとしていた。ここで「平気」だとか「信じてるから」とか答えられたら、親友でありながら、あまりにも精神構造が違いすぎて、彼を遠くに感じてしまいそうだったからだ。
「不安はあるよ。変な虫がついたらどうしようとか。ある日帰ってきたら、新しい彼氏ができてるとか。……考えるだけで発狂しそう」
「それでも行くわけだろ?」
沙輝が確かめると、風巳は小さく頷いた。少し伸びた褐色の前髪が、彼の澄んだ琥珀の瞳に影を落とした。
「――いろいろ」
「うん」
「本当にいろいろ、思うことはある。これで本当にいいのかとか。だけど、朝子が応援するって言ってくれたから。彼女が堪えて出した決意を無駄にしたくない。……割り切るのは難しいけど」
沙輝の中に少しだけ大きな像となって描かれていた風巳の姿が、親近感のある親友に戻った。彼の抱えこんでいる葛藤が、沙輝にも痛いほど伝わってきた。
「弱音なら、いつでも聞く」
沙輝が唐突にそんなことを言った。風巳が視線をあげて沙輝を見る。朝子が最も大切にしたいのだろう笑顔が宿った。
「ありがとう、沙輝」
3
空は鈍色で、今にも雨が降り出しそうな暗さで雲がたちこめていた。午後を過ぎた頃から雨が降り始め、夕方が訪れても止まない。
霧のような細雨が、滞在しているフラットの屋根を静かに叩いた。五月の連休に入ってから、早川まどかは久しぶりに英国を訪れていた。
結城晶と出会うことのできた、思い出深い土地。その頃に晶が住んでいた部屋を、彼は再び借りることができた。四月には、まだ人が住んでいた為に一度はこの部屋を諦めていたが、五月になってから住人が越すことになり、今はこうして部屋の中にいることができる。
二人で久しぶりに訪れた部屋は、何もなく、生活に必要なものを一から揃えなければならない。
晶は春から、幾度となく英国と日本を行き来している。吹藤という大きな家の束縛を解いた今、彼は自らの歩む道を確実に作り上げていく。
この部屋から通うにはいい位置に、彼が勤めることになる研究施設があった。世界の財団に支援され、常に最先端の医療技術が終結する。
まどかは、彼の生い立ちや立場を、今はよく理解していたが、それでも彼の持つ才能が予想以上の力であったことを、ここに来て思い知らされていた。
何度か訪れたことのある、潔癖で、大きな建物の群れ。
国際医療開発機関。IMDIの呼び名で知られる施設の一員になるのは、簡単なことではない。
まどかと同じように、晶は大学に通っていた時期もあった。海外で既に学院を出ていた彼には、それは普通の時間を手に入れるための資格でしかなかったのだろう。
パタパタと弱い雨音が聞こえてくる。
まどかが窓の外を見た。雨が止む気配はなかった。
彼が社会で得る立場がまどかには遠くて、少し淋しい気もした。それでもここに辿り着くまでの経緯を思えば、幸せすぎて夢を見ているようにも思える。
彼が間違いなく自分を想い、必要としてくれたのだ。
二人の未来を得るために、彼が断ち切らなければならなかった鎖が、どれほど強固なものであったのか知っている。
物思いを振り払って、まどかが立ち上がった。
英国に着いてからも、晶はIMDIを訪れたり、この土地で過ごすための手筈を整えたりで、殺風景な部屋の準備が全く進んでいなかった。
多忙な彼に我儘を言って同行したのだ。
まどかは生活に必要な物や家具を揃えたりして、晶が不在の時間を過ごしていた。今日の午前中に、新しいベッドとソファが届いて、リビングと寝室に配置してもらった。
他の電化製品や家具は、ここに訪れてからの数日で、既に揃えている。
晶が過ごす部屋が、ほぼ完成したと思うと、役に立てたようで嬉しくなった。
「夕食の準備だわ」
まどかが献立を考えながら、昨日に据えたばかりの真新しい冷蔵庫を開く。
雨の降る中、昼過ぎに買い物に赴いた。まどかも以前は、このフラットの一階の住人だった。どの通りにどんな店があるのかは、きっと晶よりも詳しい。
久しぶりに街の通りへ出ると、様変わりしている店もあったが、以前の通り立ち並ぶ店も多かった。日本食を作るための材料はしっかりと揃えてある。
