3:夢の住人
1
朝子が欠伸をしながらリビングへ入ると、晶が帰っていた。悠然とソファに座り、長い足を組んで新聞を手にしている。人の気配に気づくと、ゆっくりと顔をあげた。
「おはよう、朝子。体の調子はどうだ」
「昨日、お風呂に入ったら体の痺れも取れて」
言いながら、朝子は軽く腕を振り回してみる。
「もう平気。お兄ちゃんこそ、いつ帰って来たの。大学の友達のとこに泊まったんでしょ」
「ああ」
まさか高校生の妹相手に、女のところへ泊まったとは言えない。
「朝ご飯は食べて来た?」
「いや。それより朝子、一つ聞いてもいいか」
「うん」
「お前、昨日の夢のこと覚えてる?」
「覚えてるよ。すごい吹雪の夢でしょ。でも不思議なことに目が覚めてからも体が痺れてた。だから家に帰ってすぐお風呂に飛び込んだんだけど。おまけに医務室では先生と風巳……この前うちに来た男の子がすごい心配そうにしてたし。なんでだろうね」
晶がバサリと新聞を折りまげ、テーブルへ放り投げた。
「さぁ。他人の夢の中で迷ってたのかもしれないな。……ただ、お兄ちゃんが聞きたいのは、授業中に居眠りしてたのかってことだけど」
少し厳しさを含んだ声だった。頭痛の件を隠すために、朝子は即座にうなずいた。
「嘘だな。朝子の性格からして、授業中にそんな深い眠りには落ちないだろう。……さて。お兄さんに隠さず話してみなさい」
完全に見抜かれていた。兄のそういうところには適わない。
「ちょうどお昼休みだったんだけど。実は、時々ひどい頭痛がするから、医務室のベッドで眠ることがあるの。昨日も、それで。ごめんなさい」
「謝る必要はないけど、――頭痛、か。俺のせいかな」
隠しても、兄には分かっているだろう。朝子は無言でうなずいた。
「馬鹿。さっさと言えばいいのに」
「でも、お兄ちゃん大変なのかなって思って。私、何も分かんないから」
「何も分からなくていいんだよ。お兄ちゃんが他人の夢を見てしまうだけのことなんだから」
「うん。でも、不思議なことだね」
「どうかな。……昔こんなことを言われた。それはただの偶然で、他人の夢を見てるわけではないと」
「偶然?」
「そう。全然関係のない二人が、偶然良く似た夢を見る。あるいは、お兄ちゃんのただの思い込み。そうだろ、証拠のないことなんだから」
「そうだね。でも、私は夢でお兄ちゃんに会ったこと覚えてるよ」
「だから、同じ夢を、違う立場で見たってだけの偶然かもしれない」
「うーん」
首をひねる朝子に、晶が告げる。
「お兄ちゃんは偶然であってほしいけどね」
いつもどおりの声音の裏で、どれほどそれを望むかは計り知れない。偶然でなければ、説明がつかない。けれど偶然にしては、辻褄があいすぎる。
「まぁ、朝子の頭痛は考慮するけど、暇を見付けて病院にも行けよ」
「分かった」
安堵したように、晶が笑った。朝子はクシャリと髪をかき回される。
「腹が減ったな、朝子」
「分かりました、兄上」
クスクスと笑いながら、朝子はダイニングを抜け、更に奥のキッチンへ姿を消した。晶が、できるだけ幸せになってもらいたいと願う妹。
話せなかった。
晶が深い溜め息をついた。
いや、吹藤風巳のことは話さなくてもいいだろう。そう考えながら、彼は再び新聞を手にする。
無力さが分かれば、風巳はあるべき住処へ帰る。やがては朝子も忘れるに違いない。恋心など、本家の前では塵に過ぎない。
風巳も分かっているはずだ。
2
学校を休んで訪れた家は、インターホンを鳴らしても誰も顔を出さなかった。表札には「仲谷」とある。
腕時計を見ると、一時を回っていた。風巳は一度マンションへ戻ってから、もう一度出直すことにした。
(元いるべき場所へ、帰れ)
昨日、車の中で彼に言われた言葉がよみがえる。今の自分には打ち砕けない正論だ。昨日も朝子を死の縁に立たせ、何もできなかった。目覚めたから良かったようなものの、もしあのまま眠り続けていたら――。
思い返すと、今でも背筋が冷たくなる。
