第七章
第七章
1
壇上に立っている早川まどかの隣で、戴家の当主、大蓮が集まった一族に向けて何かを話している。まどかには中国語はわからない。それでも彼の話していることは想像ができた。自分を戴家の催しに招き、舞姫として出席することを告げているはずである。
一昨日、夜も更けてから杏沙と出かけた。今の状況は、全てがそこから始まっている。
世界を占める四代富豪の中に、戴家がある。華僑を中心にアジアをしきる財閥だ。
まどかも世界経済の講義で、何度か耳にしたことがある。
杏沙の言う家族が、まさか華僑財閥を意味しているとは思ってもいなかった。
こんな場面に、自分がいることが不似合いに思えてならない。予想以上に、大それたことになっている気がする。
一昨日の夜、杏沙に連れられて行った先には、大蓮がいた。香港に来た初日の対面と同じに人懐こく笑い、まどかに戴家の行う催しの話をしたのだ。
まどかはそっと、隣で雄弁に何かを語っている大蓮に目を向けた。圧倒的な存在感が、彼の名声や地位を垣間見せる。
大蓮のような人間の隣、同じ壇上に、なぜ自分が立っているのかよくわからない。
ただ、彼女達の望んだ依頼を受けるべきではなかったと、そんな考えばかりが胸を占めた。
集まった人々の前に立つまどかは、綺麗に着飾った人形のようだ。あまりの成り行きに身動きもできずにいた。整理しきれない頭が、考えることを放棄したように霞がかっている。昨夜もあまり眠れなかったせいか、頭がひどくぼんやりしていた。
ふと当主のよく通る穏やかな話し声が止んだ。彼は微笑んでこちらを向いている。まどかは紹介が終わったことを悟って、集まった一族の重鎮達に頭を下げた。
戴家当主が、自分の手を取って壇上からテーブルへと案内する。床一面に敷き詰められた深紅の絨毯の柔らかさが、足音を吸い取ってしまう。
この国の正装に身を包んでいるせいか、歩きにくい。まるで映画の世界だ。 椅子へかけると、当主である大蓮は前方の席へと戻った。後ろに杏沙が寄り添ってくれる。
「ご苦労様。貴方の役目は終わったわ。後はただ、この席に座っているだけでいい」
「杏沙。あたしはひょっとして大変なことを引き受けたんじゃない?」
「どうかしら。でも、これは大蓮様がずっと望んでいたことなの」
「どうして?」
杏沙は苦笑して、口に人差し指をあてた。まどかが場の緊張感をよんで口を閉ざす。質問したいことは山のようにある。杏沙に恩を返すつもりで引き受けた依頼だったが、思った以上に荷が重そうだ。大蓮の口ぶりからは、それほど盛大な催しだとは思えなかった。
富豪の考えることはわからないということか。
不安を吐き出すように、まどかが嘆息をつく。 本当は、大蓮や杏沙を責めるのも筋違いだとわかっていた。依頼を受けると決めたのは誰でもない自分なのだ。強制されたわけでも、義務でもない。
この状況も、結局は自分の弱さが招いた。
杏沙への恩返しもただの建前にすぎない。自分につきまとう不安や孤独から逃げたくて、気を紛らわせていられるなら何でも良かったのだ。
あの幸せだった時間を思い出さずにすむなら。彼の声や気配を忘れていられるなら、何かしている方がいいと、そう思った。
日常に戻ることが、今は何よりも怖い。彼の不在を思い知らされるからだ。
軽はずみな行動をしていると理解できても、それを後悔しても、まどかには失った想いをごまかす場所がほしかった。
やがて集会は終わったらしく、大蓮が立ち上がって礼をした。それを受けて集まった人々も礼を返す。部屋を出て行く前に、参加した人々がまどかの元へ立ち寄った。
中国語の挨拶では、何と言われているのか分からない。まどかはただ差し出された手にこたえたり、笑顔を返すことしかできなかった。
