第八章
第八章
1
結城邸のリビングにオートバイのエンジン音が響いた。ブルブルと細かな振動が停止すると、しばらくしてからインターホンが鳴った。
エンジン音で察して、玄関へ向かっていた風巳が扉を開けると、沙輝が顔を出した。
「よぅ、久しぶり」
「久しぶりって。一日会ってないだけだろ」
「今まで、一日でも会わない日なんかあったか」
指摘されて思い返すと、確かに夏休みに入ってからも彼とは毎日顔をあわせていた。沙輝は八月から予備校の夏期講習へ通うとかで、昨日から予備校生をやっている。今日も夕方近くまで、予備校だったはずだ。
「予備校どうだった?」
「頭が爆発しそう」
「何だよ、それ」
玄関へあがりながら、沙輝が風巳に紙袋を差し出す。
「これうちの母親から、差し入れ」
受け取って中をのぞいている風巳に「おはぎだって」と声が降ってきた。二人でリビングへ入ると、ダイニングの奥のキッチンで朝子が夕食の準備に奮闘していた。
「いらっしゃい、沙輝。もう出来るから、ちょっと待って」
「いいよ。別に急がなくても」
ダイニングの食卓の上には、たこ焼き器が用意されていた。風巳の提案で、今日は三人でたこ焼きパーティーをすることになったのだ。
男二人が雑談しながらたこ焼き器の用意をしていると、朝子が生地の入ったボールを持ってキッチンから出てきた。
「よし、焼くぞ」
沙輝が熱した鉄板のへこみに生地を流し込んでいく。風巳が面白がって、用意されていた様々な具を入れた。
「あれ?」
朝子がリビングにある、わりと大きなテレビの画面に釘付けになっている。
「お兄ちゃん?」
風巳が朝子を見た。「どうしたの?」と言おうとして、何気なくついていたテレビのスピーカーに耳を奪われる。聞き慣れた声が聞こえて来たからだ。
彼と夢での再会を果たしてから、まだ数日も経っていない。
ばっさりと短く切られた髪が、彼を別人のように見せていた。濃紺のスーツが、陰影によっては漆黒にも映る。世界と日本のこれからを語る、真面目な経済番組だ。ゲストとして彼が顔を出していた。
肩書きは、吹藤グループの次期後継者となっている。吹藤本家がメディアに顔を出すことはほとんどない。無名の彼を知らしめるための売名行為だと、風巳はすぐに悟った。
晶の望んだことなのか、総帥の思惑なのかは分からない。ただ、本家において、何かが方向性を持って動き始めたことは確かだろう。
沙輝が「ビデオだ」と言って、録画を始めた。
「出る番組、間違ってるよ」
そのままテレビの前に座り込んで、画面を見たまま軽口を叩く。
「経済界の人間というより、俳優とかモデルの方が似合ってる」
「本当にね」
半ば放心したように画面に見入っていた朝子が、「元気になったんだ」と安堵したように呟いた。テレビの向こう側で、番組の進行役と晶が何か難しいことを語っている。
彼は今、多くのことを学び、自分の手で未来を切り開こうとしているのだろう。
この場所へ帰れるように。
「お兄ちゃん。このまま吹藤の人になっちゃうのかな」
「晶は朝子のことは忘れていない筈だよ。日本で一緒に暮らした三年間は覚えていないかもしれないけど。妹として朝子のことは覚えてる。だから、朝子のことを放っておいたりしないよ」
「うん、そうだね。今は待つことしかできないもんね」
沙輝がテレビの前から立ち上がって、再び食卓の前に戻ってきた。少し焦げているたこ焼きをひっくり返しながら、愚痴をこぼす。
「そうだよ。朝子なんか妹だからいいよ。風巳だって吹藤の関係で知り合えるしさ。俺なんか、今のところ全く知らない人だぜ。寂しすぎるよ」
言いながらリビングのテレビに目を向けて、少し不思議そうに風巳に聞いた。
「晶さんの吹藤家での立場ってどうなってるわけ。朝子と血のつながりがないってことは、本当の両親が吹藤に関係のある人達ってことか?直径の風巳とは従兄弟だったりとか?」
沙輝にとっては思いつきの質問に過ぎない。けれど、風巳は彼の問いかけを真摯に受け止めて、この機会に晶の素性を打ち明ける決心をした。
「晶の本当の父親と、俺の父親は同じ人だよ」
沙輝の救い上げたたこ焼きを皿に取りながら、風巳が簡単に真実を語った。他愛ないことを話す時とあまりに同じだったので、沙輝と朝子は反応が遅れた。
「つまり俺と晶は異母兄弟なんだ」
「何だって?」
やっと把握して、沙輝がたこ焼きを取り落とす。朝子はあまりの事実に言葉もない。
「兄弟?風巳と晶さんが?」
「うん。母親は違うらしいけど」
「お前、それいつ知ったの?」
「この前、晶の容態を見に行ったとき。お父さんが話してくれた。本当は朝子にも伝えたかったみたいだけど。朝子はあの時、それどころじゃなかったから。今まで黙っていてごめん。俺も、最初混乱してたから」