何もできない。本家を出て分かったのはそれだけだ。
「でも、帰らない」
知らずに言葉が出ていた。何もできない以前に、まだ何もしていないのだ。このまま言われた通り引き下がるわけにはいかない。
彼が何者であるのか、どこまで知っているのか。そんなことは後回しだ。
今は自分に何ができるのか知りたい。
訪問した家から数メートル離れた頃、風巳は同じ年格好の青年とすれ違った。自分よりわずかに背が高く、均整の取れた体からスポーツをやっていると分かる。
「あの」
風巳が咄嗟に声をかけた。ザッとアスファルトの地面にスニーカーのすれる音がして、青年が振り返る。涼しげな目元に好感の持てる顔だ。
「何か」
向き合うように風巳の前に立って、彼が言った。道案内を頼まれるとでも思っているらしい。
「仲谷沙輝って言うのは、君?」
風巳が呼びこんだ吹雪の夢の中で、少女が何度となく口にする名だ。
沙輝と。
青年は眉を潜めて、風巳の顔を見る。
「俺、君の通ってる貴子葉学園の生徒なんだけど。二年C組の吹藤風巳。よろしく」
「お前みたいな顔、同じ学年で見たことなかったけど」
「一週間位前に転入してきたんだ」
答えると、彼はいきなり風巳の腕を引いて歩きだした。
「転入生が俺に何の用だよ。無断欠席の生徒の顔でも見にきたのか」
「違うよ。ちょっと聞きたいことがあって」
「休んでる理由なら、人生に絶望したからだよ」
早口にしゃべって、彼はどんどん歩いて行く。住宅地を抜けて大通りの歩道にでた。バスが排気ガスを撒き散らして走ってくる。スピードを落として、近くの停留所にとまった。
「丁度いい。乗れよ」
「え、でも」
「いいから!」
強引に引っ張られて、風巳はバスに乗りこんだ。座席に座ると仲谷沙輝はほっと息をつく。
「こんな真っ昼間に家の前で話してるわけにはいかないだろ。だいたい、俺と会ったこと学校では黙っとけよ。なるべく会わないように気をつけてたのに。転入生なんて不意打ちも良いとこだよ」
「ごめん」
「いいけど。約束守ってくれるなら。で、何の用」
バスの振動で、二人の体が微妙に上下する。車内には二人を合わせても、せいぜい五、六人しか乗っていない。
「仲谷、翠って知ってる?」
一瞬にして、彼の表情が凍りついた。
「何だよ、お前。やっぱり好奇心で俺に会いに来たんじゃないか」
「違うんだ。『翠』って知ってるんだろ?」
風巳が言うと、今度は沙輝の方が怪訝な顔をした。
「知ってるんだろって?」
「いや、その」
まさか夢の中で君らしい人物が口にする名だ、とは言えない。風巳が言葉を詰まらせていると、沙輝は息をついた。
「そんなこと俺に聞かなくても、クラスの連中に聞けば分かるのに」
「え?」
「一カ月。いや、もうちょっと前かな。いきなりいなくなった生徒がいてさ。原田翠。……俺の彼女だった」
「―――っ」
馬鹿だ、俺は。風巳は激しい自己嫌悪に落ちた。沙輝にとって最も嫌な話題に、悪意はなかったとはいえ、触れたのだ。
夢の中で、『翠』が口にする『沙輝』という名。
無断で学校を休み続けている生徒の名が仲谷沙輝。それだけの偶然で、彼に話を聞こうとしたのだ。
こんなことなら、クラスで失踪した彼女の名を聞けば良かった。
沙輝と失踪した女生徒の関係は知っていたのだから、訪れる前にクラスメートに聞いておけば良かったのだ。
「ごめん」
風巳が頭を下げると、沙輝にバンッと背中を叩かれた。あっさりと彼が笑う。
「いいよ。そんな顔するなって」
「違うんだ。考えれば分かってたことなのに。クラスの連中が、――その、原田さんの話をしてくれたことがあったから」
「そう」
「うん。ごめん」
沙輝はしばらく何も言わず、窓の外に目を向けていた。風巳も口をつぐむ。
「――あいつ、死んだんだ」
何げなく言葉が零れた。風巳が弾かれたように顔を上げる。
「でも、転校したって」
彼は静かに首をふった。無言の横顔から哀しみが覗いている。冗談を言ってるわけではないことが伝わってきた。
