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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第一話:夢に眠る
4/67

3:夢の住人

1

 朝子が欠伸をしながらリビングへ入ると、(アキ)が帰っていた。悠然とソファに座り、長い足を組んで新聞を手にしている。人の気配に気づくと、ゆっくりと顔をあげた。

「おはよう、朝子。体の調子はどうだ」

「昨日、お風呂に入ったら体の痺れも取れて」

 言いながら、朝子は軽く腕を振り回してみる。

「もう平気。お兄ちゃんこそ、いつ帰って来たの。大学の友達のとこに泊まったんでしょ」

「ああ」

 まさか高校生の妹相手に、女のところへ泊まったとは言えない。

「朝ご飯は食べて来た?」

「いや。それより朝子、一つ聞いてもいいか」

「うん」

「お前、昨日の夢のこと覚えてる?」

「覚えてるよ。すごい吹雪の夢でしょ。でも不思議なことに目が覚めてからも体が痺れてた。だから家に帰ってすぐお風呂に飛び込んだんだけど。おまけに医務室では先生と風巳(カザミ)……この前うちに来た男の子がすごい心配そうにしてたし。なんでだろうね」

 晶がバサリと新聞を折りまげ、テーブルへ放り投げた。

「さぁ。他人の夢の中で迷ってたのかもしれないな。……ただ、お兄ちゃんが聞きたいのは、授業中に居眠りしてたのかってことだけど」

 少し厳しさを含んだ声だった。頭痛の件を隠すために、朝子は即座にうなずいた。

「嘘だな。朝子の性格からして、授業中にそんな深い眠りには落ちないだろう。……さて。お兄さんに隠さず話してみなさい」

 完全に見抜かれていた。兄のそういうところには適わない。

「ちょうどお昼休みだったんだけど。実は、時々ひどい頭痛がするから、医務室のベッドで眠ることがあるの。昨日も、それで。ごめんなさい」

「謝る必要はないけど、――頭痛、か。俺のせいかな」

 隠しても、兄には分かっているだろう。朝子は無言でうなずいた。

「馬鹿。さっさと言えばいいのに」

「でも、お兄ちゃん大変なのかなって思って。私、何も分かんないから」

「何も分からなくていいんだよ。お兄ちゃんが他人の夢を見てしまうだけのことなんだから」

「うん。でも、不思議なことだね」

「どうかな。……昔こんなことを言われた。それはただの偶然で、他人の夢を見てるわけではないと」

「偶然?」

「そう。全然関係のない二人が、偶然良く似た夢を見る。あるいは、お兄ちゃんのただの思い込み。そうだろ、証拠のないことなんだから」

「そうだね。でも、私は夢でお兄ちゃんに会ったこと覚えてるよ」

「だから、同じ夢を、違う立場で見たってだけの偶然かもしれない」

「うーん」

 首をひねる朝子に、晶が告げる。

「お兄ちゃんは偶然であってほしいけどね」

 いつもどおりの声音の裏で、どれほどそれを望むかは計り知れない。偶然でなければ、説明がつかない。けれど偶然にしては、辻褄があいすぎる。

「まぁ、朝子の頭痛は考慮するけど、暇を見付けて病院にも行けよ」

「分かった」

 安堵したように、晶が笑った。朝子はクシャリと髪をかき回される。

「腹が減ったな、朝子」

「分かりました、兄上」

 クスクスと笑いながら、朝子はダイニングを抜け、更に奥のキッチンへ姿を消した。晶が、できるだけ幸せになってもらいたいと願う妹。

 話せなかった。

 晶が深い溜め息をついた。

 いや、吹藤風巳のことは話さなくてもいいだろう。そう考えながら、彼は再び新聞を手にする。

 無力さが分かれば、風巳はあるべき住処へ帰る。やがては朝子も忘れるに違いない。恋心など、本家の前では塵に過ぎない。

 風巳も分かっているはずだ。


2


 学校を休んで訪れた家は、インターホンを鳴らしても誰も顔を出さなかった。表札には「仲谷(ナカヤ)」とある。

 腕時計を見ると、一時を回っていた。風巳は一度マンションへ戻ってから、もう一度出直すことにした。

 (元いるべき場所へ、帰れ)

