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Dの庭園 〜The Garden of dreams and death〜  作者: 長月京子
第三話:MEMORY

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21/67

4:MEMORIES 4

 MEMORIES 4


   1


 十四の夏のことを、早川まどかはよく覚えている。両親から――家族というものから、心が離れた瞬間。

 幼い頃は、何も知らず父を好きで、弟も可愛かった。全てを知らされても、血のつながりだけが絆ではないと思っていたのだ。

―――あの夜までは。

 珍しく父の帰宅が遅かった日。呑めないお酒を、つき合いで呑まされたのか、呑みたい気分だったのかは分からない。もう、そんなことはどうでもいいけれど。

 ほんの些細なはずみだった。玄関を入ってすぐの廊下で、だらしなく横になった父を運ぼうとして腕を引っ張った時に。

 逆に強い力で肩を抱き寄せられた。重さに耐えきれずに、大の男の体にのしかかられて。

「重いよ、お父さん」と言った記憶がある。けれど、父の正気は彼方にあって、母と娘を間違えていたのかもしれない。

 ドロッと赤みを帯びた目と、お酒臭い吐息に顔をしかめた直後、血の気が引いた。大きな手が何げなく、胸をつかんだのだ。

 父を男だと思った。理屈ではなく、本能で。

 血のつながりを持たない危うさを、つきつけられたように。

 母がやって来て、「仕方ないわね」と父を連れ去るまでのあいだに、全てが崩れてしまった。

 他人がどれほど、父と弟と自分の関係を他人だと噂しても、動じることはなかった。絆を信じていられたから。

 けれど、駄目なのだ。自分が父を男だと思った時点から。血縁のない娘は他人。女でしかない。弟にしても、同じことだった。

 怖くなったのだ。一つ屋根の下にいること、少しでも父や弟と二人きりになることが。

 はずみだと言い聞かせても、深いところで恐れてしまう。それからは坂を下るような早さで、幸せな家庭はぎこちなく凍りつく。

 真っすぐに目を見ることができない。その娘の変化に戸惑い、父も母も様子が変わってしまった。

「まどか?ぼんやりしてるわね」

 降ってきた声で我に返り、まどかが頬杖をやめて顔をあげる。

「来てみたいと言うから、せっかくカレッジの図書館に案内してあげたのに」

 学年の異なる李杏沙は、大学に留学している。まどかのスクールから二つ目のバス停にキャンパスを構えていた。

 六階建てのカレッジの図書館では、あちこちに学生の姿がある。書棚の片隅で仲むつまじく寄り添う人影や、熱心に学ぶ姿勢など、様々である。

 近代的で立派だが、まどかには落ち着かなかった。

 あの行き慣れた古城の図書施設が肌に合う。書棚に並ぶ背表紙の日本語や、人気のない静寂。そして、彼の姿。

「何だか、広すぎて落ち着かないみたい」

「そう?最近、お気に入りのライブラリーはどうしたの?」

「やっぱり、あそこが一番なのかな」

 行きたくてたまらないが、行けない。結城晶に会って、どんな顔をすればいいか分からない。

 自分の肩をつかんだ腕の強さや、頬にかかった吐息を思い出すと、赴く勇気がくじけてしまう。

 怖くてたまらなかった。けれど、十四の記憶ほど厭わしさはない。恐れはしたが、くみしかれても嫌悪はなかった。

 時間がたって落ち着くと、目の覚めるような彼の美貌だけが蘇る。あんなことになってから、初めて気持ちにきづいた。

 同郷のよしみではなく、彼にひかれたのは好きだったからだ。

 美しい蒼黒の瞳に出会って、孤独を感じ取ったときから。この人なら、抱き続けた寂しさを分かってくれるのではないかと。

 辛い夜を、分かち合える気がしたのだ。

 微笑みからこぼれ落ちた暖かさは、思っていたとおり優しく、幼い頃の幸せを思い出させてくれる。

 彼を好きになって、側にいれば。いつか、心の奥で男と感じた父が、ふつうの父親に戻るような気がして。