けれど、では自分の見たあの夢は一体どうなるのだろう。死者は夢を見ることも叶わない筈である。
翠に呼びかけるのは、確かに沙輝という青年だ。夢の中で見た、吹雪の彼方のかすかな輪郭。あれはきっと、今隣にいる彼に違いない。
そして、翠は彼に沙輝と呼びかける。あの少女は、誰なのだろう。吹雪の中を何かを追うように走り続ける人影。
原田翠でなければ、同じ夢を繰り返し見て『沙輝』と呼びかけるのは、一体誰なのだろう。
風巳は長い髪だけをはっきりと覚えている。夢のイメージを思い起こすのは、至難の技だ。
黙りこんだ風巳を見て、沙輝がもう一度明るい声をだす。
「ごめん。だから、そんな顔するなって。変な奴だな、お前。吹藤だっけ?」
「あ、うん」
「もう昼飯食った?」
「まだだけど」
「んじゃ、どっか入って昼飯にしよう。……よく考えると、吹藤も学校休んでるだろ」
「そういうことになるね」
「変な奴」
終点まで乗っていると、駅前へついた。少し歩けば商店街だ。近くには大きなスーパーも立ち並んでいる。二人がバスを降りた。
3
深閑とした大学の図書館。隅に設置されたソファで、彼が座っていた。ソファのある位置は司書の目も届かず、奥まった所にあるため誰の気にもとまらない。もともと考査のない時期には、図書館を訪れる学生の数が少なかった。
広い構内のうちで、結城晶はよくここを訪れる。眠りを妨げるモノがすくないためだ。
今日も例にもれず眠りへ落ちると、又、雪が降っている。
「お母さん!」
走り続ける少女の声が、いつもより鮮明に聞こえる。今日は夢に意識を飛ばすだけでなく、干渉するために見ているからだ。
「待って、行かないで」
長い髪が雪に濡れている。澄んだ瞳から滑る涙は相変わらずだった。晶の肩にも雪が降り積もる。漆黒の髪に、吸い込まれるように触れて、すぐに溶ける。
「行かないで」
少女の前を走り去る人影がある。
けれど、それは幻だ。
少女が夢の世界で作り上げた幻。追いかけても、決して捕まえることのできない人影。
体の芯まで凍らせそうな寒さが、晶の中にまで突き上げてくる。雪のせいだけではなく、夢を見ている本人の自閉した心が凍っているからだ。
雪を踏みしめて少女の後を走る。追いついて掴んだ腕は、氷柱のように冷たい。
手遅れだ。
咄嗟に感じとって、晶がその綺麗な顔を歪めた。腕をつかまれた少女は振りかえり、いきなり現れた彼を見つめた。澄み切った結晶を思わせる瞳が、呆然と晶を見あげている。生きた人間の眼差しにはない美しさが、彼女の瞳には含まれていた。
「誰を追いかけているんだ。良かったら、話してくれないか」
「あなたは、悪魔?」
晶の冴えた美貌を見て、彼女は言った。否定すると悲し気に眼差しをふせる。朝子と同じ年頃なのに、夢へ引きこもり悪魔の迎えを待っている。
そう思うと、晶は込み上げる寒さが更に厳しくなった気がした。
「悪魔なら良かったのに。そうすれば命と引きかえに願いを叶えてもらえる」
「どんな願いを?」
「あの人を救ってもらいたいの」
「あの人?」
問い返すと、背後で柔らかな声がした。一瞬、吹雪がやんだのかと錯覚するほど、辺りの空気が和む。
「――翠」
新たな人影。けれど、決して少女の前にはやってこない。幻だ。
「沙輝が呼んでるわ。走って行けたらいいのに。――もう手遅れね。でも、あの人が不幸になるのは嫌」
「『翠』は君だね。どうして夢へ逃げた。そんな年で、こんな風になるまで」
晶が問うと、翠は涙を拭って少し笑う。あどけなく邪気のない微笑みだ。
「悪魔じゃないなら、あなたは死神?それとも夢の住人かしら」
「全部違うな。ただの人間だよ」
「嘘よ。ただの人間がこんなところに現れるわけがない。それとも、あなたも夢の一部なの?……そうなのね」
「そうかもしれない」
曖昧に答えると、翠は困ったように首をかしげた。
「じゃあ、あの人を救うことはできないわね」
「それはどうかな」
「ねぇ。生涯にたった一人の人って、信じる?」
