1:MEMORIES 1
MEMORIES 1
1
窓の外の街路樹が、風に吹かれて揺れている。郊外にあるライブラリーの一角で、早川まどかがぼんやりと外を眺めていた。
英国にやって来て、一年以上が経とうというのに、どこか落ち着かずにいる。
友人もできて、毎日は楽しいはずなのに。時折、淋しく感じるのは、やはり日本が恋しいからだろうか。
「やっぱり、ここにいたのね」
凛と通る声がして振り向くと、まどかはそっと笑みを向けた。同じ海外留学生の李杏沙がこちらへやってくる。
六つ年上の彼女は、まどかにとって姉のような存在だった。
「せっかくの休暇なのに、本当に日本へ帰らないの?」
「そういう杏沙は?」
「私も明日には帰るわ。――だから報告しておこうと思って。ねぇ、まどか。日本に帰りたくない理由でもあるの?あなた、一度も母国に帰国していないもの」
心配そうに問われて、まどかは慌てて首を振った。
「違うの。そういうわけじゃないの」
「なら、いいんだけど」
嘆息をもらして、杏沙がポンとまどかの肩をたたく。
「二週間ほどで戻ってくるから。じゃあ、私用意があるから失礼するわ」
「はい。いってらっしゃい」
軽く手を振って見送ると、再び手元の本に視線を戻す。
この図書館は、日本語の書物が、所蔵量の半分以上を占めている。そのせいか、訪れる人もまばらで、まどかは休日になると毎日のように足を向けていた。
「日本に戻る、か」
呟くと、深いため息が漏れた。戻れないわけではなかったが、戻りたくなかった。あの家にいては、息が詰まるのだ。言葉も習慣も違う異国の方が、よほど自然に呼吸ができるほど。
よくあるドラマのように、自分は後妻の連れ子。義父は優しいが、まどかをとりまく違和感は消しようがない。
自分さえいなければ、あの家庭は幸せを築けるだろう。
パタンと本を閉じると、はなれた反対側の席でカタンと音がした。
目を向けると、いつもの人影が腰掛けて本を開いている。漆黒の髪と闇色の瞳。同じ地を故郷に持つ青年。
彼の名前も所在も知らなかったが、ひっそりとした館内で、孤独な時間を共有することに、親しみを感じていた。
遠目に見ていても、人形のように綺麗な姿をしている。
まどかは一度だけ、彼と言葉を交わしたことがある。この図書館に通うようになって、半年が過ぎたころ。
手の届かない書棚の本を見上げていると、彼がスッと横に立った。
『日本人?』
本を手渡してくれながら、それだけを口にした。うなずくと、少し笑ったような気がする。初めて間近に見た瞳は、吸い込まれそうな宇宙の色。
まどかは、ふとこの人も孤独なのではないかと感じた。
『懐かしいね』
感情のこもらない日本語の響き。声をかける間もなく、彼はいつもの席へ戻ってしまった。それだけだったけれど。
「晶!」
甲高い声が、図書館の静けさを打ち破る。まどかが驚いて振り向くと、見事な金髪の女性がツカツカと彼の元へ歩み寄った。真っ白な白衣が印象に残る。
「今日のカリキュラムはまだ終了していないわ。研究室へ戻って」
「俺はやるべきことをやったはず。あとは研究員の領分だ。なぜ、わざわざ奴らのために時間を裂く必要が?」
「協力しなければできないことがあるわ」
「屁理屈だ。貴重な時間をつぶされてはたまらない。ソフィア。ライブラリーから出て行ってくれないか」
早口の英語で、まどかには半分も聞き取れなかったが、それっきり女は黙り込み、出て行ってしまう。
まどかはそっと席を立った。元の位置に本を返して、しばらく書棚の間を所在なく歩き回る。
やって来た女性との会話の中、彼があんなに冷たく笑うとは思わなかったのだ。他の者を寄せ付けない、凍てついた微笑み。
奥の書棚の前に来た時、背の高い人影が目に入る。彼だと思った瞬間に、まどかはさっと背を向けていた。