「どうしたの?まどか?」

 デスクの木目に、涙が落ちる。

 願っていたのだ、本当は。自分があの人を必要としたように、あの人も自分を必要としてくれることを。

 けれど、違う。彼は遠くを見ている。ささやかな幸せなど、欲しがらないのだろう。ただの少女一人に、何の関心も示さない。だからあんなひどい真似も、演じることができる。

 背中に刻まれた一筋の傷を見て、緩められた力。

「何かあったの?」

 杏沙の呼びかけに首をふって、しばらく声を立てず泣き続ける。

 彼が、二度と会いに来るなと言ったのだ。

 それが哀しくてたまらない。

「まどか」

「……何でも、ないの。ごめんなさい。今日はありがとう」

 涙を拭って席を立つと、杏沙が何も問わず、なぐさめるように背中を叩いた。

「――バス停まで送るわ」

 労るように、隣をついて行く。

 華僑を統べる主君の、妹であるかもしれない少女。

 この小さな背中に傷痕が存在しているならば、間違いはないだろう。確かめる方法を持たないまま、戴家に従う女が見守っている。



   2



 石造りの細い坂を上ると、並木道に出る。

 更に真っすぐ歩けば、右手にレンガを積んだ壁が続き、下りの階段にのぞむ。

 一陣の風が吹き抜け、照葉のこすれる音が聞こえた。

 階段を半分降りたところで、結城晶が足を止める。細く伸びる欄干にもたれて、苦しげに顔を伏せた。

 夕刻の太陽が、すべてを斜めから照らし、長い影をつくっている。光線の赤さが晶の蒼白な肌に、朱をさした。

 大通りへ出てタクシーを使うべきだったと後悔しながら、遠く前方を眺めると。古城の屋根がわずかに見える。

 もっと奥にはフラットもあるばずだったが、健康を損なっている状態の徒歩では、つらい道のりだ。

 降参して、その場に腰をおろした。勾欄を支える鉄柱に、体をあずけるようにして息をつく。

 こんなふうに、街を彷徨う気力さえ失われている。自分の中に流れる血潮が、全ての自由を奪って行くのだ。外と内から、ジリジリと追いつめるように。

 諦めることが幸せの途であると。

 ごまかし、真の欲求に気づかぬ演技を続けていた、彼女と出会うまで。

 本当は、少しでいいから解放してほしかったのだ。せめて、血統を忘れるフリができるくらいの安らぎは。

 不調な体、妹との婚約、全てにおいて何の手だても持たず、逼迫した日々が続く――永遠に、命が絶えるまで。

 絶望の淵を歩き続けていることを、認めたくはなかったけれど。振りかえっても、前を見ても、辺り一面闇だけが広がっている。

 『晶』の名とは違い、光の届かぬ人生。陽光は遠すぎて、目に見えはしない。

 昔は、吹藤という大きな闇の中で、斎藤克行が灯火だった。他の者と違い、自分を慈しむ優しさを持っていた。母国の両親と同じ笑顔。まるで兄のように。

 出会ってからの半年、弱音を吐き続けていたことを、彼は覚えているだろうか。

 家に帰りたい、両親や妹に会いたいのだと。

 自分も幼かったけれど。斎藤も大人ではなかった。共に大きな歯車の一部でしかなく、無力なのだ。あの頃も、今も。

 闇を退ける光の当たる高みまで、昇って行けない。

「――大丈夫ですか」

 突然、聞き逃しそうな、小さな声が降ってきた。晶が驚いて顔を上げる。いつのまにか、隣に人影があった。夕日を背後に受けて、清絶に輪郭が浮かび上がっている。

 逆光が目に痛く、正視できない。もう一度「大丈夫ですか」と声がした。まぎれもなく、彼女の声。

 波紋を描くように、胸に響いてくる。

「……なぜ?」

「十分くらい、ここに立ってました。全然気づかないから。気を失ってるのかと思って」

「そうじゃない。俺は、二度と会いたくないと言ったし、君は何をされたか分かってるのか」

「人気のない階段で倒れてる人を放って行くほど、あたしは情けのない人間じゃありません。――通りすがりです」

「手が震えてる。無理をせずに放って行けばいい。……俺に君を恨む資格はない」

 まどかが足元に目を落とす。ポタリと、石の上に涙が落ちて染みをつくった。

