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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第三話:MEMORY

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22/67

5:MEMORIES 5

 MEMORIES 5


   1


 澄み切った蒼穹に一筋の煙りが漂い、昇って行く。結城夫妻の告別式の後、焼き場の前に人が集っていた。

 ハンカチを頬におしあて、吹藤和彦は人の儚さを思った。

 遠い昔、本家の慣習を打ち破って見せると明言した自分に、力強くほほ笑んだ親友。

 甘く見ていたと思った。犠牲を出してから気づいたのだ。因習の深さに。

 今更悔やんでも、彼は戻って来ない。

「透、すまない」

 もう何度口にしたか分からない謝罪を、再び逝ってしまった友に向けた。あふれ出る涙を隠さず、和彦が傍らの残された兄妹を見た。

 嘆くことも、取り乱すこともせず、晶が煙りを見上げている。片腕で、泣きじゃくる妹を支えるように抱き締めたまま。

 和彦が来たときから、娘の朝子は泣き顔以外を見せない。たしかに、幼い娘には苛酷すぎる別れだった。

 骨を拾い、一通り儀礼的なことを住ませた後、再び大きな家へ戻る。

 涙を見せない息子の側へ近づき、和彦が今日はじめて晶に声をかけた。

「晶」

「今日は、お忙しい中ありがとうございました」

「お互い様だ。それより、朝子さんは?姿が見えないが」

「泣きつかれたようなので、部屋に寝かせて来ました。今は、眠っているのが一番楽でしょう」

「そうだね。お前も無理をせず泣いてしまえばいい」

「別に哀しいとは思いません。ただ、私のせいだろうと思うだけで」

「それは違う。責められるのはお前ではない、私だ」

 冷ややかに、晶が視線に力を込める。

「元凶が何かを知ってしまえば、同じことです」

 それだけ告げて、実の父から離れた。居間には人が溢れていたので、仕方なくキッチンへ行き、椅子にかける。頬杖をついて深く息を吐くと、喪服に身を包んだ斎藤克行が姿を見せた。

「大変でしたね、晶様。――顔色が優れませんが、大丈夫ですか」

「お前も大変だな」

「いえ。この度はお悔やみ申し上げます」

「――――」

 苦い沈黙がやって来て、耐え切れず穏やかな秘書が

「どこで間違えたのでしょうね」と呟いた。

「俺が生まれた所からだ」

 独り言には、とてつもない自己否定が返ってきた。斎藤が即座に否定する。

「そんなこと、――それは違います」

「どこが違う?俺が生まれなければ、総帥は馬鹿な婚姻を進めたりせず、彼らが犠牲になる必要もなかった」

「それは、そうですが」

「光にも災難だ」

「あの方はそうは思っていらっしゃらないでしょう。晶様を愛しておられます」

 真実を口にすると、晶がわずかに眼差しを厳しくする。

「へぇ。それで、俺に彼女と結婚しろとでも?」

「本当のことを述べたまでです。側にお着きしていて、よく分かりました。幼く、脆い方です。もし強制的にでも婚約なさるなら、貴方はあの方を愛するフリ位はなさって下さい」