「さっきの騒ぎに腹を立てた?」
低い声にギクリとして、ゆっくりと振りかえる。無表情なまま、彼はこちらへ近づいてくる。
「え?」
「心地いい静寂を破ってしまったから、怒っているんじゃない?」
久しぶりに聞く日本語に、まどかは首を横にふる。
「じゃあ、どうして背を向けたのかな」
「それは、別に」
自分の鼓動を近くに聞きながら、まどかは何と答えればいいのか迷ってしまう。同じ空間を共にしながら、お互いの域へ踏み込んでは行けない法則を感じていたのだ。これまでずっと。
「日本語」
ふつりと会話が飛ぶ。端正な顔をした青年は、まっすぐ視線を注いでくる。
「俺の日本語は、どこかおかしい?」
「いいえ、ちっとも変じゃないです」
促されただけのことしか答えられない自分をもどかしく思いながら、まどかが立ち尽くしている。
「あの。さっきの人、追いかけなくていいんですか?」
何か言わなくては、と思った矢先に出たのは気のきかない台詞だった。余計な詮索をしたと、血の気が引くのを感じていると、彼の表情がはじめて動く。
「どうして俺が」
「だって、知り合いじゃないんですか。怒ってたみたいだし」
二人の向かい合う場所は、館内で最も奥まった暗い書庫の近くで、空気が冷たい。少し陰って見えていた彼の頬の白さに、まどかが気づいた。青ざめていると言っても過言ではない。
「どこか具合が悪いんですか。顔色が」
「少しね。たまにあるんだ。ここへ来ると楽になる気がして」
ライブラリーの近くに、研究所のような建物がそびえている。一角がたしか病院になっていた。もしかすると、彼は患者なのかもしれない。そう思いながら、まどかは彼を椅子へと促した。
「座っていた方がいいです」
「ありがとう」
今まで見上げていた長身が、腰掛けるとまどかよりも低くなる。そのまま立ち去ろうか迷いながら、まどかはとりあえず名前だけでも知っておきたいと口を開いた。
「名前、アキラさんって言うんですか」
「え?」
「さっきの人が、そう呼んでいたから」
「違うよ」
少し間があって、答えが返ってくる。
「アキが正しい。結城晶。……君は?」
「まどかです。早川まどか」
名乗ると、彼が笑みをこぼした。自然な微笑みだった。
「俺も君も、ずっと長くお互いを知っていたのに。……いまさらなんて」
「何度か声をかけようと思ったことがあったんです。でも、一人の時間を邪魔されたくないだろうと思って。――ただ、ときどき」
いいかけた言葉を呑みこむ。調子にのってしゃべりすぎたと思った。これ以上語れば、きっと彼は気を悪くする。そんなまどかの意に反して、彼は顔を上げて、先をうながした。
「ときどき、何?」
「晶さん。辛そうだなって」
「……」
驚いたように、彼はわずかに目を見開く。まどかがハッとして口を手で覆った。
「こめんなさい。あたし、変なこと言って」
「いや。――そうじゃない」
「あの」
「そうじゃないんだ。……君には、分かったというわけだ」
自嘲的な声だった。まどかが、目の前の美しい苦笑を眺めていた。
2
郊外にたたずむライブラリーから、北へ一キロも行くと、広大な敷地にそびえる機械的な建物が見える。
入り口の大きな門には、大理石に国際医療開発機関と英語で刻まれていた。IMDIの呼称で、国際的に医学の権威を誇る施設である。
結城晶が、何の障害もなくセキュリティを通り、建物へ足を踏みいれる。エレベーターで最上階へ上がると、住家と化している自分の研究室へ姿を消す。
誰もいないはずの室内には、人影があった。眼鏡の奥の青い瞳の輝きが、まっすぐに晶を貫く。
「女性との逢瀬でも楽しんでこられたのでしょうね」
白金の髪をゆらして、無断で研究室へ立ち入った男は、晶のデスクの椅子に腰掛けて笑っている。