最後の一人が、まどかの前に立った。黒の中国服に銀糸の龍が縫いこまれている。背筋のまっすぐ通った、恰幅のよい老紳士だ。
「私の父よ。李伯辰です」
背後で杏沙が呟いた。まどかは驚いてすぐに頭を下げた。彼はしばらく中国語でまどかに語りかけたが、ふと言葉を止めると、英語で続けた。
「当主は望む再会を果たされた。貴方の妹としての資質は間違えようもない。主と同じ匂いがします。妹としての貴方は歓迎しますが、舞姫は簡単な役ではありません。蓮花様、心してください」
「お父様」
後ろで杏沙が声を上げる。そんなことは意に介さず、老紳士は頭を下げると部屋を後にした。まどかには理解できた英語だったが、彼の言いたいことがまるでわからない。
「何か誤解しているのかしら」
まどかが振り返ると、杏沙が暗い目をして立っていた。横で成り行きを見守っていた大蓮が声をかける。
「杏沙。そなたの気持ちはよく分かるが、いくら言葉がわからないと言っても、真実はいつかばれてしまうもの。彼女には全てを話した方がよいのではないか」
「大蓮様」
杏沙の最も恐れていた状況へ、話が動いていく。まどかには何も知らせず、当主との再会だけを果たしてほしかった。何も知らない彼女にとって、これから知らされる出生は大きな衝撃になるだろう。
「そうですね」
杏沙が力なく承諾する。今更後悔できる立場にはない。まどかが麒麟祭で舞姫として立つと決まったときから、もう全ての諍いの渦中にいるのだ。
この国に連れてくるということが、それを意味していたはず。 まどかに対して、これ以上はない呵責の念を感じるが、本当は杏沙も主君の望みを願っていた。まどかが戴家の者として傍にいることが嬉しいのだ。
「全てをお話しましょう。今となっては、避けて通れぬ道です」
後ろめたさが身を貫いて、杏沙はまどかの顔を見ることができなかった。大蓮が複雑な杏沙の思いを察して、慰めるように肩に手を置いた。
「そなたが悪いのではない。長年、蓮花を求めた私が悪いのだ」
静かに告げて、大蓮がそっとまどかに視線を投げた。髪を結い上げ、この国の正装に身を包む姿は、艶やかな花のようである。華やかに飾られた彼女は、息を呑むほど美しい。
その身をもって舞えば、麒麟の舞はどれほど素晴らしい舞台となるだろう。
「君に大切な話がある」
大蓮の声が微妙に震えた。優しさの中に、愛おしさが入り混じる。大切な物に触れるように、彼がまどかの手をとった。
「おかえり。蓮花」
2
外の光線が爛々と庭園に植えられた木々を照らし出す。蝉の声が微かに耳に届いた。夏場は避暑のために軽井沢の別宅へ赴くことが多い。空調を保った屋敷の中にも、暑気の残滓が所々に渦巻いていた。
多くのことに権限を奮うが、老いが蝕んでいく衰えだけはどうにもならない。
吹藤の総帥をつとめる老人の手元には、一通の書状が届いていた。
毎年、この時期になると戴家から祭事の招待状が送られてくる。
「今年は麒麟祭か」
例年の青龍祭とは違う。世紀に一度しか見られない麒麟の舞を軸に、盛大な催しとなるのだ。総帥は常々、戴家の麒麟祭まで寿命が持たないと思い続けてきたが、どうやら杞憂だったようだ。己が亡き後の、吹藤の足場も出来上がっていない。
たしかに、このまま異界へ行くのは、己の信念が許しそうになかった。
これまでより盛大な祭事には、招かれる客人の数も半端ではないらしい。戴家と肩を並べ、世界に名を馳せる富豪に連なる吹藤にも、今年は総帥個人にではなく、一族として招かれていた。
今朝は、総帥の耳に吉報が入った日でもある。その祝いも兼ねて、一族の者を彼の国へ連れて行くのも一興となるだろう。
総帥が眼を閉じて、凄絶なまでに美しい青龍の舞を思い出す。スケジュールの調整の兼ね合いで、欠席をしたこともあるが、おもむく度に目にした舞の美しさは、現実を超越したところにある。