「忠告か」

「いいえ。ただ、あなたには決意が必要だと。これからは総帥の意志に従うにも、抗うにも、それなりの覚悟が必要でしょう」

「今回のように?」

「はい」

 久方の娘について、斎藤には分かったことがあった。結城晶に何が足りないのかを。

 光には貫かれる意志があるのだ。はたから見て、どれほど歪んでいようとも、兄を想う、揺るがない意志。覚悟と言える程の。

 けれど、吹藤の息子にはそれがない。あきらめ続けた結果なのかは定かでないが、全てが中途半端で、決意を貫く強さが欠落している。

「申し訳ありません。こんなことを言うつもりではなかったのですが」

「いや、もういい」

 体の不調に眉をしかめて、晶が額に手を当てる。

「晶様。私達はもう発ちますが、あなたは?」

「ああ、一、二カ月はこちらにいる。妹の側にいてやらないと」

「そうですね」

 英国に戻っても、待っているのはどす黒い策略だけだ。実妹との婚約、もう猶予がない。総帥は見事に、それを示してみせたのだから。



   2



 高屋の上に、幾羽かの鳥が止まっていた。レンガ造りをレプリカした二階建てのフラットの前で、真っ赤なフェラーリがエンジンを止めた。

 車から降り、女がサングラスを外す。

 スカイブルーの遮光レンズに負けない青い瞳が、一瞬眩しさに歪んだ。

 並木道の通りに、背の低い樹々に囲まれるようにして、フラットが建っている。車の隣では、陽光を求めて、街路樹が緑条を伸ばしていた。

 フラットの二階へ続くわずかの階段を見上げたあと、ためらいなくソフィア=サッフォークが庭を横切り、一階の部屋の前へ歩いて行く。

 二階が結城晶の住まいとなっているフラットの一階には、早川まどかが空間を構えているはずだった。

 インターホンを押して待っていると、何の警戒もなくドアが開き、まどかが顔を出した。あまりの無防備さに、ソフィアが目を丸くする。

「こんにちは、ミス早川。せめて、相手を確かめてからドアを開けるべきね」

 聞き取りやすいように、ゆっくりの英語で言うとまどかが表情を緩ませた。

「そうですね。ごめんなさい。……あの、ソフィア先生ですよね。あたしに何か?それとも、晶さんの部屋に用でもあったんですか」

「私があなたを訪れるのは、何かのついでじゃないといけないのかしら」

「いえ。そんなことはないです。でも……」

「そうね。……ずっと、あなたと話をしたいと思っていたのよ」

「あたしと?とりあえず、どうぞ」

「ありがとう」

 促されて室内へ入ると、まどかがお茶の用意をしながら椅子を勧めてくれる。思っていたよりシンプルな部屋の隅々に、気の利いた雑貨が並び、和やかな雰囲気を作っていた。

「可愛い部屋ね」

 ソフィアが顔をほころばせると、まどかが千鳥格子柄のティーセットをテーブルに置いて首をふった。

「片付かない部屋で嫌なんですけど」

「そうかしら」

 差し出されたカップを受け取ると、まどかが向かいの椅子に座って嬉しそうに笑っている。

「何か?」

「いいえ。ただ、ゆっくり話してくれて優しいなって」

 無垢な笑顔を眩しく感じて、ソフィアが目を細めた。IMDIでは、滅多に見られない質の微笑みだ。彼に聞かなくても分かってしまう。なぜ、彼女に引かれたのか。

 春陽のような可憐さが、あの凍てついた心を溶かしたのだろう。

「ありがとうございます、ソフィア先生」

 素直で、決して礼貌を忘れない姿勢。どうすれば人を安堵させるのかを、生まれながらに知っている。それは、人種の違いなどから生まれるものではなく。

「安心したわ」

「え?」

「とりあえず、話しておきたいことがあるの。晶が戻ってくる前に」

「晶さんが戻ってくる前に?」

「そうよ。彼は決して自分から打ち明けたりしない。できないのよ。でも、あなたは知っていなければいけない。晶がなぜIMDIにいるのか」

「やっぱり、何かの病気なんですか」

「違うわ。でもある意味では、病気よりもっとタチが悪いかもしれない」

 手にしたカップをテーブルへ戻して、まどかが背筋を伸ばした。ソフィアが

「別に緊張しなくてもいいのよ」と笑ってから、本題へと続けた。

 結城晶が、なぜIMDIにいるのかを。彼の脳波、際限ない夢について、ゆっくりと、順を追って。

 吹藤という大きな一族については、伏せたまま。

「――だから、晶は夢の中で、あらゆる声を聞いてしまう。本人でさえ、聞き分けられないほど多くの声を。全てが共鳴して、一つの叫びにしか聞こえない時もあると言っていたわ」