 昨日、車の中で彼に言われた言葉がよみがえる。今の自分には打ち砕けない正論だ。昨日も朝子を死の縁に立たせ、何もできなかった。目覚めたから良かったようなものの、もしあのまま眠り続けていたら――。

 思い返すと、今でも背筋が冷たくなる。

 何もできない。本家を出て分かったのはそれだけだ。

「でも、帰らない」

 知らずに言葉が出ていた。何もできない以前に、まだ何もしていないのだ。このまま言われた通り引き下がるわけにはいかない。

 彼が何者であるのか、どこまで知っているのか。そんなことは後回しだ。

 今は自分に何ができるのか知りたい。

 訪問した家から数メートル離れた頃、風巳は同じ年格好の青年とすれ違った。自分よりわずかに背が高く、均整の取れた体からスポーツをやっていると分かる。

「あの」

 風巳が咄嗟に声をかけた。ザッとアスファルトの地面にスニーカーのすれる音がして、青年が振り返る。涼しげな目元に好感の持てる顔だ。

「何か」

 向き合うように風巳の前に立って、彼が言った。道案内を頼まれるとでも思っているらしい。

仲谷沙輝(ナカヤ サキ)って言うのは、君?」

 風巳が呼びこんだ吹雪の夢の中で、少女が何度となく口にする名だ。

 沙輝と。

 青年は眉を潜めて、風巳の顔を見る。

「俺、君の通ってる貴子葉学園の生徒なんだけど。二年C組の吹藤風巳(フトウ カザミ)。よろしく」

「お前みたいな顔、同じ学年で見たことなかったけど」

「一週間位前に転入してきたんだ」

 答えると、彼はいきなり風巳の腕を引いて歩きだした。

「転入生が俺に何の用だよ。無断欠席の生徒の顔でも見にきたのか」

「違うよ。ちょっと聞きたいことがあって」

「休んでる理由なら、人生に絶望したからだよ」

 早口にしゃべって、彼はどんどん歩いて行く。住宅地を抜けて大通りの歩道にでた。バスが排気ガスを撒き散らして走ってくる。スピードを落として、近くの停留所にとまった。

「丁度いい。乗れよ」

「え、でも」

「いいから!」

 強引に引っ張られて、風巳はバスに乗りこんだ。座席に座ると仲谷沙輝はほっと息をつく。

「こんな真っ昼間に家の前で話してるわけにはいかないだろ。だいたい、俺と会ったこと学校では黙っとけよ。なるべく会わないように気をつけてたのに。転入生なんて不意打ちも良いとこだよ」