「世間って狭すぎるよな」
驚きを隠さず、沙輝は再びテレビに目を向けて、そんな感想を述べた。風巳が朝子を振り返ると、彼女はちょっと笑って見せた。
「私はそんな予感してたよ」
「え?」
今度は風巳が驚く番だった。
「本当に血の繋がった兄弟って聞かされると、やっぱり驚くけど。なんとなく、風巳とお兄ちゃんには、どこか同じ雰囲気を感じた。似てるとか言うことじゃないんだけど、何かね、同じオーラみたいなものがあるよ」
「あー、わかる。それ」
沙輝が大げさに頷いて同意する。
「何て言うんだろな、そういうの。上流階級のオーラ?それも違うか」
頭をひねりながら沙輝が言葉を捜す。けれど適当な言い回しが思い当たらない。
「普段は気にならないし。きっと、かなり一緒にいる時間持たないと気づかないかもしれないけど。たまにさ、ほんとに時々だけど。んー、なんか普通の家に生まれたって思えない時がある」
「うん。例えばね、友達と一緒に笑っていて、本当は違うこと考えていても、そんなことは全く表に出さずに笑ってる感じ。風巳は私や沙輝に対しては、わりと感情豊かで素直。でも他の人には、同じ感情豊かに見えても、本当は状況に合わせてるだけの演技かなって。自分が鍵をかけると決めたことに対しての、コントロールのとり方がすごく厳しくて、周りの状況に対しての協調が完璧だと思う。どうかな、沙輝。そんな感じじゃない?」
「朝子、うまいこと言う」
気を取り直してたこ焼きに手を入れながら、沙輝がパチパチと拍手する真似をした。
風巳が夢で再会した晶の台詞を思い出した。自分達の育った環境を甘く見ていないと。自分が無防備でいられる相手にだけ素直になれると。
朝子と沙輝が言っていることも、きっと同じことなのだ。
「よく観察してるね、二人とも」
風巳が笑うと、沙輝が少し胸をはって「当然」と威張る。それから思い出したように続けた。
「でも、俺はまどかさんもちょっと不思議。晶さんや風巳とは違うけどさ。何ていうの?一言で片付けるなら、あの晶さんの隣にいて違和感のない女性って言うのも、ある意味すごくない?」
「言われてみればそうだね。気がつかなかったけど」
二人が寄り添って立つ様子を思い出して、風巳も納得した。まどかの立ち姿は、時折、凛とした可憐な花のようなところがあった。初めて出会ったときも、微笑みに華があって圧倒されるほどだったのだ。
「まどかさんの家の事情とかって、俺、そういえば知らない。一人暮らししながら大学通ってること位しか」
「私も詳しくは知らないけど。ちらっと聞いた感じでは、なんか複雑っぽいよ。父親と弟は義理の家族って言ってた」
「そんなふうには見えないけど。でも、どうであれ、晶の傍にいて似合う人だよね」
「だろ?でも、ただ美人なだけではつとまらないって。まぁ、それだけ晶さんが心を許してたってことかもしれないけど。あれ?でも、朝子さ、風巳と晶さんの場合、従兄弟でも不思議じゃないだろ。なんで一足飛びに兄弟に行き着くわけよ」
「それは、他にも理由があって。お兄ちゃんが倒れてから、いろいろ昔のこと思い出していたの。両親が亡くなったときのこととかね。そしたら、お葬式のとき、風巳のお父さん来ていたなって思って。そこから考えていくと、そんな会話してた気もするし。だから、そうなのかなって」
朝子の何気ない台詞が、風巳に忌まわしい昔話を思い出させた。わずかに息苦しさを覚える。結城夫妻の命を奪った事故は偶然ではない。吹藤本家が仕掛けた事故なのだ。
父も気づかなかったのだろうか。晶を託すということが、結城夫妻にとってどれほど危険なことだったのか。
心のわずかな闇が、一気に広がってしまう。呵責が重くのしかかってきて、風巳は耐え切れず口にした。
「俺、朝子に謝らなきゃならないことがあるんだ」
黙っていることはできない。
朝子も沙輝も、ここへ来てから始めて心を許せる存在なのだ。彼らには、真実を隠すための演技は仕掛けたくなかった。ありのままの自分で、心に鍵をかけず、いつでも蓋を大きく開けて接していたいのだ。
それでも伝えるのが怖くて、声が震えてしまう。朝子の顔を真っ直ぐに見ることも、ためらわれた。事実を知っても、彼女が自分を思っていてくれるかどうか、自信が持てない。
「朝子の両親が亡くなった事故は、偶然なんかじゃないんだ」
「どういうこと?」
「あの事故は、吹藤のしがらみが引き起こした。仕掛けられた事故だったんだよ。朝子の両親は犠牲にされたんだ」
「何を言ってるの?風巳。そんなの証拠も何もないじゃない」
