2:銀世界
1
お昼休み。学園内の食堂は、すさまじい混雑の場となる。賑やかなざわめきの中で、朝子と晴菜を初めとしたクラスメートが、長いテーブルに陣取っていた。
「で、昨日どうだったの。吹藤君、連れて帰ったんでしょ」
楽しげに、親友の晴菜が朝子に聞いた。隣でうどん定食を掻きこんでいた木崎も目を向ける。
「そうそう。俺も聞きたかったんだ。吹藤の奴、四限が終わったらすぐにどっか行くしさ」
「そうなんだよな。あいつ、どこ行ったんだろ。いつも一緒に学食にくるのに」
向かいに座っている鳥羽と沢田が入り口を見る。風巳の入ってくる気配はなかった。
「ね、朝子。何か進展はあった?」
からあげをお箸で突き刺して、晴菜が面白そうに笑う。
「何もないよ。家に来てご飯食べただけ。もう、変に勘ぐるのやめてってば」
顔を赤くして答えた直後、朝子は周りのざわめきが遠くなった。頭の芯にひどい痛みが走ったためだ。反動で手にもっていたフォークを取り落とす。金属のぶつかる硬い音がした。
「どうしたの?朝子」
顔を伏せた朝子の異変に、晴菜がすぐに気づく。
「また、発作?医務室に行ったほうがいい?」
「室沢、発作って?」
木崎が立ち上がって朝子の側へ回ってきた。
「朝子。時々ひどい頭痛になるのよ」
「大丈夫、晴菜。いつものことだから。医務室行って、休んでくる」
無理に笑って見せるが、痛みのあまり額に冷や汗がにじむ。
「ついて行くよ」
「いいよ。食べてるのに。あ、お願いしてもいいかな。私の食器、片付けといて。食べてもいいよ。私、いらないから」
「あ、分かった。片付けとく。でも、本当に一人で大丈夫?」
「そうだよ、結城。俺、一緒に行こうか」
晴菜と木崎の気遣いに、首を振る。
「いいって。木崎君、ご飯冷めるよ。五限には戻るし。ありがとう」
フラフラと、朝子が食堂をでていく。晴菜が途中まで一緒についてきた。別館で「もういいから」と言って別れると、朝子は長い廊下を一人で歩く。
時折やってくる、ひどい頭痛。
朝子が蒼白な表情で、医務室の扉に手をかけた。この痛みの原因が、晶が呼びこむ様々な夢の影響であることは分かっている。
「でも、お兄ちゃんには、言えないし……」
痛みのあまり、気が遠くなりそうだ。けれど、きっと兄が抱えている痛みはもっと大きいに違いない。自分の痛みは、眠ればすぐにひいてしまう。
「あら、結城さん。また発作?大丈夫?」
保険医が、彼女の顔色を見てそう言った。
「はい。お昼休みの間だけ、ベッド貸してください。五分も眠ればおさまりますから。――ベッド、空いてますか」
「ええ。でも一人寝てる人がいるから。右側を使って」
「はい、すみません」
ついたての中へ入ると、左のベッドで眠っている人影があった。
風巳だ。
痛む頭で思い返しても、彼は四限は元気に授業を受けていたと思う。お昼休みだけ、寝にきたのかもしれない。実際、そういう生徒はいるのだ。
朝子もベッドに横になった。張り詰めていた気を許すと、すぐに眠りがやってくる。痛みが徐々にゆるくなっていく頃には、夢の中にいるのだ。
世界はひどい吹雪だった。
真っ白な結晶が、群れをなして帳を降ろす。制服しか身につけていないので、朝子はひどく寒かった。
―――……さん。お、かあ……さん
遠くから声が聞こえてくる。雪の彼方へ目を凝らすと、かすかに人影が見えた。誰かいる。
―――お母さん。
膝まで雪に埋まってなかなか進まないが、朝子はゆっくりと声の方へ向かった。人影は思っていたよりは近い。
手に息を吹きかけながら、自分の体を抱くようにして前へ進むと、雪の向こうで少女が走っている。
真っすぐな長い髪が雪に濡れて、重たげに背中に垂れていた。
―――お母さん!