「ごめん」

「いいけど。約束守ってくれるなら。で、何の用」

 バスの振動で、二人の体が微妙に上下する。車内には二人を合わせても、せいぜい五、六人しか乗っていない。

「仲谷、(ミドリ)って知ってる?」

 一瞬にして、彼の表情が凍りついた。

「何だよ、お前。やっぱり好奇心で俺に会いに来たんじゃないか」

「違うんだ。『翠』って知ってるんだろ?」

 風巳が言うと、今度は沙輝の方が怪訝な顔をした。

「知ってるんだろって?」

「いや、その」

 まさか夢の中で君らしい人物が口にする名だ、とは言えない。風巳が言葉を詰まらせていると、沙輝は息をついた。

「そんなこと俺に聞かなくても、クラスの連中に聞けば分かるのに」

「え?」

「一カ月。いや、もうちょっと前かな。いきなりいなくなった生徒がいてさ。原田翠(ハラダ ミドリ)。……俺の彼女だった」

「―――っ」

 馬鹿だ、俺は。風巳は激しい自己嫌悪に落ちた。沙輝にとって最も嫌な話題に、悪意はなかったとはいえ、触れたのだ。

 夢の中で、『翠』が口にする『沙輝』という名。

 無断で学校を休み続けている生徒の名が仲谷沙輝。それだけの偶然で、彼に話を聞こうとしたのだ。

 こんなことなら、クラスで失踪した彼女の名を聞けば良かった。

 沙輝と失踪した女生徒の関係は知っていたのだから、訪れる前にクラスメートに聞いておけば良かったのだ。

「ごめん」

 風巳が頭を下げると、沙輝にバンッと背中を叩かれた。あっさりと彼が笑う。

「いいよ。そんな顔するなって」

「違うんだ。考えれば分かってたことなのに。クラスの連中が、――その、原田さんの話をしてくれたことがあったから」

「そう」

「うん。ごめん」

 沙輝はしばらく何も言わず、窓の外に目を向けていた。風巳も口をつぐむ。

「――あいつ、死んだんだ」

 何げなく言葉が零れた。風巳が弾かれたように顔を上げる。

「でも、転校したって」

 彼は静かに首をふった。無言の横顔から哀しみが覗いている。冗談を言ってるわけではないことが伝わってきた。

 けれど、では自分の見たあの夢は一体どうなるのだろう。死者は夢を見ることも叶わない筈である。

 翠に呼びかけるのは、確かに沙輝という青年だ。夢の中で見た、吹雪の彼方のかすかな輪郭。あれはきっと、今隣にいる彼に違いない。

 そして、翠は彼に沙輝と呼びかける。あの少女は、誰なのだろう。吹雪の中を何かを追うように走り続ける人影。

 原田翠でなければ、同じ夢を繰り返し見て『沙輝』と呼びかけるのは、一体誰なのだろう。

 風巳は長い髪だけをはっきりと覚えている。夢のイメージを思い起こすのは、至難の技だ。

 黙りこんだ風巳を見て、沙輝がもう一度明るい声をだす。

「ごめん。だから、そんな顔するなって。変な奴だな、お前。吹藤だっけ?」

「あ、うん」

「もう昼飯食った?」

「まだだけど」

「んじゃ、どっか入って昼飯にしよう。……よく考えると、吹藤も学校休んでるだろ」

「そういうことになるね」

「変な奴」

 終点まで乗っていると、駅前へついた。少し歩けば商店街だ。近くには大きなスーパーも立ち並んでいる。二人がバスを降りた。


3


 深閑とした大学の図書館。隅に設置されたソファで、彼が座っていた。ソファのある位置は司書の目も届かず、奥まった所にあるため誰の気にもとまらない。もともと考査のない時期には、図書館を訪れる学生の数が少なかった。

 広い構内のうちで、結城晶はよくここを訪れる。眠りを妨げるモノがすくないためだ。

 今日も例にもれず眠りへ落ちると、又、雪が降っている。

「お母さん!」

 走り続ける少女の声が、いつもより鮮明に聞こえる。今日は夢に意識を飛ばすだけでなく、干渉するために見ているからだ。

「待って、行かないで」

 長い髪が雪に濡れている。澄んだ瞳から滑る涙は相変わらずだった。晶の肩にも雪が降り積もる。漆黒の髪に、吸い込まれるように触れて、すぐに溶ける。

「行かないで」

 少女の前を走り去る人影がある。

 けれど、それは幻だ。

 少女が夢の世界で作り上げた幻。追いかけても、決して捕まえることのできない人影。

 体の芯まで凍らせそうな寒さが、晶の中にまで突き上げてくる。雪のせいだけではなく、夢を見ている本人の自閉した心が凍っているからだ。

 雪を踏みしめて少女の後を走る。追いついて掴んだ腕は、氷柱のように冷たい。

 手遅れだ。

 咄嗟に感じとって、晶がその綺麗な顔を歪めた。腕をつかまれた少女は振りかえり、いきなり現れた彼を見つめた。澄み切った結晶を思わせる瞳が、呆然と晶を見あげている。生きた人間の眼差しにはない美しさが、彼女の瞳には含まれていた。

