第十二章
第十二章
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麒麟祭の第三日目。要人が滞在するフロアの一室を借りて、戴家と吹藤家の昼食会が行われた。二家族だけの昼食とはいえ、それぞれの家に仕える重鎮達も顔を出しているので、広いフロアに似合うだけの人数が揃った。
会食は立食形式だが、テーブルに沿うように参加した人間が並んでいる。手には配られたワインを持っていた。
戴家当主と、吹藤家の老人が向かい合うように、テーブルを挟んで顔を合わせた。
「戴家の内にある問題は解決しました。ご協力に感謝いたします」
戴大蓮が吹藤総帥に言葉をかけた。老人は笑顔で「それは良かった」と微笑んだ。戴家を支える院に属する一族も顔を出す中、李家の伯辰の姿は見えない。
李杏沙は大蓮に近い位置で、以前と変わらず彼に仕えていた。
「当主の御兄妹を紹介していただく前に、私から戴家に伝えておきたいことがあります」
吹藤総帥は優しい口調で、大蓮に隣にいた晶を紹介した。父である和彦は、何の打ち合わせも受けていない。老人の企みに緊張を隠せず見守る中、彼が大蓮に語る。
「この度、私の後継者として、この者に総帥の地位を譲る事を決めました。まだ公に発表していませんが、この場を借りて、戴家にはご報告させていただきます」
一斉にフロアにざわめきが走る。 父の隣で風巳が晶の様子を窺う。彼は事前に知らされていたのか、動じず静かにたたずんでいた。父である和彦も何の感想も述べず、事態を見守る姿勢に徹した。いずれこんな日がくることは、誰もがわかっていたことだ。
表向き当主をつとめる和彦の意見を一切聞かず、老人はこの成り行きを決定していた。しかし、佐賀野をはじめとした幹部達は、顔色一つ変えていない。
「現在、当主は和彦が努めていますが、これからは彼もこの者を支えて行くことになります」
「それはおめでとうございます。吹藤家に新しい風が吹きますね」
大蓮は晶に近づいて、手を差し出した。晶が応えようと手を重ねた。触れた手の温もりに懐かしさがこみ上げる。全ての苦痛を癒す、柔らかな感覚。風が吹いたと錯覚するような心地よさがあった。
まどかと同じ気配を、この当主は持っているのだ。アルバートが教えた戴家の力を思いながら、晶が手を離す。まどかが真実、彼の妹であることが何よりも理解できた。
「それでは、そろそろ妹を紹介しましょう」
優しげな微笑みのまま、大蓮が部屋の中心を貫くよう作られた道を行く。彼が颯爽と扉へ近づくと、ゆっくりとそれが開かれた。
現れた美しい女性には、見覚えのある者が多くいた。
晶に教えられていたとはいえ、風巳は動揺を隠せない。この場にもし朝子がいれば、声をあげていただろう。
入ってきた戴蓮花を見て、早川まどかを知る者は一様に驚愕の色を浮かべた。
黒いイブニングドレスに身を纏って、大蓮のエスコートで彼女が風巳達の元へ近づいてくる。吹藤家の老人もさすがに事態が飲み込めず、部下の榊深之を見返った。榊も首を横に振ることしか出来ない。
晶だけが動じず、近づいてくる彼女を見ていた。そのままの視線で、隣の曽祖父に言葉をかけた。
「大おじい様。貴方が私に彼女を紹介した経緯を、今理解しました」
記憶を偽る晶には、北陸の研究所での対面だけが全てなのだ。風巳は晶の意図をすぐに理解した。まどかが風巳の前を横切る瞬間、視線があった。 彼女が少しだけ笑った。どこか思いつめた微笑みだ。
「吹藤の方々は彼女をご存知でしょうが、これで私がなぜ蓮花の縁談を破棄したのか、ご理解いただけるはずです」
大蓮が老人と晶の前で足を止めた。現れた戴蓮花が顔を上げる。舞姫を演じたときとは違い、今は彼女の素顔がわかる。舞の稽古で鍛えられた四肢が、以前よりも彼女を美しく見せた。
「改めてご紹介します。私の妹、蓮花です」
「こんにちは」
蓮花として現れたまどかは、老人に対して、故意に「初めまして」という挨拶を避けた。老人もその意図を汲み取って、動揺をやり過ごすと笑顔を向けた。