「本家のすることに、証拠なんて残らない。握りつぶすだけの力を持ってる」
「そんなの嘘だよ。私は信じない」
それっきり二人が黙り込んでしまう。沙輝が風巳の背中を見ていた。表情は見えなかったけれど、どれほど辛い告白だったのか、想像するだけで胸が塞いだ。
「今更、そんなこと言われても、よくわからない」
朝子の小さな声がした。彼女が混乱しているのが、二人にはよくわかった。沙輝は成り行きを見守ろうと、下手に言葉を挟むのをやめた。
「でも、事実だから。俺はそういう家に生まれた人間だから」
「そんなの、わからない」
俯いた朝子の顔から、何かが光って床に落ちていく。
涙だ。
何度もぽたぽたと床に落ちて、フローリングで雫が弾ける。
「よくわからない」
朝子がくるりと踵を返した。ダイニングを越えてリビングを抜けると、そのまま部屋を出て行った。残された風巳が、力なく食卓の椅子に座り込む。沙輝がテーブルを回って風巳の隣に来た。手にしているたこ焼きの皿を差し出す。
「とにかく、食えよ」
「ん」
受け取って、一つ口に頬張る。胸がしめつけられたように苦しくて、味がしなかった。
「何やってんだろ、俺」
自嘲的に呟いて、風巳がため息をついた。晶に朝子を頼むと言われた矢先に、こんな状況を作ってしまった。
「なぁ、沙輝。俺と朝子、もう駄目かな」
「付き合い始めたばっかりで?それはないだろ。突然のことで朝子も気が動転してただけだよ。でも風巳。別に今打ち明けなきゃいけない事でもなかったんじゃないか」
「黙っていることができなかった。辛かったんだ。後ろめたくて」
「まぁ、気持ちはわかるけど」
確かに沙輝の言うとおりだ。今、伝えなくてもいいことだった。ただ真実の重みに耐え切れず、口走ってしまったのだ。自分の弱さが、朝子を泣かせた。
総帥に立ち向かうと言った、彼の強さが羨ましかった。彼の立っている舞台は、想像を絶する厳しい世界に違いない。
「本当に次々と驚かしてくれるよな」
「ごめん」
「お前のせいじゃないだろ。朝子は大丈夫だって。風巳の気持ちわからない奴じゃないよ」
「そうだったらいいけど」
「自信持てよな」
沙輝が背中をバンッとはたく。立ち上がると、彼は「焼くぞ」と言って、また鉄板に生地を流し込んだ。
風巳がそっとリビングのテレビに目を向ける。そこには、もう晶の姿はなかった。
沙輝と焼けるだけのたこ焼きを焼いて、食べ切れなかった分は朝子へ残した。風巳はどうしても朝子の部屋をノックする勇気を持てず、マンションへ戻ることにした。
事実を知って、それをどう受け止め、どんな答えを出すのかは朝子にしか分からない。
風巳は答えを待っていることしか出来ないのだ。
部屋へ戻ると、風巳はベッドにどさりと横になった。最近、習慣と化していたパソコンでのバイトも気分がのらない。しばらく目を閉じて動かずにいたが、気分の重さを払おうと浴室へ向かった。
熱めの湯を頭から浴びる。何も考えず飛沫の音に耳を済ませていると、微かにインターホンの音が混じった。
空耳かと思っていると、もう一度聞こえて来た。風巳は慌ててシャワーを止めると、ろくに体も拭わず服を着て浴室を出る。そのままリビングのインターホンの画面に目を向け た。マンションの入り口を写すカメラには、人影は映っていない。
「遅かったか」
呟いてから、こんな時刻にここを訪れる人間は限られていると思い直す。朝子や沙輝には部屋の合鍵を渡してあるので、急用の場合はここまで入って来ることができる。
一瞬、斎藤の顔が頭をよぎった。その時、再びインターホンが鳴る。
マンションの入り口を写す画面には、人影はない。
「あ!」
風巳が悟って、玄関へ走っていく。扉を開けると朝子が立っていた。合鍵でマンションの入り口にあるロックを過ぎて、部屋の前のインターホンを鳴らしていたのだ。
ずぶぬれの風巳の頭を見て、朝子は「お風呂に入ってたの?」と聞いた。
「そうだけど。どうしたの?こんな時間に。一人で来たの?」
「うん。自転車だから平気」
「平気じゃないよ」
暗い夜道を思い返して、風巳はぞっとした。
「だって、たこ焼き。こんなに一人で食べきれないもん」
朝子が持っていた紙袋を突き出して「一緒に食べようと思って来たの」と言った。
「入ってもいいかな」
「あ、うん」
朝子が玄関を抜けて、リビングへ入っていく。後ろをついて行きながら、風巳は鼓動が高くなるのを感じた。何かを伝えるために朝子はここにやって来たのだ。
自分の両親を殺めた一族の自分を、彼女はどう思ったのだろう。
「ここに入るの、二回目だね」
紙袋からたこ焼きの器を取り出して、テーブルの上に並べながら、朝子が部屋を見回した。緊張のせいで言葉数の少ない風巳に、朝子が「ごめんね」と呟いた。