「あたしが、そんなに目障りですか。……あなたに、余計なことばかり言うから」

 指の合間をぬって落ちてくる涙。透明で、黄昏の色合いに光る。

「分からないな。君はあんなことをされても、まだ俺のことを優しいとでも思ってるわけ」

「だって、ちゃんと手を緩めてくれたわ。怖かったけど、ああいうのは嫌だけど。ひどいけど。――会えなくなるのは、もっと嫌です」

「――――……」

 用意していた言葉が、つかえなくなる。思いもよらない告白だった。

「何を言ってるか、分かってるのか」

「……あたしのことを、嫌いにならないで下さい」

 しゃくりあげて、まどかが泣いている。予感はしていた。こうして臥せっていれば、再び彼女が手を差し伸べてくれるのではないかと。

 馬鹿みたいな、子供じみた予感であるはずだった。

 なのに。

 欄干につかまって立ちあがると、さっきよりも体が軽くなっている。ひきずって歩き続けた苦痛が嘘のようだ。

 すぐ近く、届くところに、望んだものがある。届く、今なら。いとも簡単に。

 ゆっくりと手を伸ばし、彼女の髪に触れた。

「いつ……」

 初めて、素直な思いで彼女と見合う。

「いつ俺が、君を嫌いだと?」

 涙に触れようとすると。わずかに彼女が身を固くしたが、晶は構わず頬に触れた。どうすればいいのかは分からない。何が正解で間違いなのかは。

 彼女と恋を語ることが、許されるのかどうかなんて。

 今はただ、安らぎに身を任せたい。花の咲き乱れる大木の上で、羽を休める鳥のように。

 ここなら、この高みならば、暖かな日の光も照りつける。

 『宿り木』――全ての闇を退けて、光の当たる聖域。

「こんな男の前で、無防備に泣かないほうがいい。涙がもったいない」

 突き放した言い方をせず、晶が微笑みかける。つられたように、まどかが笑った。

「良かった。少し、顔色がよくなったみたいです」

「君のおかげかな、いつも不思議と楽になる。……それから」

「何ですか」

 苦笑を向けてから、晶が続ける。

「この間のことを謝っておくよ。sorryってね。どうかしてた」

「晶さんの顔、間近で見ても綺麗でした」

 茶化すと、晶が唖然とする。まどかがクスクスと笑って階段を数歩下りる。

「もう、いいんです。ぜんぶ演技だって分かってたから。あたしは、ただ笑顔が見たかっただけで。笑ってくれたから、もう充分」

 勢いよく言ってから、迷ったように少し視線を泳がせる。

「でも。あたしのこと嫌いですか。顔も見たくないくらい。やっぱり、目障りですか」

「だから、いつ俺が君を嫌いだって言った?」

「じゃあ」

 パッと笑顔をのぞかせて、まどかが問う。

「ガールフレンドくらいにはしてくれますか」

 突き抜けた明るさに、救われた気がした。一瞬、眩しく感じて目を細めてから、晶が彼女を追って階段を下る。

「また襲われてもいいなら、遠慮なく」

 絶句したまどかを見て、晶が吹き出した。

「冗談だよ」

「ひどい」

 大木が風に揺れている。美しい鳥が一羽、梢に止まって羽を休めた。

 願っている。こんな時が永遠に続くことを。

 叶わぬ夢だと、分かっていても――。



   3



 英国の吹藤家の本宅には、離れに茶室がしつらえてある。砂利をしきつめた日本庭園に、瀟洒な作りの庵。

 湯の沸き立つ音を前に、老人が茶を立てていた。向かいには、緊張した面持ちで、若い男が正座している。

 スッと、茶碗が差し出された。

「作法などは気にせず、気楽に飲めばよい」

「ありがとうございます」

 総帥とは三年ぶりに顔を合わせる男が、茶碗を手にして、一口含んだ。

「けっこうなお手前です」

 意志の強さを感じさせる、淀みのない声。老人が笑みを向けて呼びかける。

「榊。本当に久しぶりだね。又、少し立派になったようだ」

「総帥にそうおっしゃっていただければ、光栄です」

 本日付けで、一族を統べる老人の側近となった榊深之が、深く頭を下げた。優しげな声を改め、総帥が年に似合わぬ芯の通った口調で続けた。