「単独行動を責める気はありませんが、ソフィアをなだめる私の都合も考えていただきたい。まぁ、ここへ女性を連れ込むよりはましですがね。それから、研究室はロックしておくように何度も注意したはずですが」
IMDI、脳開発の部門で権威をほこる男は、言葉とは裏腹に楽しげに非難する。晶は冷ややかに一瞥を向けると、部屋を出ようとした。
「晶。今日はフラットへ戻りなさい。日本から客人が来ているそうです」
「俺に会いたいのなら、研究室へ来ればいい。フラットまで戻るのは面倒だ」
「せっかく用意された部屋を。もったいないですね。それほどこの研究施設が好きなんですか」
「きつい冗談だな」
吐きすてると、侵入者であるアルバート・S=ケントが椅子から立ち上がる。近づいて、六つ年下の青年の頬に触れた。
「顔色が戻ったようですね。今日は朝から、貧血のような顔色でしたよ」
「――触るな」
手を払いのけて、晶が厳しく宣告する。
「失礼。時折あなたの体調が乱れるのは、その不思議な脳波と関係がありそうなので」
「そうだろうな。久方の血統はリスクを伴うから。今から弱っていても不思議じゃない」
「そうですね。でも吹藤のファミリーは長寿ですよ。あなたはどちらの血が濃く出るのでしょうね。調べる対象は多く残っている」
「好きにすればいい」
「二十歳まで、あと二年足らず。晶、あなたの脳波が無事戻ることを祈っています。心から」
「偽善者だな」
「本心ですよ」
そう告げて、アルバートが部屋を出る。疲れたように、晶が片隅のソファに横になる。
どうでもいい。想像がつく行く末を生きるなら、今すぐこの命が絶えてもかまいはしない。
未来に、何の希望ももてないのであれば。
目を閉じれば、眠りはすべりこんでくる。あらゆる声や思いを伴って。いつもなら、どれほど疲れていても行き交う声の中での微睡みしか望めない。けれど、今日は流れ込む声が少なく、心地よかった。
自分のことを、ときどき辛そうだと言った彼女の姿を思い出す。全てを諦めたつもりなのに、まだ何かを捨てきれず苦しんでいる。気付かないところで、安らぎを求めているのだろう。幸せな未来を。
叶わない夢だと分かっていても。
「――きら。晶」
耳元で名を呼ばれた気がして、晶がふっと目を覚ました。
いつの間にか陽は沈んだらしく、室内は薄い闇に呑まれている。
髪にからむ指があった。人の気配がすることは、きつい香水の香りが知らせてくれる。
視線を動かすと、人の影が見える。ゆっくりとブロンドの髪が頬に落ちてきた。
「誰?」
けだるげに押しのけて、晶が身を起こす。
「忘れるなんて最低ね」
白衣を来た女を眺めてぼんやりと考える。見たことのある顔だが、思い出せなかった。
「何時だ?」
「六時よ」
答えて、女がゆっくりと唇を重ねてくる。拒むことさえ面倒に思えたが、鼻をつくきつい香りと紅の味がわずらわしかった。女の腕をつかんでひきはなす。
「悪いけど、他をあたってくれないか」
だるそうに言い、部屋の明かりをつけた。なにごとか罵って女が部屋を出て行く。叩きつけるように閉められた扉に背を向けたまま、グイッと口元を拭うと、袖に紅が残った。
口づけの味を忘れるために、煙草に火をつけて一口ふかしてから、灰皿へと揉み消した。
香水の残り香が、気分を害する。今日はフラットへ戻った方が心地よく眠れるかもしれない。
3
無粋な女の訪問のために、結城晶は数カ月ぶりに生活感とは縁のない部屋へ戻る。室内では思っていた通りの、忘れかけていた顔が二つ並んでいた。
戸籍において、自分の両親を名乗る結城夫妻である。
「年明けには帰るつもりでいたのに」
良い息子を演じてはいたが、心の底から二人の訪問を感動していないことは、偽りの両親も気付いているに違いない。