「そんなことが……。でも、どうしてあたしに?」

「分からないかしら。早川は、晶が初めて心を許した子よ。あなたといれば、彼は思い出す。心がどうすれば動くのか。晶は、いろんなことがありすぎて、麻痺してしまってるわ。何があっても悲しくない、辛くない。そう思い込まなければ、立っていられなかった。そういう立場に追い詰められていたの。私でさえ最近まで気づかなかった、晶の本質よ」

「いろんなことが――」

 呟いて、まどかが手元のカップに視線を落とす。

 どうにもならないことがあると、彼は言っていた。その上で諦めるなと言うのは残酷だと。

「ご両親を失っても、晶さんは泣けないんでしょうか」

「おそらく」

「でも、本当は声をあげて泣きたいんですよね」

「――ええ。だから、早川。あなただけは晶を裏切らないでいてあげて」

「先生。でも、あたしと晶さんはそんな関係じゃないです」

「違うの。ただ、彼が必要とした時に、いいえ……あなたが見ていて、必要だと思った時に、そっと側にいてくれれば。それだけでいいのよ」

 切実なソフィアの声に、まどかは分かってしまった。彼女も晶のことを思っていると。深く深く案じ、愛していると。

「ソフィア先生も、好きなんですね。晶さんのこと」

「晶を?ええ、好きよ。できの悪い弟だと思ってる」

 恋愛ではないと言い切ったソフィアを潔いと、まどかは思った。

「あたしに何ができるか分からないけど。晶さんの側にいて、役に立てるなら頑張ってみます」

「ありがとう」



   3



 スーツケースを手にした兄の顔色は悪く、逆に美しく見えるほど硬質な肌の白さだった。

 妹の剣呑な顔付きをどう解釈したのか、晶がわずかに笑みを向ける。

「寂しいのか?」

 なぜか素直に寂しいとは言えず、朝子はただ首をふった。これ以上兄を日本に止めておいてはいけない気がしたからだ。

 透けそうな肌の白さが、彼の体を蝕む何らかの原因を、見る者に突き付けていたし、兄の安らぎがこの邸宅に存在しないことも、薄々分かっていた。

「朝子はもう大丈夫だよね」

 両親を亡くした親友を慰めるために、一カ月以上、結城邸に泊まり込んでいる室沢晴菜がポンと朝子の肩を叩く。

 朝子より背が高く、大人びた印象の顔立ちの晴菜は、妹の同級生であり、幼なじみである。

 晶のことを朝子以上に理解しない晴菜でさえ、彼を留めてはいけないと言う思いにかられる。それほど、心身の不調は明らかだった。

「お兄ちゃん。やっぱり空港まで見送りに行こうか」

 今春、中学に上がったばかりの幼い妹の危惧にも気付かず、晶はただ「見送りはいらないよ」と答えた。

「ねぇ。お兄ちゃんは、いつになったら本当に日本に戻って来るの?」

「分からない」

「この家は居心地が悪い?朝子が我がままだから」

 思い切って問うと、兄は横に首をふる。

「そんなふうに思ってたのか。違うよ。ただ、お兄ちゃんの意志ではどうにもならないことで。朝子は我がままなんかじゃない」

「今度は、いつ帰って来る?」

「半年後かな」

「じゃあ、待ってる。約束だよ」

 大きな瞳を潤ませて朝子が告げると、奥から祖母がゆっくりとした足取りで出てくる。一カ月以上も同じ屋根の下にいながら、祖母は晶とは一言も口をきこうとしなかった。

 教えられなくとも、結城夫妻の事故の原因がどこにあったのか、彼女には分かっていたのだろう。

「晶」

「はい」

 自分を見上げる、老いた瞳に険しさはなく、穏やかだった。和服の袖から痩せた手を伸ばして、しっかりと晶の手を握る。

「お前の家はここだから」

「……はい」

 咄嗟に込み上げて来たものを無視して、晶は無表情に頭を下げた。結城の家庭と自分の間に、無償の情愛は存在してはならなかった。

 この老いた女性の言葉が、どれほど自分の欲した言葉であっても。甘えることはできなかった。

 ずっと昔、涙が涸れた日から、両親の愛を見失った日から。

 今も、泣かないのではなく、泣けないのだ。そういう人間になってしまった。

 祖母はそれっきり何も言わず、再び奥へと引き返す。小さな後ろ姿に声をかけようとして、できなかった。

 かける言葉が見つからない。

 両親を犠牲にしたのは、自分なのだ。年老いた彼女から娘と息子を奪った罪人は。

「お兄ちゃん」

 呼びかけで我にかえり、晶が家を出ようと扉を開ける。

「いってらっしゃい。おばあちゃんも朝子も又、帰って来るの待ってるから。それから、ずっとついててくれてありがとう。夢の中で、お兄ちゃんが励ましてくれなかったら、きっと朝子は駄目になってた」