「佐賀野頭取の秘書を努めていたのだったね」

「はい」

「ならば、もう何も言い置く必要はないだろうが。今日からおまえは私の側近となった。心構えはいかに?」

「全身全霊をかけて、仕えさせていただきます。私がこの日をどれほど待ち望んだか。総帥に恩を返すために、佐賀野頭取について学んで参りました」

「嬉しいことだ」

 満足げに皺の口元を歪めて、榊を見る。

「世の中に清濁があるように、我が一族にも美醜がある」

「うかがっております」

「力のことも」

「はい」

 総帥が何げなく立ち上がり、ザラリと障子を引く。庭園の岩の上に、二羽の鳥が睦まじく集っていた。

「では、最初の仕事にかかってもらおう。女秘書の退職の手続きを」

「三浦葉子ですか」

「そう。女とは思えぬ手際のよさで、仕事を数多くこなした。しかし、アレはもう使いものにならぬ。私の曾孫に気持ちを移してしまったのだよ」

「今ここへおいでになっている、風巳様ですか」

「おや。あの子に会ったのかい」

「いいえ。偶然見かけただけです。幼いながら利発そうな方でした」

「フフ。まぁ、教育の成果だろうね。三浦の相手はあの子ではない。おまえは知らないだろうが。まだよい」

「何か不都合があったのですか」

 問うと、老人はわずかに険しい顔付きになった。

「哀れだと言ったのだよ。何の利にもならぬ犠牲だと」

 意味を解せないまま、榊がじっと総帥の顔を見た。皺に埋もれた瞳から厳しさが伝わって来る。

「私は無駄なことはせぬ主義だ。必要だから、命じたまでのこと」

「背いたのですか、彼女は」

「いや。意見してから、任務についた。仕事は手際よく進めた筈だ。今日、戻って来る。私はもう会う必要もない。後のことはおまえに任せる」

「わかりました」

 駒の捨て方に容赦のなさを感じながら、榊が頭を下げた。女秘書に同情するほどの甘さは持ち合わせてはいなかったが。

 総帥が小さな戸口から姿を消した。シュンシュンと湯の沸く音を耳に、榊が目を閉じた。この命は、総帥が拾い生かしたものだ。

 最愛の女を亡くした時に、心は殺した。情愛などは持たずに生きるほうが楽なのだ。

 もう恋人の死を悼み、後を追うことは考えないが、生きる意味は未だつかめない。誰のために命を落としても、削っても、悔いはしないだろう。

 ならば、あの気高き老人のために。

 彼が生かした命は、彼のために役立てばよい。



 長く続く廊下を、奥へと歩き続けると一人の見慣れぬ男と出くわした。二週間ぶりに英国へ戻った三浦葉子が足を止める。

「三浦か。総帥は二度と君とはお会いにならない」

 ぶしつけな言われ方に三浦は血が逆流したが、理性で平常心を保つ。

「あなたは?」

「本日より、総帥の側近を努める榊深之だ。初仕事は君の退職の一切について」

「何をっ……」

 ふざけたことを、と言いかけて呑みこむ。老人の逆鱗に触れたのは、あの美しい青年だけではなかったということか。

 分を過ぎた振る舞いには、思い当たることがあった。榊が軽く女秘書の肩を叩く。

「何に心を動かされ、いれこんだかは詮索せずにおくが。手続きに向かってもらう。あとは書類のサインで完了する」

 情のない声が通り過ぎる。カツカツと靴を踏み鳴らして、榊深之が歩いて行こうとした。

「その必要はありません」

 はっきりした声が響き渡り、男が訝しげに足を止めた。振り向くと、鈍く光る銃口が真っ先に視界に飛び込んでくる。

「何をするつもりだ」

「心配なさらなくとも、あなたには向けません。ただ、総帥にわかって頂きたいのです。『あの方』のために、命を捨てる女がいるということを」

 男には理解の外である。ただ身動きできずにいた。下手に動いて、銃の流れ弾に当たるほど馬鹿々々しいことはない。

「任務に背いたのか」

「いいえ。ほどなく総帥の思惑どおりに事は運びます。手配は万全ですわ。あなたには分からないでしょうが。私はこの仕事を受けた時から、覚悟を決めていました。これほど重い罪悪感に苛まれることは二度とないでしょうね。愛した人間の大切な家族を奪うなど」

