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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第三話:MEMORY

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7:MEMORIES 7

 MEMORIES 7


   1


 カレッジ前のバス停で、李杏沙(リ シンシア)が乗車してきた。早川まどかを見付けると、軽く手をあげて近づいてくる。

「久しぶりね」

 同じシートに腰掛けて、杏沙がまどかの顔をのぞきこんだ。一重のひきしまった眼差しが優しく歪む。

「この間は何かあったようだけど、もう大丈夫?」

「大丈夫。ごめんなさい、心配かけて」

「と、言いつつ顔が悩んでますって言ってるわ」

 細い指で額をこづかれて、まどかが苦笑した。

「何でもお見通しね、杏沙は」

「そうでもないわよ。どうしたの?」

「ちょっと、気になる人に会えない日が続いてて、寂しいだけ」

「好きな人?」

 何げなく言うと、まどかの顔が一気にのぼせあがる。素直な反応にクスリと笑みがこぼれた。

「その様子なら心配はないかしら。私もあなたに話があったのよ」

「杏沙が?」

「ええ。私、あと半月足らずで国へ戻るの」

「え?」

「学ぶだけ、学んだつもりだし、引き時だと思うわ。本当は以前帰国した時から決まっていたことなんだけど」

 驚きのあとの寂しそうな顔を見ながら、杏沙は主君の決めた潮時に安堵していた。いつまでも、妹探しにかまけていられては困るのだ。

 若輩の大蓮(ターレン)が総帥となることを、いまだ納得しない親族もある。彼は、一族の長であることを忘れてはならない。

「寂しいわ」

「そうね。まどかを残して帰国するのは、私も辛いけど。もう会えないわけじゃないでしょう」

 少し潤んだ瞳を隠すように、まどかが窓の外を平行に流れる景色に目を向ける。「手紙を出す」と小さな声がした。

 出会いが決して偶然ではなくても、杏沙は彼女に会えたことを嬉しく思っている。妹のように愛らしく、行く末を見守りたかった少女だ。

 どれほど美しい淑女となるかは、今からでも想像がつく。時には凛と花開く白百合のように、時には咲き乱れる桜のように。

 日差しを思わせる笑顔で、見る者を和ませる女性になるだろう。

「今日もライブラリーへ?」

「あ、ええ。行くわ」

 杏沙を見たまどかの目は赤く、濡れていた。

「またいつか、縁があれば会えるわ。泣かないで」

 慰めると、まどかが本格的に泣き出してしまう。手だてがなく、杏沙はそっと頭に手をのせた。

「頑張るのよ」と声をかけると、彼女はただうなずいた。

「ほら、ライブラリーの前だわ。あなた降りないと」

「杏沙」

 腕を延ばし強く抱きしめるようにして、まどかが「ありがとう」と告げた。四六時中いっしょにいたわけではないけれど、慣れない土地に戸惑っていた時に優しくしてくれた、大切な友人。