「こんにちは。このような場で貴方と再会するとは、驚きました」
「あたしも驚いています」
そう答えてから、一歩晶の方へ移動した。もう迷うことはない。強い決意を秘めたまま、まどかが晶を見上げる。彼は以前と変わらず、綺麗に笑った。
「会うのは二度目ですね」
晶が全ての過去を失った眼差しを向ける。まどかは首を横に振った。
「あたしは、この日を待っていました。だから、この場に現れた」
人々の視線を受けながら、まどかが晶と対峙している。今から語ろうとしていることを思って、舞を演じる前よりもひどい緊張感が身を包んだ。激しい動悸で、手に汗がにじむ。
大蓮にも杏沙にも相談せず、独りで決めたことがある。二人に打ち明ければ、反対されることは明白だった。だから、哀しい決意を胸に秘めてきた。
今日、この時を逃せば、二度とそんな機会は生まれない。
「吹藤の大おじい様」
まどかが晶の曽祖父に呼びかけた。大蓮が何を言うのかと見守っている。
「戴家の血統に宿る力を、博士からお聞きになりましたか。それがどういう効果を持つのか」
老人が頷くと、彼女が信じられないことを申し出た。
「あたしは、彼を愛しています。彼に婚約者がいることも知っています。それでも、あたしをこの人の傍に置いて下さい。それが叶うのなら、以前のあたしに戻れなくてもいい。戴蓮花の名を生涯、受け入れてもいい。お願いします」
「蓮花!!」
まどかの声を遮るように、大蓮の怒声が響いた。
「何を言っているのか分かっているのか。そんなことは私が許さぬ。そなたの幸せはそのような場所にはない。目を覚ましなさい」
強い力で、大蓮がまどかの腕を引いた。
「吹藤家の方々。申し訳ないが、蓮花のお披露目は終わりです。ゆっくりと会食を楽しんで頂きたい。」
そのまま杏沙と飛麟を呼んで、大蓮が強引に蓮花を連れ出した。突然の出来事にフロアが騒然としている。
晶の隣で、曽祖父はもういつもの落ち着きを取り戻していた。彼女の発言は、この老人の策略を進めていくことになるだろう。戴家と吹藤家の関係を取り持つ彼女の存在を、決して諦めないはずだ。当主の大蓮が反対しても、本人の意志がこちらに向かっているのだ。
この場で、震える声で自分の傍にいたいと打ち明けた彼女の勇気。晶がその想いを受けて、事態の収拾のつけ方を懸命に模索していた。
曽祖父と違い、まどかを戴蓮花の名に縛ることを望んでなどいない。彼女が早川まどかでなければ、自分の還る場所を失うことになるのだ。
「大おじい様」
晶が曽祖父に呼びかけるのを、風巳は聞いていた。
「貴方は風巳ではなく、私の妻として彼女を選んだのですか」
老人は答えない。答えられるわけがなかった。この件だけは、思惑とはかけ離れた所で発生してしまったのだ。
「貴方が強く望んだ、光と私の子供は無事に生まれるでしょう。しかし、いつまでも二人の兄妹の関係を隠しとおせるものではない。その隠れ蓑に戴蓮花が必要なのですか。それとも、初めから光と私に望んだのは、子供だけだったのですか」
「お前はどう思うのだ」
「別にどちらでもよいことです。ただ、大おじい様が望むなら、私は彼女を吹藤家に迎えて見せます」
「戴家の反対を押し切ってか?不可能じゃ」
「貴方はそれを可能にすることを、私に望んだ。だから、あの時彼女を私に会わせたのでしょう」
老人からの答えはない。今、それは無言の肯定となった。
「お前に私の座を譲った。たまにはその力、試してみようぞ」
「わかりました」
曽祖父はそのまま、会場を跡にした。晶が恐ろしいほど厳しい顔をして立っている。風巳が見守る中、彼も榊と共にフロアを出て行った。
戴家と吹藤家の昼食会の後、その後に続く麒麟祭のイベントを晶は全て欠席した。総帥に試されて、彼は彼なりに思うことがあるのだろうと、榊深之は感じた。
行方のつかめずにいた早川まどかの所在が戴家にあった。榊もわからなくて当然だと可笑しくなった。久しぶりに彼女を見て、安心したせいかもしれない。