今年は麒麟祭。命あるうちに目に出来ないと思っていた舞台だ。それだけで感慨がこみ上げる。
己の曾孫にも、待望の純血種の子が宿った。実現できないと思っていたことが、次々に叶う。総帥にとって、今日の日柄は実に快かった。
彼が側近の者を呼んだ。
早急に戴家へ祭事の出席の旨を告げることと、懐妊した光を英国で一時的に養生させることを命じた。
「昔のように、子供を死なせることになってはならん」
強く言い置いた後、彼はしばらく休むと言い残し、奥の部屋へおもむいた。 彼が老いた体を寝台へ横たえる。
まだまだ、見届けることが山のようにある。安らかな床に着くのは、一体いつになるのか。彼がゆっくりと目を閉じた。まどろみの中へ、沈んで行く。
久方光が英国の生家へ戻ることを伝えられてから、三日後に彼女の迎えの者が訪れた。
来客者を迎えるのは桜の間と呼ばれる所で、部屋から見事な桜樹が見られる。春になると、桜色の芳葩がくるくると舞い、庭園がけぶる。
夏場の大木には茂った緑条が陽光を透かし、蝉の声が響いた。
榊深之に案内されてその部屋へ入ってきたのは、気の強そうな美しい女医である。
見事な金髪のウェーブをふわりと揺らして、彼女は待っていた晶に会釈した。
「ソフィア=サッフォークです」
儀礼的に言ってから、彼女が晶に笑みを向ける。
「久しぶりね、晶。私のことは覚えているのかしら」
「覚えているよ、ソフィア。遠いところをありがとう」
言葉が終わらないうちに、彼女は榊の隣からするりと移動して、親愛の情を示すように彼に握手を求めた。
「随分と優しい言葉を吐くようになったじゃない。記憶と一緒にひねくれた性格も忘れてしまったの?」
「まさか。敬意を払っただけだ。光のために貴方が着てくれるとは予想していなかったのでね」
胸の内とは異なることを言いながら、晶がソフィアに座ってくださいと言った。晶の住まいとして用意された日本家屋は、全てが和風であるため、ソフィアは正座をしなければならない。
「趣のある住まいだわ」
座敷に座ることを苦にする様子もなく、ソフィアはくつろいだ表情を見せた。タイミングを見計らったように、斎藤が二人にお茶と和菓子を運ぶ。部屋を出る前に、傍らの榊に光の用意が整ったことを告げた。
「晶様。私は光様のこれからの手配もありますので、しばらく失礼します」
そのまま斎藤と連れ立って部屋を出て行った。ソフィアと二人になると晶が軽く吐息をついた。なんとか榊のいない場を作ることは成功した。屋敷の中では、榊の動向は斎藤が封じてくれるだろう。
「十日前に送った書類の結果は、こういうことだったのね」
静かに秘密を明らかにして、ソフィアはお茶を口にした。晶の口から、はっきりと記憶障害の真偽や、抱いた野望を明かすことはできない。けれど、あの気高い英国紳士もソフィアも、薄々知っていて、知らないふりを貫き通すだろう。
晶が一族に受けた過去の仕打ちを、彼らは間近で見ていたのだ。束縛のない未来を築くという野望が、どれほど危うい希望なのか知っている筈だった。
「アルバートから、事情は聞いているわ。晶の考えは正しい。貴方はさいわいなことに覚えていないけれど、光は以前確かに貴方との子供を宿した。結果は貴方も光もひどいことになった」
記憶のない演技を暴くことを避けながら、ソフィアがデータの改竄によって生まれた二人の子供を肯定する。
今回、光が付き添いとしてソフィア医師を望んでいると、斎藤が英国へ連絡したのだ。過去に懐妊した光を担当したのは彼女であったため、それは全くの嘘でもない。光の気持ちとしてソフィアが選ばれたのも事実だ。けれど、本当はそれよりも切実な問題で、晶がソフィアの力を必要とした。