誰かを追っているように見えたが、彼女以外に人影は見えない。
雪は容赦なく、降り続ける。寒さがどんどん体の芯へ伝わり、手先が痛いほどだった。
その痛みで、朝子はいやに現実感があることに気づいた。
見れば制服の上に降りつけた雪が溶け、さらに上から上から雪が積もる。
「結城さん!」
やけに近くで声がした。振り向くと、風巳が立っていた。同じ雪の中にいるのに、彼には雪が積もらず、寒そうにも見えない。
「こっちへ……」
差し伸べられた手に触れようとした瞬間、彼の姿が掻き消えた。
一面の銀世界だけが目前に広がっている。
「寒い」
これは夢なのに。吹雪は止みそうにない。
「吹藤君。チャイムなったわよ。病人じゃないんだから、起きて授業にでなさいね」
目が覚めてしまった。保険医が目前に立っている。
昼間の浅い眠りの方が、夢を見やすい。だから風巳は昼休みだけベッドを借りたのだ。
「さぁ、早く。授業が始まるわ。隣に人が寝てるから静かにね」
「はい」
風巳が一度の眠りだけで、叫びを聞けたのは初めてだった。
今まではいくら集中しようと、夢の中で強い声を聞きとるには、最低でも一週間は必要だったのだ。
流れこんだ夢は、一面の銀世界。吹雪の中で母の影を追う少女。
朝子の兄と出会った時に見たイメージと、同じなのだ。
「それに、結城さんがいたよな」
保険医がついたての向こうへ姿を消すと、風巳は隣のベッドに目を向けた。
「あれ?」
ぐったりした表情で、朝子が眠っている。はた目で見ても分かるほど顔色が悪かった。音を立てないように、近寄って彼女の顔を覗きこむ。
蒼白な顔は、ほとんど死人のように動きがない。白い頬が、余計に透けてぬくもりが感じられなかった。
これは、普通じゃない。
額に触れてみると、驚くほど冷たかった。ひどく体温が下がっている。
「まさか……」
さっきの夢で彼女が現れたのは。
「結城さん」
夢に巻き込んだ。自分のせいで誘いこまれたのかもしれない。
もし、あんな吹雪の夢で迷っているなら、早く起こさなければ。
彼女が目覚めなければ、大変なことになる。
「ねぇ、結城さん。起きて」
小声で呼びかけて頬を叩いて見るけれど、反応はなく、瞳はかたく閉じられたままだ。
「結城さん。――結城さん!朝子!」
声を張り上げても、彼女は目覚めない。風巳の声に驚いた保険医が顔をだした。
「吹藤君。どうしたの、大きな声をだして」
「起きないんです。体温が下がって。このままじゃ大変なことになる」
「体温が下がって?そんなこと……」
保険医も朝子の額に触れた。伝わるのは凍りつきそうな冷たさ。
「結城さん?」
呼んでも、叩いても、彼女の目が覚めない。
2
大学の講義中は、微かな雑談で空気が震えている。結城晶が軽い気持ちで瞳を閉じると、声が流れこんできた。
聞き慣れた、妹の声だ。
半円を描く大きな教室では、講義が行われている。米国や英国の大学とは違い、日本では学生は受け身だ。だから講義中に夢を見ていても、咎められる心配はない。それが好都合なのかどうかは、判断できないけれど。
「――余計なことを……」
誰にも聞き取れない低い声音で、彼が呟いた。
吹藤を名乗る風巳は直系と言えども、微弱な力しかもっていない。遺伝は年月と共に薄れて行く。今に吹藤の力は消えてしまうだろう。それでいいはずなのに、なぜ一族は受け入れない。
どういう意図があって、今更、彼を自分の側へよこしたのだろう。
忘れたことはない。吹藤『本家』が過去に自分に何を強いたか。憎んでいる、滅ぶべき血統がある。自分を含めて――。
思い出すと、知らずに堅く手を握っていた。
深く夢を追うと、雪が降りはじめる。ここ最近、何度も見ている情景だ。
―――お母さん。
走り続ける少女の瞳からは、いつでも熱い涙がこぼれている。
―――翠。