「何を言っている?」

「ですが、私も考えたんです。『あの方』が、もう一度心を取り戻すには、犠牲が必要だろうと。見ていられなかった、全てを諦めた彼を」

 生きながら、死んでしまっている。抗う気力も奪われ、自由に羽ばたくことを忘れて。

 哀しみからの始まりでもいい。感情を、もう一度思い出してほしかったのだ。何かに焦がれる思い、悔やむ気持ち、惜しむ心。でなければ、彼は一生束縛の外に出ることはない。

 強いられた苦痛に抗うだけの、強い熱情を持たなければ。果てなく続く闇の外へ飛び出すほどの。

『うけつけないんだ、あの顔が』

 誰が見ても凄絶な容貌の娘を、そんなふうに評した。彼は、類似しすぎた者――妹を相手に契りを結べない。

 人形のように生きて来た流れの中で、はじめて拒絶したのだ。これ以上の濁流には耐えられないと。

 妹との婚姻が、彼を揺り動かしたのならば。あと、もう一つ。

 何かきっかけがあれば、と思った。

 だから、卑劣な任務をまっとうしたのだ。彼の心を、更に激しく揺り動かすために。目覚めさせるために。

 事実が耳に入れば、彼は思い知るだろう。自分に失うものがないと強がった傲慢さ。過剰に抱きすぎた孤独に。

 涙すればいい。声をあげて泣けば。その場に寄り添えないことが残念でならないが。

 彼の心に息が吹き返すのならば、悔いはない。

「きっかけが必要だったのです。あの方には」

「三浦。馬鹿なことは……」

「償いは命で払いますわ。本当は、総帥の前で散りたかったのですが、そうはいかないようですね」

「――三浦」

「伝えてください、総帥に。遺言ですわ。あなたのなさったことの責任は、私が取りますと。秘書の役目です。その代わり、総帥は自分のなさった全てについて、深く思索して下さいと」

「何を馬鹿な」

 女は華麗に笑って見せる。銃口をピタリと胸におし当てて、迷わず引き金を引いた。

 廊下一杯に、銃声がとどろく。

「馬鹿なことを!」

 榊が駆け付けて、崩れ落ちた体を支える。勢いよく、大理石の床に血だまりができた。真っすぐ貫かれた胸元から、熱がこみあげる。三浦が耐え切れず咳こんだ。鮮血を吐くと、体中の痛覚が訴え、気が遠のく。

「――晶、様……」

 あなたの幸せを望んでいる人間がいたことを、分かってもらいたい。愛した女がいたことも。

 ずっと、年相応の邪気のない笑顔が見たかったが、仕方ないだろう。彼と自分の関係ではのぞめないこと。

「こんなことをして何になる!」

 叱責が、やけに遠くで聞こえた。

 この命を断つこと、彼から両親を奪うことが、何かを導くかどうかは知らない。ただ、挑んでほしかった。あの可哀想な青年に。

 諦めるのではなく、挑んでほしかっただけなのだ。

 哀しみ、涙して、蘇った心で戦い、いつの日にか笑える日がくるまで。――あなたが、幸せを掴む日がくるように。

 祈っている、この命をかけて。

「三浦!」

 激しく頬を叩くが、女はすでに事切れていた。榊が舌打ちをする。残された者の気持ちを考えない行為ほど、苛立つものはない。

 守るべき者のために、命を落とす。

 そんな感傷は、自己満足でしかないのだ。

「馬鹿な女め」

 酷評しながらも、榊はわずかに彼女の生き方を羨ましく思っている。



   4



 バサバサと、書棚の奥で本の落ちる音がした。だいたい何か起きたか検討はついていたが、結城晶は様子を確かめに――手助けのために席を立った。

 古城を改造して造られた図書施設の本棚は、背が高い。持ち運び式の階段や、はしごは用意されているが、天井近くの本は、早川まどかが手を届かすには骨が折れる。

 笑いながら近寄ると、トンと段差を降りた彼女が上目使いに晶を見た。

「ごめんなさい」

 絨毯の上に散らかった本を広い集めようと屈むと、笑い続けたまま、ライブラリーの持ち主も膝を折る。

「無理をせずに、俺を呼べばいいのに」

「階段を据えたら、届くと思ったんです。読みが甘かったみたい」

 黙々と本を拾って棚へ戻し、二人が同じテーブルへ戻る。大きな出窓に飾られた薄いカーテンを透かして、日没の光りが届く。逢い引きを繰り返す恋人達のように、本を開くでもなく二人が向かい合っていた。