「以前光が妊娠した時のデータが欲しいなんて、はじめは意味がわからなかった。貴方は決して理由を口にしなかったし。でも、今回ここへ呼び寄せられて、気がついたわ」
「貴方の察しのよさは、子供の頃から知ってる」
「そうね。長い付き合いだもの」
ソフィアがもう一度茶碗を手にした。口をつけることなく、掌で弄びながら決意したように告げる。
「晶。私とアルバートは貴方の力になる。今は貴方の口から多くのことを聞くのは無理だと分かっているわ。だけど、私達は晶が何を望んでいるかは知っているつもりよ」
何も言わず、晶はただソフィアに頭を下げた。
光の件を彼女に託すのは、彼女にとっても危ない橋を渡ることになる。野望が叶わず全てが暴かれた時、ソフィアも今の地位を失うことになるからだ。
「晶が英国にいた頃は、貴方の力になれない立場を悔しく思っていた。でも、今は違う。私は今の立場を嬉しく思っているわ。光のことは、私に任せていて」
何も告げることなく、彼女は全てを理解して、受け入れてくれる。昔から理解者は傍にいたのだ。
「ありがとう、ソフィア。光は、今回のことを何も知らない。英国についたらすぐに真実を話してください。まぁ、彼女ももう幼くはない。だいたいのことは気づいているだろうけど」
「光はまだ貴方のことを想っているの?」
晶は横に首を振った。
「刷り込まれた思い込みは消えていない。けれど、それだけです」
「そう」
ソフィアがふと持ってきたハンドバックに手を伸ばした。
「そういえば、アルバートから預かってきたものがあるわ」
瓶に入った錠剤を座卓の上にコトンと置き、書類を閉じた束を手渡す。
「これは?」
「アルバートの薬よ。服用する形にできたの。今のように注射では大変でしょうから。ただ、一つ弱点があるわ。聞き始めるまでの時間が、血管に打ち込むより少し時間がかかることよ。だから、ギリギリまで我慢していると、昏倒してしまう。詳しいことは、処方箋と一緒に記されているわ」
「わかった、ありがとう」
「お礼はアルバート博士に。彼としては早く違う治療法を見つけたいみたいだけど。帰国してから、すごくはりきっていたわよ」
「心強いな」
「彼も天才だもの」
「ソフィアがアルバート博士を褒めるなんて珍しいね」
「今回だけはね。晶を救ったわけだから」
ふいに廊下を渡ってくる足音がした。晶が振り向くと、スラリと障子が開いた。斎藤が顔を出す。
「晶様。光様の用意が整いました。榊と共に桔梗の間にいらっしゃいます」
「わかった。ソフィア博士。光をよろしくお願いします」
「任せてください」
桔梗の間へおもむくと、光が和服を着て座っていた。深い青を貴重とした絞りの着物で、大輪の牡丹の花が所々に咲いている。落ち着いた色合いが光から幼さを奪っていた。
「お兄様。しばらくお傍を離れます。行って参ります」
いつの間に覚えたのか、改まった仕草で光が日本家屋に似合う挨拶をした。
ソフィアにも同じように頭を下げてから、いつもの無邪気さで「お久しぶりです」と笑顔を見せた。
榊が促すと、斎藤が光の手を取って桔梗の間を出る。晶も後に続きながら瀟洒な庭園を過ぎて、門の前へ出た。車の前まで来ると、光が立ち止まった。
「いけない。私ったら、手提げを忘れてきました」
「私が取りに行きます」
「ありがとう。榊。私の使っていた部屋にあると思うの」
榊が足早に門の中へ消えると、光は晶の前へ歩んできた。晶が「すまない」と言葉をかける。多くの意味を含んだ言葉だったが、光はただ頷いた。
「月に何度かは、斎藤をそちらへ行かせる。俺も暇があれば足を運ぶようにする」
晶の本心としては、斎藤を初めから同行させたかったのだ。光にはそれが何より心強いことだと知っていたし、斎藤の思いも分かっていた。