「誰を追いかけているんだ。良かったら、話してくれないか」

「あなたは、悪魔?」

 晶の冴えた美貌を見て、彼女は言った。否定すると悲し気に眼差しをふせる。朝子と同じ年頃なのに、夢へ引きこもり悪魔の迎えを待っている。

 そう思うと、晶は込み上げる寒さが更に厳しくなった気がした。

「悪魔なら良かったのに。そうすれば命と引きかえに願いを叶えてもらえる」

「どんな願いを?」

「あの人を救ってもらいたいの」

「あの人?」

 問い返すと、背後で柔らかな声がした。一瞬、吹雪がやんだのかと錯覚するほど、辺りの空気が和む。

「――翠」

 新たな人影。けれど、決して少女の前にはやってこない。幻だ。

「沙輝が呼んでるわ。走って行けたらいいのに。――もう手遅れね。でも、あの人が不幸になるのは嫌」

「『翠』は君だね。どうして夢へ逃げた。そんな年で、こんな風になるまで」

 晶が問うと、翠は涙を拭って少し笑う。あどけなく邪気のない微笑みだ。

「悪魔じゃないなら、あなたは死神?それとも夢の住人かしら」

「全部違うな。ただの人間だよ」

「嘘よ。ただの人間がこんなところに現れるわけがない。それとも、あなたも夢の一部なの?……そうなのね」

「そうかもしれない」

 曖昧に答えると、翠は困ったように首をかしげた。

「じゃあ、あの人を救うことはできないわね」

「それはどうかな」

「ねぇ。生涯にたった一人の人って、信じる?」

 いきなり話題が飛んだ。翠の澄んだ瞳はいっそう真摯に晶を見つめている。

「ねぇ、信じる?それとも子供の戯言だと思う?」

「――分からない。今は今。未来は未来。仮に今、愛してる人間がいたとして、命よりも大事な存在だと思っていても。永遠にこの思いが消えないと思えても、明日もそうとは言い切れない。人の気持ちはそういうものだから」

「そんなの一般論だわ。今そう思ってるなら、少なくとも今の真実は永遠の人よ」

「そう。俺が今いったのは一般論だ」

「たった一人の存在。分かる?そんな気持ちになったことある?」

「――ある、と言ったら?」

「話が続けられるわ。聞いて。ある人のことが好きなの、とても。でもね、どうしてもパッピーエンドにはなれない。相手が自分を思ってくれても駄目。二人には幸せな未来は見えない。破局だけが見える。それが分かっていても、相手を永遠の人だと思う気持ちが変わらない。それがどれだけ悲しいことか、残酷なことか、分かる?」

「それは『沙輝』と『翠』の話か」

「沙輝は、知らなかった。私も知らなかった。でも私が先に気づいた。ハッピーエンドは来ないって。不幸になるだけ」

「その不幸を断ち切るために、夢へ逃げたのか」

「そうよ。それしかなかった。あとは、あの人が幸せになればいい。手紙なんて出さなければ良かった。何も知らせずにいれば、あの人は幸せになれたもの。でも、罰を受けてほしかったのかもしれない」

「沙輝に?」

「違うわ。全てを狂わせた人達に。私は沙輝に託したのかもしれない。……でも、今は後悔してる。あの人が幸せになることだけが、願いだもの」

 不幸を断ち切るために、夢の世界へ閉じこもる。それ以上、傷が大きくならないうちに。どうしても避けて通れない茨の道を歩く前に、全てを投げ捨て、遠ざける。

「強いな」

 晶の口から呟きがもれた。翠は首をふる。

「違う。弱いだけ。乗り越える勇気がなかったから、逃げただけよ。でも、乗り越えたら、あの人との別れがあるだけだったから」

「だから、その前に断ち切ったのか。俺には、勇気だと思えるけど。……いや、俺が臆病だから、君を強いと思うのかもしれない。……そうだな、仮にこういう恋があったら、どうするべきだと思う?――君ならどうする?」