晶は、一生彼らと馴染むことはないだろうと思う。それは血のつながりの問題ではなく、自分の欠陥のためにだ。
育って来た環境が、あまりにも世間と隔離されていたために。人を信頼し、心を許す術を知らない。ふりはできても、もう一人の冷めた自分の存在を、いつでも感じている。
結城夫妻に優しくされればされるほど、吹藤という大きな背景を持つ息子が欲しかっただけなのだろうと。利用価値によってしか、彼らの中に自分の存在を認められないのだ。
吹藤の一族、IMDIの施設の中にあっても、比類なき血だけが求められているのであって、その他は必要ない。
モノと扱われる経験があまりにも多すぎて、自分も人をモノとしか考えられなかった。
「――まぁ、こっちで片付ける仕事もあったので、寄ってみただけだ。おまえには普通の子供と同じようにいてほしかったのに」
「あなたの口ぐせだ、お父さん」
「そうだったかな。……吹藤の家がおまえを離さないのも分かるけれどね。よくできた子供だから。できすぎなほど」
「―――……」
ずっと以前、晶は結城の父に尋ねたことがあった。
では、なぜ自分を子供として迎えたのかと。彼は何の迷いもなく、穏やかに笑った。おまえに幸せになってほしかったからだと。
返って来た台詞に満足したのか、しなかったのかは、今となっては晶もよく覚えていない。
「朝子はどうしてる。一緒にこっちへ?」
触れたいわけではなかったが、話題を転じるために、他人である妹のことを持ち出した。会うたびに優しい兄を演じるせいか、妹は素直に慕ってくる。
時折、晶は全てを投げ捨て、白々しい演技も、何もかもを切って捨ててしまいたくなることがあった。
両親の優しさや、妹の笑顔をみているときに。
「朝子は日本においてきたよ。お兄ちゃんお兄ちゃんとうるさかったけれどね」
面白そうに父が笑い、母が笑う。晶も同じように笑うふりをした。二時間ほど雑談を交わして、両親が立ち去る。
別れる間際、少し眉間にしわを寄せて父が真顔で告げた。
「斎藤さんも英国にきているようだね」
吹藤に従う斎藤克行という男の名を出して、彼は迷ってから口にした。
「彼に聞いたよ。今度、お前に縁談が持ち上がっていると」
「ボーフォードの女性だと、俺も噂で聞いてる。仕方ないさ。吹藤の血縁は切っても切れない」
「でも、おまえの人生だ。大きな家のためにあるのではない。いいね」
珍しく厳しい口調で、父が強い眼差しで息子をみる。真っすぐに見返すことができず、晶はわずかに頷いた。
「分かってるよ。心配はいらない」
「それなら、いいんだ」
大通りまで二人を見送り、タクシーに乗せてからフラットへと戻る。
実の父と、結城の父は親友だと聞いている。昔、どのような約束のもとに、子供の戸籍を決定したのかは分からない。
ただ、わずらわしい。晶は良い息子を演じることに疲れていた。
両親を送ったあと、晶が元来た石畳の道を帰る。闇の中に立つフラットの前まで来ると、部屋へと続くレンガ作りの階段の前に、誰かが立っていた。
「そこに誰かいるのか?」と、幾ぶん警戒して尋ねると、一歩、影がこちらへ近づいて来る。
「――やっぱり。声がしたから、もしかしたらって」
聞き覚えのある声。ライブラリーで、ひっそりと時間を共にする少女。
「二階に人が住んでるなんて思わなかった。いつも留守だったから」
日本語で次々に語られる言葉に答えず、晶はただ無言で歩み寄る。
小柄で華奢な姿を見ていると、ひどく日本が恋しくなる。自分の中に作り上げた、幻想の故郷が。
「さっきの方は、ご両親ですか」
無邪気に声を弾ませて、彼女は笑っている。近所に晶が住んでいたことが、嬉しい発見だという様子で。
「早川まどか。だったかな」
「はい。覚えていてくれたんですね」