いきなり話題が飛んだ。翠の澄んだ瞳はいっそう真摯に晶を見つめている。
「ねぇ、信じる?それとも子供の戯言だと思う?」
「――分からない。今は今。未来は未来。仮に今、愛してる人間がいたとして、命よりも大事な存在だと思っていても。永遠にこの思いが消えないと思えても、明日もそうとは言い切れない。人の気持ちはそういうものだから」
「そんなの一般論だわ。今そう思ってるなら、少なくとも今の真実は永遠の人よ」
「そう。俺が今いったのは一般論だ」
「たった一人の存在。分かる?そんな気持ちになったことある?」
「――ある、と言ったら?」
「話が続けられるわ。聞いて。ある人のことが好きなの、とても。でもね、どうしてもパッピーエンドにはなれない。相手が自分を思ってくれても駄目。二人には幸せな未来は見えない。破局だけが見える。それが分かっていても、相手を永遠の人だと思う気持ちが変わらない。それがどれだけ悲しいことか、残酷なことか、分かる?」
「それは『沙輝』と『翠』の話か」
「沙輝は、知らなかった。私も知らなかった。でも私が先に気づいた。ハッピーエンドは来ないって。不幸になるだけ」
「その不幸を断ち切るために、夢へ逃げたのか」
「そうよ。それしかなかった。あとは、あの人が幸せになればいい。手紙なんて出さなければ良かった。何も知らせずにいれば、あの人は幸せになれたもの。でも、罰を受けてほしかったのかもしれない」
「沙輝に?」
「違うわ。全てを狂わせた人達に。私は沙輝に託したのかもしれない。……でも、今は後悔してる。あの人が幸せになることだけが、願いだもの」
不幸を断ち切るために、夢の世界へ閉じこもる。それ以上、傷が大きくならないうちに。どうしても避けて通れない茨の道を歩く前に、全てを投げ捨て、遠ざける。
「強いな」
晶の口から呟きがもれた。翠は首をふる。
「違う。弱いだけ。乗り越える勇気がなかったから、逃げただけよ。でも、乗り越えたら、あの人との別れがあるだけだったから」
「だから、その前に断ち切ったのか。俺には、勇気だと思えるけど。……いや、俺が臆病だから、君を強いと思うのかもしれない。……そうだな、仮にこういう恋があったら、どうするべきだと思う?――君ならどうする?」
「え?」
「そのまま突き進めば、両者共に傷つくことが分かってる。相手の幸せを考えるなら、どう考えても手放すべきだ。分かっていても、できない。――それは弱さか」
風がやみ、雪が深々と降り積んでいく。
「あなたも、辛い夢を見ているのね」
長い間、翠と晶が立ち尽くしていた。
4
バスの停留所から商店街を奥へと歩き、風巳と沙輝はファーストフードの店へ入った。
「時間帯がずれてるから、空いてるな。二階にあがる?」
「え?うん」
珍しそうに店内を見回している風巳の様子に、沙輝が首をかしげた。
「どうしたの?お前。何か珍しい?東京の店と感じが違うとか」
「違うんだ。俺、こういうところに入るの初めてだから」
一瞬、沈黙があった。沙輝が目を丸くして声をあげる。
「初めて?なんで?やっぱり星雅の生徒ってこういうところ、入らないの?」
「そうじゃないけど。俺だけだと思う」
「あ。吹藤って、お坊ちゃんだろ」
沙輝の軽い冗談に、風巳はひどく傷ついたような顔をした。
やはり、東京を出ても普通と異なっているのは隠しようがないのだろうか。息のつまる上流の生活習慣は、こんな所へ影を落とす。
知識としてしか、外の世界を知らない。社会勉強の範囲でしかない。
星雅で陸上部へ入ると言った時も、家の誰もがいい顔をしなかった。毎日、学院の前まで迎えに来るベンツ。組み込まれたスケジュールをこなすために、寄り道など許されない。友人など必要なかった。
どれだけ寂しかったか。東京では自分に作法を教え、傍にいた斎藤しか知らないのだ。だから貴子葉学園での自由は嬉しかった。
『本当に行ってしまわれるのですか』
斎藤は、最後まで心配していたけれど、自分が一族の束縛から離れることを誰よりも喜んでくれた。東京にある気掛かりは彼のことだけだ。