吹藤晶に向けられた、熱烈と受け取れる告白を、榊は痛々しい思いで見ていた。北陸の研究所で別れてから、一体どれほどの葛藤を乗り越えてきたのだろう。
晶はこれまで寄り付くことのなかった父である和彦の部屋を訪れていた。彼の片腕と目される斎藤と三人で、総帥とは違うフロアにある部屋に閉じこもっている。
元総帥である老人に試された事態を、老人に相談することはできない。力を借りることも然りである。彼はこの件に関してだけ、父の力を借りることにしたのだろう。
榊は父の部屋へと入っていった晶に、何の疑念も抱かなかった。
晶は父の滞在する部屋へ入ると、斎藤克行を見た。斎藤は、晶の顔に浮かぶ、思いつめた陰りに気づいた。
「晶様が、和彦社長とゆっくり話をされるのは久しぶりではありませんか」
紅茶を入れて二人の前に置くと、晶が決意を打ち明ける。
「斎藤。もういい。俺は覚悟をしてこの部屋を訪れた」
「晶様」
さすがに動揺した斎藤が呼びかけるのを無視して、晶は久しぶりに真っ直ぐ父の顔を見た。
「お父さん」
これまで、晶が和彦のことをそんなふうに呼んだことはない。結城の両親を思っての態度だったのかは、今もわからない。
「私が一番に望むことを、失ってしまいそうです」
晶は言葉を飾らずに、正直に語った。和彦が一口紅茶をすすった。険しさはなく、優しい眼差しで向かい合っている。和彦はその一言で全てを理解して、カップを置くと頷いた。
「戴蓮花は、お前が愛している女性だね」
「はい。彼女が早川に戻らなければ、私が全てを終えたとき、還る場所はありません。意識を回復してから今日まで、斎藤の力を借りてここまでやって来た。こう言えば貴方にはどういうことか理解できると思いますが」
和彦が頷いた。そのまま斎藤に隣にかけるように命じた。
「確信は持っていないが、薄々気づいていた。佐賀野をこちらに取り込むつもりだね。お前と斎藤が仕掛けたのは、そういうことだ」
「申し訳ございません、和彦社長」
斎藤が頭を下げると、和彦は優しく笑った。
「斎藤が謝る必要はない。それは見事に実を結びつつある。もう一つ問いたい。光の妊娠は事実か」
晶が首を横に振った。
「あれは過去の書類から捏造した子供です」
「なるほど。だから光は麒麟祭にも欠席したのだね。変わらぬ体型に疑惑を抱かれないために」
「そうです。だけど、お父さん、私にはもう時間がなくなってしまった」
いつか、佐賀野の一族に全ての策略を打ち明けるときは来る。その時に、彼らが曽祖父を選ぶのか、こちらを選ぶのかはわからない。けれど、その来たる日の賭けに勝つために、全てを仕掛けた。
「まどかを手に入れるためには、戴家の当主を説得する必要があります。けれど、今のままでは無理だ。婚約者のある身で、私が名乗りをあげても無理です。曽祖父の力の下にいる記憶を失った私の立場では、彼は認めない。まどかの幸せをここに見出さない」
「当然だね」
同意すると、和彦は「それでお前はどう考えている」と先を促した。
「戴家に、真実を打ち明けるしかないと思っています。私の記憶のことも、貴方や私が望む一族の未来についても。けれど、口先だけの説明では意味を持たない」
「佐賀野を味方につけておかなければならないということか」
「そう思います。戴家の当主が、これからの吹藤の改革に耳を傾けるためには、それなりに信憑性が必要です。それに万が一、戴家当主が一切を信じず、大おじい様に私の話した真実を打ち明けたら、全てがわかってしまう。佐賀野の力もなく、そんなことになれば終わりです。佐賀野の力を得ても、まだ不利なほどに、大おじい様の持つ力は大きい。最悪そうなっても、このままの状態よりは、佐賀野を味方につけておけば、抵抗の仕方があります」
斎藤が黙って晶の台詞を聞いていた。全てを教え導いたのは確かに斎藤だが、晶の努力も並大抵のものではなかった。彼の望むことを、叶えたい。斎藤も切実に願っている。
和彦が大きくため息をついた。
「確かに大おじい様は、もう戴蓮花を諦めないだろう。そうなってしまえば、彼女が日本に戻っても、平穏な生活は約束されない。戴家が彼女を守る。結局、戴家に留まる生活が待っている。周りが早川まどかを認めなくなってしまう。お前が案じるのは、そういうことだね」