「今日きいたばかりの名前だ」
社交辞令と同じに、優しく言葉を返す。
初めは誰もが、結城晶を優しい人間だと評するのだ。けれど、それは三日ももてば良い印象で、すぐに覆される。自分のために人の思いをふみにじったときや、利用した時に。
いま、目の前で笑っている早川まどかも、自分が手の平を返せば、すぐに笑みが凍りつくだろう。
「夜は風が冷たい。もう中に入った方がいい」
「あ、ごめんなさい。ひきとめて。今度はいつ、ここへ帰って来るんですか」
「分からない。気まぐれだから」
「そうですか」
わずかに肩の落ちた彼女の背中を軽くたたく。これ以上、彼女が域を超えて中へ入って来ることに嫌悪を感じる。
いかに、日常から隔離されているか思い知らされるのだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
階段を上がり、部屋へと引きこもる。眠る前に交わす挨拶すら、晶にとっては幻想の中にある。
4
目覚めてから、窓から差し込む陽光を感じた時、言葉もなかった。 寝過ごしたと思うよりも、まだ夢の中にいると考えてしまうほど、晶にとっては異様な光景だ。
のそりと体を起こすと、深い眠りの成果なのか、いやに身が軽い。今まで、一晩でもこのフラットを寝室としたことはない。
心地よい睡眠が、部屋のせいなのかどうかは分からないけれど。
このままぼんやりと、ベッドで横たわっていたいと珍しいことを思った矢先、鳴ったことのない電話がコールを繰り返す。
手にすると、IMDIからソフィア=サッフォークの早口の英語が告げる。
「一体、何をしているの」
時計を見ると、今日のスケジュール三つが潰れた時刻だった。何事も計画通りに進まないと、気の済まない女博士が怒鳴るのも当然である。
「ライブラリーにも、研究室にも姿がないから、蒸発したのかと思ったわ。珍しくフラットへ戻っているなんて、どういう了見かしら」
「気まぐれだよ。――寝過ごしたんだ」
真実を述べてみたが、ソフィアは「つくならもっと気の利いた嘘にしなさい」と告げて回線を切ってしまった。とりあえずさっさと来いということだろう。
彼女に言ったことはないが、晶はソフィアの素直な憎まれ口や、勢いのある物言いは嫌いではない。飾り付けた台詞や、へりくだった言葉で自分を褒めたたえる人間よりは、よほど好意がもてる。
身支度を整え、部屋を出てから階段を降りると、石畳の細い道を大通りに向かって歩く後ろ姿が目にとまる。
声をかけようか迷っていると、はたと足を止めて彼女がふりかえる。
遠目にも、笑顔が浮かぶのが分かった。
「晶さん」
タッと駆け出して、わざわざこちらまで引き返してきた。素直で従順な、汚れを知らない花のような微笑み。まだ幼いからなのか、彼女のもって生まれた資質なのかは分からない。ただ、あまりにも住む世界が違っている。
策略も陰謀も、苛酷な試練も持たない世界で、彼女なら美しく花開くだろう。
これまで周りにいなかったタイプの女。濃い化粧も、きつい香水も必要としない純朴さが。
そっと遠くで眺めていたい反面、手にとって触れてみたかった。自分には似合わない花だと、分かっていたけれど。
「別にもどってこなくてもいいのに」
「だって、せっかく会えたんですから」
「けっこう淋しがりやだね。一人っ子?」
何げなく問うと、一瞬笑顔が遠のいた。まどかはとりつくろうように首をふる。
「違います。下に弟がいるんですけど」
「家族もこっちにいるの?」
「いいえ。あたし一人だけです」
「珍しいね。娘を一人で英国へやるなんて。出てくる時、もめなかった?」
「少しだけ」
いつもより調子の落ちた声で、答えが帰って来ることに気付いた。晶がさりげなく話題を変える。