けれど今の状況で、自分の傍から斎藤を欠くことはできなかった。斎藤もそんな考えを察していたのか、この計画を考えたときから、光の共につくことは考えていないようだった。
「兄様。今、斎藤を必要としているのは、兄様の方です。彼が必要なら彼を傍に置いてください。私は大丈夫です。英国には父様や家族がいますもの。しばらく斎藤と会えないことは、我慢できます」
晶が言葉をなくした。光は驚くほど成長していたのだ。周りの者を思いやる気持ちを育んだ。斎藤が傍にいたからだ。
彼が光に与えた想いの深さを目の当たりにして、二人を遠ざける自分の立場を呪った。
「そんな顔しないで、兄様」
微笑んで光が晶の手を取った。晶には分かっていたのだ。自分が光との再会を果たし、彼女の想いに呪いをかけたあの日から、光は晶のことを兄様としか呼ばなくなったこと。
幼い光が一体どれほどの胸の痛みを乗り越えて、ここに至ったのか。
「兄様がなぜ総帥を目指すのか。ずっと考えていました。自由になりたいのでしょう?」
「光様、それ以上は」
斎藤が一歩二人に歩み寄った。晶が咄嗟にそんな斎藤を手で諌めた。
「兄様の描いた未来。今なら、私にも少し見ることができます。斎藤が教えてくれた」
光が首を傾けて、傍らの斎藤に目を向ける。
「斎藤、全てを話してくれてありがとう。兄様のこと、よろしくお願いします」
光の健気さに胸を打たれて、斎藤は言葉を返すことが出なかった。ただ深く彼女に頭を下げた。
「ねぇ、兄様。兄様のかけた呪い、きっと効いてしまったわ」
「光」
「きっかけを下さって、ありがとう」
微笑む仕草がどこか痛々しくて、綺麗だった。
「私、何度か兄様の見る夢を同じにように見たわ。最近は昔のように、死に行く者の声もあまり届かなくなったけれど。兄様の夢は見ることが出来た」
魔女と呼ばれた久方梓の血を、同じように受け継いだ妹。彼女の垣間見る夢は、自分と同じ意味を持つ。救いだったのは、彼女の父親が普通の人であったこと。光の力は、消えて行くものだ。
「斎藤の言葉は、私に答えを与えてくれた。兄様が望むものを、私はずっと見てきました。だから、本当は知っていたの。最初は気が狂いそうだったわ。辛くてたまらなかった。その人をとても憎んだ」
過去に決別してから、光の本心を聞くのはこれが初めてだった。斎藤には話したことがあったのかもしれない。
「だけど、私の傍には斎藤がいてくれた。いろんなことを教えてもらいました。兄様への思いが消えることはなかったけれど、自分の無知さを知ることは出来た。そして、兄様の夢はいつでもとても儚いものだった。おぼろげに見え隠れするあの人を、いつのまにか可哀想だと思うようになっていた」
時折、彼の夢に現れる女性は、いつも静かに泣いていた。晶の作り上げる残像は、胸をつく哀しみでしか現れない。
「私には、もう兄様の子供を宿すこと出来ません。兄様の仕掛けたこと、私は胸に秘めて見守ります。でもね、兄様」
そこで少し言葉を止めて、光は静かに告げた。
「私は、本当に兄様を愛していました」
「知っていたよ」
光がふふと小さく笑う。「やっぱりひどい人だわ」と呟いた。
「これからは、時間との戦いになりますね。いくらソフィア先生が名医でも、宿してもいない子供を産ませることはできませんもの」
晶が頷くと、光はもう一度笑った。無邪気さの残るあどけない笑みだった。
「今度は、私が兄様に呪いをかけるわ」
「どんな呪いを?」
「兄様は、必ずあの人を手に入れる」
「光」
かすれた声が出た。涙が零れ落ちそうになって、それを隠すように光を強く抱きしめる。彼女に強いた残酷な役割を許すと、光はそれを自分に言いたかったのだ。
他の者を求め続けた自分を許すと。
「すまない、光」
「いいえ。私も兄様を苦しめた」