「はい。大おじい様は容赦のない方です。彼女の生活など考えない。佐賀野に話を持ちかけるのが早すぎることはわかっています。けれど、そうする以外、方法が見つかりません」
和彦が斎藤を見た。意見を求めると、彼はすぐに答えた。
「まず、晶様が総帥となったことを、一刻も早く公に発表すべきです。傀儡的要素が多くとも、総帥という地位だけで発生する力があることも確かです。公表すれば、後戻りもできませんし。和彦社長が手配を進めれば、元総帥も疑いを持たないでしょう。晶様は、これまでと変わりなく、元総帥には芝居をつづけることです。佐賀野には、賭けてみるしかありません。ですが総帥となったことは、この場合大きいと思います」
「私も斎藤と同じ意見だ。新しい総帥の発表はすぐに手配する。それから、内密に佐賀野と会見しよう」
「ありがとうございます」
晶が和彦と斎藤に頭を下げた。斎藤が慌てて制すると、和彦が声をたてて笑った。幾分気持ちが軽くなって、晶も笑うことができた。
未来が続くのかどうかは、今夜の会見で全てが決まるのだ。
舞姫の役を終えてから過ごすために用意された部屋は、ホテルの最上階にあった。今は半ばその部屋に閉じ込められるような形で、まどかが杏沙と共にいた。
大蓮はあまりの怒りのためか、昼食会から顔を見せない。杏沙もいつも穏やかな主の激しい逆鱗を見て、大蓮にかける言葉を失っていた。
戴家の当主としての怒りではなく、大蓮として妹を思う個人的な感情である。
杏沙にはまどかの悲愴な決意も理解が及ぶ。
全てを捨てても、彼が生きて行くことが優先するのだ。彼に向かって積み上げてきた想いは、昨日今日にできあがった容易なものではない。
けれど大蓮の言うように、まどかの幸せが彼の元にないこともまた事実だった。
深夜になって、部屋に大蓮が訪問してきた。彼は部下に命じて、戴家の所有するジェット機を日本へ飛ばしたのだ。
まどかの母親を連れていた。
「白蘭様……」
杏沙が入ってきた女性を見て、驚きのあまりうわ言のように呟いた。ずっと、蓮花の母は、日本の美しい女性だったと聞かされていた。大蓮自身もそう語っていたし、一族の間で吹聴される噂も同じだった。まだ幼かった杏沙には、当時の詳細は伝聞でしかない。
それでも、幼い頃に慕った女性を忘れはしない。
今この場に彼女が現れて、初めて一枚の絵が出来上がったのだ。白蘭が突然姿を消し、一族から断絶された理由は、このような所にあった。
舞の師である玉芳が、稽古に入る前に語った言葉が蘇る。まどかの母も舞姫として舞台に立った人だと過去の真実を教えた。その時になぜ気づかなかったのか、杏沙は己の鈍い感覚を悔いた。
「杏沙。そなたの気持ちは理解できるが、今は過去に捕われている時ではない」
大蓮はもうまどかを責めることをせず、それだけを言うと杏沙を連れて部屋を出て行った。事の経緯を聞いて駆けつけた母親が、まどかの傍にやってくる。
まどかは稽古場の夜に封印した涙が、再び溢れてきた。
「お母さん。ごめんなさい」
何度も「ごめんなさい」と謝る娘を抱きしめて、母親は「いいのよ」と言った。
「貴方が香港へ発つと言ったとき、少しだけ覚悟していたの。こんなことにまで話が及ぶのは予想外だったけれど」
「ごめんなさい」
母である洋子は、まどかの濡れた頬に持っていたハンカチを押し当てた。
「お母さんに謝ることはないの。お母さんのしたことが、貴方にまで迷惑をかけたわ」
「そんなことない」
「麒麟の舞台をつとめあげたそうね。私の娘が。信じられない思いだわ」
まどかの隣に座り込んで、母親が遠い目をした。昔を思い出している顔だ。
「四神の舞。懐かしいわ。小さな貴方に厳しく叩き込んだわね。覚えていた?」
「ここに来て、思い出したわ」
「そう。そうでしょうね。大蓮様に、貴方を説得してほしいと言われたわ」
まどかが口を閉ざす。母に何を言われても、決意を覆す気はなかった。