 この同じアジアの女性に、どれだけ励まされたか分からない。

「またね、まどか」

 いつか、再び顔を合わせる予感が、戴家の女にはあった。次に出会う時は、こんなふうに友人の立場ではいられないかもしれないが。

杏沙(シンシア)も頑張ってね」

「ええ」

 もう一度抱擁を交わして、まどかが離れた。笑顔を見せてから、バスを降りるまでの間、ふり向くことなく。

蓮花(レンホワ)様……」

 戴家に従う女の呟きは、誰にも届かず掻き消える。バスが止まり、再びゆっくりと走り出した。



 バス停からライブラリーへ向かいながら、まどかは込み上げる涙が止められなかった。最後は笑顔で別れたが、親しい者が離れるのは哀しくてならない。

 古城の門を抜けて足を踏みいれても、小さく嗚咽をくりかえす。

「どうしたんだ」

 うつむいたまま階段を上っていると、上から声が降ってきた。見上げると、背の高い人影が微笑んでいる。腰の高さに渡された横木に手をついて、結城晶が立っていた。

「何かあったのか」

(アキ)さん」

 止まりかけていた涙が、再びワッと溢れだす。困ったように苦笑して、晶が彼女の近くまで下りた。

 悪夢から目覚めて以来、人の気配に吐き気を催す日々が続いている。今も例外ではなく、わずかに距離を保って足を止めた。

 けれど、まどかの方から一段踏み出した。

 ギュウッと晶を抱きしめて、そのまま顔を伏せて泣いている。

「まどか……」

 恐れていた気分の悪さはなく、ふわりと胸をぬけた風のような気配が心地よかった。全ての呪縛を解く、柔らかな気配。

 思い出した。どこにも見いだせなかった安らぎが、ここにあったことを。

 小さな体を強く抱きしめたかったが、晶はあえてポンポンとあやすように背中を叩いた。

 居心地がよくても、羽ばたき、再び闇の中へ飛び立たなければならない。

 妹との婚姻を受け入れ、力の発現をうながす投薬もすませたのだ。

 もう、陽光に照らされた宿り木に止まることは許されない立場にある。

「ほら、とりあえず泣きやんで」

「ごめんなさい。あたし、あなたにはみっともないことばかりしてる」

「で?何があったのかな」

「別に、友人が国へ帰ってしまうから。――その、別れが哀しかっただけです」

「そう。……でも、友人ならまた会える」

「はい」

 グイッと最後の涙を拭って、まどかが笑みを向けた。改めて晶の姿を見て、すぐに眉を潜める。彼はそのまま階段を上っていくけれど。

 二階のいつものテーブルに落ち着くと、思い切って問いかけた。

「晶さんこそ、何かあったんですか。少し痩せたみたいだけど」

「ああ、ちょっとハンガーストライキ起こしてるだけから。でも、まどかといると楽だけどね。全て忘れてしまいそうなほど」

「え?」

 けだるげに頬杖をついたまま、晶が視線だけでまどかを見る。自身を欺くような笑みを宿して。

「幸せは遠いな。……まどかに会って、少し近づいた気がしたけど錯覚だった」

「何を言ってるんですか。だったら、晶さんが歩いて近づけばいいんです」

「足を撃ち抜かれても?」

「どうして、そんな」

 困惑するまどかに、晶が「ごめん」と笑った。

「晶さん?」

 目を閉じて、彼が口にする。ひどく重い何かが込められているように。

「人には、犯してはいけない領域があるだろう」

 透けた瞳にまどかを映して、彼が続けた。

「俺はそれを破った。今のままでは彼女を不幸にする。……どう考えても、許されない」

 茶化すように笑って、「そう思わない?」と締めくくった。まどかが胸さわぎを感じながら、首を横にふった。なぜか否定しなければいけない気がしたのだ。

 彼は許されることを望んでいるのだと。

 微笑みににじむ苦痛が伝わってきて、こちらが苦しくなるほど、辛いのだ。この人は今。

「でも、晶さんが望んだわけじゃないんでしょう?あたしには、よく分からないけど。本当はあなたが、追い詰められていたんじゃないんですか。だって、分かっていたんでしょう?はじめから、苦しむことも後悔することも。その上でそうするしかなかったなら……。仕方なかったんです、きっと、そうするしか。だったら、それはあなたが悪いわけじゃないわ」