「……そんなことはないよ」

 厭い続けた力を、妹のために使った。心が壊れてしまわないように。

「とにかく、待ってるから。お兄ちゃんの家はここだもん」

「分かってるよ」

 一生懸命な言葉の中で、妹が本当に危惧していることに初めて気付いた。この家に安らぎを持てない兄を心配しているのだ。幼い朝子は。

「待ってるから」

「私も朝子と待ってます。晶さん、気をつけて行って下さいね」

 それでも晶には、微笑むことしかできなかった。

「ありがとう。行って来るよ」

 外へ踏み出し、待っていたタクシーに乗りこんだ。しばらくバックミラーに映っていた妹の姿も、やがて見えなくなった。



   4



 英国へ戻り、久しぶりに市街地の外れにあるライブラリーへ赴くと、静寂が晶を迎えた。

 期待していた人影はどこにも見えない。

 時差ボケや長い飛行の疲れよりも、朝子の心を守るために見続けた夢の疲労が、限界に近づいている。

 意識を手放しそうになるのを気力でこらえ、晶が椅子にかけてテーブルに顔を伏せた。

 誰かに会いたいと願い、こんなふうに待つ日が来るとは思いもよらなかったけれど。

 今は、ただ会いたい。 たった一人だけ。彼女なら全てを癒してくれる気がして。

「晶さん?」

 目を閉じて、半時間も待たないうちに待ち人が現れた。晶が上体を起こして呼びかけると、抱えていた本を取り落としてそうな勢いで近づいて来た。

「いつ戻って来たんですか」

「今朝、かな」

「何だか、すごく辛そう。顔色もよくないし。大丈夫ですか」

 まどかの気配で、霧が晴れるように、疲労感が拭われて行くのが晶には分かった。濁った水が、澄明さを取り戻すかのように、癒されて行く。

 不思議でならなかったが、深く詮索する気にはなれなかった。

 側にいてくれるなら、それだけで。

「もう、大丈夫」

「驚いた。……少し顔色がよくなったみたいです。貧血ですか」

「多分ね」

「……あの、大丈夫ですか」

 もう一度問われてうなずくと、まどかが迷ってから口にした。

「そうじゃなくて、ご両親のこと」

「ああ、それは、別に。発つ前にも言ったと思うけど、全然なんともない。自分でも不思議な位。本当は他人だから、仕方がないのかもしれないな」

 簡単に明かされた事実に、まどかは咄嗟に言葉が出て来なかった。おそらくソフィアの教えてくれたことと、繋がっているのだろう。

「彼らと過ごした時期なんて、短いものだったし」

「それは、不思議な夢を見るせいで?」

 どう切り出せばいいか分からず、そんな言い方をした。驚きを隠せない様子で、晶が聞き返す。

「今、何て」

「ソフィア先生に聞きました。晶さんの夢のこと」

「ソフィアに?」

 頷くと、晶が苛立たしげに「余計なことを」と舌打ちした。