「だけど、お母さんも昔、たくさんの人に迷惑をかけた。分かっていても、止められない気持ちだった。結果、鈴麗様を裏切ってしまった。貴方にも、ひどい傷を負わせるはめになった。ごめんね、まどか」
「お母さん」
「だけど、自分のしたこと、後悔しないでいようと決めたわ。小さな貴方が痛いと泣くと、何度も後悔しそうになったけど。それでも、あの人を愛したことを後悔しないように」
「大蓮様の、お父さん?」
「そうよ」
母親の洋子が、まどかと向かい合うように座りなおす。
「大蓮様は、あなたを思って反対しているの。貴方のその気持ちが、どれほど戴家に迷惑をかけるのかは、きちんと考えなさい」
まどかが深く頷いた。洋子が手を伸ばしてまどかの頭を撫でる。
「結城さんが、あの吹藤家の子息だったなんて。貴方も運が悪いわね。まどかは私の娘だもの。諦めろと言っても、きっと無理ね。それが地獄でも、貴方は結城さんを求めるでしょう」
まどかが頷いた。例え彼の一番になれなくても、傍にいたいと願う気持ち。生涯報われることのない想いだとわかっている。この道程の先にある辛さも、苦しみも。
全てを受け入れて、彼の隣を歩いて行きたい。母である洋子にも、覚えのある気持ちだった。全てを裏切っても、至福の一時を選んだ。どれほどの糾弾に遭っても、傍にいられなくても、子供を生む決意は揺るがなかった。
今も、後悔はしていない。これからも。
頭に触れていた手を引いて、洋子はため息をついた。
「母親として、私も貴方を連れて帰りたいわ。だけど女として、貴方の気持ちはわかる。貴方の思うようにしてみなさい。だけど、絶対に後悔しては駄目よ。貴方がどれほど苦しい思いをしても、貴方が望んだことなんだから。お父さんはお母さんが説得してあげる」
止まっていた涙が、再び溢れ出した。まどかがしゃくりあげながら「ありがとう」と言った。洋子も目を赤く潤ませて娘を見た。
「だけど、大蓮様が許してくれるかしらね。お母さんにも、彼を説得するのは無理だわ」
憂鬱をにじませた口調で、母親が言った。まどかもそれだけを案じている。
けれど一体誰に、彼を説き伏せることが可能になるだろう。
2
麒麟祭の最終日が訪れた。戴蓮花との会見を果たしてから、晶には生きた心地のしない日々が続いた。三日目の深夜、父の滞在する部屋で佐賀野の重鎮達と会談をしてから今日まで、佐賀野の一族は沈黙を守ったのだ。
晶はいつ最後の審判を受けるのかと、薬の後遺症よりも苦痛な日々を送った。
新総帥が生まれたことも、東京で公の発表が行われていた。曽祖父と晶が不在のまま行われた会見は、東京に残っている人間が和彦の命を受けて設けた。 吹藤の会見を任された男が、「最初の発表は、戴家の麒麟祭で行われました」と語るのを、晶も榊深之と衛星中継で目にした。
滞在するホテルで読むことの出来る各国の新聞も、大きく報じていた。麒麟祭に出席しているボーフォード家やグラストン家からも祝辞を受けた。
晶の追いつめられた思いとは別に、周囲は賑やかだった。麒麟祭も日を追うごとに、盛り上がっている。
最終日の前夜になって、沈黙していた佐賀野から、一番年長の男が和彦の元を訪れた。
佐賀野の重鎮達は、和彦に向けて条件を示した。それはビジネスに関する多くのことだ。和彦がそれを受け入れて尚、彼らは早急に全てを決めることは出来ないという返答だった。見守るということなのだ。
けれどそれは、側近の一族としては、在り得ない返答だった。策略を知りながらの沈黙は、曽祖父への裏切りを意味する。
晶と斎藤が仕掛けた戦いは、ほぼ成功をおさめたことになる。吹藤が大きく揺れる時代が到来したのだ。
その成り行きは、晶にもすぐに伝えられた。戴家の当主に、打ち明けるだけの用意が整ったことになる。
最終日の夕刻、晶は大蓮に面会を依頼した。戴蓮花の件については、力を試すという成り行きで、曽祖父も口を挟まない。晶は共を必要とせず、一人で大蓮の元へと案内された。
大蓮のいる部屋には、二人の側近の姿がある。晶は人払いを要求したが、簡単に拒まれた。