 まくしたてた台詞が、意味を持っていたかは分からなかったけれど。

 ふっと彼が透明に笑った。泣き顔にも見えるほど、弱く。

「そう言ってくれるんじゃないかと、思ってた」

「晶さんの立場は、分からないけど。何があったのかは分からないけど。……でも、そんなに辛そうなら、自分で望んだことじゃないはずです」

 真っすぐに貫かれる、強い言葉。何よりも望んだ許しは、彼女だけが持っていたから。知っていたから。

 救いがほしかったこと。だから、ここへ来た。

 仕方がなかったと言ってほしかったのだ。他に手段がなかったと。

「ありがとう」

 聖域は、陽光に照らされた大木、『宿り木』の中にある。

 心は、全てここに残していこう。彼女の元に。

 これは、もう恋ではなかったけれど。恋は終わっていたけれど。

 暗闇は怖くない。彼女が光を吹き込んでくれたから。胸の灯火を頼りに、歩いて行ける。

―――生きてゆける。

「このライブラリーを、おまえにあげるよ」

「でも、ここは晶さんの……」

「そう、よりどころ。だからまどかが持ち主になってくれたら、嬉しいね」

「どこかへ、行くんですか」

 不安になって聞くと、彼は首をふった。「どこへも行かない」の意思表示。

 全てを包みこむような、優しさに満ちた微笑みで。

「ここにいるよ、ずっとね」

「よかった」

 ここにいる、この場所に。安らげる彼女の側に。

 思いだけは、いつまでも。



   2



 アルバート・Sが資料室から出ると、今しがたIMDIへ戻ってきた晶が廊下を歩いてくる。

 誰にも知られず、薬を投与して一週間以上が経つ。女博士の耳に入るのもそろそろ時間の問題である。

「ライブラリーへ行っていたんですか?」

 声をかけて初めてアルバートの存在に気づいたように、彼が顔をあげた。

「そう。久しぶりにね、もう行かないけど」

「なぜです」

「馬鹿みたいな夢を見たくなるから」

 意味を推し量りながら、アルバートが眼鏡を持ち上げた。

「そう言えば、さっきあなたの妹がIMDIへきていると噂を聞きましたが」

「光が?定期検診だろう。ソフィアの領分だ。俺には関係ない」

 二人がたたずむ廊下の向こうから、足音が響いてきた。目を向けると、ソフィア=サッフォークと斎藤克行もこちらに気づく。

(アキラ)!」

 女医を努める博士が切羽詰まった様子で側までやって来る。横の斎藤の表情もあまり穏やかではない。

「俺に何か?」

「光の子供が流れたわ」

 簡単に告げられ、一瞬ついてゆけなかった。(アキ)が身動きできずにいると、斎藤が繰り返す。

「光様が流産されました。最近、加減が思わしくなかったことは確かですが」

 一つの小さな命が断たれて、安堵したなどとは非道極まりないが。晶は大きく息をついた。良かったと思ったのだ、心の底から。

 肌にくいこみ、傷を残すほどきつく縛られた枷が、わずかに緩んだ気がして。

「――そう。それで良かったんだろう、多分」

 本音を吐いても、その場の人間から責められはしなかった。

「血統の問題と、子供を生むほど光の体が成熟していなかったこと、そんな体に妊娠を促す薬を使ったことが原因ね。生まれて来るほうが奇跡だわ。人道的に言っても、晶の感想が正しいわね」