彼方から聞こえる優しい声音は、走り続ける少女の足を止め、いっそう涙を誘う。
―――沙輝。
やがて、全てを放棄するような、絶叫になる。
胸の底へ秘めた悲鳴が、夢の中で響き渡る。吹藤風巳に出会ったときに、雪原の景色が共鳴し、脳裏に広がった。
今はそこに、妹が紛れこんでいる。
原因は、風巳の存在しか考えられない。
晶の意識は銀世界の中を、妹の声へ向かって進んで行く。
「朝子?」
雪に埋もれるように倒れて、既に彼女の意識はなかった。
そっと抱き起こして、何度か軽く頬を叩く。夢の中の眠りは死にもっとも近い眠り。永く続くと危険なのだ。
やがて、朝子の瞳がゆっくりと開いた。像を結ぶまでに、わずかに時間がかかったが、兄の顔を見て笑みを浮かべた。
「おにい、ちゃん」
まだ、うまく唇が動かない。けれど寒さは退き、兄の腕から温もりだけが広がってくる。
「大丈夫か。とにかく目が覚めたら、午後は無理をせずに家へ帰れ」
「うん」
「じゃあ、この夢から追いだすぞ」
朝子の姿が、腕の中から掻き消えた。晶がほっと息をつく。
やがて立ち上がって、雪の中を歩きだした。無表情な、他のものを寄せつけない、凍てついた横顔。
吹藤風巳。
この貸しは高くつく。
3
温かい滴が、朝子の頬を濡らした。目が覚めてからも、何度か続けてパタパタと落ちてくる。
「結城さん!」
風巳の声が聞こえた。こんなに激しい彼の声を聞いたことはない。視界がはっきりすると、澄んだ眼差しから幾つも涙がこぼれるのが見えた。
硝子質に見える涙は、宝石のように透けて綺麗だ。
「風巳……」
自分の声が他人のもののように聞こえる。
「目が、覚めた……。良かった、俺、どうしようかって」
震えた声が途切れると、言葉の変わりのようにパタパタパタと、涙が降ってくる。泣き顔も綺麗だ。褐色の前髪が涙で濡れている。
男の子が泣くのを、初めて見た。
ぼんやりとそう思いながら、朝子は辺りを見回した。
白い天井に蛍光灯。ベッドの向こうにはついたて。
風巳の隣には、見慣れた医務の先生の顔もある。目が合うと、彼女は全身から力を抜くように息をついた。
「もう、びっくりしたわよ。体が冷たくなっちゃって。救急車呼ぼうかと思ったわ」
ここは医務室のベッドだ。
やっと思考がそこまでたどり着いて、朝子はベッドに身を起こした。
「あの、すいません」
何だか分からず頭を下げると、軽い目眩がした。体中が痺れたように重く、動きが鈍る。
ああ、そうだ。夢の中で兄が助けてくれたのだ。
「ほら、吹藤君も。しっかりなさい」
先生に背中を叩かれて、風巳がはっとしたように涙を拭った。それから朝子を見て微笑む。
「良かった。どうなるのかと思った」
「ごめんね、心配かけて」
頭痛を治めるために、眠っていただけの筈なのに。
「結城さん。今日は帰った方がいいわ。両親……、じゃないわね。お兄さんに相談して一度精密検査でも受けた方がいいんじゃないかしら。頭痛の発作も、結局はよく原因が分かっていないでしょ」
「はい」
「吹藤君は、さっさと授業にでる!」
「はい。結城さん。本当にもう大丈夫?」
心配そうな顔を向けられて、朝子は反射的に笑顔を向けた。
「大丈夫だよ。もう平気。ごめんね、心配かけて」
言いながらも、朝子には分からない。
二人がこれほど心配している理由が、よく分からなかった。
4
学園の門の前に、長身の人影が立っていた。
グランドを囲む鉄柵に背を任せ、優雅に腕を組んでいる。夕刻の陽射しを横から受けて、彼の長い影が落ちていた。
門からは下校する生徒が、吐きだされるようにでてくる。彼の存在に気づくと、誰もが一瞬足並みを止め、再び歩きだす。
堅く結ばれた口元、深い眼差し、さながら一枚の絵のような構図。
けれど、生徒の誰一人として、声をかける者はない。彼の無表情な横顔が、そうさせたのかもしれない。