「余計なことじゃありません。あたしは、晶さんのことを少しでも知ることができて、嬉しかった。……本当に、哀しくないんですか?」

「ああ」

「ほとんど、ご両親と一緒にいなかったから?」

「そうだよ。ほとんど会うこともなく、他人と――」

 同じと言いかけた言葉が、詰まってしまう。彼らは他人と同じではなかった。

 けれど、他人の位置にいてほしいと望んだのは、自分ではなかったか。

「でも、どうしてそんな、何かを我慢してるような顔をしてるんですか」

「我慢?」

 耐えているわけではない。ただ、泣くことができないのだ。涙の零し方を忘れてしまったように。込み上げて来るものなどなかった。

―――あってはならなかった。

 ここで泣けば、築き上げた『吹藤晶』という人格が全て嘘になってしまう。

 本当に恐れていたことが何であったか。認めたくはなかったのだ。

 物心ついた頃から、ずっと――。

 恐れていたのは。

 結城夫妻の愛情がいつの日か費えてしまうこと。

 考えてしまう。血のつながりのないこと、会えない日々の多さ。

 このままでは、息子でいられなくなるのではないかと。せめて、できの良い子供でなければ、愛されない気がして。

「そんな顔してるのに。本当に、晶さんにとってご両親は他人と同じだったんですか」

「他人と――」

 同じではない。けれど、他人と同じ位置にいてほしかったのだ。そうすれば、血縁のことも、何も考えずにいられたから。

 あり得ない裏切りに脅えて、手放したのはこちらが先だったのに。

「……他人なわけがない」

 覚えているから。彼らと共に過ごした、至福の日々。

 慈しまれた過去が消えない限り、永遠に両親でしかない。

「でも、まどか……」

 顔を伏せたまま、晶が告げる。

「今更、そんなことに気付いても、どうにもならない」

「どうしてですか」

「……もう、どこにもいない」

 囁きのような独白に胸が詰まった。彼がどれほど両親を愛したかは、それだけで伝わってくる。

「晶さんのご両親は、きっと知ってたと思うわ。晶さんが素直になれないことも。どれほど両親を思っていたかも」

「気休めだな」

「違います」

「じゃあ、なぜそう言い切れるの」

「だって、会いに来てくれたでしょう。英国まで」

 英国に。自分の元まで。

 見るたびに大きくなる息子に戸惑いながらも、彼らはいつも微笑んでいた。確かに。

 珍しく難しい顔をして、自分を案じるように言葉をくれたのはいつだったろう。

『お前の人生だ。大きな家のためにあるのではない』

 全てが吹藤の家のために在るのではなく。言い切る形で、未来は決まっていないのだと。

「晶さん?」

 彼らの愛情は耐える事なく、注がれ続けた。たった一人の息子だったから。間違いなく思い知らされる。

『――(アキ)