 ほお杖をついて瞳を閉じている晶に、まどかが「綺麗ですね」と言った。

「何が?」

「顔が」

 真顔で即答して、彼女がじっと眺めている。複雑な思いにかられながら、晶が首をかしげる。

「女が男に言う言葉じゃないね。まるで男の口説き文句だ」

「晶さんを口説けたら幸せだわ」

 無邪気に言ってのけて、思い出を取り出すように遠くを見る。

「初めて目を見たときに、そう思ったんです。綺麗だって。哀しそうで、すごく独りで、切なくなるほど綺麗だった」

「今も?」

 まどかがうなずく。

「何かあるんだろうなって思う。でないと、こんな異国で一人でいません」

「何かの目的のために身をおいているだけかもしれない」

「そんなふうには見えないわ。だから、ずっとあなたのことを仲間みたいに思ってたかもしれない」

「じゃあ、君は何かあったわけだ。日本で」

 答えず、まどかは視線を手元の洋書に落とした。

「全然たいしたことじゃないんです。最近、そんなふうに思えるようになって。気の持ちようだって。晶さんが教えてくれたんです」

「俺が?記憶にないけど」

 まどかが微笑する。

「些細なことだから」

 静息に満ちた空間に、安らぎが広がっている。日が沈み、透明な紫につつまれた天空に、小さな輝きが見えた。気の許せる沈黙のあとで、晶が口を開く。

「背中の傷が原因?」

 触れて良いのか迷いながら、相手を窺うと横に首がふられた。

 強引に抱きすくめられた記憶が蘇ったのか、まどかは顔を真っ赤に染めて、慌てたように話す。

「あんなに傷痕が残るんだから、大きな怪我だったと思うんです。でも、覚えてないから、かなり小さな頃の傷で。全然、関係ないですよ」

「そう。――ごめん」

「え?」

「傷痕を、他人にさらしたくはなかっただろう?」

 思いやりの含まれた声に、まどかは目頭が熱くなった。悟られないよう、すぐさま顔を伏せて。

 思っていたとおりの人だと、あらためて感じてしまう。言動に、人がどれほど左右されるかを見極めている。何を言えば傷つくかを、知っている人なのだ。

 その上で、厳しい言葉を投げていた。彼の抱く哀しみは、分かっていながら優しくできない立場から生まれたもの。

 何がそうさせるのかは分からないが、人を貶めることを楽しむ人達とは明らかに違う。

 そうでなければ、これほど綺麗ではいられない。哀しみを帯びて、見る者の胸をつかむほどの切なさは生まれてこない。

 なぜ、彼の内面を見てとれるのか、まどかには不思議だった。

「晶さんは他人じゃないから。――あたし、野望があるんです。だから、平気です」

 目を丸くした晶に、まどかが胸の中だけで告げた。

 ガールフレンド以上に昇格すること。口がさけても本人には言えないが、強い願望である。

「とりあえず、そのために女を磨かなくちゃ」

 決意を表明すると、理解が及ばないまま晶が笑う。

「へぇ。よく分からないけど、たいした意気込みだね」

「はい。夢ですから」



 火急の用件を伝えに、アルバート・S=ケントが初めてライブラリーへ赴いた。いつも吹藤晶の追い立て役をかって出るソフィア=サッフォークが、今回ばかりは辛いと言ったのだ。

 アルバートには、彼女の心持ちが理解できない。晶はこれ位のことで動じるような、華奢な神経の持ち主ではないはずだ。

 出会った頃は、六つ年下の少年に嫉妬を感じたものだ。誰もが羨む恵まれた才気。努力など微塵も感じさせず、暇潰しに関わった研究において、どれほどの才能を閃かしたか。年端もいかぬ、人形のような少年が。