やがて、ひどく悩んだ顔をした生徒が門からでてきた。目立つ褐色の髪が、夕日を浴びて黄金の縁取りをつくる。
吹藤風巳だった。
早退した朝子のことが心配で、見舞いに言って様子を窺うべきかどうかを迷っていたのだ。
夢に第三者を巻きこむ。今まで本家で守られ、管理された上で夢を見ていた風巳には、他者に及ぼす影響力も全く分からない。
甘く見ていたと思った。
あまりにも知らないことが多すぎるのだ。
「吹藤君」
ふいに低い声に呼び止められ、風巳は歩みを止めた。見ると、目前に朝子の兄である結城晶が立っている。
「あ、この前はどうも御馳走様でした」
会釈しながら、風巳は背筋が冷たくなって行く感覚を拭えなかった。彼の存在を恐れる本能がこみ上げてくる。無表情に自分を見下ろす双眸には、侮蔑した光が宿っている気さえするのだ。
「話がある。少し、時間をもらえないか」
抑揚のない事務的な声だった。風巳が頷くと、彼は近くに止めてあった車を指す。真っ黒な車体が、夕日を反射して黄金色に光って見えた。
「今日は、結城さん早退したみたいです」
「知ってる」
促されるまま車の助手席に乗りこんでも、風巳の感じる耐え難い重圧感は消えない。
後部座席に、大学で使ったらしいテキストが無造作に広がっていた。大学の帰りによったのかと思いつつ、運転席の晶の横顔に目を向ける。
近寄ると、切れそうなほど空気が張り詰めていた。ゆっくりと車が車道へでて走りだす。
大通りにでてからも口を閉ざしたままの晶に耐え兼ねて、風巳が口を開いた。
「あの、話って……」
フロントガラスを見据えたまま、晶が言った。
「今日の昼頃、おまえは夢を見たか」
「え?」
意味が理解できなかった。たたみかけて晶が続ける。
「朝子の早退とおまえの居眠りは無関係じゃないはずだな。分かっているだろう?」
意味が分かった途端、風巳の顔から一気に血の気が引いた。
「まぁ、朝子は俺の影響を受けて特殊だが、どっちにしても、事が大きくならないうちに帰った方が賢明だと思うね」
「ちょっと、ちょっと待ってください。どうして、そんなことを。――いや、帰れ帰れって一体どこに?」
ユラリと、晶が風巳を見た。視線の出会った瞳から、凍りつくような気がするほど、厳しい眼差しだった。
「――全部、言わせたいのか」
知っている?彼は、全てを知っているのだ。目を見張る風巳に、晶が冷笑を向ける。
「どうしてって顔だな。自分は特別だとでも思っているわけか。他人の夢を見ることができる。他人の閉じ込めた声を聞くことができると」
「あなたは……」
何者か聞くのはためらわれた。知るのが恐ろしかった。風巳の表情を読んだのか、晶は再び冷たく笑う。
「俺は結城晶だよ。それ以外の何者でもない。おまえが惚れた朝子の兄だ」
カッと頬が熱くなったが、秘めた気持ちを言い当てられた、と言う思いは片隅にも浮かんではいない。
「朝子には近づくな。手を引け。そして本家へ帰ってしまえばいい。今日の一件で思い知っただろう。自分がどれほど常識知らずか。何も知らないお子様であるか」
「――嫌だ」
「何?」
「嫌だと言った。吹藤にだけは帰らない。あなたが何者かは知らない。でも、俺の居場所を決める権利はあなたにない」
「じゃあ聞くが、吹藤の名を捨てて何ができる。どんな価値観が残るんだ。おまえのように中途半端な奴が、何かのために夢を見れると?理想を唱えるのは結構だが、現実も見たらどうだ。お綺麗な理想なんて、本家から逃げるための口実じゃないのか」
「うるさい!」
自分でも驚くほど、大きな声がでた。けれど、図星なのだ。彼の言っていることは間違ってはいない。
「そんなこと分かってる。でも、夢で叫ぶ人がいる。それが聞こえてしまう時がある。何もできないとしても、無視だってできない。見過ごすことなんてできない。そんな叫びを聞いたこともないあなたに、何が分かる!」