「私が最も信頼を寄せる者達です。こちらが李杏沙。こちらが黄飛麟です。容赦して頂きたい」
紹介された二人が、晶に会釈する。
「わかりました」
承諾するしか術がない。戴家を支える院の重鎮が控えるよりは、ましだと考えることにした。大蓮は大きな硝子張りの窓から、ソファへやってくると、晶にも席を勧めた。側近の二人が少し離れた位置で控えている。
窓から差し込む夕陽が、部屋を茜に照らし出す。大蓮が「用件は何でしょう」と聞いた。
「貴方の妹である蓮花のことです」
蓮花の名を出すと、大蓮の穏やかさの中に、一瞬だけ苛立ちのようなものが走った。彼の様子に晶が警戒していると、大蓮が続きを口にした。
「貴方の言いたいことを当てて見せましょう。蓮花を吹藤家に迎えたい。違いますか」
「いいえ、仰っているとおりです」
いつの間に用意したのか、側近の飛麟が二人に紅茶を出した。大蓮の表情が険しくなっていた。
「話にならない。それは新しく総帥となった貴方の意志ですか。それとも、あの老人の意志ですか。どちらにしても、彼女は我々のいる世界の住人ではありません。今回は私のわがままが過ぎただけのこと」
「当主。私が彼女を必要としたのです。吹藤という家のためではありません」
大蓮が苛立ちを隠さず、晶の立場を言い当てた。
「貴方に蓮花を望む資格はない。妹との婚姻を受け入れ、子供まで設けた。記憶も定かではない。その上で蓮花を求めるなど、侮辱するに等しい申し出です」
杏沙が大蓮の後方で二人の会話を聞いている。記憶のない傀儡の彼に、勝ち目はない。大蓮を説き伏せることは不可能だ。まどかの気持ちを思うと、いたたまれない思いがした。
杏沙のそんな考えを覆すかのように、吹藤晶が口を開いた。
「妹との間に設けた子供は、実在しません。あれは私が仕掛けた偽りです。いずれ許される日がくれば、妹との婚約も解消します」
「そんなことを今、私に信用しろと?」
晶は静かに頷いた。
「私が求めるのは、戴家の女性ではない。早川まどかです」
彼から決して聞くことのない名を聞いて、大蓮が言葉を失った。杏沙が信じられない思いで、真実を打ち明けた晶を見つめた。
「なぜ、まどかに戴家と繋がりがあったのか、その経緯は知りません。けれど、彼女を失うことはできない。それは、彼女の持つ戴家の力が私を救うからではない。彼女を愛しているからです」
「貴方は、蓮花との思い出を失っていない、そういうことですか」
「はい。全て私が仕掛けた芝居です。私は曽祖父の言い成りではない未来を欲した。吹藤の名を捨てるために、全てを始めた。まどかを忘れたのは、私なりに彼女を守る術でした」
大蓮に漲っていた怒りに近い苛立ちが、わずかに緩んだ。晶の思惑通り、彼はこの会見にやっと興味を示した。浅く腰掛けていたソファに深く座りなおす。
「そのような秘めた思惑を、この場で話してよいのですか。貴方がそちらの真実を告白したところで、私は貴方の味方ではないのに」
それでも大蓮は突き放した台詞を述べる。佐賀野の重鎮に暴露を決意した時から、晶の中から不安と焦りが消えたことはない。今この瞬間も、未来を賭けた極限の緊張感が身を貫いていた。それらを一切面に出すことはなく、晶は「承知しています」と短く答えた。
「貴方から戴蓮花を手に入れることは容易ではない。不可能だと言ってもいいでしょう。けれど、それでも私には諦めることはできない。ここで彼女諦めることは、私にとって、全てを失うことを意味します。だから貴方を説得するために、全てを賭けるのは当然です」
大蓮の後ろで杏沙も全てを聞いている。
まどかが想いを寄せる彼の言葉。吹藤晶がまどかのことを語るのを、杏沙ははじめて聞いた。今まで一方的に、まどかの彼への想いだけを見てきた。
吹藤晶の想いに触れたことはない。そのために、杏沙の中では二人の想いに違いがありすぎて、まどかが哀れに映った。
それが、どれほど大きな誤解だったのか、今は思い知らされている。まどかにとって彼の存在が全てであるように、彼にとってもまどかが全てなのだ。