「何が?」
「さっき、訳のわからないこと言って。そのまま部屋に閉じこもっちゃったし」
「それを言うために、わざわざここまで来たの?」
言い当てると、朝子の頬が赤く染まった。
「違うよ。たこ焼き、食べようと思って」
朝子の照れた様子が、風巳にも笑う余裕を与えた。彼女の気持ちが伝わってくる。自分の気持ちを案じて、心細い夜道を一人でやって来たのだ。
「どう思った?事故のこと」
「今更何を聞いても仕方ないよ。だってお父さんもお母さんも戻ってこないもん。それは変わらないから」
「うん、そうだね。でも、俺のことを軽蔑しない?俺の生まれた環境を」
「どうしてそういうこと言うの?風巳が悪いわけじゃないのに」
「だけど」
「関係ないもん、そんなの。そんなことで風巳を諦めたりしない。嫌いになんてならない」
しっかりとした言葉が、胸の内に芽生え、根を張りつつあった不安を即座に枯らせた。ほっとして力が抜けたのか、風巳がその場にぺたりと座り込んだ。
「良かった。もう駄目かと思った」
朝子も風巳の隣に座り込む。二人で顔を見合わせて笑いだした。しばらく笑ってから、風巳が「ごめん」と言った。
「何が?」
「だって、今言わなくても良かったなって。晶が傍にいなくて心細いのに。ごめんね、朝子」
色素の薄い瞳は、綺麗な琥珀色をたたえている。久しぶりに真っ直ぐ見つめられて、朝子は再び頬がほてるのを感じた。恥ずかしさに突き動かされて、風巳の肩にかかっていたバスタオルをつかむ。
「風邪引くよ、風巳」
そのまま彼の濡れた頭にタオルをかぶせた。
「大丈夫」
彼女の腕をつかんで、引き寄せる。タオルの影で二人の唇が自然に重なり、すぐに離れた。朝子の背中にそっと腕を回す。そのままゆっくりと力を込めて、抱きしめた。
頭から掛かっていた淡い色合いのタオルが、身動きに合わせてスルリと下へ落ちる。
「シャンプーの匂いがするね」
濡れた髪から、柑橘系のいい香りがした。
もう一度、二人が唇を重ねた。初めとは違い、今度は長いキスになった。
2
長く伸びた通路を取り囲むように、木々が青く茂っている。庭園は通路を曲がるたび違った様相をあらわし、心を和ませた。
日本とは湿度に違いがあるのか、戴家の広い宮の中には、夏の蒸し暑さはなかった。きつい日差しだけが、大地へ降り注いでいる。
まどかは杏沙に案内されて、宮の中心にある部屋へ入った。祭事終了まで過ごすための部屋よりも更に広い造りで、壁の一面が見事な鏡張りになっている。
片隅に据えられた大きなソファに、既に十人程度の女性の姿があった。彼女達は顔見知りらしく、雑談に花を咲かせている。
杏沙とまどかの気配に気づくと、視線が一斉にこちらに集まった。
中で一際目立つ女性が、中国語で杏沙へ語りかけながら、席を立って近寄ってくる。
まどかが見たこともないほど美しい女性で、背筋の伸び方が綺麗だった。
真っ直ぐに伸びた、長い黒髪が光沢を持って、彼女の動きにあわせてサラサラと揺れる。動きの一つ一つが絵になる女性だ。ぼんやりと彼の仕草もそうだったと思ってから、すぐに浮かび上がった残像を振り払うように、まどかは違う事を考えた。
戴家の祭事で舞をつとめる女性は五人いる。目の前の彼女も舞姫を演じるのだと、一目でわかった。
「まどか。私の双子の妹です。玉環よ。彼女は青龍を舞うの」
「蓮花様、初めまして。よろしくお願いします」
杏沙ほど流暢ではないが、日本語で彼女がそう言った。戸惑いながらまどかも会釈を返す。
「こちらこそよろしくお願いします」
圧倒的に綺麗な姿は、双子の杏沙とはあまり似つかない。まどかの思いを察したのか杏沙が笑いながら付け加えた。
「二卵性なの。私は父に似ているけれど、妹は母に似ているわ。私達の母も昔は舞姫だったの。母は朱雀だったけれど」
「杏沙は舞わないの?」
まどかの些細な質問に、杏沙は苦笑した。
「人には向き不向きがあるわ。私にはこんな華やかな世界よりも、大蓮様の下について動く方が向いているわ」
この若さで当主の信頼を受けるのも、それはそれで才能だとまどかは思った。結局、姉妹揃って優れているのだ。
「舞姫達の先生がいらっしゃったわ」
杏沙の言葉に振り返ると、年配の女性と男性が入ってきた。二人とも黒の中国服に身を纏っている。女性は昔に舞踏をやっていたのがすぐに分かるほど、歩く姿だけでも、凛として美しい。
何の経験もない自分につとまることなのかと、まどかは不安に思いながら、席についた。
杏沙の双子の妹である玉環は、姉と共にやってきた蓮花の姿を目で追いかけていた。毎年、気を入れて聞く師の始まりの挨拶も耳に届かない。