 総帥がくれた名は、一族の行く末を照らすように「(アキラ)」と。けれど、彼らの呼んでくれた名前は。

『晶の名前はお日様を三つ書くだろう?覚えておいで。おまえの未来が誰よりも輝いていますようにっていう意味だよ』

―――未来が輝きの中にあるように。

「―――っ」

 涙が溢れた。息が止まるくらい、激しく。

 蘇るのは、優しさばかりで。

 誰にも分からないだろう、どれほど彼らを欲していたかなんて。

 本当は焦がれていたのに、幼いころの記憶に。

 両親の優しさと、妹の笑顔と、そこで甘えることの許された自分に。

「……かない」

「え?」

 もう届かない、二度と。言葉を交わすこともできない。伝えられない、愛していると。

「晶さんの気持ち。きっと届いてました」

 後悔や哀しみを拭うように、言葉が落ちてきた。濡れても毅然と美しい漆黒の瞳が、まどかに向けられる。

 救いを求めるように。

「なぜ」

「あたしにも、分かったくらいだもの。晶さんの思い。ご両親が知らない訳ないです」

 気休めにしかならないかもしれない。もっと気の利いた台詞を用意できれば良かった。でも、まどかには分かっている。彼が今、信じたいことは一つだけだと。

「……ありがとう」 

 ようやく聞き取れるほどの声がかえって来た。在り来りの言葉が、今の彼には一番欲しかった真実だ。

 例え、この世にはいなくても。一度、心が離れてみても。

 両親のくれた思い出は変わらないのだ。柔らかく照らされた日向にある幼きころの記憶。

 まどかも思い出していた。父と母と、小さな弟で過ごした日々。何の疑いもわだかまりもなく、幸せな娘だった頃。

 今、擦れ違っていても、その頃の思いまで消えてしまったりはしないことを。

 小さな手を、そっと伸ばしてみた。優しく、彼を包みこむように。支えるように。

 込み上げた哀しみを涙に変えて、晶が切に願っている。

 彼女の言う通りならいい。今は、それだけが望み。

 愛してた、あの日々。

 胸に刻まれているのは、――微笑みあう家族の肖像。


   5



 庭先に据えられたポストから夕刊を取ると、足元に白い封書が落ちた。芝生の上から拾いあげ、宛て名も差出人もないことが分かると、晶は素早く封を切った。

 上質の和紙で作られた封筒と揃いの便箋には、濃い墨で達筆な文字がつづられている。

 何度か見たことのある筆跡だ。

―――汝、本家の意志に従い、成すべきことを成せ、と。

 総帥による書状は、通告のためによこされたものだ。異父妹との婚約を投げ、結城夫妻を死に至らしめてから、随分時間が経っている。

 遅すぎると言っても過言ではなかった。

 厚手の和紙をグシャリと握り締めて、晶が何を決断したのかは、誰にも分からない。

 夕刊を片手に二階の部屋へ戻ると、依然としてゴリゴリとコーヒー豆を引く音が響いている。

「どうしたんですか?」

 ダイニングの小さな円卓で、本来はフラットの一階の住人であるまどかが豆を引く手を止めて晶を迎えた。

 沈みかけた気分を払うように、晶が大袈裟に吐息をついて見せる。

「お前はどうして、この部屋でそんなに無防備に振る舞えるんだろうね。また俺が何かすると考えないわけ」

「そうなったら、晶さんはきっとまた背中の傷痕で手を止めるから、逃げ出すだけです」

 無邪気に言い切った彼女の強さに、晶が降参した。

「悪かったよ。まどかには負ける」

「野望のために、日夜頑張ってるだけですから」

 まどかの言う野望は、晶にも薄々分かり始めていたが、あえて知らないふりをしていた。

 婚約者のいる身で、彼女と戯れに恋を語ることが許せなかった。どんな女とも違い、弄ぶだけの相手ではない。

 もっと切実に慈しみ、大切にしなければならない者。汚れきった手で触れてはならない。

 突き放すのが、最良の策だと答えも出ている。

「晶さんって、英字の新聞、隅から隅まで読めるんですか」

 夕刊を開いて、まどかの質問にうなずくと「すごい」と声が返って来た。

「何がすごい?」

「だって、あたしは半分も読めないし」

「半分も読めたら上等だね。会話も出来るし」

「それは、晶さんのおかげかな」

 引き終えた豆を、メーカーへセットしてまどかがスイッチを入れた。沸騰した水が、すぐに上昇して琥珀に染まる。

 英国へ戻った日の図書館での一件以来、まどかは頻繁に晶を訪れるようになった。