何もできない無力な自分。悔しくて、涙が零れた。
晶が何の感情も顔にださず、滑り落ちる透明な涙を見ている。しばらくの沈黙の後で、風巳に声が届いた。さっきの刺さるような声音より、幾分か和らいだ声。それでも、厳しさは含まれていたけれど。
「俺はおまえじゃないから、おまえの痛みなんて測り知る術もない。分かるはずがない。それと同じように、おまえは叫びを聞いたところで、その人の痛みを全て理解できるわけがない。ただ、聞いて同情するか、慰めるか、できたとしても、その程度のことだ。相手が何かを望んだとして、適えてやれても、絶対に叫びに含まれた痛みまで分かるはずがない。そんなことは神の仕事だ。他人の気持ちは他人のものだ。理解した気持ちになれる時はある。けれど、本当は一生かかっても他人の気持ちは同じように理解できない」
紺青の瞳が、まっすぐに風巳をとらえていた。さっきのように恐れは感じない。しずかな湖底の紫紺を湛えたような、透けた瞳だ。
「晶、さん?」
「でも、理解できなくとも、救いになれることがあったり、安らぎになれることがあったりする。それは自分の中にはないものだ。救いや安らぎは外から受け取って、自分の中で育てる。でも、おまえの考え方には間違えているところがある。他人にはない力や、人より優っている力を、必ず人のために利用できると考えているところだ。そんな気持ちは偽善だ。自分にある力は、自分のために使う。そして、それが他人には安らぎになっていたり、救いになっていたりするんだ」
彼の言葉は分かるようで、分からない。分からないようで、分かる。
確かに、思い当たることもある。
他人が閉じ込めた、凝り固まった気持ちに触れてしまえる自分。
プライバシーを犯したようで、辛いのだ。胸の奥深くに沈んで行く罪悪感。それから楽になれるために動こうとしていたのだ、自分は。
「ま、馬鹿なお子様に話しても分からない高尚な話だがな」
車はいつの間にか、高速を走っていた。晶の緩んだ声音で、風巳は体から力が抜けた。
「心意気は分かった。でも、今日朝子を死の縁に立たせたことや、知識、力のなさが許されるわけじゃない」
風巳の顔から凍りついたように表情がなくなる。そうなのだ。自分が無力なことに変わりはない。
「元いた場所へ帰れ。傷が大きくならないうちに」
「でも、あなたは一体……」
「だから言っただろ。朝子の兄だと。結城晶。それ以外の何者でもない。言っておくが、帰れと言ってるのは忠告でも警告でもない、命令だ。それに、この件に関して罪悪感を抱える必要なんてない。自分の見ている夢が、他人のものであるなんて、どうやって証明できる?おまえが自分で思い込んでるだけかもしれない。ただ、吹藤の本家は一族のために夢を特別視するから、そう思い込むのも仕方ないが。とにかく、おまえはこんな所にいる人間じゃない」
一族の夢。能力の研究を続ける環境が、吹藤の中には存在する。夢は全てそこで管理され、記録されていた。
まるで、実験動物でも飼うように。
そう考えると一瞬背筋が冷たくなったが、風巳は傍らの晶の横顔をそっと窺う。一族よりも、もっと謎に包まれた人間がここにいる。
年齢的にも、血統的にも、彼が同類であるとは思えない。それとも、自分の知らない遠い分家の者だろうか。一族の血をほんのわずか、その体の内に秘めているのかもしれない。本家から遠ざかるほど、力は弱くなる。それでも、彼も自分と同じ年の頃には、時折、何かの拍子に叫びを聞いたことがあるのではないか。
結城晶。
枝分かれしてゆく家系図の末梢に、結城を名乗る者がいても不思議ではない。だから彼の妹の朝子も、呼びこんだ夢にいとも簡単に巻きこまれた。
夢を拾う力がなくとも、血を引いていたなら敏感であっておかしくない。