 率直に意見を述べて、ソフィアが廊下を歩いて行く。後を歩き出した斎藤が、ふと振りかえった。

「晶様。光様を愛しているとおっしゃったわりには、容赦のない感想でしたね」

「今にはじまったことじゃない」

「ええ。でも自分のおっしゃったことは、忘れずに」

 厳しく言い募り、斎藤が廊下を歩いていく。様子を見ていたアルバートが、晶の背中を叩いた。

「あなたを縛っていた鎖が、少し緩みましたね」

 これからどんどん緩みます。と心の中で続け、試すように問いかける。

「後悔しましたか。こんなことなら、なげやりに投薬するのではなかったと」

「別に。これ位のことで鎖が切れるわけじゃないし」

「それはそうですがね」

「……それよりも、最近の俺のデータは妙じゃないのか」

 興味を引かれたように、アルバートが晶を見る目から笑みを退けた。

「どのように?」

「あなたの報告書では、俺のデータは最近急激に普通に戻りつつある」

「事実です」

「今でも変わらず夢を見てるのに?」

「それは変ですね」と曖昧にごまかして、アルバートは資料を手に歩きだす。

「アルバート」

 白金の髪をサラリとゆらして、彼がわずかに見返る。晶が睨むと、無表情なまま告げた。

「事実です。あなたは二十を目前に普通に戻りつつある。薬を投与したかいもなくね」

 遠ざかっていく白衣の背中を見たまま、晶が強く手を握りしめた。優雅な科学者が、どんな思惑を秘めているのか理解できない。



   3



 香港の夜景が、背後に広がっている。大きな窓に姿を映し、戴大蓮(タイ ターレン)が部下を待っている。ほどなく扉がノックされ、彼は窓に向けた体をひるがえした。

 半年ぶりに顔を見る李杏沙が、頭を下げた。

「ただいま戻りました」

「御苦労だったね」

 顔をあげて主君の顔を見、彼女が次の言葉を待った。窓から彼方まで広がる夜色のネオサインが、遠くで光っている。港を後にする船の警笛がここまで聞こえてきそうなほど、澄んだ闇の広がる夜である。

「彼女の国でも、このような美しい夜景は見られるのだろうか」

「大蓮様。蓮花様のことは、もう諦められたのでは」

「ああ。幸せそうならよいのだと、固執するのをやめた。母の遺言は守らねばならぬが。すまないね。おまえの顔を見ると、つい気が緩んでしまう。杏沙には日本へ行ってもらいたいのだが」

「はい」

「同じアジアで、勢力を放つ経済大国だ。我々が華僑を統べるのと同じに、島国の経済を担う財閥がある」

吹藤(フトウ)ですか」

「そう。吹藤のトップはかなりの老体だ。築き上げた手腕は認めるが、そろそろ交代の時期だろう。トップの座を争っての紛争は我が一族だけのことではない。彼らも同じだ。これから戴が吹藤と睦まじくやってゆけるかどうかは、次代に委ねられる。……後継者を巡っての戦線、我が耳に届くよう、杏沙には吹藤へ属してもらう。これからの市場策を練るために、必要なことだ」

「分かりました」

「身元、学歴はこの書類の通りだ。そなたは遠藤真澄(エンドウ マスミ)を名乗り、吹藤会長の秘書となるよう手配した。深入りはせぬよう命じておく。どのような事態にあっても、傍観者でいればよい」