 これ以上深入りしてはいけない。会わない方がいいと。

 分かっていても、晶は研究室に泊まらずフラットへ戻り、彼女の訪れを待っていた。

 もうこの部屋で待つことも出来ない身の上になってしまうけれど。

「まどか」

「はい?」

「それを飲んだら、もう帰った方がいい」

「……分かりました」

 素直に頷いて、まとかがコーヒーを飲み干すと席を立った。

「あの、晶さん」

 呼びかけてから、まどかは迷ったように口を閉ざす。晶が促しても首を振って「何でもありません」とごまかした。

 怪訝な顔で見上げていた晶が、立ち上がってクシャリとまどかの髪に触れた。

「そんな顔しない」

 至近距離で出会った眼差しに、カッと頬を染めてまどかが「お邪魔しました」と背を向ける。

 部屋を出る瞬間「またおいで」と声だけが追いかけて来た。扉を閉めて、まどかがしばらく立ち尽くしてしまう。

 鼓動が高まるのも、頬が紅潮するのも、理屈ではなく。

 考えるよりも先に、感情が訴える。想いが溢れて、思わず口にしてしまいそうなほど。

 頭に乗せられた大きな手の存在、それだけで甘い毒が体中を駆け巡るように。泣き出してしまいそうだと思うほど。



   6



 広い洋館の一室から、ヴァイオリンの音色が細く漏れていた。ゆるやかにウェーブを描く黒髪が、演奏の強弱と同じ調子で揺らぐ。

 どこか硬質で豊かな調べが、弦の静止と共に消え落ちて行く。曲が終わりを告げると、久方光は肩からヴァイオリンを降ろして、頭を下げた。

 傍らで深く椅子に腰掛けて聞き入っていた老人が、パンパンパンと高く手を打った。

「おまえは本当にすばらしい娘だね」

「光栄ですわ、大おじい様」

 ヴァイオリンを置いて、代わりにシャンパングラスを手に取り、光が老人のそれとカチリと重ねた。一口含んでから、思い出したように口を開く。

「そう言えば、斎藤を知りませんか?私、今朝から見ていないわ」

「ああ。一カ月ほど本宅の風巳の元へ行かせた」

「一カ月も?そうですか。こんな広い館に一人だと寂しいです」

 長い睫を伏せて頬にわずかに影を落とし、光が深い溜め息をついた。類を見ないほどの美貌を前に、総帥がふと笑みを浮かべた。

「おまえは本当に母親似だな」

「母様?」

「そう。晶も光も、梓の美貌を映しとったようだね」

 誰よりも、激しい女。あの久方の魔女に、光は気性までよく似ている。勝ち気で傲慢で、そして脆い女。

『おじい様。これ以上私から何を奪うの?』

 晶を産み落とした後、何の未練もなく和彦の元を去り、英国へ渡った孫娘。高く築かれたプライドが、彼女に女としての幸せを許さなかった。

『こんな形で一緒にいるのは嫌です。おじい様は私達のために仲をとりもったとおっしゃるけれど。ひどい仕打ち。あの人の心がここにないことを知って、側にいるなんて』

 梓と和彦の思いが通じなかったのは、政略結婚という形に限りなく近かったために。互いに思いながら、信じることができず破れた恋。

「梓は激しい女だったよ。誰もが一目おくほどの美貌と、それに似合う気性をしていた」

 彼女の激しさには、総帥ですら太刀打ちできなかった。決められたレールから自ら車輪を外して、駆け抜けた女。一陣の風のように。

 それが子供の伴侶を、未来を決めてしまうとも知らずに。

 脆く愚かな中で、一筋の強さをほとばしらせて、ボーフォードへ嫁いでからは、全ての行く末を見張っていた。短い命が散る間際まで。

 男は女に勝てない瞬間があると、総帥は考える。側に控え、静かに行く末を見守る女の強さ。母となる者の、巧みに世界を渡って行く力。

「晶はどうだろうね。あの激しさを持ち合わせているだろうか。抗うだけの思いを」

「大おじい様?」

「それより、おまえに吉報がある。明日、こちらへ晶が来るはずだ。おまえに会いにね」

(アキラ)が?本当ですか」

 無邪気に喜ぶ娘の隣で、総帥が再びグラスを取った。

 気泡の生じるアルコールを透過して、扉が目に入った。

「―――(アキラ)

 その名で何を照らし、輝かせるのか。

 クッとシャンパンを飲み干して、総帥がグラスを置いた。陶器で形作られたオブジェが、夕刻の日差しを受けて、長い影を落としている。

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