誰にでも、触れられたくないことはある。どれほど幸せそうに見えても。
「また、ライブラリーへ?」
「はい。スクールが休みの日はいつも。晶さんは?」
「――仕事、かな」
「働いてるんですか?学生だと思ってたのに」
「学生だとも言えるけどね。まだ十八だし。君は?」
「十六です。二つ違いですね」
「二つね」
年以上の隔たりを感じながら、大通りで晶が足を止める。
「悪いけど、俺はタクシーを使うから、ここで」
「はい。あの――」
「何?」
止まった車の扉に触れながら、晶がまどかを見る。
「もし時間があったら、図書館に来てください。あたし、待ってますから」
頬を赤くして、早口に告げる。自然に笑みが浮かんで、晶が答えた。
「時間があればね。あのライブラリーは俺の持ち物だから、また会えるよ」
「え?」
「じゃあ」
狐につつまれたような顔を見ながら、晶がドアを閉める。
吹藤の財力を持ってして、数年前に小さな古城を買いとって図書施設に作りかえた。母国を忘れないために、日本の書物を数多くあつめて。
晶の気まぐれな我がままを、総帥は簡単に実現したのだ。
濃紺の瞳が、ゆっくりと開かれる。傍らで計器を外しながら、ソフィアが吐息をついた。
「いつまで経っても、この検査には慣れないみたいね。無理もないけど」
「――慣れたくもないね」
晶がベッドから身を起こして、差し出された上着に腕を通す。
「英国紳士がいらっしゃいませんね」
いつもの位置に別人が立っていることに気付いて、皮肉をおりまぜて問うと、ソフィアは気の強そうな眼差しを緩めた。他人に関心のない晶には珍しい発言だ。
「一応、アルバートの顔を覚えているのね」
「記憶力はいいから」
簡単に片付けて晶がベッドから降りる。いつも脳波を検査するとき、先陣にたって指揮をとるのはアルバート・Sであった。
「学会の時期でもないから、ただの休養でしょう。英国を出るみたいなことを言ってたけど」
「そう」
格別興味も示さず、晶は自分のデータに目を通している。誰にいかなる研究を強いられようとも、自分の脳波や、血統に伴う数値は晶が一番よく理解している。
学会で権威を誇る研究者の中にあって、何も劣らぬほどに。
「それにしても、今日は気分がよさそうだったのに、やっぱりこの検査をすると駄目ね。顔色が真っ青になってるわ」
「繊細だから」
「その減らず口はどうにかならないの」
「極力おさえてるつもりだけど。なんなら、あなたがこの計器の端末をつけて測ってもらえばいい。楽にあの世にいけるから」
「……そうね」
常人に使える装置ではないことは誰もが知っていた。異なった脳波のための検査器具。
晶が調子が狂ったとでも言うように、苦笑する。
「ソフィアに黙られると、意味もなく気が咎める。ガツンと言い返してくれないと」
「どういうこと?」
「あなたと結婚したら楽だろうって話だよ」
スルリと口にした言葉に、ソフィアは心底嫌悪を感じたらしかった。
「ごめんだわ。晶は自分に害がなければ誰でもいいんだから。相手を幸せにしようとか、一緒に自分も幸せになろうとか、そういう感情を持ち合わせていない男だから」
「そう。そんなこと理解できるのはソフィアくらいだからね」
「理解してないわよ。恋もできないなんて可哀想と思うだけね。人として欠陥品だわ」
的を射て、ソフィアが口を閉ざす。これ以上弱り切った青年をしゃべらせない、彼女なりの切り方だ。
「ご同情ありがとう、感謝する」
ソフィアの意図に素直に従い、晶が部屋をでる。吐き気を催す気分の悪さが、意識を遠ざけようとうごめくのを感じていた。
まだ幼いころは、嫌だと泣いて、反抗したものだ。いつから、それを無駄なあがきだと思うようになっただろう。
何かに期待し、心を動かすことさえ。