「あたしがいる間は、もう外食なんてさせないんだから」
妙な決意をかためて、食材を握りしめた。
夜の食卓を飾る主菜ができあがる。火を止めて副菜や汁物の味を見ていると、まどかはふいにトンと肩を叩かれた。
「きゃあ!」
咄嗟に声を上げて、手にしていた小皿を落としそうになる。振り返ると晶が厳しい顔をして立っていた。
「――あ、おかえりなさい、晶。すごく驚いた」
「驚いたじゃないだろ、おまえは」
彼は腕をあげてまどかの頭をコンと小突く。
「一人でいる時は、鍵をかけとけって言わなかった?」
叱られているのに、彼の抱く危惧が大切にされている証だと思うと、まどかは笑みを隠しきれない。
「心配してくれるのね」
「だから、そこで嬉しそうに笑わないように」
「……ごめんなさい。気をつけるわ」
素直に謝ると、彼も表情を緩めて上着を脱いだ。この数日間ですっかり出来上がった部屋を見回す。まどかは自分の趣味を一切出すことなく、内装を落ち着いたシンプルな色調に抑えていた。
以前に住んでいた時の印象と、よく似ている。
ふと、はじめてこの部屋を手配した、本家が寄越した女秘書のことを思い出す。
三浦葉子。
その頃の晶には、必要以上に踏み込んでくる人間関係は疎ましかった。人に対して、期待をし、失望することが怖かったのだと、今ならわかる。
彼女は、晶が対人に築いた境界を越えることがなかった。
今出会えば、一体、どのような話をするだろう。
結城夫妻を失う直前に、彼女は別れを告げて、姿を消した。
彼女がその事件に関わっていたのかは、知らない。知ったところで何も戻らないのだし、関わっていたからと言って、責める気もなかった。
全ての罪は、あの偉大な曽祖父にあったのだから。
あれから今まで、女秘書の顔を見た記憶がない。一族の後継者として吹藤を名乗っていた時期にも、表舞台に彼女の姿はなかった。
どこか腑に落ちないものを感じていると、まどかもリビングへ入ってくる。
「勝手に部屋を作っちゃったけど、気に入らなかった?」
黙りこんでいた晶の様子をどう受け取ったのか、彼女がそんな問いを投げる。
「いや。前の感じによく似てると思って」
決して、以前の部屋は自分の好みで作ったモノではなかったが、こうして見慣れた印象は悪くない。新しいソファにかけて、晶がまどかを見た。
「全く色気のない部屋だけど、おまえがここに住むことは考えなかったのか」
「え?」
意味を理解していない反応を見て、晶が嫌な笑い方をした。彼がこういう笑みを浮かべる時は、人をからかう時の仕草だ。
まどかはここに着た当初に犯した失態を思い出す。
IMDIで権威を持つ、アルバート・スペンサー博士の気遣い、というよりは悪戯があった。
彼は晶とまどかにとって恩人でもあるが、何事にも聡く、結果のためには手段を選ばない節がある。彼の改良した薬草を飲んで、まどかは晶にとてつもない我儘をぶつけた。
できれば、記憶から抹消したいと願う出来事だ。二度と思い出したくないし、晶にも早く忘れて欲しいのに、きっと彼はいつまでも忘れないでいるのだ。
「ご飯、できてるの」
話題を変えて、回れ右をする。そのまま不自然にキッチンへ戻ろうとした。
「こら」
ソファから伸びた腕が、まどかの手首をつかんだ。
「おまえ、ここに来た当初も言ってたな。晶はここと日本を行き来するのねって。まるで俺だけ行き来するみたいに」
まだ核心に触れることは何も言っていないのに、振り返った彼女の顔が赤く染まっていた。既にその日の出来事を思い返して、まどかはいたたまれない思いで一杯になっている。
からかう姿勢を崩さず、晶が続けた。
「あの日、繰り返して俺に何て言ったか覚えてる?それなのに、自分がここで過ごす可能性を、全く考えてないわけ?」
あの日の出来事。こみ上げた恥ずかしさで顔を上げられない。そんなまどかを見かねて、晶がそっと手を離した。
「まぁ、おまえらしいけどね」
彼女をからかうのも潮時だと、晶はすぐに察した。まだ紅潮した顔のまま、彼女が一言「あの夜言ったことは、忘れて……」と呟く。