「え?」

「そのまま突き進めば、両者共に傷つくことが分かってる。相手の幸せを考えるなら、どう考えても手放すべきだ。分かっていても、できない。――それは弱さか」

 風がやみ、雪が深々と降り積んでいく。

「あなたも、辛い夢を見ているのね」

 長い間、翠と晶が立ち尽くしていた。


4


 バスの停留所から商店街を奥へと歩き、風巳と沙輝はファーストフードの店へ入った。

「時間帯がずれてるから、空いてるな。二階にあがる?」

「え?うん」

 珍しそうに店内を見回している風巳の様子に、沙輝が首をかしげた。

「どうしたの?お前。何か珍しい?東京の店と感じが違うとか」

「違うんだ。俺、こういうところに入るの初めてだから」

 一瞬、沈黙があった。沙輝が目を丸くして声をあげる。

「初めて?なんで?やっぱり星雅の生徒ってこういうところ、入らないの?」

「そうじゃないけど。俺だけだと思う」

「あ。吹藤って、お坊ちゃんだろ」

 沙輝の軽い冗談に、風巳はひどく傷ついたような顔をした。

 やはり、東京を出ても普通と異なっているのは隠しようがないのだろうか。息のつまる上流の生活習慣は、こんな所へ影を落とす。

 知識としてしか、外の世界を知らない。社会勉強の範囲でしかない。

 星雅で陸上部へ入ると言った時も、家の誰もがいい顔をしなかった。毎日、学院の前まで迎えに来るベンツ。組み込まれたスケジュールをこなすために、寄り道など許されない。友人など必要なかった。

 どれだけ寂しかったか。東京では自分に作法を教え、傍にいた斎藤しか知らないのだ。だから貴子葉学園での自由は嬉しかった。

『本当に行ってしまわれるのですか』

 斎藤は、最後まで心配していたけれど、自分が一族の束縛から離れることを誰よりも喜んでくれた。東京にある気掛かりは彼のことだけだ。

 たったの一週間しか経っていないのに、ここには、すでに東京よりも大切なものがたくさんある。

「ごめん。俺、なにか気に触ること言ったみたいだな」

 黙りこんだ風巳に、低い声音で沙輝が言った。咄嗟に否定すると、彼は「ならいいけど」と笑い、カウンターへ歩き出す。風巳も後をついてオーダーを済ませた。



 トレイを手に、店の二階へあがると二人は窓際の席に向かいあわせに腰かけた。ランチタイムを外し、平日でもあるせいか店内はいやに閑散としている。沙輝がハンバーガーの包みをめくりながら、紙コップの蓋にストローを突き刺している風巳に目を向けた。