ここ数年、舞姫の地位を得てから、玉環の世話をしてくれる鄭月は、無表情で師の言葉に耳を傾けていた。にわかに現れた当主の妹が、この短期間で麒麟の舞を完成することができるのか、月はずっと気にかけていたようだ。目の当たりに蓮花を見て、月が何を思っているのかも、玉環は気になった。
玉環自身は、舞姫についてそれほどの執着はない。執着どころか、許されるなら辞めてしまいたいほどだ。初めて舞台に立つことを許された時は嬉しく思ったが、今は素直に喜べない。
李家の期待を一身に背負うのは重すぎた。付け加えて、父が舞姫の栄光の裏側で、娘を売り物に何をしているかも知ってしまったからだ。
世紀に一度の麒麟の舞。
李家の繁栄を願う父は、その舞台に娘を立たせたかったのだろう。今回の舞姫の選抜に最後まで影で異を唱えていたのも伝え聞いていた。
決定した今でも、何か事が起きればすぐに自分を担ごうとするに違いない。
玉環は麒麟の舞から逃れたことに、安堵を覚えていた。同時に、蓮花がその大役をつとめられるほどの人物か、今日この日にまみえるまで気がかりだった。
当主の妹には、この国の言葉が通じない。師の挨拶も、全く理解できない筈なのに、少しでも意味を汲み取ろうとしているのか、濁りのない瞳は、真っ直ぐ師に向かっていた。
興味があるという以前に、玉環は現れた蓮花という人に目が向いてしまう。
他の舞姫達と違い、派手な装飾品は身につけていないのに華があった。時折、杏沙に向かって遠慮がちに微笑む仕草が、穏やかな人柄を垣間見せる。
ただ座っているだけなのに、綺麗な絵を見ているようなのだ。
この人は本物だと感じた。戴家当主が認めたのだから当然ではあるが、今まで本当の蓮花を名乗るふとどきな者はいたのだ。
おそらく誰よりも、蓮花には麒麟を舞う資格がある。そして、この人にはその力がある。この数年、舞に従事してきた玉環には確信があった。
「皆さんは、例年、舞をつとめて来ましたが、今年は戴家からも舞姫が誕生しました。噂で聞いておられるでしょうが、紹介したいと思います」
舞姫の師となる玉芳の言葉に、杏沙が反応する。蓮花に耳打ちすると彼女がすっと席を立った。立ち姿の美しさが、他の者と同じに見せない。
言葉が分からないため、彼女は前の玉芳と、舞姫達の座る後方の席へと、それぞれ頭を下げた。玉芳が、優しげな顔をする。厳しい師の柔らかな表情に驚いていると、隣に座っていた月が立ち上がった。
「玉芳様。麒麟の舞を蓮花様に委ねることを、既に認めてしまわれるのですか。当主の決定は絶対ですが、宮においては、貴方を始めとして私達の意見が絶対です。私には、何の知識も持たない蓮花様に、麒麟の大役は難しいかと思われるのですが」
月の言いたいことは最もなことである。玉環にも理解できたが、その言葉の後ろに父の影を見て暗い気持ちが込み上げてきた。
師である玉芳は、月の言葉に軽く頷いてから続けた。
「皆さんの気持ち理解できるものです。私も本日、蓮花様を見るまではそう思っていました。ですが、この方は真実大蓮様の妹です。間違いありません」
「本物だから舞えるという物ではないでしょう」
玉芳は少し意味ありげに笑った。玉環の視線の先で、空気の険悪さを感じたのか、蓮花が不安そうにしている。見知らぬ土地で、ただでさえ心細い彼女のことを察して、玉環は彼女が哀れに思えた。
舞姫の裏側で起きる陰謀が、彼女へも伸びていくかも知れないと思うと、いたたまれない。父の行ってきたことを姉に打ちあけるべきか、玉環はずっと迷っていた。
当主に従う前に、杏沙も李家の者である。胸の秘め事を話せば、どれほど葛藤するかは想像がつく。当主の耳に入れば、李家の地位は失墜するに違いないのだ。
「蓮花様に麒麟が舞えれば、文句はないのですね」
玉芳はどこか自信のある様子でそう言ってから、朱雀の舞をつとめる玲利に少し舞うように命じた。
火をつかさどる朱雀の舞は力強い。玲利は例年の祭事で舞うように、見事に手足を伸ばし大胆に動く。
玉芳がパンと手を打って、舞を止めた。そのまま蓮花に目を向ける。玉環も同じようにそちらを見ると、彼女は黙って涙を零していた。
意味がわからず、誰もが声もたてずに泣く蓮花に魅入っていた。「杏沙」と濡れた声が、呼びかけた。玉環の姉もどうしていいかわからない様子で、ただ彼女の肩に手を回した。
細かなウェーブを描いた髪が、舞の動きに合わせて乱れる。力強く伸ばされた手足の先には、羽があるかのように見えた。その様が火の朱雀を思わせる見事な舞。
けれど、まどかがその姿に見とれていられたのは、一瞬だった。
伸ばされた美しい手足が、激しい足取りが、胸の奥に沈んでいる、堅く閉じられた箱を叩いた。