「はい。仰せのとおりに」

 杏沙が深く礼をする。若き総帥が再び窓の外に目を向けた。イルミネーションの遥か上空に、月華が輝いている。

 いつもより赤みを帯びて見える採光が、ほのかに地上を照らしていた。

 ゆるやかに巡る運命の輪が、やがて再び蓮花へ戻ることを二人は知る由もなく。

 今は一族の未来だけを、見据えている。



   4



 病室のブラインドにかけた指を外し、吹藤晶(フトウ アキラ)が背後の妹を見る。美しい眼差しを潤ませて、久方光(ヒサカタ ヒカル)が「ごめんなさい」と呟いた。

 子が流れてから、長く眠り続けていた彼女の意識が、今朝になって覚めたのだ。

 光の世話を担う斎藤克行が隅で二人の様子を見守っていたが、途中から姿を消した。

「怒っているの?兄様」

「怒ってない。むしろ、ほっとした位だ」

「なぜです。なぜ、そんな哀しいことを」

 (アキ)がベッドに歩み寄る。泣き濡れて、なお美しい顔を見下ろし、語りかける。

「光が愛してるのは、本当に俺なのか」

「もちろんです。お疑いですか」

「いや」

 言っても無駄だと、晶が口にするのをやめた。すぐにくつがえせるほど、容易な思いこみではない。

「兄様こそ、そんなことをおっしゃって、私のことを愛してますの?」

「―――……」

 口にはできず、ただうなずいた。愛していないわけではない。同じ血を持つ者として、幸せを願いたい相手。妹としてなら、愛せるのに。

「今は、ゆっくり休めばいい」

 病室を出ると、廊下の長椅子に斎藤が座っていた。(アキ)を見るとすぐに立ち上がる。

(アキラ)様。あなたは、まだ点滴を続けられているのですか」

「ああ」

 それ以上は何も語らず、斎藤が会釈してから病室へと入って行った。

 晶も別棟にある研究室へと足を向ける。

 廊下の窓から、重くたれこめる雲が見えた。今にも雨が降りだしそうである。

 何もかもが億劫で、研究室へ戻るとソファに体を投げ出すように横になった。どこからか廊下を歩く足音が聞こえ、止まったと思うと激しくドアを叩かれて咄嗟に身を起こした。

「どうぞ」と促すと、ものすごい見幕でソフィアが部屋へ入ってくる。

「どういうこと?」

「乱暴だね。ドアを叩きつぶす気か」

「晶。サンプルを投与したって本当なの?」

「一カ月も前の話だ」

 言い終わらないうちに、バシッと頬に衝撃があった。ソフィアが憤りに全身を震わせている。殴られた痛みから、彼女の案じる思いが伝わってきた。

「何を考えているの?」

「どうでも良かったんだ」

「ふざけないで!どんな影響が出るかも分かっていないのに。ただのサンプルを」

「分かってる」

「分かっていないわ!何が分かっているの?あなたはいつもそうね。周りの人間の気持ちなど考えないのよ。自ら可能性を捨てるような真似をして!」

 激しい叱責が、淀んだ心には心地よかった。彼女だけだ、こんなふうに怒鳴りつけてくれるのは。

「でも、投与のかいもなく、脳波は正常に近づきつつある」

 夢の見方は変わらず、そんなはずはないのだが。アルバートの示すデータは日ごとに、元に戻って行く。何の夢にも追われなかった、幸せな子供だった頃と同じに。

「サンプルは効かなかった」

「――そうね。せめてもの救いだわ」

 声を落として言い、ソフィアが椅子に腰掛けた。しばらく黙って何かを考え、やがて「いつまで演技を続けるの?」と言った。

「死ぬまで」

 酷な問いかけには、想像を絶する返答があった。キッとソフィアが晶を睨みつける。

「妹と関係を持っただけで、そんなにボロボロになるのよ。未だ食事を取れないほど。そんな歪んだ演技はやめるべきだわ。あなたには無理だし、光も可哀想よ。突き放して、本当の世界を見せるべきじゃないかしら。兄としてね」