「おまえ、食べるのも初めて?」

「いいや」

「入ったことないのに?」

「その、家の者に頼んだことがあったから」

 もちろんそんなことを頼めたのは、傍にいた理解者である斎藤しかあり得ない。期待したほど美味しいものではなかったけれど、価格のわりには上出来だと思った記憶がある。

 沙輝は「ふうん」と呟いたきり、ハンバーガーにかぶりついていた。風巳も黙ってポテトを口へほうり込む。

 東京での夢が、この一週間でどれほど叶ったかはもう数えきれない。例え、重い足枷が存在していたとしても。

「でもさ、吹藤はそんなに変じゃないよ」

 いきなりの言葉に風巳がゴホッと咳込む。沙輝が「悪い」といいながら頭をかいた。

「なんか、おまえ自分のこと変だと思ってるのかなと思って。ごめん、唐突で。俺、そういうところあるから」

 照れ隠しのためか、沙輝はすごい勢いでポテトをほお張っている。しばしきょとんとした後、風巳が吹き出した。

「そんな笑うことないだろ」

「うん。でも、ありがとう」

 素直に礼を言うと、沙輝は「ほら」と風巳を指さした。

「そういうとこが、少し変わってるけど。それは多分、お前の気にしてることとは違うと思う」

「そういうとこって?やっぱり変?」

「変じゃなくて、なんて言うか素直な奴だよな、おまえ。思ったことがそのまま外に出るんだ」

「嘘だ」

 いやに断定的に風巳が言うと、沙輝は首をふる。

「嘘じゃないって」

 素直。思ったことがそのまま外に出る。

 一族の中では、感情を表に出すことなんて許されてはいなかったのに。幾つも仮面をつけて、隙を見せないことに必死だった。

 言われてみれば、確かに昨日は晶の前で涙を見せたし、朝子の前でも涙を零した。反射的に頬が熱くなる。よく考えると信じられないことだ。胸の奥底から、笑いがこみあげてきた。

 家の者よりも他人に無防備な自分。嬉しいのか哀しいのか分からない。

「そんなに可笑しいこと言ったか?俺」

「ううん。でも仲谷も変わってると思う」

「そうか?」

「うん」

 風巳がしつこく笑っている間に、沙輝はトレイの上を綺麗に片付けてしまう。日に焼けた手が、今度は風巳のトレイの上に伸びた。

「食うのが遅い奴は、食われる運命だって知ってた?これがサッカー部の法則」

「サッカー部の法則って――」

 呆然としていると、あらかた沙輝が風巳のトレイの上まで片付ける。

「し、信じられない奴。仲谷って」

 風巳が声を上げると、涼し気な目が上目使いにこちらを見る。

「おまえって、いい奴だよな」

「どういう意味で?」

「悪い意味じゃなくて。――ここ最近忘れてた。こういう雰囲気」

 風巳が言葉を失うと、沙輝が軽く笑う。

「……不思議な奴だな、吹藤って。学校にもすぐ馴染んだだろ」

「え?すぐかどうかは知らないけど。まぁ、楽しいよ。C組って人懐こいし」

「ああ、確かにC組は仲良いな。羨ましい位。俺も翠がいた頃よく顔を出してた。なーんか全部忘れて学校行きたくなって来た。おまえの顔見てると」

「来たらいいじゃん。うちのクラスの鳥羽って知ってる?あいつサッカー部だけど、仲谷がいなくて物足りないって」

 テーブルの上に顔を伏せて、沙輝が首をふった。

「まだ行けない。俺、やらなきゃいけないことがあるから」

 いやに思い詰めた響きの声が、くぐもって聞こえた。しばらく迷った後、風巳は思い切って口にする。

「原田さんのことで?」

「それは、プライバシーだろ」

 ぱっと顔をあげて、沙輝は席を立つ。

「ごめん。昼飯付きあわせて。久しぶりに楽しかったような気がする。でも、もう俺と翠のことを探るのはやめてほしい。吹藤、思ったよりいい奴だから警告だけにしとく。今日のことは誰にも言うなよ。じゃあな」