ゆっくりと開かれる、未曾有の幻影。
幻が、その姿に重なった。一気に血の気が引いて行く。
忘れていた彼方の風景が、最後の砦を壊していく。
まどかは戴家と自分の関わりを、どこかで否定していたかった。日本を発つ前の母の動向が、戴家との関係を示していても、はっきりと見たわけでも聞いたわけでもない。
だから、全てを否定していられた。
どこかで、知らない世界の話を聞くように受け止めていたのだ。
けれど今、最後の砦は失われた
目の前で繰り広げられた朱雀の舞は、全ての逃げ道を塞ぎ、過去へとつながってゆく。
戴家との関係が、一本の線で結ばれる。
呼び覚まされる遠い残像。物心つく前の、もうそれ以上遡ることが不可能なほど初めの記憶。そこに焼き付けられた映像は、戴家の舞なのだ。
まどかの白い手が、あまりの真実に微かに震えた。体中が総毛立つ。
この舞を見たことがあった。鏡に映っていた幼い自分の姿が蘇る。
自分を生かした舞の正体が、こんなところにあったのだ。
舞と共に想起された記憶は、決して楽しい思い出ではない。体中が焼け付きそうな痛みが一緒に蘇ってくる。背中の傷跡が引きつれて、体中の神経を痛覚に変えてしまったように、悲鳴をあげる。泣き叫ぶ幼い自分は、まだ立つこともやっとの年齢だったのではないか。それでもぎこちない舞は執拗に繰り返され、やめることは許されなかった。
辛い痛いと泣く子供と一緒に泣いていたのは、母親だった。自由に動かない手足を呪った日々。歩くだけで背中の傷跡から痛みが広がる。小さな傷ついた体に、舞を強要する大人達。母の悲しそうな顔。泣かせるのが嫌で、いつからか痛みに耐えるようになった。母には笑っていて欲しかった。日々の痛みが辛くても、彼女が傍にいてくれれば、心細くはない。
背中の傷は、まどかから歩くことも奪ってしまうほど、大きなものだったのだ。今、こうして不自由なくいられるのは、あの苦しい日々を乗り越えた結果。
戴家の舞は、まどかが生きて行く礎となったものだ。
思い出してしまった。
自分はこの地に生まれ、間違いなく戴家と関わりを持っていること。母がこの土地で、自分を産み落としたこと。
「杏沙」
涙が溢れて、言葉が続かない。何も思い出したくない。彼を失ってから、自分の中にある不穏なものが叫び続けている。全ての心の均衡が崩れる。哀しみが止まない。不安が立ち去らない。
母の言うとおり、日本で過ごしていればよかったのに。 それが出来なかったから、こんなふうに歯車が狂っていく。
わかっていても、どうしようもないのだ。それでも日本に戻りたくはない。彼の不在に勝る苦痛はない。
自分を案じた母に、まどかは何度も胸の内で謝罪する。ごめんなさいと。秘めた出自に巻き込まれても、この異国だけが今は救いだった。
もっと強くなりたいと思った。母を傷つけず、彼に頼らなくても立っていられるような、そんな女になりたいと、初めて思った。
「この方は蓮花様です」
舞の師となる女性が口にした。
「皆さんも、蓮花様にまつわる昔話をご存知でしょう。背中に負った傷は、致命傷と言っても不思議ではない大変な傷でした。当時、戴家当主であった、大蓮様の父君はすぐに処置をした。その時の医師が、この方です」
彼女と入ってきてから、ずっと隅に据えられた椅子に掛けていた男が、立ち上がった。
「蓮花様が本物かどうかは、この方に傷跡を確かめて頂ければすぐに是非がわかります。そう思って本日おいで頂いたのですが。私は、蓮花様の生母を知っています。今更、傷を確かめずとも、一目見てわかりました。当時、私と鈴麗様、そして蓮花様の母君も舞姫をつとめていました。蓮花様の一件の後、私も彼女達が中国を離れるまでわずかの間、舞を蓮花様に強要しました。リハビリのために」
肩を抱いてくれていた杏沙の手に、少し力が入った。まどかには、中国語で語られる舞の師、玉芳の言葉はわからない。
傍らの年配の男性がまどかを見て、優しく笑う。
「ここを発つ時、彼女の母に舞をやめないよう強く言いました。戴家の舞は、生きていく上で必要な全ての動きに通じる。難易度も舞によって変わってきます。医療について何の知識もない彼女の母親にも、それなら教えられた。これ以上はないリハビリとなります。そして、麒麟を完璧に舞えれば、リハビリは終了です。彼女が将来、仮に体操の選手を目指しても何も支障をきたさない。傷跡は別として、体の機能としては将来に、制限はなくなります」
男性はまどかに近づいて、そっと頭に手を置いた。
「けれど、麒麟を終えるまで、小さな貴方にはきっと想像を絶する苦痛だったでしょう。蓮花様、よく耐えて、頑張ってこられた。貴方の今の洗練された動作が、貴方の母親と交わした約束が果たされたことを伝えてくれる」