「そうできたら苦労はしない」

「最近、図書館へも行かなくなったわね」

 話題を変えて、違う視点からソフィアが切り込んでくる。

「もう早川とも会わないつもりなの?」

「会わない。平和な空気にあてられて、覚悟が揺らぎそうになるからね」

「会わなくても揺らいでるはずよ。今だって、会いたくてたまらない。違う?それとも気付いていないの?あの子を愛してることに」

「馬鹿なことを」

「気づいてるんでしょう?」

「知らないね。いい加減にしてくれないか。珍しかっただけだ」

「じゃあ、今気がつけばいいわ。あなたは……」

「ソフィア!――それ以上は許さない。言えば殴る」

 示されなくても、分かっている。

 確かに、彼女にひかれた。焦がれて、欲しいと思ったのだ。

 恋をしていた、子供みたいに。

「――(アキラ)……」

 けれど、愛しているとは言わない。何があっても。それは、自分が語れば許されない罪になる。未来を約束できない人間は、決して告げてはならない言葉。

「彼女をこちらにひきずりたくない」

 あの白さを汚すことを、望まない。

「早川は強い子よ。あなたを支える力を持ってるわ」

「都合のいい解釈だ。出て行ってくれ」

「……口がすぎたわ。ごめんなさい」

 ソフィアが立ち上がり、研究室を出て行った。晶が頭をかかえるようにして、顔を伏せている。

 どうにもならない。身勝手な振る舞いには、犠牲が必要とされるのだ。結局は、総帥の許しがなければ動くことができない。



   5



 滋賀の琵琶湖周辺に、洋館仕立ての館があった。

 ティーカップをソーサーへ戻し、老人が席から立ち上がる。ベランダから海のようにたゆたう湖を眺め、水平線をなぞる。

「子供は諦めろと言うことか」

 英国での一連の事態を耳にして、総帥はいささか反省の色を浮かべていた。確かに早急に事を進め、強引なやり方に出たのは否めない。

「焦っていたのか、やはり」

 年老いてゆくことはどうにもできず、残された時間も若者ほどに長くはない。

 期待をかけた曾孫の脳波も、二十を前にして、正常な数値へ戻るのは時間の問題だった。

「成るように成る、か。これで良かったのかもしれぬ」

 皺のよった細い手で、老人は受話器を取った。英国に身をおく部下へ通達を送る。

―――久方との婚約を白紙に戻す旨を伝えよ、と。

 さらに老人は語る。

 結城晶を一時、本家から断絶させ、日本へ戻るか、英国に残るか決断させること。久方の娘を和彦に一任することを。

 受話器を戻してから、老人は自嘲的に笑い「疲れた」と漏らした。

「間違えたのかもしれぬ」

 晶の気性を誤解していたのだろう。何者にも動じぬ姿勢は偽りの姿。我が身のために全てを犠牲にできるほど、残酷な人間ではなかった。

 そこまで考え、総帥はふと真実期待していたことに気づく。喉の奥に止まっていた笑いが、高らかに発散された。

「幼い子供に、何を期待したか」

 時期が早すぎたのだ。束縛も強すぎた。和彦のように手向かえるほどの自由が彼にはなかったのだ。

『総帥は自分のなさった全てについて、深く思索して下さい』

 命を張って晶を愛した、三浦葉子の最期の言葉。彼女も望んだのだろう。彼が牙を向いて戦うことを。

「……愚かな」

 寂しげに、独白する。

 三浦に免じて、今しばらく、彼に自由を与えよう。今度出会うときにこそ、彼が戦えるように。諦めに身を任せぬように。

「失いたくないものを見いだせばよい。恋でも何でも。諦められぬものを。弱すぎるのだ、アレは。脆すぎる、梓と同じに。だからと言って、手を緩めるつもりはないが」

 老人には老人の野望があったが、彼はその野望が阻止されることこそ、真に望んでいたのかもしれない。

「私はまだまだ他界できぬ。一族を愛している限り」

 自身を打ち負かす力を持つ者が誕生するまで。

 安心して眠るわけにはいかない。



   6



 総帥の通達を受け、誰もが言葉をなくした。百八十度の変化に思惑を読もうとしても、何の策略も見えてはこない。

 休日の昼下がり、アルバート・Sは自宅でその事実を知った。ソフィアとの通話を終えた後、珍しい客が訪れる。

 チェスの駒を片手にくつろいでいると、執事が見慣れた青年を部屋へ通した。

「珍しいこともあるものですね」

 白衣をまとわないアルバートは、この上なく優美な笑みで結城晶を迎えた。キングの駒を手にしたまま「チェスのお相手でも願いましょうか」と、客人をソファに促す。

「アルバート、聞きたいことがある」

 決して社交的ではない(アキ)の言葉が、アルバートの笑みをかき消した。

「何か」

「脳波が正常値に帰すのも時間の問題だと、報告したのか」

「ええ」

 バンッと晶がテーブルを叩いた。チェス盤に並んでいた駒が幾つか倒れる。

「どういうつもりで、そんな茶番を!」

 わずかに驚いた様子で、アルバートが目を見開く。それから心底楽しそうに笑った。

(アキラ)のそんな顔は初めてですね。いつも人形のように綺麗に整っていたのに」

「アルバート。脳波が正常に戻る兆しなどないはずだ。夢が日ごとに研ぎ澄まされて行くのに。……サンプルは見事に効いてる。以前より変化しても、戻ることなどあり得ない」

「ええ。でもおかげであなたは自由を手に入れた。ソフィアから聞きました。婚約は白紙となり、ファミリーから断絶を申し渡されたそうですね」

「何をたくらんでいる」

「何も。ただ思ったのですよ。あなたには、実験動物のように変わりがいるわけではない、と」

 理解できず、ますます強く晶は視線に力を込めた。上辺の微笑みをはぎ、アルバートが嘲るように訪問者を見た。手にしていたキングの駒をテーブルに戻す。

「実験動物ですよ、今の晶は。そして、このままモルモットでいればあなたの知識が研究へ生かされない。それ所か実験動物として殺されるだけでしょうね。今回のような投薬を、限りなく繰り返して」