晶が「忘れたふりをしておくよ」と笑って、ソファから立ち上がる。完成しつつある手料理を見て、食卓の椅子をひいた。
「そう言えば――」
ふと何かを思い、彼がそのまま寝室へ向かう。まどかも気を取り直して後をついていく。
「今日、新しいベッドも入るって言ってたけど」
言いながら寝室の扉を開けて中を覗く。まどかも彼の肩越しに、背伸びをして部屋の中を見た。
「何かおかしかった?」
「やっぱりか。……どうしてシングルが一つだけ?おまえ、本当にここで過ごすこと考えてないだろう」
「だって、……っ!」
理由を口にしようとした彼女を、今日届いた真新しいベッドに押し倒す。動きを封じるように二の腕をつかまえて、真っ直ぐに彼女の顔を見おろした。
「だって、何?」
「――朝子ちゃんを一人にできないわ。晶もそう思ってるでしょう?だからあたしは、あの邸宅に住むことにしたの。あなたがここに一人で住むと思うのは当然よ。違う?」
さっきの反撃もかねて、晶に対して強気な発言をしてみる。彼がどれほど妹思いなのか、まどかもよく分かっていた。朝子のことを持ち出されたら、彼には言い返す言葉がない筈なのだ。
あの大きな邸宅に独りは広すぎる。秋には風巳の存在も欠くことになるのだ。彼が妹を一人にできるはずがない。
ただでさえ、朝子は両親を亡くした経緯から、別れに対してひどく敏感な子だ。
「――――……」
予想通り、彼は口を閉ざして、ただまどかの目を見た。闇色の瞳に影がさす。
晶と朝子の間には、血縁がない。彼を生んだ一族が、朝子に架した仕打ちは生涯消すことが出来ない。
彼女から、両親を奪った罪。
晶は一生、背負い続けるだろう。これ以上、妹が何かを失うことを自身の贖罪として許さない。妹の幸せを守り、見届けることを誓っているのだ。
表情のなくなっていく晶の様子に、まどかは反撃が酷すぎたことに気づく。
つかまえていたまどかの腕を離して、彼はベッドに浅く腰掛けて、ゆっくりと足をくんだ。
「確かに、おまえの言うとおりだな」
まどかもベッドの上に身を起こして、彼の背中を見た。
「俺も、それから風巳も、おまえの存在に甘えてる。朝子を独りにできない。けれど、やらなければならないことがある。まどかがあの家にいてくれることには、感謝してる」
「違うの、別に、あたしはそういうつもりで言ったわけじゃ……」
背中を向けられているので、まどかには彼の表情が見えない。言い過ぎた言葉を取り消すために、言葉を探す。
訪れた沈黙が重くて、まどかが戸惑いながらもう一度彼の背中に目を向けると、微かに震えている。
泣いているわけがない。
まどかは、すぐに察知して彼の顔を覗き込むように傍へ寄った。笑いを堪えている彼の仕草を確かめる。また手の内にかかったと思うと、学習しない自分が哀れになってきた。
「そうやって、すぐに人をからかうのね」
怒りをこめて抗議すると、彼が笑いながらもう一度腕を伸ばす。大きな手がまどかの肩を引き寄せた。
「悪かった。今頃は、どうしてるかな、あいつ」
「朝子ちゃん?」
「違う、風巳だよ。あいつ、高校卒業しても、変に真摯だから。朝子が一人の家には、絶対泊まって帰らない。今回、出てくるときに、少しプレッシャーをかけてきた」
「何のプレッシャー?」
「せっかく二人きりの機会を与えてやるんだから、早く大人になれよって」
まどかが目を見開いて、晶の顔を見た。
「普通、お兄さんが妹の彼氏にそんなこと言うかしら」
「――たしかに、複雑ではあるけどね」
まどかが笑うと、晶が他愛無く続けた。
「朝子のことは、いつでも気にかけてる。――贖罪の思いも消えない。失ったことを、絶対に忘れないし、朝子の抱える傷からも目を逸らさない。だから、おまえに甘えてでも、朝子を独りにはできない」
口調に陰りをのぞかせず、穏やかにそれだけ語る。まどかが笑みを消して、彼の顔を見た。
「……晶」
「だけど」と彼は続けた。
「朝子がまどかを必要とするように、俺にもおまえは必要だから。おまえの血清を打ち込んで会えない日々を凌ぐのは勘弁してほしいね」