杏沙の妹、玉環の世話係である鄭月が、何かを諦めたように席についた。もう一度、師である女性が口を開いた。
「例年、舞姫となる皆さんのように、今すぐに蓮花様に完璧な麒麟を求めるのは無理でしょう。けれど、彼女が今に至るまで訓練してきたことは、皆さん以上に過酷で、長い時間をかけています。体が動きを思いだせれば、誰よりも完全な舞となりましょう。心配には及びません」
女性の声はよく通り、何かを決断したことがまどかにも伝わってきた。なんとか動揺を鎮め、涙を拭ってから、まどかが杏沙から離れる。杏沙は労わるような眼差しで、まどかを見た。
「そうだったのね、まどか」
杏沙がやっと声をかけた。傷跡が彼女に強いた過酷な幼少時代。まどかが普通に過ごすことを当然と考えていた杏沙には衝撃だった。
「大丈夫?顔が真っ青よ」
「大丈夫。いろんなことを思い出して、ちょっと驚いただけ」
「思い出したくないことだったのね」
「楽しい思い出じゃないから」
まだ赤い瞳で、まどかが照れたように笑った。
「最近、泣いてばかりね。ごめんなさい」
この一連のつながりの中で、彼女は今の立場をどう考えるのだろう。言葉も通じないこの土地で、知らされていく事柄の大きさに巻き込まれながら、それでも自分達を困らせないように、最後にはこうして微笑む。
吹藤晶は、知っていたのだろうか。彼女の持つ豊かさの、全てを。
杏沙にはわからない。想像することしか叶わないけれど、機会があれば彼に問いたかった。
3
飛麟が熱い紅茶をカップへ注ぐ。その後方で堅苦しい中国服を無造作に脱ぎ捨てて、大蓮がソファへ沈み込んだ。目頭を抑えたまま、しばらく動かない。
淹れたての紅茶を大蓮の前に置き、飛麟は香炉に火を入れる。ゆるやかな煙と共に、優しい香りが部屋に充ちた。
その香りに気づいて、大蓮がソファの上で少し姿勢を正した。
祭事まで、もう二ヶ月を切った。院の集会も回数が増え、麒麟祭の盛大さのためか例年よりも長時間に渡っての話し合いが続く。いつもどおりの仕事の傍らで、多くのことを決定し進めて行かなくてはならない。大蓮の疲労も募って行くばかりだ。
「おかえりなさい、大蓮様」
紅茶を口に含んで、ようやくくつろいだ表情を見せる主君に、飛麟が穏やかに告げた。多忙を極めるスケジュールの最中に、彼はほとんど日帰りのような予定で日本から帰国したばかりだった。日本での詳細な予定は飛麟にも知らされていない。
大蓮は私用だと言いおいて、共も連れずに一人で発ったのだ。
「院には日本へ出向いたことは伝えておりません」
「ありがとう」
素直に礼を述べる主に微笑んで、飛麟が続けた。
「蓮花様の行方が日本にあると知っても、これほど無謀なことはなさらなかったのに。私は夢を見ているようですよ、大蓮様」
「それは皮肉なのかい?飛麟」
「いいえ。心情を語っているだけです」
大蓮が飲み干したカップをソーサーに戻す。陶器の重なる硬質な音が、大蓮の声に重なった。
「吹藤家の総帥に会いにいったのだ」
子供が悪戯を暴露するように告げられた言葉は、あまり動じることのない飛麟からいつもの反応を奪ってしまう。
「吹藤家が祭事に出席するという返答をもらってから、すぐに思い立ったことがあってね」
「さすがの私も、一瞬声を失いました」
飛麟の様子に、大蓮は声を立てて笑う。悪戯が成功した子供のように無邪気な様子だ。
「吹藤家の老人は、さすがに一筋縄では行かないお方だったよ。少し力を借りたいことがあってね。でも、その見返りが姻戚関係を結ぶことだ」
「また突然なお話ですね」
大蓮の話し方から、その会見が彼の思惑通り進んだことが飛麟にはわかった。それほど驚かずにいると、大蓮が続きを口にする。
「もちろん丁重に断ったよ。蓮花の意志を尊重したいと言ったのだ。一度、吹藤家に妹を紹介する場を設けることにはなったのだが。まぁ、こちらの依頼もあるから、そこまで無碍にもできまい」
「蓮花様ですか。いろいろと注目されておられるようですね」
「そうだね。でも、できれば詳細は明かしたくないのだ。彼女は日本の早川という家の娘だ。麒麟祭が終われば帰すことになろう。彼女の母親とも約束した」
「話をされたのですか」
「ああ。蓮花も気にかけていたし、連絡をとっておいた。一度こちらにと招いたのだが、断られた。蓮花のことは、今はそっとしておくということだった」
「そうですか。蓮花様の母君は、大変に美しい日本女性だと聞いていますが」
飛麟の何気ない言葉に、大蓮が低く笑った。