 スルリと通路を抜けて、階段の方へ長身の影が消えた。風巳はそんなつもりじゃなかった、と言いかけて口を閉ざす。

 彼にとっては、どんな理由があろうとも詮索である限り同じことなのだ。

 そして自分は彼を裏切るだろう。夢とのつながりを追えば、『沙輝』と『翠』へ行き着くのだから。

「……最低限のルールは守るから」

 誰にも聞こえない声で、風巳が呟いた。


5


 図書館に講義終了の音が鳴りひびくなか、晶が目を醒ました。身を起こすと、上着がかけられていることに気付く。ふっと視線を上げると、奥の書棚でまどかが本を眺めていた。

『――それは、弱さか』

 問いの答えは、誰よりも自分が知っている。

 許されてはいけない恋愛は確かにあるからだ。あまりにも大きな犠牲の上に成り立ちすぎた。

 このままでは、いつか後悔するだろう。彼女と過ごした時間の全て、出会いでさえ。

「晶」

 ふいにまどかがふり返り、晶の側へやってくる。

「夢を見てたでしょ?顔色ですぐに分かる」

「そうか」

 告げるべきことは、何も言葉にできなかった。代わりに、晶はただ微笑んでみせる。まどかの手が、すっと額に伸びた。

「熱なんかないだろ」

「そうね。でも」

「おまえの心配は、取り越し苦労って言うんだよ」

 笑ってソファから立ち上がり、まどかに上着を放る。

「その礼に昼をおごるよ。どこがいい?」

「どこがって、晶は午後も講義があるじゃない」

「さぼる。別にどうってことない講義だし」

 晶が出口へ向かって歩きだすと、まとかが慌ててついて来る。

「車で行くの」

「もちろん。遠出したって構わない。リクエストは?」

「ドライブしながら考えるわ」

「はいはい」

 まだ。

 図書館を後にして、校舎の階段を降りながら自分に言い聞かせる。

 まだ、早い。

 彼女の相手が自分ではなくても。ここに止まっていたいと願う。

 微妙に陰った表情をよんだのか、まどかが立ち止まって彼を見上げた。

「どうしたの?」

「どうしたのって……」

 彼からは、見たことのない微笑みだけが返ってきた。

「何が?」

「ううん。それならいいんだけど。晶は何が食べたい?」

「選択権はおまえにある筈だけど?」

 カレッジの中庭を突っ切ると、グランドの隅に設備された駐車場が視界に入ってくる。

「でも二人で行くんだから」

「この会話の流れで行くと、俺の答えは一つだろ」

「何?」

「手料理が食べたいかもね。でも、それじゃ礼にならない。だから選択権がおまえにあるわけ」

「晶がお礼にこだわらないなら、あたしは料理してもいいわ。その代わり買い物に付き合ってね」

「手料理は捨て難いけど、今日はこだわりをとろうか」

 車のキーを取り出し、晶が助手席のドアを開く。まどかが乗り込んでから、軽い身のこなしで彼が運転席へ乗った。

 車が走り出し、すぐに学内から真っ黒な車体が消える。後にはただ、鼻をつく排気ガスの臭いだけが残っていた。


6


 校舎の窓から、遠くに山並みを見ることができる。

 教壇では現国の教師が冗談を言って、生徒を笑わせていた。朝子はみんなの笑い声で我にかえり、教科書に視線を戻す。

 あと二十分でお昼休み。

 時間を確かめて、黒板に目を向けた。単元は森鴎外の舞姫だ。流麗な擬古文で描かれた物語は、出世と恋を秤にかけた男の話だ。

 朝子は空いている前の席を眺めて、溜め息をもらした。

 今日の朝、HRホームルームの時間に、親友の晴菜が席替えを提案した。クラス委員の彼女の言葉に反対の声もなく、席替えはいつもどおりクジで行われる。

 そこまでは朝子も良かった。けれど、晴菜を初めとしたクラスの意図によって、巧妙な裏工作が用意されていたらしい。

 時折、そういう仕掛けの上で席替えが成り立つことは知っている。今回は朝子と風巳がその犠牲者だ。

 朝子は呆れて言葉もない。晴菜を責めてみても、彼女は自分のしたことに罪悪感のかけらもないらしい。