彼らはどれほど遠い立場にあっても、同じだけ相手を想い、そこから生まれる苦痛も等しい。
杏沙がそっと大蓮の背中を見つめる。主の憤りはもうどこにもない。全てを賭けた吹藤晶の姿勢が、大蓮の怒りを鎮めた。
杏沙がまどかを思う。彼女の愛した男を素直に称賛できた。彼以上にまどかを必要とし、慈しむ者はいない。蓮花を見守り続けた大蓮にも叶わない。誰にも行き着くことのできない限界で、彼はまどかを求めている。
「私や私の父が求める吹藤の在り方と、曽祖父の求める在り方は違います。今の私には、強いられた未来を拒む力はありません。私が曽祖父に与えられた道には、まどかは必要のない女性です。けれど、それを納得することはできない。だからこのような偽りが必要でした。私は吹藤の名に縛られない未来が欲しい。平凡に、彼女の隣に立つだけの自由が望みです」
語る吹藤晶に向かって、大蓮の中で羨望が生まれた。与えられた将来に立ち向かっている彼の立場が羨ましかった。過去を振り返っても、大蓮にはそんなふうに約束された未来を疑うほどに、自身が欲したものはなかった。戴家の総帥として立つことを嫌悪する理由がなかったのだ。前総帥であった父の望むままに、今日までを過ごしてきた。そして大蓮自身、それを疑うことなく今に至っているのだ。
妹である蓮花への憧憬は、幼い頃から抱いていた。けれど、その想いのために戴家に示された将来を捨てることはできない。もし、彼のように誰かをこよなく愛したとしても、最後に選ぶのは戴家なのだ。大蓮には戴家の長として築かれて行く未来を捨てることはできないだろう。
彼のように、全てを失う覚悟などできない。
立場の違いや、そこに至るまでの理由は関係ない。彼と自分の気性の違いなのだ。それほどに何かを求めることは、大蓮には恐ろしい。
吹藤晶が、これから起きる一族の波乱を語っている。その行く末に、大きく生まれ変わる組織の有効性を説いた。人の上に立つ者として、大蓮には理解できる。語られた彼の父が始めた企てには、誤りはない。
同時に、大蓮は吹藤家のあの老人の姿を思い出した。後継者を育てない彼のやり方で、彼が一族に何を望んだのかも理解した。
彼の老人は、自分の作り上げた王国を超える者を待っているのだ。試練だけを与え、それでも挫けない子供達が、己を超える一瞬を待っている。老人の下から世界を見ていない大蓮にだけ、その真実を知ることができた。
戴家とは違った方法で、彼らは一族を育てて行くのだ。
「一族の在り方が変ったとき、私は全てを父達に託して吹藤の名を捨てるつもりです」
「総帥の座を降りると」
「そういうことになります」
大蓮が冷めた紅茶を口にした。蓮花の幸せを思い、吹藤の行く末を考えながらも、一つの悪意が消えない。
「総帥、貴方の話は理解できる。しかし、勝算はあるのですか。貴方の曽祖父の持つ力は絶大なものがある。貴方が勝利をおさめるまでに、どれほどの時間が必要なのです。それまで蓮花に辛い思いをさせるのですか」
「確かに、一日二日で成る事ではありません。数年はかかるでしょう。けれど、勝算はあります」
大蓮がしばし沈黙した。蓮花への憧憬が胸を占める。戴家と引き換えに彼女を求めることはない。けれど、彼女を誰の手にも渡さないことはできる。
吹藤晶の想いを理解しながら、妹を手放したくないという気持ちを捨て去ることができない。ここで吹藤晶の申し出を拒めば、彼女は戴家に守られ、戴家の娘となる。
例え、蓮花の未来を縛ることになっても、苦しめることになっても、いつも自分の傍に。
湧き上がった願望が、大蓮の返答を濁した。
「吹藤総帥。今すぐに答えることはできません。蓮花とも話したい」
いつも迷うことのない大蓮には珍しく即答を避けた。杏沙が彼の蓮花への思い入れに気づいて、愕然とする。
吹藤晶の言うことに誤りはない。彼は全てを成し遂げてまどかを幸せにする者なのだ。それがわからないほど、大蓮は愚かではない。ないはずなのに、彼は受け入れなかった。主の割り切れない感情を前に、杏沙が思わず口を開く。
「大蓮様」