「父が我を忘れるほどの?確かに美しい人だったね。今となっては時効だろうから、そなたには真実を話しておこう。蓮花の母親は、そなたも良く知っている人だ」
「――私が?」
「そう。白蘭だよ」
飛麟が絶句すると、大蓮は「さすがに驚いたかい」と笑った。飛麟が一瞬に多くのことを考え、深く頷いた。
「本日は驚愕の連続です。しかし、白蘭様のことは、驚きましたが納得はできます。今まで気づかなかったのが不思議な位です」
「父が封印することを望んだ。当時のことを知るのはほんの一握りの人間だ。それでも真実に近い噂は流れた。しかし、白蘭のことは噂にも出ることはなかった」
「大蓮様はご存知だったのですか」
「あの一件の後、私はずっと父と母の思いを聞いてきたからね。嫌でも知ることになろう。だから、早川まどかという女性が蓮花であるだろうという確信はずっと以前からあった。それでも、やはり会わねば信じられぬ思いもあった」
「そうですか」
飛麟が胸に去来した思い出に浸った。大蓮と同じように、飛麟も白蘭に慕っていた時期があった。彼女の姿が見えなくなって、寂しい思いを抱いた時期をよく覚えている。
「しかし、大蓮様」
感傷を拭い去り、飛麟が話題を戻す。
「吹藤家にそれほどの交換条件を出される依頼とは、一体何なのです?」
飛麟の何気ない問いに、沈黙が返ってきた。大蓮の顔に宿っていた微笑みが引いていく。空のカップに目を落としたまま、大蓮が質問をした。
「李家の繁栄をどう思う?」
投げかけられた問いに、飛麟が表情を険しくした。主の穏やかで深い眼差しは、何かよからぬことを見つめているのだ。
「舞姫に焦がれて、李家を初めとして戴家への融資が成るのです。舞がそのようにビジネスの一端を担うことを大蓮様が憂いておられるのは知っておりますが。今年は戴家から蓮花様が要の麒麟を舞うのですし、それほど憂慮することはないのではないですか」
「ビジネスの一端を担う程度のことは、本意ではないが承服できる」
「それでは、一体何のことを申されていらっしゃるのですか」
「李家に巣食っている、汚れた欲望だよ」
飛麟が返答に窮した。口調は穏やかだが、主が怒気をはらんでいるのは、火を見るより明らかだ。
「まぁ、今はまだよい。お前達を信用しないわけではないが、詳細を語るのは時期早尚だ」
先ほどまで飛麟の身を貫いていた恐ろしいほどの威圧感を、影も残さずすっと引くと、大蓮は「蓮花の舞は順調なようだね」と話題を変えた。
飛麟が空になったカップに再び紅茶を注ぐ。李家についての詮索を、まだ主は望んでいない。すぐにそう悟り、彼は再び話題を蓮花のことに戻した。
「舞のことも、知っておいでだったのですか」
上目遣いに彼を見たまま、大蓮が「何の話だ?」ととぼけた。
「蓮花様が全ての舞をご存知であったことです。白蘭様のことをご存知なら、当然の成り行きです。それならそうと申し上げて頂ければ、私も大蓮様に意見などしなかった。申し訳ございませんでした」
「謝ることはない。敵を欺くには、味方からだと言うだろう?」
大蓮がカップを持ち上げて、口をつけた。敵、味方という言い回しに何か意味を感じながら、今度は少しだけ主の思いを詮索する問いかけをした。
「蓮花様の舞にも、何か考えがあるのですね」
「この件については、まだ話さぬ。それに、私は蓮花が関わると、少しばかり見境がなくなることも事実だ。静止してくれる者も必要だろう。だが、私はどれほど無謀な事にでも、利を求める性分なのだ。ずっと、ひたすら蓮花に会いたかった。だが、舞姫に据えたのは、私の望みを叶えること、それだけではない」
大蓮がその穏やかな眼差しを閉じた。飛麟はただそんな主を見ている。激することはないが、胸に渦巻く様々な仕掛けには容赦がない。飛麟も大蓮の傍につかえ、他の者よりも彼の近くで過ごす時間を与えられた結果、少しは彼の気性や物の捕らえ方は学んだ。
それでも彼の中にある世界は深く、推し量ることは不可能だった。
「蓮花のことは、杏沙に任せているから心配はしていない。ただ、試しているのだ」
前置きも説明もなく、当主はそれだけを口にした。多忙を極める生活の中にあっても、決して何事も見落とさない双眸が彼にはある。研ぎ澄まされた才覚が、一族における情報を全て網羅するのだ。
飛麟は時折、安らぎのない彼の生活を哀れに思う。蓮花という、血を分けた妹に幻想を抱くのも、そこに安らぎを求めてのことなのだろう。
詳細を語らない彼の孤高の強さが、役に立ちたいと願う飛麟の忠誠心を刺激する。
「一時間だけ横になる。時間が来たら呼んでほしい」
「承知いたしました」
大蓮が奥の部屋へと姿を消した。飛麟がカップを片付けて、部屋を後にする。