たったの一週間しか経っていないのに、ここには、すでに東京よりも大切なものがたくさんある。
「ごめん。俺、なにか気に触ること言ったみたいだな」
黙りこんだ風巳に、低い声音で沙輝が言った。咄嗟に否定すると、彼は「ならいいけど」と笑い、カウンターへ歩き出す。風巳も後をついてオーダーを済ませた。
トレイを手に、店の二階へあがると二人は窓際の席に向かいあわせに腰かけた。ランチタイムを外し、平日でもあるせいか店内はいやに閑散としている。沙輝がハンバーガーの包みをめくりながら、紙コップの蓋にストローを突き刺している風巳に目を向けた。
「おまえ、食べるのも初めて?」
「いいや」
「入ったことないのに?」
「その、家の者に頼んだことがあったから」
もちろんそんなことを頼めたのは、傍にいた理解者である斎藤しかあり得ない。期待したほど美味しいものではなかったけれど、価格のわりには上出来だと思った記憶がある。
沙輝は「ふうん」と呟いたきり、ハンバーガーにかぶりついていた。風巳も黙ってポテトを口へほうり込む。
東京での夢が、この一週間でどれほど叶ったかはもう数えきれない。例え、重い足枷が存在していたとしても。
「でもさ、吹藤はそんなに変じゃないよ」
いきなりの言葉に風巳がゴホッと咳込む。沙輝が「悪い」といいながら頭をかいた。
「なんか、おまえ自分のこと変だと思ってるのかなと思って。ごめん、唐突で。俺、そういうところあるから」
照れ隠しのためか、沙輝はすごい勢いでポテトをほお張っている。しばしきょとんとした後、風巳が吹き出した。
「そんな笑うことないだろ」
「うん。でも、ありがとう」
素直に礼を言うと、沙輝は「ほら」と風巳を指さした。
「そういうとこが、少し変わってるけど。それは多分、お前の気にしてることとは違うと思う」
「そういうとこって?やっぱり変?」
「変じゃなくて、なんて言うか素直な奴だよな、おまえ。思ったことがそのまま外に出るんだ」
「嘘だ」
いやに断定的に風巳が言うと、沙輝は首をふる。
「嘘じゃないって」
素直。思ったことがそのまま外に出る。
一族の中では、感情を表に出すことなんて許されてはいなかったのに。幾つも仮面をつけて、隙を見せないことに必死だった。
言われてみれば、確かに昨日は晶の前で涙を見せたし、朝子の前でも涙を零した。反射的に頬が熱くなる。よく考えると信じられないことだ。胸の奥底から、笑いがこみあげてきた。
家の者よりも他人に無防備な自分。嬉しいのか哀しいのか分からない。
「そんなに可笑しいこと言ったか?俺」
「ううん。でも仲谷も変わってると思う」
「そうか?」
「うん」
風巳がしつこく笑っている間に、沙輝はトレイの上を綺麗に片付けてしまう。日に焼けた手が、今度は風巳のトレイの上に伸びた。
「食うのが遅い奴は、食われる運命だって知ってた?これがサッカー部の法則」
「サッカー部の法則って――」
呆然としていると、あらかた沙輝が風巳のトレイの上まで片付ける。
「し、信じられない奴。仲谷って」
風巳が声を上げると、涼し気な目が上目使いにこちらを見る。
「おまえって、いい奴だよな」
「どういう意味で?」
「悪い意味じゃなくて。――ここ最近忘れてた。こういう雰囲気」
風巳が言葉を失うと、沙輝が軽く笑う。
「……不思議な奴だな、吹藤って。学校にもすぐ馴染んだだろ」
「え?すぐかどうかは知らないけど。まぁ、楽しいよ。C組って人懐こいし」
「ああ、確かにC組は仲良いな。羨ましい位。俺も翠がいた頃よく顔を出してた。なーんか全部忘れて学校行きたくなって来た。おまえの顔見てると」
「来たらいいじゃん。うちのクラスの鳥羽って知ってる?あいつサッカー部だけど、仲谷がいなくて物足りないって」
テーブルの上に顔を伏せて、沙輝が首をふった。
「まだ行けない。俺、やらなきゃいけないことがあるから」
いやに思い詰めた響きの声が、くぐもって聞こえた。しばらく迷った後、風巳は思い切って口にする。