 キンコーンと聞き慣れたチャイムの音で、授業が終わった。晴菜がお弁当を手に、朝子の元までやってくる。

 そのまま欠席で主のいない椅子に腰かけた。ペテンで成立した風巳の席だ。

「今日は吹藤君、休みなんだね。せっかく朝子が後ろにいるのに」

「あのね、晴菜。そんなことしても風巳は喜ばないよ。もっと可愛い子の前ならともかく」

「何言ってんの、あんたは。吹藤君の態度見てたら一目瞭然よ。ほんとに、今時あんなに思ってること外に出るタイプって珍しい。裏表なくていいんじゃない?」

 裏表はあると思う。言葉にせず、朝子は胸の内で繰りかえす。

 風巳には表と裏がある。時折、考えに耽っているとき、彼は厳しい顔をしている。

 冷たく、無表情な、仮面のような顔。ひどく孤独な。星雅学院からここへ来たこと自体、何かあるのではないかと思う。頭の良さを鼻にかけたところはないが、もっと別のところで、彼には何かあるに違いない。

 厳しく孤独な風巳の仮面に、微かに滲み出た淋しさを、朝子は感じていた。

「だいたい朝子は嬉しいでしょ?もっと素直に喜べばいいのに」

「あのねぇ、晴菜。私はただの一回も彼のことを好きだと言った記憶はないよ」

 朝子の台詞のどこの部分だけ聞いたのか、近くにいたクラスメートが会話に入ってくる。

「やっぱり、朝子って吹藤君のこと好きだったんだ。みんなで席替え企てたのは正解だね、晴菜」

「でしょ?」

 勝手に話が進んで行く。朝子がグサリとお箸をおにぎりに突き刺した。

「だから、もう。どこを聞いてそうなるのよ」

「顔が赤いよ。だいたい吹藤君のこと風巳って呼ぶ女の子は君だけ」

「そんなの男子はみんなそうじゃない。私は風巳にそう呼んでって言われたから」

「だーかーらー、女の子では朝子だけ。それに、ほら吹藤君は朝子にだけそんなこと言っちゃってるし」

 晴菜は面白そうに笑っている。朝子は降参して口を閉ざし、卵焼きをほおばる。

「ま、それはそうと、D組の前田君のことはどうするの」

「!」

 いきなりの話題転換に朝子が喉を詰まらせた。

「ごめん、ごめん。ほい、お茶飲みな。――で、話を戻して、吹藤君の出現で前田君はノーってこと?」

 どうして彼女はこんなに、恋愛の情報に長けているんだろう。朝子は時々晴菜の情報網の広さに驚く。

「朝子はあたしに何も相談しないんだから。親友としては淋しいぞ」

「ごめん。でも、もうずっと前に断ったよ」

「ありゃりゃ。前田君ほどの子でも駄目だったか。朝子ってすごい理想が高いんじゃない?」

「そんなことないと思うけど」

「どうだか。晶さんがお兄さんだけにあたしはちょっと心配だわよ。晶さんって、ほら、腰抜かしそうなほど格好いいじゃない。優しいしさ」

「それは晴菜の買いかぶり。普通の人だよ、お兄ちゃんって」

 晴菜がはぁっと溜め息をついた。

「あの人が普通の人なら、そりゃ朝子の理想は高いわな」

「性格の話だよ。見てくれは妹の私から見ても認めるってば」

「ならいいけど。とりあえず今は吹藤君もいることだしね。でも彼も大変だね、朝子はブラコンだから」

「だからね、どうしてそうやって話を勝手に進めるわけ」

 実際、風巳は必要以上に自分に話しかけてくるわけでもない。親友にそう言うと、笑い飛ばされた。

「そんなの席が遠かったからじゃない。何言ってるの、この子は」

 そうではない、と朝子は思う。確かに彼を名前で呼ぶのは自分だけで、最初は仲の良い関係だと思っていた。けれど、彼は何かの拍子に、思い出したように距離を作ろうとする。

 まるで踏み込んではいけない領域があるように。

 少し近づいては、遠ざかって行く。結局自分と彼の間は始めと何も変わっていない。通りすがりのようなものだ。

「よく分からないな」

 自分の気持ちも、彼の気持ちも。

 ただ、今の関係を淋しいと思うだけだ。

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