 アルバートの羨望が嫉妬へ変わっても、憎しみへと育たずにいたのは、彼の氷のような気性のためだ。

 凍てついた、至高の孤独に身を落とし、全てにおいて諦めしか持たぬ姿勢。

 だから、許せた。少年の才能を、憎まずにいられたのだ。

「ソフィアもどうかしてる」

 二階の中途半端な広場を抜け、聳え立つ書棚の前に来ると。向こうから話し声がする。

 女の声に交じって聞こえる、低い響き。よく知っている声だが、アルバートは耳を疑った。囁くような甘い声音は、愛を語るように優しい。

 日本語のせいかと思いつつ、天井の高さまである棚のあいまを抜ける。

 かけるべき言葉を失った。

 これ以上はない馬鹿々々しさに満ちた、茶番劇のような光景。心を許す笑みなど、彼に似合いはしないのに。

 憤った思いに戸惑いながら、アルバートが歩み寄る。

「晶」

 一言で和んでいた空気が、堅く変容した。走り去った緊迫感と、笑みが断ち消えたことに安堵を覚えながら、青い瞳で青年を見据える。

「アルバート博士」

 皮肉なほどの豹変ぶりで、晶が呼びかける。チラリと彼の向かいに座る少女に目を向けてから、アルバートが用件だけを口にした。

「さっき、IMDIに連絡が入りました。結城夫妻が事故に合い、いましがた息をひきとられたそうです。通夜は今夜。あなたには告別式に参加してもらいたいと。今から発てば、何とか間に合うでしょう」

 鷹揚のない英語を聞き終わってからも、晶は動きを見せなかった。哀しみも驚きもない。

 その彼の本質に満足を覚え、アルバートが背を向けた。

「早く、日本へ発った方がいいですね、晶。あなたの両親ですから」

 白金の髪をサラリとゆらし、紳士的な振る舞いでアルバートが姿を消してからも、晶は動けずにいた。

 哀しみや驚きなどとは無縁だったが。自分の犯した罪を、思い知ったのだ。英国を断つ前の三浦の言葉は、適確に核心についていたではないか。

 総帥の意志に背いて、ただで済む筈がないことを。

 こんなやり方があるのだ。言いなりに束縛してしまうために、こんな卑劣なやり方が。

 ついに犠牲を出したのか、自分とは関係のないところで。

「――晶さん」

 グルグルと巡る思考が、停止した。目を向けると、すぐそこにまどかの瞳があった。清らかに澄んだ、慈悲の眼差し。

「早くて、よく聞き取れませんでした。でも、ご両親が亡くなったって」

「……ああ。そう言ってたね」

 胸のうちは、波風が立つどころか静まり返っていた。いつもと変わらず、受け止めるだけの余裕がある。思い知らされる、自分の心の欠陥について。

 ひどくクールな、感情の起伏。

「まどかがそんな顔をしてどうする?平気だよ。今までも、ほとんど会うことがなかったんだ。それが全然会えなくなっただけで、変わりはない」

「晶さん」

 何か言おうとしたまどかの前で、晶が席を立つ。

「帰国の用意があるから、戻るよ。ごゆっくり」

 しっかりした足取りで歩いて行くけれど。

 隣で支えていなくて大丈夫だろうか。背中を見ながら、まどかが思っていた。



   5



 研究室をノックされて、ソフィアはすぐに扉を引いた。訪れて来たアルバートの冷ややかな口頬に、わずかに苛立たしさが見てとれる。

「どうかした?晶が何か言ったの?」

 ソファにかけて足をくみながら、アルバートは「いいえ」と答えた。

「用件を伝えても、動じず、いつもと変わりませんでした。あなたの取り越し苦労ですよ。そんなことで取り乱す晶じゃない。ただ」

 ライブラリーでの、目眩を覚えそうな情景に嫌気がさし、アルバートが碧眼を曇らせて続きを呑みこむ。彼の私生活に憤ったりすることは、愚かなだけだ。

「ただ、どうしたの?」

「いえ。何でもありません。……早く彼に戻って来てほしいと思っただけです。せっかく、サンプルが完成したんですから」

「その件は保留にすべきよ。どんな副作用があるかも分からない。それに、力を持続させて喜ぶのは研究員とファミリーだけだわ。彼には残酷よ」

「たしかに」

 短く同意し、アルバートが立ち上がる。

「しかし、私は興味がありますよ」

 新薬の作用についてではなく。その時の彼が、今と同じように冷静さを保っていられるかに興味があった。

 情に厚い女博士には語らず、彼が研究室を出て行く。ソフィアがもどかしさにかられて爪をかむ。

 晶に恋を語るだけの自由を、用意してやりたかったのに。

 結果は、短命を防ぐことよりも、力の発現をうながす研究が完成を見た。

 何もかも、うまく行かない。

 ソフィアが白衣を脱ぎ、乱暴にほうり投げた。椅子に腰掛けて、長い金髪をかきあげる。

 あの高岸な青年には、一時の休息も許されない。

 それが哀れでならなかった。

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