腕をとくと、光が一歩退いた。何事もなかったかのように「榊はまだかしら」と言った。まもなく榊が門から小走りに出てきた。
「光様。手提げなど見当たりませんでしたが」
「変ね」 斎藤が車のトランクを開けて確認する。着物と揃いの布地で作られた手提げが、スーツケースの横にあった。
「光様。こちらでは?」
「そうだわ。斎藤に荷物と一緒にしまってもらったのね。ごめんなさい、榊」
「いいえ。見つかったのでしたら良かった。それでは、光様。ソフィア博士。お送りいたします」
「はい。それでは、兄様、斎藤。お体に気をつけて」
車に乗り込む間際、光が晶に小声で耳打ちした。
「斎藤には呪いのこと、内緒にしていてください」
晶が笑うと、光も声を立てて笑った。榊の運転で、車が発進する。
左折してからも聞こえていたエンジン音が、やがて蝉の声に紛れて聞こえなくなった。
「申し訳ございません、晶様」
見えなくなっても、遠くを見るように佇んでいた晶に斎藤が言った。
「何が?」
ゆっくりと振り返って、斎藤を見る。
「光様に、今回の妊娠の件について詳細をお話ししたことです」
「それで良かった」
「ですが、一歩間違えれば全てが終わるところでした。光様が受け入れられるかどうかは、私にも確信はなかったのですから」
「だけど斎藤は受け入れて欲しかった。光はそれに答えた。充分だよ。英国では嫌でも知らされる事だったんだ。お前の口から伝えてくれて良かった」
門を潜って庭園を過ぎながら、晶がついて来る斎藤に「謝るのは俺の方だ」と言った。
「どういうことです」
「光からおまえを奪ってしまった。斎藤だって、同行したかっただろう。今日ほど、自分のわがままを呪ったことはない」
「わがままではありません」
「気休めだな。でも、感謝する。俺にできるのは振り返らないことだけだ。これからが正念場だしな」
「そうですね。これからが大変です」
廊下を渡って、座敷を過ぎる。和室をできるだけ洋室のように設えた自分の部屋へ入ると、後ろについていた斎藤に、晶が何の前触れもなく言った。
「斎藤。髪を切りたい」
「どうしました、いきなり」
「もう学生じゃない。吹藤の重鎮が控える、俺がこれから出て行く世界では、こんな甘えは許されない」
「その通りです。私からも申し上げようと思っていました。ただ、何か思い入れがあるのかと」
「何もせず願うだけの形代など、もう必要ない」
「わかりました」
斎藤が手配を進める間、晶はソファに座ってただ瞳を閉じていた。受け入れて許してくれた光や、ソフィアの助力が決意を後押しする。
晶が大きく息を吐いた。微かな頭痛が警鐘を鳴らしている。薬が切れ始めているのだろう。時計を見た。確実に効用時間が短くなっている。
左腕の袖をまくって注射器に手を伸ばす。針の跡が中毒のように痣を生み、他の皮膚より硬くなっている。
「そろそろ腕の皮膚は限界だったな」
ソフィアが携えた服用の錠剤は、これ以上はない助けとなる。
まどかと過ごした日々には、発作や頭痛の懸念はなかった。そんなことを思い返して、何か科学的に裏づけの取れる効果でもあったのかと考えてしまう。
それとも、過ぎる年月に衰えた細胞が耐え切れなくなっただけなのか。常人よりも老化が早くても、不思議なことはない。
未来を望んでいる。けれど、もし一族から解放されて自由を手に入れても、体中を巡る血統は消えない。
この肉体に未来があるかは、また別の話となる。
3
天蓋のある寝台には、薄布が帳をおろしている。こまやかな細工に縁取られた鏡台や机が、漆塗りの光沢を持って光を反射した。
寝台から溢れんばかりに膨らんだ羽毛の布団は、見た目とは違い重さを全く感じさせない。横になることはせず、まどかが寝台に腰掛けている。