「原田さんのことで?」
「それは、プライバシーだろ」
ぱっと顔をあげて、沙輝は席を立つ。
「ごめん。昼飯付きあわせて。久しぶりに楽しかったような気がする。でも、もう俺と翠のことを探るのはやめてほしい。吹藤、思ったよりいい奴だから警告だけにしとく。今日のことは誰にも言うなよ。じゃあな」
スルリと通路を抜けて、階段の方へ長身の影が消えた。風巳はそんなつもりじゃなかった、と言いかけて口を閉ざす。
彼にとっては、どんな理由があろうとも詮索である限り同じことなのだ。
そして自分は彼を裏切るだろう。夢とのつながりを追えば、『沙輝』と『翠』へ行き着くのだから。
「……最低限のルールは守るから」
誰にも聞こえない声で、風巳が呟いた。
5
図書館に講義終了の音が鳴りひびくなか、晶が目を醒ました。身を起こすと、上着がかけられていることに気付く。ふっと視線を上げると、奥の書棚でまどかが本を眺めていた。
『――それは、弱さか』
問いの答えは、誰よりも自分が知っている。
許されてはいけない恋愛は確かにあるからだ。あまりにも大きな犠牲の上に成り立ちすぎた。
このままでは、いつか後悔するだろう。彼女と過ごした時間の全て、出会いでさえ。
「晶」
ふいにまどかがふり返り、晶の側へやってくる。
「夢を見てたでしょ?顔色ですぐに分かる」
「そうか」
告げるべきことは、何も言葉にできなかった。代わりに、晶はただ微笑んでみせる。まどかの手が、すっと額に伸びた。
「熱なんかないだろ」
「そうね。でも」
「おまえの心配は、取り越し苦労って言うんだよ」
笑ってソファから立ち上がり、まどかに上着を放る。
「その礼に昼をおごるよ。どこがいい?」
「どこがって、晶は午後も講義があるじゃない」
「さぼる。別にどうってことない講義だし」
晶が出口へ向かって歩きだすと、まとかが慌ててついて来る。
「車で行くの」
「もちろん。遠出したって構わない。リクエストは?」
「ドライブしながら考えるわ」
「はいはい」
まだ。
図書館を後にして、校舎の階段を降りながら自分に言い聞かせる。
まだ、早い。
彼女の相手が自分ではなくても。ここに止まっていたいと願う。
微妙に陰った表情をよんだのか、まどかが立ち止まって彼を見上げた。
「どうしたの?」
「どうしたのって……」
彼からは、見たことのない微笑みだけが返ってきた。
「何が?」
「ううん。それならいいんだけど。晶は何が食べたい?」
「選択権はおまえにある筈だけど?」
カレッジの中庭を突っ切ると、グランドの隅に設備された駐車場が視界に入ってくる。
「でも二人で行くんだから」
「この会話の流れで行くと、俺の答えは一つだろ」
「何?」
「手料理が食べたいかもね。でも、それじゃ礼にならない。だから選択権がおまえにあるわけ」
「晶がお礼にこだわらないなら、あたしは料理してもいいわ。その代わり買い物に付き合ってね」
「手料理は捨て難いけど、今日はこだわりをとろうか」
車のキーを取り出し、晶が助手席のドアを開く。まどかが乗り込んでから、軽い身のこなしで彼が運転席へ乗った。
車が走り出し、すぐに学内から真っ黒な車体が消える。後にはただ、鼻をつく排気ガスの臭いだけが残っていた。
6
校舎の窓から、遠くに山並みを見ることができる。
教壇では現国の教師が冗談を言って、生徒を笑わせていた。朝子はみんなの笑い声で我にかえり、教科書に視線を戻す。
あと二十分でお昼休み。
時間を確かめて、黒板に目を向けた。単元は森鴎外の舞姫だ。流麗な擬古文で描かれた物語は、出世と恋を秤にかけた男の話だ。
朝子は空いている前の席を眺めて、溜め息をもらした。
今日の朝、HRの時間に、親友の晴菜が席替えを提案した。クラス委員の彼女の言葉に反対の声もなく、席替えはいつもどおりクジで行われる。
そこまでは朝子も良かった。けれど、晴菜を初めとしたクラスの意図によって、巧妙な裏工作が用意されていたらしい。