「それで?そんな気遣いを信じろと?」

「ええ」

 氷色の瞳が、ユラリと怒りを孕んだようだった。凍てついた氷から、蒼く燃える炎へと変化する。

「私はね、あなたを実験動物としてではなく、高く評価しているんです。だから、あなたがなぶり殺されるのを見ているわけにはいかない」

「脳波が戻ったところで、俺が吹藤の人間である限り束縛は一生解けない。次の手段へ持ちこされるだけだ」

「そうかもしれませんね。しかし、結果的にはひととき自由になったのですよ、あなたは」

 ソファから立ち上がり、アルバートがゆっくりと青年の前へ歩み寄る。

「晶には、分からないでしょうね。私達のような凡人の嫉妬なんて」

「何を……」

 長い指を伸ばして、アルバートが晶の黒髪に触れる。詰め寄るように屈んで顔を近づけた。

「中途半端に高才を発揮するのを、やめていただきたい。普段は凡人にも劣らぬふりをしながら、人の積み上げた功績をくつがえすタイミングだけは絶妙ですね。上を行けるならば、普段から上を行けばいい。凡人のふりなどせずにね。目障りで仕方ないんです」

 サラリと金と黒の前髪が触れ合うほどの近さで、気高き紳士が研究者の誇りを語る。

「あなたは、我々よりずっと上を歩けばいい。誰もが追う気力をなくすほど。才能です。認めたくはなかったが、晶には才能がある。医学の限界を塗り替えてゆく人だ、あなたは」

「思い込むのもいい加減にしてくれないか」

「思い込みですめば、それで良かったんですがね。……とにかく、あなたが研究者となるのに邪魔なものは取り除いてあげた。これからが楽しみです」

 手をはなしてアルバートが再びソファに腰掛けた。しばしの静息のあと、晶は情け容赦なく、彼の計画を裏切る言葉を述べた。

「アルバートがそんな思惑の上に行動していたとは思いも寄らなかったよ。悪いけど、俺はIMDIに残る気はない。これを機に日本へ戻ろうと思ってる」

「あなたにそんな度胸がありますか?その体がいつまで持つかも分からないのに。IMDIの外で、生きて行けるとでも思ってるんですか。普通の人々と同じに日常を過ごせるとでも」

「確かに。賭けだとは思う」

「正気の沙汰ではありませんね」

「断絶を言い渡されてから、ずっと考えていた。安らぐ方法を、全く持たないわけではないんだ」

 苛立ちを隠さず、アルバートが握れるだけのチェスの駒を、乱暴につかんだ。忘れていた図書施設での光景が脳裏に浮かぶ。

「あの少女のことですか。スクールは卒業シーズンですからね」

「そこまで知ってたんだな」

「もう会わないと言ったのは、あなたです」

「追い詰められていたからね、今でも、迷ってはいる。……せっかく自由にしてもらって申し訳ないけど、博士の期待には添えない」

「晶。あなたが昏倒するのは、データから見て時間の問題です。その時に適切な処置ができなければ、取り返しがつかなくなるかもしれない」

「母のように?」

「ええ」

「仕方ない」

 ゆっくりと晶が立ち上がり、ドアへと歩いて行く。アルバートが握り締めていた駒を床へ叩きつけた。

「――晶!」

 弾け飛んだナイトとクイーンが彼の足元まで転がって行く。振り返って、晶が唇を動かした。

「感謝します、博士」

 深く頭を下げ、美しい青年は部屋から姿を消した。パタンと、扉が閉じられる。

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