映画館のスクリーンの中で、異国の古の後宮を見たことがある。
ここはまさに、そんな場所だった。
部屋から伸びる通路は、回廊のように枝分かれして他の部屋へと伸びてゆく。まどかは、案内がなければこの宮のような建物から出ることも叶わない。
戴家所有の自家用機に乗って、香港を発ったのは数時間前のことだ。飛行機は万里の長城も超え、西へと飛び続けた。着陸したのが、この宮の近くだった。
杏沙が麒麟祭の会場となる土地だと説明してくれた。
香港へ旅立つ前の母の顔が、頭から離れなかった。彼女が何を案じていたのかは、今は理解できる。自分の出生の秘密がこんなところにあったとは、思いもよらない。
戴蓮花。
それが本名だと言われた。すぐには受け入れられない。そんな名を耳にしたこともなかったのだ。冗談だと笑ってみたかったが、思い出した母の顔が、そんな逃げ道さえも奪ってしまった。
大蓮と杏沙の言うことは本当なのだ。だから、母はこの広い異国を嫌った。
「まどか。気分はどう?」
杏沙が部屋へ入ってくる。盆の上の器から湯気が昇っていた。
「雑炊を作ってみたの。食べられる?」
「ありがとう。だけど、いらないわ」
サイドテーブルに盆を置き、杏沙がまどかの前に膝ついて顔をのぞきこむ。
「まだ飛行機の酔いが覚めない?」
大蓮が語った事実は、まどかの神経を疲労させた。その上でのフライトは厳しく、ほとんど揺れのない飛行であったにも関わらず、まどかは飛行中に目眩と吐き気に襲われた。
次々に突き当たる現実は、胸に抱えられる物思いの要領をはるかに超えている。
「ごめんなさい、まどか」
杏沙が少しうな垂れて、視線を伏せた。突然の謝罪にまどかの方がうろたえてしまう。
「どうしたの?杏沙ったら」
「私はずっと知っていたの。貴方との出会いも偶然なんかじゃなかったのよ。今回、大蓮様に会わせて、その後どうなるかも予想はついていたの。ごめんなさい。日本から連れ出さなければ、こんなことにはならなかったわ」
苦しそうに、杏沙が眉根を寄せた。彼女の思いが伝わってきて、まどかはこの広い異国での孤独感が薄くなった。
「ここに来ると決めたのは、あたしだわ。香港に発つ前、お母さんにすごく反対された。こういうことだったのね。だけど、あたしはきかなかった。なぜだか分かる?杏沙」
杏沙が顔を上げた。まどかの澄んだ瞳に、自嘲的な微笑みが宿る。
「日常に戻るのがすごく怖い。どこに行っても晶との思い出が一杯で、身動きがとれなくなるの。大学へ行っても、彼の姿を探してしまう。もう、退学しているから現れるはずもないのに。どうにもならないのよ。あたし、あのまま日本にいたら、壊れてしまいそうだったわ」
涙が頬を滑って、膝の上に組んだ手をぬらした。杏沙がその手に自分の手を重ねる。慰めるように、少しだけ力を込めた。
「忘れられないのね」
まどかが頷いた。
「忘れようとすればするほど、彼のことを思い出してしまうの。今まで気づかなかった、細かな仕草や、声の調子まで。杏沙に謝らなければならないのは、あたしの方だわ。あたしは自分の逃げ道を作るためだけに、舞姫を引き受けた。戴家の大事な祭事を台無しにしてしまうかもしれない」
「そんなことはないわ。やってみて、本当に無理なら降りればいいの。麒麟の舞は簡単じゃない。何の経験もなく、こんな短時間で出来る方が奇跡よ。大蓮様も責めはしないわ」
「でも、それでは無責任だわ」
「まどか。大蓮様は貴方をとても大切に思っていらっしゃる。本当は対面できて、それだけで充分なのよ。麒麟の舞については、少し欲張りすぎたと分かっていらっしゃるはずよ。難解さは誰もが知っている。だから無理だとしても、それを恥じることはないのよ。だから、そんなことで自分を責めてはいけないわ」
杏沙の強い言葉に励まされて、まどかがまた頷いた。