杏沙の厳しい声が、大蓮に蓮花の幸せの在処を思い出させた。吹藤晶を想って泣いていた彼女の姿がよぎる。
手放したくないという思いと、彼女の幸せを願う気持ちがせめぎあう。
「総帥。仮に私が全てを拒めば、貴方はどうするのです?」
晶が眼差しを伏せた。その心を奪われそうな美貌に、思いつめた微笑みが浮かぶ。
「もう、後戻りはできません。ここで全てを断たれたら、私にはもう生きている意味がない」
もう一度顔を上げて、晶が目の前の大蓮を見る。真っ直ぐに向かってくる視線が、大蓮を射抜いた。紫がかった虹彩の奥に、揺ぎ無いものがある。
「ずっと考えていました。彼女にもこれからの長い未来に、誰か別の者が現れるかもしれない。その方がお互いに幸せなのかもしれないと。事実、周りではそういうことの繰り返しです。けれど、彼女は違っていた。ここに来て、思い知りました。それが幸せだったのか、不幸だったのかは、今はまだわからない。けれど、これからもきっと、お互いに誰も代わりにはなれない。だから、失うことはできない」
命がけの決意で、晶が最悪の終わりを予告する。
「当主、こんなことは口にしたくはありませんが、その時は、私がこの手で彼女を殺します。彼女が生涯苦しむのを見捨てて、一人で逝くことはできません。幸せにはなれないとしても、苦しみと哀しみを断つことはできる。」
捨て身の台詞だと笑い飛ばしたかったが、大蓮には笑うことができなかった。彼の言葉に嘘はない。最悪の終焉を見つめながら、この会見に臨んだのだ。
「貴方の覚悟は、よくわかった」
大蓮が立ち上がった。晶が緊張を緩めずに座っている。杏沙は祈るような気持ちで主の決断を待った。
「総帥。最後に私と妹の時間を頂きたい。彼女の気持ちを聞きたいのです」
いつもの主の姿を見て、杏沙が緊張を解いた。全てを見守っていた飛麟が微笑んでいる。主の中にある蓮花への思いやりは、彼が抱き続けた願望を超える。戴家を捨てることができないように、蓮花の幸せを捨てることができなかったのだ。
仕える主君の懐深い情愛を感じて、飛麟と杏沙が忠誠心を強くする。
「吹藤家の滞在は麒麟祭の初日から十日ありましたね。それでは明日、正式に返答しましょう。貴方には夕刻に使いの者を出します。詳細はその時に」
「わかりました」
晶が立ち上がって、大蓮と握手を交わす。戴家の当主は柔らかに笑った。
「本日で麒麟祭は終わります。今夜の晩餐にはフィナーレの花火も上がります。ぜひ楽しんでください」
「ありがとうございます」
晶の身を縛っていた緊張が少しずつ解けて行く。どうしようもなく手が震えた。握った大蓮の手から、まどかと同じ心地よい波動が流れ込んで来る。
長かった一週間が終わりを告げる。
晶が部屋を出ると、大蓮は再びソファに沈んだ。そのまま体をひねって背後の二人に顔を向けた。
「彼は美形だね。あの顔で頼まれては、断れまい。蓮花が忘れずにいるのもわかる」
主の冗談を受けて、側近の二人が表情を和らげた。
「お前達がいてくれて助かった。もう少しで、間違えるところだった」
「私の身に余る行為、お許しください」
杏沙が素直に頭を下げると、大蓮が笑う。
「そなたも私に劣らず、蓮花のことになると見境がなくなる」
杏沙が顔を赤くするのを見て、隣の飛麟も笑った。笑みを浮かべたまま、彼が大蓮に提案する。
「本日、麒麟祭の晩餐が終わってから、私が大蓮様と蓮花様にお茶を入れて差し上げましょう。花火は夜通しあがりますし、お二人でゆるりと話をされるとよろしいかと」
「そうだね。もう最後だ。思い残すことがないように、たくさん話をしようか」
微笑みに寂しさが見え隠れしていた。飛麟と杏沙がかける言葉を捜していると、大蓮が二人に背を向けた。ますますソファに沈むように身を預けて、小さく二人の名を呼んだ。
飛麟と杏沙が返事をすると、大蓮が呟く。
「お前達は、ずっと傍にいてくれるね」
主の孤独を思って、二人が「もちろんです」と即答する。向こうを向いている大蓮の表情は、二人にはわからない。
「ありがとう。飛麟、杏沙」