時折、そういう仕掛けの上で席替えが成り立つことは知っている。今回は朝子と風巳がその犠牲者だ。
朝子は呆れて言葉もない。晴菜を責めてみても、彼女は自分のしたことに罪悪感のかけらもないらしい。
キンコーンと聞き慣れたチャイムの音で、授業が終わった。晴菜がお弁当を手に、朝子の元までやってくる。
そのまま欠席で主のいない椅子に腰かけた。ペテンで成立した風巳の席だ。
「今日は吹藤君、休みなんだね。せっかく朝子が後ろにいるのに」
「あのね、晴菜。そんなことしても風巳は喜ばないよ。もっと可愛い子の前ならともかく」
「何言ってんの、あんたは。吹藤君の態度見てたら一目瞭然よ。ほんとに、今時あんなに思ってること外に出るタイプって珍しい。裏表なくていいんじゃない?」
裏表はあると思う。言葉にせず、朝子は胸の内で繰りかえす。
風巳には表と裏がある。時折、考えに耽っているとき、彼は厳しい顔をしている。
冷たく、無表情な、仮面のような顔。ひどく孤独な。星雅学院からここへ来たこと自体、何かあるのではないかと思う。頭の良さを鼻にかけたところはないが、もっと別のところで、彼には何かあるに違いない。
厳しく孤独な風巳の仮面に、微かに滲み出た淋しさを、朝子は感じていた。
「だいたい朝子は嬉しいでしょ?もっと素直に喜べばいいのに」
「あのねぇ、晴菜。私はただの一回も彼のことを好きだと言った記憶はないよ」
朝子の台詞のどこの部分だけ聞いたのか、近くにいたクラスメートが会話に入ってくる。
「やっぱり、朝子って吹藤君のこと好きだったんだ。みんなで席替え企てたのは正解だね、晴菜」
「でしょ?」
勝手に話が進んで行く。朝子がグサリとお箸をおにぎりに突き刺した。
「だから、もう。どこを聞いてそうなるのよ」
「顔が赤いよ。だいたい吹藤君のこと風巳って呼ぶ女の子は君だけ」
「そんなの男子はみんなそうじゃない。私は風巳にそう呼んでって言われたから」
「だーかーらー、女の子では朝子だけ。それに、ほら吹藤君は朝子にだけそんなこと言っちゃってるし」
晴菜は面白そうに笑っている。朝子は降参して口を閉ざし、卵焼きをほおばる。
「ま、それはそうと、D組の前田君のことはどうするの」
「!」
いきなりの話題転換に朝子が喉を詰まらせた。
「ごめん、ごめん。ほい、お茶飲みな。――で、話を戻して、吹藤君の出現で前田君はノーってこと?」
どうして彼女はこんなに、恋愛の情報に長けているんだろう。朝子は時々晴菜の情報網の広さに驚く。
「朝子はあたしに何も相談しないんだから。親友としては淋しいぞ」
「ごめん。でも、もうずっと前に断ったよ」
「ありゃりゃ。前田君ほどの子でも駄目だったか。朝子ってすごい理想が高いんじゃない?」
「そんなことないと思うけど」
「どうだか。晶さんがお兄さんだけにあたしはちょっと心配だわよ。晶さんって、ほら、腰抜かしそうなほど格好いいじゃない。優しいしさ」
「それは晴菜の買いかぶり。普通の人だよ、お兄ちゃんって」
晴菜がはぁっと溜め息をついた。
「あの人が普通の人なら、そりゃ朝子の理想は高いわな」
「性格の話だよ。見てくれは妹の私から見ても認めるってば」
「ならいいけど。とりあえず今は吹藤君もいることだしね。でも彼も大変だね、朝子はブラコンだから」
「だからね、どうしてそうやって話を勝手に進めるわけ」
実際、風巳は必要以上に自分に話しかけてくるわけでもない。親友にそう言うと、笑い飛ばされた。
「そんなの席が遠かったからじゃない。何言ってるの、この子は」
そうではない、と朝子は思う。確かに彼を名前で呼ぶのは自分だけで、最初は仲の良い関係だと思っていた。けれど、彼は何かの拍子に、思い出したように距離を作ろうとする。
まるで踏み込んではいけない領域があるように。
少し近づいては、遠ざかって行く。結局自分と彼の間は始めと何も変わっていない。通りすがりのようなものだ。
「よく分からないな」
自分の気持ちも、彼の気持ちも。
ただ、今の関係を淋しいと思うだけだ。