「あたしに出来るだけのことはします」
「それで充分よ」
杏沙が笑って見せても、まどかの瞳からは涙がこぼれた。知らされた出生の真実や、祭事につとめる舞は、彼女の心を動揺させても、癒しはしない。
哀しみが一瞬紛れるだけで、決して消えないのだ。
杏沙が考えていた以上に、彼女の中に住む結城晶の存在は大きい。確かに、このままではいつか壊れてしまうかもしれない。
彼が吹藤の人間でなければ良かった。今更思っても仕方のないことが、杏沙の胸を占めた。けれど、吹藤の人間だったから英国での出会いがあり、惹かれあったのも事実なのだ。
大富豪と呼ぶにふさわしい吹藤家。
時代錯誤な言い方をすれば、住む世界が違う。そう考えてから、杏沙はふと引っかかりを覚えた。果たしてそうなのだろうか。
例えば大蓮が伴侶を求めた時、それが何の利害もない町娘では無理かと言うと、そうではない。確かに問題はある。院を司る各家の反対は免れないが、大蓮が貫けば成ることなのだ。実際のところ主が利害のない婚姻を望むとは思えないが、もし望んでも結実するだろう。実権を持っているのは大蓮だからだ。
吹藤家の実権は吹藤晶にはない。あの老人が握っている。現在は孫にまで世代交代が進んでいるが、実権は総帥から移らない。
吹藤晶の悲劇はそこにある。彼には、吹藤家においての力がないに等しい。
傀儡。操り人形。そういった位置にしか立てないのだ。
あの老人は後継者を育てない。それでは一族の行く末に繁栄はない。
吹藤総帥の思いは、杏沙には理解が及ばない。戴家の有り方と違いすぎて、分からないのだ。一族の未来に、一体何を望むのだろう。
杏沙がもう一度、静かに涙を零すまどかを見つめた。これほど想っても届かない想いがあることに、やりきれなさを覚える。
「まどか。彼に会いたい?」
潤んだ瞳が杏沙に向けられた。答えはかえらない。
「会いたくないの?」
もう一度問うと、途切れながら答えがあった。
「そんなことは、叶わないもの」
「叶うわ」
はっきりと言って、杏沙が立ち上がった。窓を開けて夜風を通す。柔らかな風が、まどかの頬をなでた。
「戴家の祭事には、吹藤家も出席するわ。今年は麒麟祭。世界の有力な一族を招待している。吹藤晶は次期後継者よ。必ずこの土地へ来るわ。私が彼と話す時間を作ってあげる。まどかをこんな状況に追い込んでしまったのだもの。それ位の見返りはあって当然でしょう」
「そんなことができるの?」
「戴家当主の妹をないがしろにはできない。戴蓮花として会えばいい。彼が貴方を忘れても、貴方は忘れられない。それなら、もう一度出会うしかないわ。私は、まどかが早く彼のことを忘れられればいいと思った。香港へ連れ出したのは、そういう意味もあったから。だけど、まどかは忘れられない。それなら、もう一度会って話してみればいい。結果がどうなるか分からないけど、追いかける方法が見つかるかもしれないし、諦める決心がつくかもしれない」
「杏沙」
「哀しんでばかりいても仕方ないわ。まどかには、笑っていてほしいの」
「ごめんなさい、杏沙」
「なぜ謝るの?」
「ありがとう」
杏沙が優しく微笑んだ。まどかも濡れた瞳で、少しだけ笑った。
彼にさよならを告げる前は、会うのが怖かった。次に会った時が終わりかもしれないと思うと、毎日が苦しかった。失うことを恐れていたから。
けれど、もう二人の終わりは訪れた。
今は、ただ彼に会いたい。自分と過ごした時間の全てを覚えていなくても、それでもいい。もう一度、出会いから始めよう。そう考えることが、胸の灯火になる。
真っ暗な闇に、仄かに灯った希望だ。
例えその先に何もなくても。
もう一度会える。
今はそれだけで充分なのだ。
それだけで、夢を見ていられる。