まどかの瞳に、複雑な想いが揺らめいて、すぐに消えた。
「そうね。――晶が倒れない程度には、ちゃんと傍にいるわ。あたしがこの部屋に滞在することを考えてなかったのは、確かに浅はかね」
そんなふうに自分の非を認めるより、まどかには言いたいことがあるはずなのだ。今の一瞬に封じ込められた言葉。隠された感情を、晶だけは垣間見ることができる。
「言い方が悪かったな。――そういう意味じゃない」
引き寄せた体の熱が、心地いい。彼女の持つ戴家の波動だけではなく、胸に抱えた彼女への想いが、癒しを生み出す。
どんな理由も、力の関わりも関係がない。
彼女が傍にいる。
ただそれだけで、全てが満たされる。
「――俺が、おまえに傍にいてほしいと思ってる」
彼の胸に押し当てた頬から、鼓動が響いてくる。一族の鎖を断ち切って、自分の手をとってくれた時から、彼は曖昧な言葉や、微笑みを捨てた。自身を包み隠す術を捨てて、秘めてきた想いを、伝えてくれるようになった。
けれど、まどかの中には歪んだ考えが浮かぶ。
真っ直ぐな言葉で打ち明ける反面、彼は、まどかの反応を見て楽しんでいる節がある。今の台詞も単にからかわれているだけかもしれないと思うと、素直に感動できない。
疑心暗鬼に捕われる自分を情けなく思いながら、まどかはゆっくりと彼の顔を仰いだ。
優しい眼差しに出会って、言葉を失う。
限りなく黒に近い、透けた濃紺の虹彩。間近に見ても、欠点のない端整な顔。気色に嘘はなかった。
「おまえに会いに、日本へ戻るよ」
胸の内を見透かされているような気がして、まどかは目を伏せた。
付き纏う疑惑がある。
彼が自分を愛したのは、癒しの力を求めてだったのではないかと。その力が全てで、彼に選ばれ、今があるのならば――。
「――っ」
後ろ向きな思いを断ち切るように、彼がまどかの顎に手をかけた。言葉を挟む間もなく、強く唇が重ねられる。
長いキスが、育ちつつあった闇を退ける。胸の奥底に巣食った根まで枯らすことは容易ではない。
長く時間を共にすれば、いつか跡形もなく枯れる日がくるかもしれない。
わだかまりを断ち切れるかどうかは、自分の問題だった。
まだ、自信がない。こんなに愛されていても、近くにいても。
弱い自分を、まどかは早く捨ててしまいたかった。
「言い忘れてたけど……」
キスを解いても、彼はまどかを引き寄せる力を緩めなかった。
「まだ、完全に医療機関に所属するつもりはないから」
「どういうこと?」
「やりたい事がある、っていうより、――終わっていないことがある」
全く理解できず、まどかが彼を見つめている。晶も言葉を選んでいるのか、困ったように笑った。
「言葉にするのは難しいな。何が起きるのか、よくわからない」
内容は明確ではない。けれど、まどかには彼が何かを秘めて、そんな言い方をしているわけではないことがわかった。全てを秘めてただ微笑んでいた頃の彼は、やはり、もうどこにも存在しない。
「そのよくわからないことに、あたしは、必要?」
「――もちろん」
なぜかほっとして、まどかは彼の胸にもう一度頬を寄せた。
晶が夢の深淵で出会った青年を思い描く。
―――君は多くの者と闘わなければならない。
それが一族のことだけを指していないのは、あの時にわかっていた。
―――我らの罪を贖う者。
罪を贖う。語られたのは、それだけ。
要領を得ない言葉は、それでも晶の中に棘となって残っている。
一族が受け継いできた血の秘密。それを解き明かす時が訪れる。漠然と、そんな予感がしていた。
伏せていた顔をあげて、まどかがゆっくりと晶の腕を解く。
ベッドから立ち上がって、「とりあえず、ご飯食べてね」と笑った。
これから起きることを心配するのは、今は無駄なことでしかない。何かが起きてから考えても、遅くはない。
まどかの言いたい事を、明るく振舞う仕草から受け取って、晶も立ち上がった。
「おまえの手料理、久しぶりだな」
「あたしが一緒にいる間は、もう外食は禁止」
二人が寝室を出て、ダイニングへ向かった。