閉じ込められた籠の鳥。一生変わらない束縛を認めた時点で、諦めてしまった。何もかも、全てを。
あの、大きな一族が目の前にある限り。
研究データの成果で、つまびらかにされたことは数え切れない。
例えば、純粋な血統を持つ吹藤の血筋は長寿。
力の発現が強い、突然変異とも言える久方の血統は短命。大きく動き過ぎる脳波、あるいは膨大な力を、器がささえきれない。
ある限度を越えた時点で、脳が壊死してしまう。
事実、晶の実の母――久方梓は二十八の年に植物状態で、三十を数える頃には他界した。
本家で魔女と呼ばれるほどの、膨大な力を身に潜ませていたと聞く。高貴で美しく、ボーフォードへ嫁いでなお、苦しみぬいた生涯。
母が、ほんの一時でも幸せになれたのかどうか、晶には知る術がない。
けれど、幸福ではなかっただろう。自分が幸せではないように。
短命。
もし自分に久方の血が濃く出るのであれば、母より早くに時間が止まる。けれど、散り急ぐことは恐怖ではない。
解放だ。
少なくとも、今の彼にとっては。
5
押し寄せる負の荒波から、我に返ったとき。
結城晶はライブラリーの緩やかな階段を上っていた。正面玄関を抜ければすぐ目に入る、豪奢なふきぬけ。
一歩一歩、重い足取りで進みながら、大きく息をつく。
二階へ上って書棚を抜けると、テーブルと椅子が十組用意されている。
煌々と館内を照らす蛍光灯は、時間が来ると勝手にともる。閉館は午後八時だったが、全てが自動制御で、人手に任すのは週に一度の清掃くらいである。
「晶さん。どうしたんですか」
予想どおり、早川まどかがひっそりと本を手にしていたが、晶の気配に気付くと慌てて駆け寄ってきた。今度は滕椅子ではなく、奥のソファへと促してくれる。
「どこか体の具合が悪いんですか。もしかして、入院中の患者さんじゃありませんよね」
「――違うよ」
クスッと笑みを漏らして、ふうっと息を吐く。彼女の気配が心地よく、随分楽になった気がした。側に人がいることを、そうなふうに感じたことはない。
おそるおそる小さな手が、晶の頬に触れた。ふわりと温もりが伝わって、吐き気が遠のく。驚いて視線を動かすと、彼女はスッと手を引いた。
「ご、ごめんなさい。でも、頬がすごく冷たくて。貧血みたい」
勝手に触れたことに慌てた様子で、彼女は照れ隠しのように言葉を続ける。何も言わずに、晶が手をとった。
そっと自分の頬におし当てる。
「―――……」
彼女だと思った。この場所が癒してくれるのではなく。
ここを憩いの場としたのも、彼女が訪れるようになった頃からだ。どんな作用が働くのかは知らない。
ただ、眠りを誘い、苦痛を和らげてくれる。側にいるだけで。
どうして、今まで気づかなかったのだろう。長く、この場所で時を共にしながら。
「あの、晶さん」
戸惑った彼女の声で我にかえる。血の気の引いた顔に、少しずつ色が戻って行くのが、晶にも分かった。
握っていた手を放して、笑ってみる。演技ではなく心から。
「ごめん。だいぶ、楽になった」
「ああ、やっぱり」
「え?」
「晶さんは、そんなふうに笑ってくれる人だと思ってた」
「そんなふうって、どんなふうに?」
「優しく笑える人だと思ってたんです」
何もかもを見透かしてしまう、汚れなき瞳。苦痛も、演技も。こんなふうに、誰かの手を欲したことなどなかった。
「違うな」
けれど、このひとときは全てが幻想。
「優しいなんて。――君が俺を知らないだけだ」
「……そうかもしれません。でも、晶さんが自分を知らないだけかもしれないわ」
くつがえされて行く何かを感じる。演じている自分が、もしかしたら本当なのかもしれないと。
「それでも優しいなんて、あり得ない」
そんなはずがない。
吹藤晶は、情というものが育たなかった人間なのだから。