どこかで血統を交えた、分家の者なのだろうか。
辻褄は合うが、風巳はどこか腑に落ちない。彼は「命令」だと言ったのだ。それに、今日の朝子の件をなぜ知っていたのだろう。
不可能だ。たとえ本家の者であったとしても、夢を追いかけて探るような力はない。分家の者が本家の内情に通じているわけもない。
聞きたいことは数多くあったが、何も言葉にできなかった。聞いたところで答えてはくれないだろう。
車が高速を降りて、普通の車道へでた。赤信号で止まると、体に緩く震動がくる。
「家まで送ってやる。どこだ」
「あ、すいません。あの……」
結局、何も分からず、何も解決してはいないのだ。
5
ふいに、インターホンが鳴った。早川まどかが玄関へ走って行くと、見慣れた人影がすでに靴を脱いでいた。でてきたまどかの気配に気づいて、彼が上目使いに彼女を見る。
「不用心。女の一人暮らしは危ないから、鍵をかけとけって言ってるだろ」
都心からわずかに離れたところに、まどかの住むマンションがある。この地帯は大学への通学に便利なせいか、そこここに小さなマンションが建っていた。
廊下へ足を進めながら、来客者――結城晶がポンッと深緑の透けたビンを投げてよこした。
「今日は呑む」
銘柄を見て、まどかが目を丸くする。だいたい部屋を訪れてくることじたい、珍しいのだ。
「いきなりどうしたの」
「あら?迷惑だったかしら。まどかさんの顔にそう書いてある」
ふざけた口調で言葉が返ってきた。立ち尽くすまどかの肩を叩いてから、晶が部屋へ入る。 上着を無造作に籐椅子の背もたれにかけて、片隅のソファに腰かけた。
「夕食は何ですか」
まどかが彼に呆れた眼差しを向けた。テーブルの上へコトリと洋酒のビンを置く。
「お腹空いてるの?」
「ものすごく」
「なのに、お酒を買ってやってくるのね」
「そりゃ、料理はまどかさんの味に限りますから」
ぱっと頬を染めて、彼女がうつむいた。あまりにも素直な反応に、晶は声を殺して肩で笑う。
「いつものことね」
真っ赤にのぼせた頬を押さえて、まどかが言った。
「あたし、こうして晶に懐柔されて行くんだわ」
「それは嫌なことなのか?ああ、やっぱりいきなりの訪問を迷惑だと思ってるわけだ」
「そんなこと言ってないでしょ。……来てくれて、嬉しいわ」
ボソッと呟くと、おいでと晶が手招きする。テーブルをまわって側へ行くと、強い力で腕を引かれた。反動で彼の隣に座るはめになる。包みこむように腕がまわってくる前に、まどかはソファの端へ身を引いた。
「なんで逃げるわけ」
「別に、逃げてるわけじゃ……」
ない、とは言えない。以前に同じようなことがあったのだ。その時はなし崩しに押し倒された記憶がある。力で適うはずもない相手なので、逃げるしかないのだ。
「き、今日の夕飯はね、和食にしようと思って。焼き魚とか茶わん蒸しとか。……おみそ汁の具は何が良い?」
強引に話題を変えてみた。晶は身動き一つせずこちらを見ている。不気味な沈黙がやってきた。
「――ははん、なるほどね」
彼女の考えが理解できたらしく、晶がいじわるく笑う。
「こんな紳士を目の前にして、そういう態度をとるわけか」
時と場合によると、まどかは思う。
「別にいいけど」
声を落として、彼は自嘲的に笑った。
やはり、何かあったに違いない。でなければ、ここへ訪れてくるわけがないのだ。冗談まじりの言葉の端から、微妙な思いの乱れが、まどかには見てとれた。
「やっぱり、何かあったんでしょ?」
顔を覗きこむように近づくと、ニヤリ、一瞬、彼が笑った。笑ったように見えた。しまったと思った時には、身動きできない位強く引き寄せられている。
「すぐにひっかかるな、まどかは」
「もう、人が本気で心配してるのに……、離して、晶」
「ちょっと表情を変えたら、すぐに近づいてくるんだから」
ますます抱き寄せる腕に力をこめて、彼が肩越しに呟いた。
「……今夜は、ちょっと朝子に合わせる顔がなくて」
「え?」
「今日はいろいろ大変だったし、帰ってやらなきゃいけないんだけど」
「晶?」
「妹の恋心を踏みにじるようなことをしたから。分かってても、仕方ない。あいつだけは駄目なんだ」
彼が言っていることは、要領を得ていない。けれど、まどかには何となく分かった。彼は夢を見る人。そこで、何かあったに違いない。
まどかの隣で眠りにつけば、晶はいつでも普通に、幸せな夢を見ることができた。どんなに気が滅入っていても、彼女の気配が安らぎを呼び覚まし、それは眠りへ影響する。
自宅へ電話を入れると、朝子は元気そうにしていた。声を聞くのも、今はすこし辛い。
吹藤風巳の存在が、朝子にとって吉と出るか凶と出るかは分からない。自分にとって最悪な存在が、妹にまでそうとは限らない。
けれど、あの二人の恋路は決して幸せなものではあり得ないだろう。
本家の落とす影は、あまりにも大きい。全てを捨てて逃げた自分が一番悪いと分かっていても、舞台を用意したのは彼らなのだ。
だから、風巳を認める余裕がない。できるだけ早く、自分達の前から姿を消してほしいと願ってしまう。
彼が悪いわけではない。分かっていても、吹藤という一族を許すことはできない。今も胸の奥底に沈めた、どす黒い記憶がある。
『彼女が誰なのか、あなたは知らなかったと』
果てしなく血統を追い続けて、濃い血筋を望むために。
『――あの方を愛していたんですか』
愛してはいなかった。思い出すだけで、おぞましい行為。
『死んだほうが、マシね』
黒く濁った記憶が、揺らめく。正気のない過去。
二度と触れたくはない。だから、本家へ戻れ。
それしか言えなくなるのだ。
あの時と同じように、また自分だけを守ろうとしている。分かっていても関わりたくない。
「―――……っ」
夜半から降りだした雨が、パタパタと物を弾いている。弱い雨音だ。
記憶を胸底へ閉じこめ、晶が深く息をついた。
闇に沈む部屋を所在なく見渡し、まどかの部屋に泊まるのは初めてだと思った。今までは訪れることがあっても、泊まって行くことは自分で禁じていたからだ。この部屋には、存在をあまり刻みたくなかったし、ここを逃げ場にするのも避けたかった。
なのに、今日はそういった禁を全て犯してここにいる。
「……情けない」
ほとんど声にならない呟きが漏れた。彼はごく近くで眠っているまどかの額にそっと触れる。
夜の闇の中で、彼女の白い肌がぼうっとかすんでみえた。ベッドの近くにある小さなテーブルの上には、空になった洋酒のビンがある。
ほとんど自分一人で空けたも同然だったが、酔いとは無縁だった。アルコールでさえ、晶の前では無力になる。
まどかの長い髪が、絡みつきそうにシーツの上に広がっていた。胸のふくらみに沿ってヒダを作る毛布が、呼吸に合わせて微かに上下している。
細い髪に指ですくように触れて、軽く唇をおし当てた。
安らぎは永遠に続かず、いつか終わりがやってくる。どれほど微睡みたくても、夜明けがくるように。
「……まどか」
呼びかけると、ぼんやりと彼女が目覚めたが、夢現の狭間を見ているようだ。
果たして、あとどの位、こうして眠ることが許されるだろう。
「――晶……」
呟きに誘われ、再び彼女の体に沈みそうになって、――やめた。
今日はどうかしている。これ以上、禁を犯すわけにはいかない。
まどかを微睡みへ返して、晶はベッドをでた。無造作に椅子にかかっている服を手にする。
夜明けも近く、カーテンの向こうを覗くと空がわずかに白んでいた。支度が整い部屋をでようとして、ふと足を止める。テーブルの上にメモを残し、洋酒のビンをおもりにする。
しばらくすると、扉の開閉の音がわずかに響いた。